6 複雑な現在
6-1 二つの現在
それでは、いよいよ最後まで後回しにしていた問題、つまり現在について考えてみたい。

「ある、なる」において、現在は様々な描写がされている。
まず、「瞬間としての現在」が提示され、そこからオズモの物語を使って「無時間的な現在」「推移する現在」「特異点としての現在」(p.248)が展開される。そして、「「現に」という現実性は非時間的であって、時間の一部分ではない。」(p.253)ということから、現実と時間の<中間>の一場面として、「永遠の現在(全一的な現実)」(p.254)が追加される。
さて、この5つの現在を、どのように扱ったらいいだろう。これらの現在を、現実と言語の<中間>という道具立てで整理することは可能なのだろうか。

まずは、「ある、なる」の議論ではなく、この私の文章に沿って考えてみよう。
先ほどは、過去と未来という時制について述べてきたが、その二つの時制の接点として現在があるとすることには異論はないだろう。
また、先ほど、時間軸は、現実の時間軸と、言語の時間軸の二つがあるとしたのだから、接点としての現在が二つ現れるということも異論はないはずだ。現実の現在と言語の現在というように。

それでは、現実の時間軸における現実の現在とは何を指すのだろうか。
これまでの議論に即するなら、現実の現在とは、純粋にスカな無としての未来から、純粋にベタな現実としての過去が生まれる瞬間だと言っていいだろう。出来事が生じる瞬間と言ってもよい。
(なお、「生まれる」「生じる」という表現は不正確であり、何か生まれる元となるものがあるようなイメージから逃れられていない。しかし、他にマシな表現がないのでご容赦いただきたい。)
一方で、言語の時間軸における言語の現在が何を指すのかと言えば、言語の現在とは、既に発話された過去と、未だ発話されていない未来の間にある瞬間のことだと言えるだろう。つまりは、発話する瞬間と言ってもよい。

6-2 二つの現在のずれ
そして、重要なのは、現実の現在と言語の現在、つまり、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間という二つの瞬間は重ならないということだ。
「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間は重ならない。
流れ星が流れてから「流れ星が流れた」と発話するから、必ず、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続する。
なお、これは、「流れ星が流れる」という瞬間的な出来事でなく、「ネコがいる」というような持続的な出来事でも同じである。「ネコがいる」という出来事があってから、「ネコがいる」という発話がある。
ただし、その原因は、ネコを目で認識してから脳で処理するのに神経伝達の時間がかかるというようなことにあるのではない。
そうではなく、「現実について言語で語る」という基本的な構造があるからだ。
それは、ネコがいるという出来事を「ネコがいる」と表すなら、ネコがいると発話することを「「ネコがいる」と言う」と、より冗長なかたちで表現せざるを得ないということに現れている。「と言う」という表現の分だけ、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続せざるを得ない。

6-3 過去・未来との接続
更には、この二つの現在は、現実としての過去と、言語としての未来と、それぞれ結びつく。
「流れ星が流れた」現在は、現に「流れ星が流れた」という現実性が付与されている。
その意味で、出来事が生じる瞬間としての現在は、現実である過去と見分けがつかない。
あくまで、現在は、「今」であり、一方、過去は「昨日」であったりするが、その違いは、「昨日」と「一昨日」のような、過去同士の違いと見分けがつかない。
「現在は、現に、この目で、今、見えているんだよ。」などと主張したくなるかもしれないが、それは、あくまで言語による主張であり、出来事が生じる瞬間としての現在には届かず、発話する瞬間としての現在にしか届かない。
(主張以前の「現在は、現に、この目で、今、見えている」という認識自体は、出来事が生じる瞬間としての現在に届くと言いたいかもしれないが、後ほど、そのような認識も発話と同様に扱うべきと整理する予定なので、できないものとして読んでいただきたい。)
これは、純化された想起阻却過去は、過去であるという描写さえ失っているのだから、純化され、現在であるという描写を失った現在と見分けがつかないということでもある。

