20170416

PDF:受験生のサツキへ

君は、この4月で高校3年生になる。
今は、君にとっての、とても大きな区切りの時期だと思う。
普通に考えれば、君が高校を卒業する来年3月のほうが、より大きな区切りだろう。だけど、僕には、今こそが区切りだと思えるんだ。
これまで、君にとっての区切りは、大きく捉えて、多分3回あったと思う。
最初は・・・確か小学5年生の頃。初めて友達らしい友達ができたとき。
当然、その前にも、初めて喋ったときとか、初めて歩いたときとか、そういう大きな転換点はあったろうけど、君に意識があるなかでは、これが最初の区切りだろう。なぜなら、傍目から見ていて、この時期に、君の中にはっきりした意識が目覚め、そして友達ができたように見えるから。意識が目覚めたから自覚的な友達ができたのか、本当の友だちができたから意識が芽生えたのかはわからないけれど、意識と友達はセットだったように見えた。
次の転換点は、中学に入り、吹奏楽部に入ったとき。僕たち親の勧めに従い、渋々だけど、君は集団の中で過ごし、集団に所属するということを知った。そして、それをかなりうまくこなし、対応できるようになった。
第3の転換点は、高校に入り、吹奏楽部を続けたとき。
君は高校を自ら選択し、そして吹奏楽部に入ることを自ら選んだ。ここで、君は属する集団を選択し、そして、その選択の責任を背負うことを学んだ。傍目から見ても、かなり頑張って責任を果たしたと思う。
この3つが、僕が思う大きな区切りだ。これらの転換点は人間関係に着目したものだと言える。君は、第1段階で人間関係の存在を知り、第2段階で集団への所属を知り、第3段階で集団への所属の選択・責任を知った。
そして、僕には、今、君は人間関係について、第4の転換点を迎えようとしているように思える。なにせ、君は、あんなに苦労した吹奏楽部を引退するんだから転換点でない訳がない。
それでは、次に訪れるだろう第4の区切り、転換点とは何を意味しているんだろうか。
はっきりとは言えないけれど、多分、集団への所属から、もっと個別の人間関係の構築への移行なのだろうと思う。
君は部活を引退し、吹奏楽部という集団から離れる。それでも、引き続き高校という集団には所属しているし、塾という集団の重みも増していくことになるだろう。そのうち大学にも属するだろうし、遠くない将来には会社に通うかもしれない。これからも、これまでと同様に、集団に所属したり、集団から離れたりするだろう。
だけど、多分、中学、高校での部活ほどに深く集団に属することは今後ないだろう。これからは、多分、集団に属すれば、自動的に一定の人間関係がついてくる、というようなことにはならない。
僕の経験からすれば、会社という集団でさえ、君にとっての部活ほど、人間関係の源泉にはなりえない。同じ職場で四六時中一緒に過ごしたからといって、仲が良くなるわけではない。
(もうひとつの有力候補である家族については、別の話のような気がするので省略。)
だから、これから君は、集団に属することで一挙に人間関係を構築するのではなく、もっと個別に人間関係を構築していくことになる。集団に属することも人間関係を構築するための一手段に過ぎなくなる。受動から能動への切り替えと言ってもいいと思う。
これは、既製品の服を脱ぎ、手製の服に着替えるようなものかもしれない。
中学生の君は親が勧めるまま吹奏楽部という既製服を着ていたけれど、高校生になり、自分の意志で既製服を選び、着こなすようになった。そして、これからの君は自分の好みに合わせて、自ら服を作り、そして着こなすように、もっと個別に、自分にちょうどいい人間関係を築くようになっていくのだろう。
君はこれから、誰とつながるか自ら選び、どこまで深めるか、どの程度距離を置くかも自ら選んでいくことになる。そして、そのひとつひとつの選択に責任を負っていくことになる。このような第四の転換点が君には訪れているのだろう。
きっと、君はこれからの人生において、色々な人と、色々な場で出会うことになる。大学のクラスや、サークル活動や、バイト先や、新入社員同士のつながりや、職場の中や、ママ友や、PTA活動や、老人会や・・・・
そこで君は、君自身の活動の成果として、君なりの人間関係を築いていくことになる。人生は人間関係だらけだ。
そして、より強く言うなら、人生においては、人間関係から逃れられないとすら言えるだろう。
誰かと出会って、そして話しかけることにしたなら、それは当然、人間関係を築いたことになる。しかし、もし話しかけないことにしても、人間関係を築かなかったということにはならない。単に、話しかけないという人間関係を選択し、構築したことになる。家に引きこもったとしても、人間関係からは逃れられない。君は家の中だけの人間関係という、ある種の人間関係を自ら選び、そして責任をとっていくことになる。
君は小学生の頃、人間関係というものを知ってしまった。
服を着るということを一旦知ってしまったなら、そこから服を脱いでも、ヌーディストというある種のファッションとなってしまう。それと同じように、君は一旦身につけ、自覚してしまった人間関係という服を脱ぐことはできない。
かっこよく言うならば、人とは人間関係に包まれる存在なんだ。

