2017年2月26日作
けど、その1年半くらい前にだいたい書いていたものをアップしたものです。
PDF:夜と霧を読んで
【ホロコーストと末期がん】
夜と霧という本を読んだ。ヴィクトール・フランクルという心理学者が、ホロコーストを心理学者の視点から描いたいわゆる名作だ。
ふとしたきっかけで読みはじめたのだが、読み始めてすぐ、先日、がんで入院したこのタイミングでこそ、読まれるのを待っていた本だと気づいた。(今は一応完治しています。)
病院での苦痛と収容所での苦痛は似ている。その大きさは千分の一かもしれないが、同じ方向の苦痛がある。
だから、この本で繰り返し問われる、苦と生の問題が、少しだけわかる気がする。
私の病気は早期がんだったので病気自体の苦しさはなかったが、手術後の体力低下が苦しかった。特に手術直後、ICUに入っていたときはきつかった。点滴やら何やらが付いて身動きはできないし、手術後の麻酔のせいか力も入らない。不快感だけが体を包んでいる。いつもと勝手が違いすぎて、頭もうまく回らない。
これが何日も続いたとしたら、と想像してぞっとした。もしそんなことがあるなら、死んだほうがマシかもしれないと本気で思った。
幸い、回復は順調で、ICUも一日だけで済んだので、現実には、それほど深刻な問題にならなかった。
しかし、私は、退院することで、この苦痛から逃れられた訳ではないことを知っている。将来、突然死や老衰でなく、何らかの病気で徐々に死にゆくのならば、その過程でICUで感じたような苦痛を再び味わうに違いない。そして、死にゆく過程で味わう苦痛は、より長く、大きなものになるだろう。
私は、いつか、より深刻なかたちで、この苦と生の問題に直面する可能性が高い。収容所の不幸なユダヤ人だけに降りかかる対岸の火事ではない。私自身にとってのリアルな問題なのだ。
それならば、前もって、この問題にきちんと向き合っておくことは無駄ではないだろう。
【この文章で目指すところ】
この本のクライマックスは、停電の夜、フランクルが収容所の人々に語りかけ、魂を教導しようとした場面だろう。(p.137~140)
ここに、苦と生の問題についての、一番よくまとまった答えが示されている。
その概要はこうだ。
1 今は苦しくても、未来は未定であり、突然の幸福がありうる。だから生きるのをあきらめてはいけない。
2 今は苦しくても、過去の経験という心の宝物はだれも奪えない。だから人生には価値がある。
3 人間が生きることは、苦しみ、死ぬことを含めて意味がある。苦も死も生の一部である。
4 自己犠牲は、一見何ももたらさないようにみえても、それ自体に意味がある。だから苦しみ、死ぬという生き方には意味がある。
私は、この場面が好きだ。そして、フランクルが収容所の人々に語りかけた内容は、ある真実を捉えていると思う。
しかし、この本では、ほかにも苦と生の問題について色々な場面で触れられているが、そこには若干の論理的な混乱が生じているように思える。
私はこの文章で、この混乱を解きほぐし、苦と生の問題について、この本が導こうとした答えを、より明確なかたちで見出したい。
なお、そもそも、停電の夜、実際に収容所で人々に語った言葉なのだから、そこに漏れがあったり、精緻な論理的整合性が欠けたりしているのは当たり前だし、そのことが、このエピソードの価値を何ら下げる訳でもない。
また、この本はとても奥深く、色々な角度から読むことができるから、当然、読者により、そこから何を読み取り、何を重要とするかは違うはずだ。それならば、メッセージが散在し、整合しないように思えるのは、あくまで私の視点からみたからであり、この本の責任ではなく、読者である私の責任だとも言える。
ということで、私はこの本の誤りを正そうとしている訳ではない。ただ、私の視点において、この本から読み取ったものをきちんと整理し、体系づけることが、私自身が今後直面するかもしれない生と苦の問題の解決に役立つのではないかと思うだけだ。
【過去・現在・未来の区別】
この本が述べていることを整理するうえでは、過去、現在、未来という時点で区切るのが役立つ。「停電の夜」のエピソードに沿えば、2「今は苦しくても、過去の経験という心の宝物はだれも奪えない。だから人生には価値がある。」が過去、3「人間が生きることは、苦しみ、死ぬことを含めて意味がある。苦も死も生の一部である。」が現在、1「今は苦しくても、未来は未定であり、突然の幸福がありうる。だから生きるのをあきらめてはいけない。」が未来にあたる。
この本における混乱は、特に、過去と未来において生じていると思われる。そこにある不整合を確認してみよう。
【過去】
まず、過去について。
心打たれるエピソードの連続であるこの本の中でも、辛い労働の中、白昼夢のように妻を思う箇所は、特に印象的だ。(p.61)
極寒の朝、ボロ布をまとい行進をしていても、愛する人の面影を追っている間は至福の境地に留まることができる。これは、「停電の夜」のエピソードにおける「今は苦しくても、過去の経験という心の宝物はだれも奪えない。だから人生には価値がある。」というメッセージの具体例と言えるだろう。
過去の経験という宝物を現在において思い出すことで、その間は苦しみから逃れられるのだ。
他にも似たエピソードとして、帰宅の道のりのようなこまごまとした過去の日常生活を思い出すだけで、現在の生が背後に退き、内面の生が独特なものになる(p.64)、という例もある。日常生活であれ、愛する人の面影であれ、過去の経験には苦しみに打ち勝つ力があるということなのだろう。