一方、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在である時点では、「流れ星が流れた」と発話する瞬間は、未だ現在ではない。つまり未来である。
発話する瞬間が未来であるとはどういうことかというと、未だ発話されず、現実性が付与されていないから、「流れ星が流れた」と発話することも、「流れ星が流れなかった」と発話をすることもできるということだ。これが、未来の空白であり、排中律の空白であり、現在の空白でもある。(ここで、やっと現在の空白が登場し、この文章の冒頭のスカの神の三つの側面が揃ったことになる。)
「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在の空白とは、つまりは、出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指している。現在の空白とは、未来の空白のことだったのだ。

このように、出来事が生じた現在と現実としての過去を結びつけ、発話する現在と言語としての未来を結びつけるようにして、二つの現在と、過去と未来を整合的に捉えることができる。

6-4 二つの現在を見渡す
ただ、違和感があるだろう。この二つの時間軸にある二つの現在を見渡しているのは、どの視点からなのだろうか。まるで、現実の時間軸にある「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間と、言語の時間軸にある「流れ星が流れた」と発話した瞬間を一つの時間軸に置き直し、順序よく並べたかのようだ。これらは一つの時間軸上にないということこそがポイントだったはずなのに。
しかし、このことは、やむを得ないとも言える。
どういうことか、引き続き流れ星の例を用いて考えてみよう。
常識的に考えれば、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在であった時点は過ぎ去り、いずれ、「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在である時点が訪れるはずだ。
当然そうなのだが、そうではないという言い方もできるということが、二つの時間軸のズレの話であり、そこから生じる、出来事が生じる現在と発話する現在のズレの話だったはずだ。
そのような捉え方をするならば次のような言い方もできるだろう。
「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在となる瞬間など来ない。あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間自体はどこまでも現在にならない。発話したということが、流れ星が流れたこととは別の出来事として捉えられてこそ、現在になる。それならば、発話したということは、流れ星が流れたことと独立した別の出来事とさえ言える。というように。
しかし、ここで話が終わらないというところに、それでも「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間とを唯一の視点から見渡し、一つの時間軸上に並べられているかのように捉えてしまうというやむを得なさがある。
それは、「発話したということが流れ星が流れたこととは別の出来事」としたことに現れている。別の出来事だと違いをいくら強調しても、出来事であるという共通点からは逃れられない。同種の出来事として並べて俯瞰的に捉える視点からは逃れられない。これは、現実と言語の<中間>の一例であり、このやむを得なさからは逃れることはできない。
なぜなら、「流れ星が流れた」と発話することも、現実の出来事であることからは逃れられず、「流れ星が流れた」という出来事も言語で言い表さなければ文章で表現することができない、ということにまで、現実と言語の<中間>は及んでいるのだから。

6-5 二つの時間軸の図示的な比喩
二つの時間軸の<中間>的なあり方は、どこまでも<中間>的であらざるをえないから、「ある、なる」における様相についての考察が様々な<中間>的な局面を示したように、時間軸のあり方も、様々な<中間>的な局面を見せる。
よって、この二つの時間軸については、様々な<中間>的な説明ができる。例えば、次のように図示することもできる。
まず、現実の時間軸についてだが、現実性は過去と現在に付与されるが、純粋な未来には付与できないのだから、「現実の時間軸には、過去と現在しかなく、未来はない。」と言うことができる。そこで、現実の時間軸は、現在から始まり過去に向かう半直線として描くことができる。この半直線は、因果の充満についての話のなかで出てきた、大きな流れのイメージと重なる。現在を源流とする大河だ。
一方、言語の時間軸は、「未来しかなく、現在と過去はない。」と言うことができる。そこで、現在に最も接近した未来を始点とし、未来に向けた半直線を描くことで、言語の時間軸を表現したくなる。しかし、そうはならない。
なぜなら、純粋な過去には、昨日や一昨日といった時点が含まれているが、純粋な未来には、明日や明後日といった時点は含まれていないからだ。
純粋な過去とは、想起阻却過去であり、絶対現実である。「ある、なる」では、その無内包が強調されていたが、私は、因果の充満についての議論が示したように、そこに充満を見るべきだと考えている。それならば、充満した過去のなかには、昨日や一昨日が含まれているはずだ。ただ、充満しているから、明示することができないに過ぎない。そのような意味で、現在と過去を含む現実の時間軸は、昨日、一昨日といった無限の点で充満した線として表すことが適当だろう。
一方、言語の時間軸にある未来は、充満しておらず、無である。無なのだから、そこに、明日や明後日といった時点を含めることはできない。
だから、言語の時間軸を、点で充満した直線という比喩で表現することは適当でない。あえて書くなら、何も含まれていないということを意味する白丸だろう。書き入れる場所としては、現在の空白であり未来の空白であるということを意味するために、現実の時間軸として書き入れた半直線の現在の側の端に接するように、白丸を書き添えるようなかたちだろうか。
「過去--------現在
○未来」 というように。
しかし、この図は、間違いだらけでもある。まず、未来は無なのだから、未来について何かを書くということがすでに誤りだ。また、この捉え方は「ある、なる」の言い方をするなら、時間原理Ⅰに基づく「現実の未来」(p.194)を捉えることができていない。現実の未来を書き入れるならば、未来に向けて直線が続いていなければならないはずだ。などなど、色々な問題があるだろう。
ここで例示した二つの指摘は、それぞれ矛盾しているが、それでも、それぞれの指摘は一面的には成立しなければならない。つまり、これらは<中間>的な指摘だ。どうしても<中間>的な問題を抱えた<中間>的な比喩にならざるをえない。ここに、図示による<中間>的な比喩の限界がある。