・・・

偉そうに言っているけど、実は、僕は、最近になって、やっと、このことを実感しつつある。
これまで、僕にとって、人間関係というのはかなり優先順位が低い問題だった。
確かに、人がある種のことを成し遂げようとするなら人間関係は必要だ。一人だけでは運べない重さの机でも4人いれば運ぶこともできる。百万人の同志がいれば革命だって起こせる。
だけど、僕にとっての人生の一番の興味は、こうして一人で色々考えることだったりするから、そういう場合には他人の力はあまり必要ない。確かに人と繋がると寂しくないし、なんだか嬉しいときもある。けれど疲れるし面倒だし、何より、一番大切な自分一人の時間を取られる。最優先の自分一人で思考する時間を取られるくらいなら、人との繋がりは諦めたほうがいい。そう思っていた。
だけど、最近、人間関係というものの重要さに気付きつつある。
「思考」という活動においてですら、実は他者は重要だ。誰かが僕の考えに何か意見を言ってくれるおかげで、僕は自分の考えを更に深めることができる。その意見が、一見、的外れで浅いものだったとしても、その人が本気で考えてくれた意見ならば、どこか考えさせられ、得るものがある。そのおかげで僕の思考は前に進むことができる。
僕にとっては、他者とは、いつも新しく、刺激を与えてくれる世界そのもののように思える。そして、その他者の力を自分のものとすることで、他者を自分自身の拡大した身体のように見做すことすらできる。
そのような意味でも、人とは人間関係に包まれる存在だ。そういうことが、ようやくわかってきた。
僕は、君の成長段階で言うなら、やっと小学校高学年になったところなのかもしれない。つまり人間関係というものの必要性をやっと実感できたレベルなのだ。
だから君は僕よりもよっぽどうまく人間関係を構築できるだろう。なにせ中学生でしっかりと組織に属し、そして高校生で組織の選択までしたのだから。
確かに僕も中学では部活に入っていたし、色々と組織には属してきた。だけど君ほどに組織に入りこみ、その人間関係に自分を委ねたことがない。きっと君は、僕がやっと気付いた「人とは人間関係に包まれる存在だ」なんてことは、既に肌で知っているのだろう。
僕は第1段階から一気に第4段階に進もうとしているけど、君はしっかりと第2・第3段階を経ている。既製品であれ何であれしっかりと服を選んで着たという経験は今後活きるはずだ。
以上、これからの人生、集団に属するだけじゃなくて、都度の判断の積み重ねで、サツキだけの唯一な人間関係を構築してね、という話でした。

