2017年2月8日作

PDF:20170208哲学対話の素描

僕は、哲学対話に興味がある。
知らない方のために紹介すると、哲学対話は学校や病院など色々な場で行われているが、街のカフェや公民館などで行われている哲学カフェが比較的有名かもしれない。時々、テレビや新聞に取り上げられることもある。
通常、数名から10数名程度の人が輪になって座り、「幸せとは何か。」というような哲学的なテーマにについて話し合う。2時間ほど話すと、特に明確な結論を出すことなく、そこで終了する。
色々な派生形はあるが、基本形としてはだいたいこんなところだろう。
僕は、自分のこれからの人生のかなりの部分を、この哲学対話に使いたいとさえ思っている。それなのに、最近、その哲学対話というものが何だかわからなくなってしまった。
確かに、哲学対話というものは、先ほど紹介したような、共通のイメージがある。これが哲学対話だということは確かだろう。
しかし、哲学対話に関わるにつれ、哲学対話の本質的なところが気になってきた。哲学対話と言うからには、哲学対話は、哲学と対話で構成されているはずだ。だけど、関われば関わるほど、哲学と対話の乖離がどんどん気になってきて、僕にとっての哲学対話はなんだか空中分解しそうなのだ。

哲学はわかる。僕は哲学が好きだ、というか必要で離れられない。僕が生きるとはどういうことか、正しいとはどういうことか、そんなことをずっと昔から考えてきた。今も問いの立て方は変わっても、似たようなことを考えている。年月を経て中身は変遷しても、僕が離れることができない「あれ」が哲学だということはよくわかっている。
対話も、まあ、わかる。一般的に「人と人のコミュニケーション」のようなものがイメージされるだろう。そこから狭めるなら、討論や日常会話のようなものは除かれる。逆に広げるなら、他者との対話だけでなく、自分自身との対話も含まれるかもしれない。若干の伸び縮みはあっても対話とは、だいたい、そういうもののことだろう。

実は、僕は、この、自分自身との対話も含む広義の対話は、哲学と大きく重なるのではないかと思いついた。哲学と対話を結びつけるのは面白いアイディアだと思い、その方向で考えてみようと思った。
そして、調べてみると、どうやら、既に哲学対話というものがあり、哲学カフェという活動があるらしいと知った。そして、その活動に関わるようになっていった。

哲学と対話が重なると言っても、どういうことか伝わらないかもしれないので、厳密ではないが、例として、ひとつの切り口から僕が思っていることのイメージだけ述べておこう。

・・・

広義の対話とは、つまらなく定義してしまうならば、要は「言語」のことだとも言える。人との対話は、書き言葉にせよ話し言葉にせよ言語で行うし、自分との対話も、思考として言語的に行うとも言える。そのような意味で、対話とは言語であるとも言える。
そして、哲学をつまらなく行うならば、「全ては言語だ。」という哲学的結論を出すことはできうる。これは多分、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考における「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉が、本人の意図から離れ、論理実証主義的に受け止められたような哲学的立場だろう。この立場への賛否はともかく、少なくとも、そのような哲学は成立しうる。「全ては言語だ。」という哲学的主張はありうる。
正確さはさておき、こんな感じで哲学と対話は、言語、つまり「ほぼ全て」とでも言うべき幅広い領域において重なると言えるのではないか。

・・・

これが、僕にとっての、哲学と対話が重なるということのイメージだ。

しかし、実際に哲学対話をしていると、どうもうまく哲学と対話が重ならない。どうも対話が哲学的にならない。または哲学的な話をしても対話にならない。
哲学と対話は重なるという仮説が間違っていたのだろうか。それとも、哲学カフェでの実際の哲学対話が、哲学として、または対話として、不徹底なのだろうか。そんなふうに考えるようになった。
特に感じたのが、僕の哲学と、実際の哲学対話の場においての哲学との乖離だ。哲学カフェでは、これが哲学なのだろうか、と考えさせられる場面が数多くあった。そこには、哲学的訓練を受けたかどうか、論理的思考の能力があるかどうか、といった違いではなく、人生における興味の違いとしか言いようがない違いがあるように思えた。
そのような場面に遭遇すると、僕は、僕自身が考えていることはかなり特殊で、世の人が考えていることと違うように思えた。これは、僕という存在の劣等感であると同時に、特別感や自負ともつながる感覚だと思う。

だから第一に、僕は、僕にしかできない、僕自身の哲学をやらなければ、と決心した。多くの人にはわかってもらえないけれど特別な営みをしなければ、そう思うようになった。
そして、その余力として、慰みとして、哲学カフェなどの対話の場に関わっていこうとも思った。僕自身の哲学をやっているだけでは孤独だ。家族もいるし少しは友人もいるから全くの孤独ではないけれど、せっかくだから、哲学という得意分野を活用して人と関わっていくのもいいのではないか。そんな気持ちで対話に関わっていくのもアリかもしれない。