6-6 「ある、なる」の現在との関係
6-6-1 5つの現在
このようにして、私の議論の流れに乗って、現在についての考察を深めてきた。
それでは、「ある、なる」の5つの現在について、この考察とどのようにつなげることができるか考えてみよう。
5つの現在とは、「瞬間としての現在」「推移する現在」「無時間的な現在」「特異点としての現在」
「永遠の現在(全一的な現実)」であった。

まず、「瞬間としての現在」だが、これは、「流れ星が流れた」という出来事が生じた現在と「流れ星が流れた」と発話した現在との両方を含んだ、未分化な現在のことを指すとしてよいだろう。
「瞬間としての現在」とは、「海戦」の議論で明らかとなった「排中律と共に残る「現在(今)」」であり、「肯定・否定を留保するための仮想的な緩衝地帯(空白)」(p.237)のことである。
これは、先ほど「出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指しており」としたのと同じことである。
「流れ星が流れた」という出来事が生じたが、まだ、そのように発話していない時点を「瞬間としての現在」と捉えるからこそ、そこに、「流れ星が流れた」と発話するか、「流れ星が流れていない」と発話をするかの宙吊りの空白を見ることができ、排中律を立ち上げることができるということである。
また、いずれ、「流れ星が流れた」または「流れ星が流れていない」と発話してしまうことになる、ということも込みで現在として捉えられているので、「瞬間としての現在」は、あくまで「仮想的な」空白なのである。流れ星が流れる。その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる。細分化するなら、そのような一連の流れを含んだものが瞬間としての現在だ。

次に、「推移する現在」だが、これは、「流れ星が流れ、その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる」という一連の流れに意識的になることだと言える。
出来事が生じる時点と発話する時点という二つの時点の間の推移に意識的になったうえで、「瞬間としての現在」を捉えるということだ。
なお、推移を現在という観点から捉えることは、推移は現在においてしか生じない、という私の実感と一致する。現在において次々と出来事が生じ、過去として堆積していくというかたちで推移はあり、一旦、完全に過去となった出来事は、より過去に推移するということはないという実感である。
1年前の出来事が、やがては2年前の出来事になるのは、1年前の出来事がより過去に推移し、古くなるからではなく、現在が推移し、相対的に、より遠い過去になるからだ。そのようなイメージと、現在においてのみ推移があるという捉え方は整合する。

一方、「無時間的な現在」とは、出来事が生じる時点と発話する時点をそれぞれ独立のものとして捉え、「流れ星が流れた」と「流れ星が流れたと発話した」という独立の二つの対等な出来事として捉えるということである。「推移する現在」においては、出来事が生じる時点と発話する時点との間の推移という関係を強調していたが、「無時間的な現在」においてはその独立性を強調する。そのような意味で、「推移する現在」と「無時間的な現在」は対になっていると言える。

そして、「推移する現在」という捉え方と、「無時間的な現在」という捉え方に意識的になったうえで、その二つの捉え方が、「今」という特権的な時においては重なるということが、「特異点としての現在」である。これは、先ほどの、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間とを見渡す視点に立つということである。

