5 言語による時間操作
5-1 三つの時制の問題
ここまでの検討により、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という問いについては、「現実と時間推移を結びつけ、また、言語と時制区分を結びつけることができ、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>があるという図式がある。」と、とりあえずの結論が出た。
しかし、先送りした問題が二つある。
ひとつが、予告したとおり、「現在」における<中間>の複雑さという問題である。
もうひとつは、明記しなかったが、「未来」「過去」「現在」という三つの時制相互の関係における<中間>についての問題だ。
これまでの検討では、突き詰めると、全てを現実と言語の<中間>として捉えることができた。それならば、「ある、なる」では明示していないが、未来、過去、現在という三つの時制相互の関係性についても同様に<中間>として捉えられるのではないか。そのような問題意識である。(「ある、なる」においては、未来、過去、現在というそれぞれの時制内部での<中間>や、過去、未来、現在を時制区分としてまとめて捉えたうえでの、時制区分そのものについての<中間>については述べているが、時制区分相互の関係性については述べていない。)
整理すると、「未来、過去、現在という時制区分相互というレベルにおいて現実と言語の<中間>という捉え方は可能か。可能ならば、それは、どのようなものか。」これが、この章で検討したい問題である。そして、予告するならば、この検討を通じて、「現在」における<中間>の複雑さというもうひとつの問題もあわせて解決できると考えている。

しかし、この検討については、ひと目で一筋縄ではいかないように思える。
現実と言語という二つの観点から、三つもある時制の関係性について、整理することができるのだろうか。
まずは、二つの組み合わせで考えたほうがいいだろう。
そこで、まずは、先ほど、現実と言語の様々な<中間>をたどる議論のなかで、未来においては、現実より言語が優勢であり、過去においては、言語より現実が優勢であると整理したことを手がかりに、言語と未来を、現実と過去を、それぞれ結びつけ、そこに対立構造を見出すところから検討をはじめたい。

5-2 過去を未来に渡す
過去・現実と未来・言語の関係については、冒頭のベタの神とスカの神の拮抗という捉え方と結びつけることもできる。過去・現実は、いずれもベタの神の領域にあり、未来・排中律は、いずれもスカの神の領域にあるとした話だ。
(その際、現在もスカの神の領域にあるとしたが、ここでも、現在については先送りする。現在は、かなりやっかいな問題なのだ。)
このような観点から、過去、未来について、捉え直してみよう。

5-2-1 過去を語る
過去について、「ある、なる」の純化の作業を逆にたどるかたちで整理してみる。
純化した過去とは、「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去であり、絶対現実のことだった。
純粋だからこそ名前をつけることもできない想起阻却過去に数値・名前を与えることで、想起阻却過去は想起過去と想起逸脱過去へと変質し、そこに、「内破と内閉」という拮抗が生まれる。
しかし、想起過去と想起逸脱過去は全くの対等ではない。
想起過去は、現に具体的な内容をもって想起されているが、想起逸脱過去は、現にそのようには想起されていないという違いがある。もし想起逸脱過去を具体的な内容をもって想起してしまったら、それは想起過去か反実仮想になってしまう。
だから、想起過去と想起逸脱過去の関係では、どこまでも想起過去が優位である。
これが、純粋な過去が内容のある過去Aに転落していく過程だ。

過去に含まれている「想起」という側面を捨象するなら、これは、「ある」の議論において行った、現実Aに、排中律というろ過装置を設置し、言語と現実とに純化していく作業とちょうど逆の作業と言ってよい。(「想起」については後ほど考える。)
確認のため、この話を、「ある」の排中律の議論に引き寄せて繰り返してみよう。
するとこうなる。
「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去は、排中律により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)、または「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった過去」という想起逸脱過去(非過去A:過去Aの否定)のいずれかである。こういう捉え方ができる。
これは、絶対現実としての想起阻却過去に、排中律により空白が呼び込まれ、過去は想起過去または想起逸脱過去、つまり、過去Aまたは非過去Aのいずれかという二つ性を有するものとして捉えられるということだ。
そして、更に、現に想起されているという現実性の付与により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)が想起逸脱過去(非過去A)に優位することになる。
これは、現に想起しているという副詞的な現実性の付与により、過去は現にある過去Aという一つ性を有するものとして捉えられるということでもある。
このようにして、想起阻却過去は排中律と絡み合い、過去Aという具体的内容を持つ過去に転落する。これが、「過去を語る」という作業に相当する。