以上のような意味で、僕にとって、哲学と対話は乖離している。僕の哲学は哲学カフェでの哲学には程遠い。だからそのような場で対話をするには、僕の哲学とはかけ離れた対話をしなければならない。それは仕方ないことだ。

ここで終われば、まあ、そういうことだから残念ではあれ、悩みや疑問はない。けれど、そうとも言い切れない。だから考えこんでしまう。
どうして言い切れないのかというと、実際の哲学対話においては、哲学と対話が重ならないことも多いとは言え、一方で、なぜか、哲学と対話が重なったとしか言いようがない瞬間も数多くあるからだ。そのような状況が長時間継続するような場面さえある。これはどういうことなのだろう。
別に、僕の哲学自体を深く理解してくれる白馬に乗った王子様が登場したということではない。僕の哲学によく似たことを考えている運命の人に出会ったということでもない。
むしろ、そういう場面は、僕が日頃考えているような哲学的問題意識とは全く違うことを話しているときに訪れる。誰かが日常で感じた、ふとした疑問を口に出したとき、それは訪れる。誰かの発言に触発され、誰かが疑問を深めたとき、それは訪れる。発言が途切れ、皆が沈黙して考え込んだとき、それは訪れる。
そこで発せられた言葉だけに着目するなら、どうということもない言葉でも心に響くことがある。または、言葉ですらない、記録することもできない眼差しや態度であっても、いや、だからこそ、僕の心に共鳴することがある。
こうして、対話が僕の哲学に響き、哲学と対話が重なる瞬間がある。これはどういうことなのだろう。

まず僕は、僕の哲学に合う人と合わない人がいるのではないかと考えた。
実は、僕が哲学カフェに関わった理由のひとつには、僕の哲学に合う人を見つけたいという思いがあった。より正確に言うなら、僕のような人を見つけたかった。僕は子供のときから抱えていた違和感のようなものを形にする手段として、たまたま、哲学を見つけることができた。だけど、僕に似たその人は哲学と出会えず、彷徨い、途方にくれているのではないか。そんな人を見つけ、哲学と引き合わせ、助け出してあげたいと思ったのだ。高校生の頃の僕のような人に出会い、哲学に導いてあげることができたらどんなに素晴らしいだろう。
だから、哲学カフェに実際に行き始めてからも、いい哲学対話ができたと思ったときは、そこまでの理想的な出会いではなくても、ある程度、僕に合った人と出会えたのかもしれないと思ったのだ。
個人の特性が合致したとき、哲学と対話が一致する瞬間を生み出せるのかもしれない。そのように考えるなら、僕は、自分に似た人を多く集めれば集めるほど、また自分に似ていれば似ているほど、哲学と対話が一致する瞬間を生み出せることになる。
しかし、当然ながらそうではない。最近やっと、そう思えてきた。

実感として、哲学と対話が一致した瞬間に居合わせた人は、そういう人達ではなかった。確かに、全く共通点がなく、最低限のところですら合わず、対話の土俵にも乗らない人もいるように思う。だが、そういう極端な例を除けば、重要なのは、似ているかどうかではない。
そこに必要なのは、なんとも言いがたい空気感のようなものだった。人間が能動的にコントロールできるものではなく、最低限の受け入れる条件は整えつつも受身で待つしかない僥倖のようなものだった。

哲学と対話が重なったときの、あの僥倖とでもいうべきものを捉えようとするなら、重なるのは言葉ではないということも重要だ。言葉は重なるのではなく、いうなれば、言葉は共鳴する。言葉だけではなく、態度や眼差しや間や場の空気が共鳴する。更に言うならば、魂が共鳴すると言ってもいいように思える。そのような場を創りだす特別な何かが降りてくるように思える瞬間がある。重なるのは、人の奥底の魂のようなものかもしれない。

僕には、哲学対話とは、人の奥底に隠されている魂を露わにする作業のように思える。みかんの皮を剥くように。源泉や鉱物を掘り当てるように。
確かに人により剥きやすさは違うかもしれない。それが哲学対話しやすい人としにくい人の違いなのかもしれない。だけど、万人に隠された魂があるのだとすれば、その違いは大した違いではない。

僕にとって、魂とは哲学への情熱であり愛であり生命そのもののことのように思える。それは、ウィトゲンシュタイン風に言うならば、「語りえぬもの」と言ってもよい。言葉による営み、それ自体が対話なのではなく、対話をなぜか求め、成し遂げてしまうことこそが対話であり、そこに魂の秘密があるのではないだろうか。

魂が奥底にあると知らず、それを露わにされるなんて思いもしない人の皮を哲学対話により剥き、魂を露わにすべきなのだろうか、そんなことをできるのだろうか、逆に、そうしないことなんてできるのだろうか、自分の魂のありかを知らない人なんているのだろうか、実は魂は既に露わになっているのではないだろうか。なんとなく、そんなことを考えている。