・・・

と言っても、具体的に、どうやって人間関係を構築したらいいんじゃ、という話になるだろうから、一応アドバイス。僕は人間関係を築くのが下手だから、逆に、教訓にはなると思う。一流選手が必ずしも名コーチではなくて、苦労して英語を学んだ人のほうが、英語の勉強法を知ってるのと同じことだ。
とは言っても、例えば、大学のクラスの初日に使える技みたいなのを伝授できればいいのだけど、そんな都合がいいノウハウは持っていない。
年相応に積み重ねた失敗例から導かれる心構えのようなものしか伝えることはできない。
まず第一に言えるのは、事前に色々と考えて構えても仕方がないということだろう。
誰かに声をかける前に自分に合った人を見分ける必要はなく、合うかしれないという予感だけでいい。もしかしたら、そんな予感すら要らないかもしれない。
なぜなら、僕にとってだけかもしれないけど、他者というものの醍醐味は、その意外性にあるからだ。あえて言えば、何か面白そうなことがありそう、という予感さえあればいいのかもしれない。
第二に、そんな予感を信じて行動したとしても、もし予想が外れていたなら、離れればいい。嫌になったり、より良いものを見つけたら方針転換すればいい。
人間関係というのは、ロールプレイングゲームのジョブやクラスのように明確に名付けられ、位置づけられるものではない。友達とか親友という呼び方はあるけれど、人間関係というのは、そんな言葉で捉えられるものではなく、もっと個別なものだ。同じ友達と呼ばれる関係でも、AさんとB君では違いがあっていい。人間関係というのは、0と1のデジタルではなく、アナログなものだと言ってもいい。
だから人間関係には時間的にも変化があっていい。友達になったからと言って、ずっと友達でいられる訳でもないし、ずっと友達でいなくてもいい。または、ずっと疎遠だったからと言って、徐々に友達になってはいけないということもない。
僕は、人間関係というものを、様々な色、太さ、材質の糸で編まれた織物のようにも思う。縦軸がAさん、B君というような個人。そして横軸が時間軸だ。人間関係とは、相手ごと、瞬間ごとに異なる都度のやり取りや距離感の積み重ねという糸で編まれた繊細な織物のように思うんだ。
第三の心構えは、いつも良い人でなくていい、というものだ。人によって違う対応をしたり、誰かと離れたり、近づいたりと軌道修正するにあたっては、あまり良い人であろうとしなくていい。そういうことに囚われていると、大事な判断ができなくなる。
それに、良い人であろうとして無理をすることは、自分にとって良いことではないだけでなく、その相手にとっても良くないとも言える。なぜなら、自分で勝手に無理をしているような人を友人とすることは、その相手にとっても不幸なことだろうから。
良い人であるべき、というような実現が難しく、堂々巡りになってしまうような問題には、あまり立ち入らないほうがいい。
以上、3つほど心構えめいたものを書いてみたが、そこからなんとなく透かし見えてくるのは、とりあえず何か動いてみたほうがいい、という楽観的で積極的なスタンスだろう。
僕はそう思うし、実際に、自分自身そうしたいと思っている。
だけど、一番大事な心構えは、それでも、自分自身がやりたくない時にはやらなくていい、ということだ。当然、やれるときにはやったほうがいいし、少々無理してでも積極的にやっていくほうがいいときも多い。だけど、あまり無理しないほうがいい。自分の内なる声に耳を傾け、自分を大切にしてあげるのが第一だ。
人の気持や態度には、あるリズムのようなものがあると思う。少なくとも僕には、気が満ちていて、何か積極的に行動したいときと、そんなことは投げ出して、ゆっくりと一人で過ごしたいときがある。
うまくいっているかどうかは別にして、僕は、その波をうまくとらえて、自然に、そのなかでも、ちょっとポジティブさを心がけつつ、波に乗って生きていこうと心がけている。
そして、君にもできればそうしてほしいと思っている。
自分自身の内面のリズムに正直に、だけど、そのなかでもできるだけ積極的に、そして楽観的に生きていってほしい。