もう少し、どういうことか、例を用いながら説明しよう。
今日、11月15日にとっての過去、例えば11月14日は、まだ何も言及されていない過去、想起阻却過去だ。(厳密には、11月14日だったということは既に言及され、11月14日だったという内容を持っているが、喩え話なので目をつぶってもらいたい。)
ここで、私が今日、11月15日に「11月14日は雨だった。」と想起し、語る。そうすると、その過去は想起過去となる。そして、そう語るということは、同時に、そうでなかった可能性も立ち上げることになる。「11月14日は雨ではなかったということもありうる。」というように。なぜなら、それが排中律の働きであり、排中律の空白を利用するということだからだ。このようにして生じるのが想起逸脱過去だ。
しかし、私は、現に、「11月14日は雨だった。」と想起しているのだから、想起逸脱過去より想起過去が優位し、それが、「11月14日は雨だった。」という内容のある過去、過去Aとなる。
これが、「過去を語る」ということである。
このようにして、「ある、なる」の語り方を逆転し、「なる」の過去についての議論と、「ある」の排中律の議論を接続することで、過去について、「過去を語る」という側面から述べることもできる。

5-2-2 「雨だった」と「痛かった」の違い
なお、この11月14日の雨の例は、「ある、なる」の例とは違う。
「ある、なる」では、想起過去の例は、「痛かったと想起される」であり、想起逸脱過去の例は、「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった」であった。
しかし、この例と、私の例とでは、全く違うように思えるが、実は同じことを指している。
「痛かったと想起される」とは、何か特定の痛みがあったということを意味する。例えば、「足の小指がちぎれるように痛かった(と想起される)」というような。多分、角に足の小指をぶつけたのだろう。
とすると、想起逸脱過去は、その特定の痛みではない別の痛みがあったことを意味する。「足の小指がちぎれるように痛かった、とは異なる仕方で痛かった」である。
そして、「ある、なる」の議論によれば、この想起過去と想起逸脱過去の逸脱と回収の反復は、ついに、「痛かった」といった「特定の記述を失い」(p.213)、想起阻却過去に至る。
とするなら、想起阻却過去に至る直前には、「足の小指がちぎれるように痛かった」に対応する想起逸脱過去は、「全く痛くなかった」も含むものとなる。これは、排中律の力をどこまでも開放し、議論領域を越え、「偶数は黒色ではない」を認めるのと同じことである。
そのように考えるならば、「11月14日は雨だった。」に対応する想起逸脱過去は、その否定、つまり「11月14日は雨ではなかった。」だとすることに何ら問題はないだろう。

5-2-3 過去を未来に渡す
このようにして、過去について、「過去を語る」という面から捉え、そこに、想起逸脱過去、絶対現実から過去A、現実Aへの転落との同義性を認めることができた。
更に話を進めると、「過去を語る」ということは、「過去を未来に渡す」ことであると言うこともできる。
どういうことか説明しよう。
「過去を語る」ということは、その過去の特定の内容に注目するということでもある。「過去を語る」ことにより、注目されたその過去、例えば、「11月14日は雨だった。」という過去は、特定の内容を持つものとして確定する。そして、その過去について既に行われた言及は、今後、いつでも使えるものとなる。
先ほどの例で、私は、11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。このように「過去を語る」ことで、私は、将来のある時点、例えば11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことができる。
当然だが、もし、11月15日の発言がなければ、11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことはできない。
これが、「11月14日は雨だった」というように過去を語ることで、この過去についての言及を、未来において使えるようになるということであり、そのような意味で、「過去を語る」ことは「過去を未来に渡す」ことであるという言い方もできる、ということだ。

5-2-4 認識誤りの問題
それでは、この「過去を未来に渡す」に着目することに、どのような意味があるのだろうか。
私は、認識誤りという問題について考察を深めるためには「過去を未来に渡す」という捉え方が必要だ、と言いたい。
ここでの認識誤りの問題とは、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」とか「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」とか「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」とか、そういう哲学的問題だ。私にとってはこれらの問題は重要な問題だ。

認識誤りが発生するメカニズムのかなり深いところに、「過去を未来に渡す」という作業は関わっていると思う。
11月15日の「11月14日は雨だった。」という発言、つまり「過去を未来に渡す」作業がなければ、「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言ったけど、実は、それは勘違いで、本当は晴れだった」ということはありえない。「蛇だと思った」という言明をしたからこそ、その言明を未来において使い、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」と言うことができる。「崖から落ちた」という言明があったからこそ、「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」と言うことができ、「1+1=2と思っていた」という言明があったからこそ、「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」と言うことができる。
これらに共通するのは、ある時点で、それ以前の出来事について発言し、その発言が未来において見直されるということだ。
そのような意味で「過去を未来に渡す」という作業は、認識誤りを発生させるためには必須なのではないだろうか。
(なお、ここでは、現在と過去を分けずに取り扱い、想起、認識、発話といったものをあえて混同しているが、後ほど、それでいい、という議論を行うので、ここでは、そういうものだ、ということでお付き合いいただきたい。)