このように、「ある、なる」の「現在」についての考察は、出来事が生じた時点と、そう発話する時点という二つの時点を、未分化に「瞬間としての現在」として捉えていたところから出発し、そこから、二つの時点の推移という関係性(「推移する現在」)と捉える道と、二つの時点の独立(「無時間的な現在」)と捉える道に分岐し、再び「特異点としての現在」として合流する、という経路をたどったものだと整理することができる。

ここで、出来事が生じた瞬間は現実としての過去と結びつき、発話した瞬間は言語としての未来に結びついているということを思い出してほしい。
そうだとするなら、これら二つの瞬間を意識的に含んだものとして表現されている「特異点としての現在」は、意識的に過去と未来と結びついていなければならない。
現在が過去と未来に結びつくということは、要は、全てであり、永遠である。
これが、「全一的な現実」ということであり、「永遠の現在」ということである。

雑駁ではあるが、このようなかたちで、私の議論における「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの現在は、「ある、なる」の5つの現在と結びつく。

6-6-2 文章で表現することの限界
ただし、現在をこの文章で表現するのには限界があるということに、留意しなければならない。
限界とは、オズモの物語において「座って、図書館の向かいの喫茶店で本を読んでいて、(・・・)すっかり忘れている。」(p.260)というあの箇所として「特異点としての現在」を表現することの、「物語という限界」(p.261)のことである。
この限界は、この文章自体が発話であり、先ほどの「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在と、「流れ星が流れた」と発話する現在のずれが、この文章自体にも及んでいるということを示している。
「あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間はどこまでも現在にならず、その発話が別の出来事として捉えられてこそ、現在になるのだ。」と述べたとおり、発話はどこまでも出来事とは別の出来事であり、どこまでも発話は出来事に追いつけない。そういう側面がある。この文章での「「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在」という記述さえ、その出来事自体にはたどりつけてはいない。これが「物語という限界」である。
この「物語という限界」は、「推移する現在」という捉え方に根源があるとも言える。「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで関係づけるという飛躍があるからこそ、出来事を物語ることが可能となり、また、その物語の限界が明らかとなる。
「流れ星が流れた」ので「流れ星が流れたと発話した」というかたちでの推移を認めることが、この文章という物語を立ち上げ、また、物語という限界も立ち上げる。
多分、この推移という問題は、この文章で述べようとしたことのなかでは、最も難しい問題だ。
だから、推移についてより正確に指し示すためには、私は、因果の充満についての議論において言及した、大河の流れというイメージに頼ることしか思いつかない。

6-7 認識・想起・発話
この文章では、特にその理由を説明することなく、過去の想起、現在の認識を全て発話に含めて扱ってきた。
そのように扱ってきたからこそ、全てを現実と言語の拮抗として捉え、そして、現在を「出来事が生じる現在」と「発話する現在」に捉えることができた。
だから、最後に、本当に、過去の想起、現在の認識を発話として位置づけることができるのかという問題に答えなければならない。
過去の想起とは、例えば「流れ星が流れた」と思い出すことだ。また、現在の認識とは、例えば「流れ星が流れた」と目で見て認識するということだ。
これらは、これまでの私の議論に沿えば、「「流れ星が流れた」と思い出す」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と思い出す」と発話したということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」と発話するということである。そして、そうでしかない。だから、想起も認識も出来事であるか、発話であるかのいずれかだということになる。
しかし、想起する、(目で見て)認識する、ということには、それだけには留まらないものがある。想起、認識には、現に想起し、現に認識しているという現実性がある。「現に」という副詞の付加としては回収できない、現実との接続がそこにはある。
「流れ星が流れた」という事実としての描写と、「流れ星が流れたところを見たのを思い出した」という認識や想起を込めた描写は同じではない。後者の描写は一段階、現実に迫っている。
しかし、この「一段階」のずれについて、この文章で、これ以上迫ることはできない。
なぜなら、このずれについて述べようとする試みは、先ほどの「推移する現在」から生じる「物語という限界」に突き当たるからだ。
「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで繋げるという飛躍こそが、現実性の付与であり、想起であり、認識なのではないだろうか、ということだ。
そのような意味で、過去の想起や現在の認識は、発話とは全く異なるはずだが、発話に含めざるを得ない「物語という限界」がある。