・・・

最後に、この文章のタイトルとしている「区切り」について。
多分、この文章で一番伝えたかったことは、区切りすぎないほうがいい、ということなのだと思う。
集団に属するか属さないか、友達か友達じゃないか、良い人か良い人じゃないか、というようにざっくりと区切りすぎるのではなく、もっと目の前の個別具体的なものに目を向けて生きていくべきだ。そういうことを自戒を込めて伝えたかったのだろう。
僕自身のこれまでの人生の反省点は、区切りすぎた、ということだったのかもしれない。(ママの長所は、区切らない、というところだ。)
この文章の冒頭でも、君の成長を4つに区切ったように、僕は、色々と区切って分析するのが好きだ。これは、物事を単純化し、大枠で理解するのに役立つ。しかし、うまくいかないこともある。
例えば僕は子どもの頃、大人になるのが嫌だった。嫌というか、大人というのが未知の世界すぎて先に進むのが怖かった。
そう思ったのは、きっと子どもと大人とを区切りすぎていたからなのだろう。この歳になってはっきり言えるけれど、子どもと大人とを明確に分けることなんてできない。人というのは、その瞬間その瞬間で少しずつ変わっていく。確かに人生の中には大きく成長するタイミング、大事な瞬間というのもあるけれど、そこで一気に全く違う存在になってしまう訳でもない。僕はどこまでも連続的に僕だ。大人という全く違う存在に生まれ変わる訳がない。今の僕が大人なら、あの頃の僕もどこか大人だったはずだし、あの頃の僕が子供だったなら今の僕もどこか子供なはずだ。
それに加えて、はっきりと、大人的な性質や子ども的な性質というものがある訳でもない。一般的に言われるように冒険心や残酷さといったものが子ども的な性質で、思慮深さのようなものが大人的な性質なら、今の僕のなかには、あの頃と同じか、もしかしたらもっと子どもな面がある。そして、あの頃の僕のなかには、今と同じか、もしかしたらもっと大人な面があった。
つまりは、子供から大人になるなんて捉え方は粗雑すぎるんだ。
同じようなことだけど、もうひとつ嫌だったのが、大学生から社会人になることだった。これも、学生のうちだけは自由に何でもできて、社会人になったら稼いで子供を育てる以外何もできない、という区切りのイメージに囚われていたのだと思う。そして、僕は、そのとおり、学生時代は、絵に描いたように自由に遊んだし、その後、そのとおり、安定しているけれど、自由がない職に就いた。まさに予言の自己実現という事態に陥ってしまったように思う。
だけど、よく考えれば、世の中には、学生のうちから起業している社会人のような学生もいるし、ママのように、社会人になっても学び、色々と生き方を自由に定めている学生のような社会人もいる。
自由で可能性に溢れた学生と、不自由で可能性を失った社会人という捉え方自体が、やはり粗雑だったんだ。
そして、もうひとつの大きな誤りが、この文章でも触れた、友達というものの扱いだったように思う。僕は友達か友達じゃないかの区別に因われ、しかも、その区別がなんだかわからず、孤独感を感じていた。みんなにはどうやら友達というものがたくさんいるみたいだ。だけど、どうやら僕には友達というものがよくわからない。だから僕は、皆がやっている(ように見える)友達の作り方を真似て、傍目から見て友達らしきものを作ってみた。だけど、当然、そんなのは友達なんかじゃなかった。友達というのは、そんな粗雑なものではなく、ただ、振り返ってみると友達だったとしか言えない、日々のつきあいの積み重ねのことだったんだ。
このように、僕はいくつも勝手に区切りを設け、勝手に苦しんできた。これが僕の反省点だ。
(誤解がないように言っておくと、僕は、このような試行錯誤を重ね、大人らしきものになり、充実した社会人生活を送り、友達と思えるような関係も築きつつあるよ。)
確かに区切ることには利点がある。僕が好きな哲学とか、君が好きそうな社会学なんていうのは、区切ってざっくり捉えること自体が学問の醍醐味とさえ思う。
だからこそ君には、区切りつつも、区切りというものに因われすぎず、日々、目の前にある生(ナマ)の現実に目を向けて、自分の中にある生(セイ)のリズムを尊重し、それらを望ましい方向にコントロールしつつ生きていってほしい。
以上、時々書く、君にあてて書いたように見せかけて、自分自身に書いた文章でした。