5-2-5 認識誤りの問題の重要性
私にとって認識誤りは重要な問題なのだが、「ある、なる」の議論との関係でも、その重要性を強調することができる。
まず、「認識誤り」は想起逸脱過去を立ち上げるためには必須だという言い方ができる。
想起逸脱過去とは、「痛かったと想起される」想起過去がまずあり、そこから「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった。」というかたちで立ち上がるものだった。
これを、この認識誤りの例で言えば、11月15日の「11月14日は雨だった。(と想起される)」という想起過去があるからこそ、実は、それは認識誤りであり、11月16日の「一旦は、「11月14日は雨だった」と想起されたが、実は、11月14日という過去は、その想起とは異なる「晴だった」という内容で想起されるものだった。」という想起逸脱過去の可能性が立ち上がるということになる。
このように考えると、つまりは、想起逸脱過去とは、将来、認識誤りが生じる可能性があるということ自体を指すとさえ言える。

また、認識誤りは、「ある」の議論においての中心的な概念である、否定、欠如を立ち上げるためにも必須である。
実は違ったという、別の過去の可能性がなければ、過去の否定、過去の欠如について語ることはできない。認識誤りの余地が全くなければ、ただ「11月14日は雨だった。」であり、実は「晴れだった」ということはありえない。
これは、排中律が働かないということであり、排中律を立ち上げるのに必要な空白がないということである。これは結構大きな問題だと思う。
「過去を未来に渡す」とは、「過去を語る」ということの言い換えであり、「過去を語る」とは、過去を言語的に捉えるということなのだから、排中律の話にまで結びつくということは当然と言えば当然なのだが、認識誤りの問題とのつながりという意義を強調するためにも、ここでは「過去を未来に渡す」ことが認識誤りを発生させ、排中律を立ち上げるということを強調しておきたい。

なお、認識誤りの問題は、「世界像の拮抗」(p.284)の問題にも通ずる。
現代人である私たちがが、ライオン狩りの成功のために最後の二日間も踊る酋長に説得する際に期待するのは、逆向き因果を信じていたが、それは認識誤りで、実は順向き因果が正しかった、という心変わりだ。踊りがライオン狩りの成功に因果を及ぼしていると主張する酋長に対して、それは実は認識誤りで、少なくとも最後の二日間の踊りはライオン狩りの成功には無意味だと、気付かせようとして説得する。
これは、蛇がいると騒いでいる人に、それは、実は認識誤りで、ロープだ、と気付かせることと同型だ。
もし、何も言葉を出さず、ただ踊り、ただ騒いでいる人がいたら、その人は何をしているかわからないから、説得することはできない。
説得ができうるのは、その過去に、「この踊りはライオン狩りの成功のためのものだ。」、「蛇がいる。」という発言があるからだ。
その意味で、「世界像の拮抗」の問題にとって、「過去を語る」ということは大きな意味を持つ。
そして、逆向き因果の可能性が否定できないということは、一瞬蛇に見えたそのロープが、やはり実は蛇だった、という可能性は、実はどこまでも否定できないことと類似性がある。(ただし、逆向き因果の話は、少なくとも祈りという別の問題を含むので、イコールではない。)
この、一見確定していると思われる過去について、どこまでも、「認識誤り」であり実は違ったという可能性を立ち上げるということが、「過去を未来に渡す」ということの意味でもある。

(「過去を未来に渡す」には、現に、1+1=2と計算したという過去を、未来に「以下同様」に計算するよう渡すという意味も込めており、「認識誤り」の問題は規則の成立という点でも重要な意味があると思うが、話が長くなりそうなので、この文章では触れない。)

そして、私は、「過去を語る」「過去を未来に渡す」ことについての考察を通じて、スカの神には言語という名と、未来という名があると言いたい。
そして、過去においてあるのは、スカの神による未来化とも言うべき言語的操作を通じて、根本にあるベタの神を透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、過去においては、ベタの神がスカの神に優位する。

