7 まとめ
7-1 ベタの神の勝利
ここまで私は、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という私の問題について、私なりの答えを模索してきた。
まず第4章において、様々な<中間>の根本に、「(充満した時間推移としての)現実」と「言語」の<中間>があることを確認した。
そして、第5章において、過去と未来の<中間>について考えるなかで、「現実」と「言語」それぞれの時間軸を発見し、その間での視点移動という言語の働きを見出した。
第6章においては、特に現在に着目し、その複雑さの原因は、二つの時間軸の絡み合いがまさに現在において発生しているからであることを確認した。
このように考察を進めることにより、現実と時間の絡み合いについて、「現実と言語という二つの時間軸における現実と言語の拮抗」というところにまで明らかにすることができた。

7-2 この文章の成果
この文章で主として行なったのは、いわば、時間を言語的な操作として捉え、現実についての「ある」の議論なかに時間についての「なる」の議論を埋め込むという作業だ。
そのような意味で、この文章は、「ある、なる」においては、数行で書かれていることについての考察だったのかもしれない。
「交錯配列の後半「なるようにある」も、時間(なる)と現実存在(ある)の絡み合いである。しかしこんどは、「なる」が「ある」の内へと入り込んで来る。つまり、「なる」という仕方で「ある」ということ、時間推移が生じるという仕方で現実が成立していることを、「なるようにある」は告げている。」(p.199)という部分だ。
「ある、なる」では、非常に雑駁に言うならば「時間原理Ⅰにより、現実が無時間的に存在する。時間原理Ⅱにより、現実が今という特異点で瞬間的に存在する。その中間に現実と時間はある。」というようなかたちで、主に時間に現実を埋め込む作業と行っていたと言ってもいいだろう。
私が目指したのは、「ある、なる」の議論を自分の問題に引き寄せ、より、ある、なるの交錯配列を明確に示すことだった。そして、その作業をある程度行うことができたと思う。

7-3 この文章の問題
しかし振り返ってみると、「ある、なる」では私がしたような議論がなされていないということこそが重要だという思いが湧き上がってくる。
私の議論は、本来、議論の末に垣間見ることができる、言語と現実の拮抗を、所与のものとして扱うことで成り立っている、いわば、逆立ちした議論だ。
いわば、私の議論は、スカの神が優勢な物語だとも言える。現実と時間について、このように言語化し、分節化した描写ができたのは、この文章においては、言語、つまり、スカの神が優勢だったからだ。しかし、最後には、ベタの神が優勢になって、物語は終わらなければならないはずだ。そうでなければ、この文章が、ベタの現実にあるということから離れていってしまう。
特に、この文章が、時間推移の問題について何ら解決できていないことは大きな問題だろう。そのことも多分、この逆立ちした議論の進め方に問題がある。
先ほど紹介した「なるようにある」の交錯配列の文は「それは、時間的な推移生成が、なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」(p.199)と続く。
私の「なるようにある」という一面的な考察では、時間推移という問題に対しては驚くしかないのだ。

7-4 「ある、なる」の魅力
だからこそ、「ある、なる」は、私がしたような議論をしなかった、ということにこそ真髄があり、魅力がある。
「言語」「現実」といった概念を所与のものとし、大上段から運命を切り分けるのではなく、現実Aというあたり前の描写から、排中律、様相、時間原理Ⅰ、時間原理Ⅱ、マスターアーギュメント、オズモの生涯といった色々な道具を使い、精緻かつ着実に運命の奥深くに分け入っていく。「ある、なる」で強調しているように、「言語」「現実」といった概念を使いつつも、ずらしていく。(この文章で、私は「ある、なる」の操作を「純化」としたが、純化などできないということこそが重要とも言える。)そのような過程を経るからこそ、そこに見出された、現実と言語の拮抗を、重層的な<中間>として捉えることができる。
そして、「ある、なる」は、第25章、エピローグへと進み、私がここで行った議論を振りきっていく。そこでは、現実と言語との拮抗が、神と人間との拮抗といった新たな次元に踏み入れ、別の色合いを帯びていく。その次元に達するためには、私が行なったような逆立ちした議論では足りず、丁寧な議論の積み上げが必要だ。
私は、この文章を通してやろうとしてできなかったからわかるが、これが、「ある、なる」の魅力だ。

更に「ある、なる」には、もう一つの魅力がある。先ほど引用した文章でも「なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」としているところに、その魅力が現れている。入不二は、一歩ずつ知的探検を進め、そこから広がってくる景色に驚きを感じ、喜びを感じているようにさえ思える。私ならば、行く手を遮る障害物としか思えないような哲学的な問題を「驚き」と捉える、この屈託の無さも「ある、なる」の魅力だと思う。そして、この屈託の無さは、第25章、エピローグに向けて全開になっていく。
「ある、なる」の二つの魅力、つまり屈託の無さと精緻な議論の積み上げとは、無関係ではないと思う。