5-3 未来を過去に渡す
その逆に、「未来を過去に渡す」という作業もある。
まず、それと同義となる「未来を語る」ということを考えてみよう。
純粋な未来は無であり、純粋な未来に言及することはできず、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの拮抗から透かし見るしかない。
だから「明日、海戦が起こるだろう。」と語ったり、11月16日に、「11月17日は雨だろう。」と語ったりすることは、未来を語っているということであり、本来、言及できないものについて言及しているということだ。
言及できないものをあえて語るということは、純粋な未来から、語られる内容を持った未来Aへ転落するということである。「未来を語る」ことについても、転落はついてまわる。

また、未来には言語という側面もあることから、「未来を語る」とは、「言語を語る」ということでもある。
現実と言語の<中間>、拮抗の一場面に、純粋な現実と、純粋な未来との純粋な対立があるならば、現実と全く切り離された純粋な言語は、「現に」語られていないのだから、そのような言語自体に言及することはできない。
現に言及することができないはずの言語に言及するということは、純粋な言語から言語Aへの転落であるとも言える。

こういった、純粋な未来または純粋な言語を、「現に」既に語られたものとして取り扱うということこそが、「未来を過去に渡す」という作業だ。
「明日、海戦があるだろう。」「11月17日は雨だろう。」というのは、既に語られた、過去の言明だからこそ、「現に」ある、現実の未来についての言明として明示することができる。
この行為は、いわば、空白を受肉するということだと言ってもよいだろう。

ここにあるのは、ベタの神による、過去化とも言うべき受肉的操作を通じて、根本にあるスカの神を、透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、未来においては、スカの神がベタの神に優位する。

5-4 二つの時間軸
このようにして、過去を語り、過去を未来に渡す、また、逆に、未来を語り、未来を過去に渡すというかたちで、過去と未来はつながっている。
この接続を可能にしているのは、「ある、なる」の述べ方によれば、時制的な視点移動である。
この時制的な視点移動とは、過去を語り、未来を語るというやりかたで行われており、「語る」とあるように、つまりは、言語的な機能である。
しかし、時制的な視点移動という言語的な機能も、現実と言語の<中間>からは逃れられない。
どういうことかというと、完全な視点移動は不可能であり、どうしてもズレが生じてしまうのだ。
「11月15日は雨だった。」と過去を語っても、その過去自体を未来に渡すことはできない。未来に渡されるのは、「「11月15日は雨だった。」と語った。」ことである。
過去を語ることで行われているのは、現実の過去を言語的に捉え、未来でも言語的に使えるようにするということだ。その意味で、過去を語ることで行われているのは、現実としての過去を言語としての未来に渡すということにならざるを得ない。ここにズレが生じている。

一方、未来を語ることについてもズレが生じている。なぜなら、未来を語るとは、(無としての)現実の未来を、そのことについての既に行われた過去の言及とするということだからだ。これは、現実の未来を言語としての過去に渡すことと言ってもよい。
だから、時制的な視点移動を、一本の数直線上の移動のように捉えてはならない。
いわば、現実の時間軸と、言語時間軸という二つの時間軸があり、二つの時間軸を飛び移るかのように時制的な視点移動は行われるのだ。

5-5 時制的な視点移動の重要性
この、時制的な視点移動という言語的機能は、言語の根本的な機能だと言ってもよいだろう。
なぜなら、時制的な視点移動とは、つまりは、「過去を語る」ということであり、「未来を語る」ということであり、要は、全てについて語るということだからだ。
(「過去を語る」にも「未来を語る」にも含まれないもの、例えば「現在を語る」については、後ほど、「過去を語る」ことと「未来を語る」こととの複合というように位置付けるつもりだ。また、いずれの時制にも含まれない「反実仮想を語る」もあるが、反実仮想については、(実際は「11月15日は雨だった。」が)「11月15日は晴れだったなら。」というように言外に、「過去を語る」ことが含まれているので、「過去を語る」ことの派生として捉えることができると考えている。また、あいさつのように、「何についてでもなく語る」ということについては、語る対象ではなく「語る」ということ自体についての別な考察が必要と思われる。)

「ある、なる」のうち「ある」の議論において中心的な役割を演じていた排中律は、「ある」の議論の階層においては言語の根本的な機能を体現していると思われたが、「なる」の深まった議論を経るならば、「時制的な視点移動」こそが、言語の根本的な機能を体現していると考えた方がいいだろう。あくまで、重層的な「ある、なる」の議論における、「ある」という一側面を捉え、そこで輪切りにするならば、「時制的な視点移動」の断面図として、排中律が現れるに過ぎないように思われる。