しかし、一方で、この本では、追憶は、過去へとさかのぼる退嬰的な傾向であり、過去に逃げ込むことで、現実に真正面から向き合うきっかけを見失ってしまう、としている。(p.121)
ここに不整合がある。
追憶し、愛する人の面影を追うことが逃避ならば、過去の宝物とはまやかしの宝に過ぎないことになる。それならば、停電の夜、発すべき言葉は、「過去に逃げ込まず、現在、目の前にある現実から目を背けずに向かい合うべきだ。」であるはずだ。しかし、そうは言っていない。
思うに、停電の夜の言葉は、あくまで、収容所の仲間たちを鼓舞するための方便だったのだろう。そして、極寒の作業の最中、妻の面影を追い、そして、帰宅の道のりのような、些細な日常を思い出すことで自分を癒やしたのは、それが、正しいことであり、そうすべきだったからではなく、そうせざるを得なかったのだろう。
過去の追憶により、現前する現実から逃れるという行為は、耐えられない苦しみに晒されたときの応急措置なのだ。
【未来】
次に、未来について。
「今は苦しくても、未来は未定であり、突然の幸福がありうる。だからあきらめてはいけない。」という「停電の夜」のメッセージは、つらい状況にあれば、多くの人が思い付くだろう、常識的な考え方だろう。
私の父は癌で死んだが、死ぬ間際まで、抗癌剤が効いて治るかもしれない、と思い、辛い治療に耐えていた。きっと、可能性は低いことを知りつつも、劇的に抗癌剤が効くという突然の幸福がありうると思いたかったのだろう。
しかし考えてみよう。厳しい状況にあればあるほど、突然の幸福の可能性は少なくなる。それでも突然の幸福がありうると考えることには、どこかで無理が生じる。
父は数クールの抗癌剤治療を受けた。第一クールの抗癌剤治療には高い治癒の可能性があったが、徐々に、その可能性が下がり、ついには最後には、医師が父の気持ちを尊重して付き合ってくれる儀式のようになっていった。この儀式は、生きる気力を引き出すために必要なのかもしれないが、どこかまやかしがあり、後ろめたさを感じた。
この本でも、究極的に厳しい状況における非合理的な感情についての説明がある。死刑囚が死刑直前に恩赦されるのではないかと思うという精神医学的な病症である恩赦妄想(p.14)だ。
つきつめれば、ユダヤ人が収容所から近日中に解放されるかもしれないと思ったり、末期がん患者が治るかもしれないと思ったりすることは、死刑囚が恩赦されるのではないかと思うのと同じ、妄想なのだろう。フランクルが停電の夜、突然の幸福がありうると語り、私が末期がんの父に対して抗癌剤が効く可能性があると語ったのは、どんなに正当化しようとしても、非合理的な方便に過ぎない。
過去への追憶と同様に、未来への期待も、耐えられない苦しみに晒されたときの応急措置なのだ。
なお、この本には、生きて帰ることを待っている愛する子供やかけがえのない仕事への責任が生き延びる力になる(p.134)という話もある。恩赦や抗癌剤の劇的な効果のような、具体的な出来事への期待がなくても、抽象的にでも未来を描くことができれば、それが生きる力になるようにも思える。
しかし考えてみよう。収容所から逃れ、子供や仕事に再会するためには、ソビエト軍やアメリカ軍による解放や幸運な脱走の機会のような、何らかの具体的な出来事がなければなければならない。そのような具体的な幸運が期待できないのに、抽象的な未来を描くことは、やはり妄想なのだ。
合理的に考えるならば、合理的に見込まれる程度の可能性でしか幸福は訪れない、というあたり前の事実があるだけだ。それ以上に幸福が訪れる可能性を高く見積もることは、単なる誤りである。
未来への期待が応急措置にしかならないのは、この本の、1944年のクリスマスを区切りに多くの人が死んだというエピソード(p.128)からも明らかだ。未来への期待は打ち砕かれる可能性から逃れられない。幸福な未来の可能性がゼロとしか見積もることができないような厳しい状況では、未来への期待が持つ力もゼロとなる。1944年のクリスマス以降、収容所の多くの人々は、収容所が解放され、救われるという合理的なストーリーを思い描くことができなかった。そのようなとき、未来は生き延びる力にならなかった。
未来への期待のような、偶然に左右され、場合によって生きる力になったり、ならなかったりするようなものは、本質的な生きる力ではありえない。未来への期待とは別に、本質的な生きる力があるはずだ。
過去にも未来にもないなら、現在にこそ、その力があるはずだ。
【現在】
今、苦しみ、今、死にゆくことこそが生きることだ、という主張には、過去や未来を持ちだした際にあったような、まどろっこしさがない。
逃避となりかねない過去の想起や妄想となりかねない未来への期待に比べて、現在において現に感じている苦しみは確実に目の前にある。
過去でも未来でもなく、現在において、現実に苦しみに向かい合うことが本質的に最重要であり、現にそのように向かい合うことこそが生きる力だという主張には、批判の隙がない。
これが、この本における「今にみていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていたが、現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮された」(p.122)という言葉の意味なのだろう。
この現実に向き合う姿勢について、この本はより詳細に述べている。生きるうえで最も重要なのは、主体性を持った存在(p.82)であることであり、具体的には、精神の自由(p.110)を持つことだとしている。主体性を持ち、精神の自由を保つのは、過去でも未来でもなく現在でなければならない。この悲惨な収容所でなければならない。
言い換えるなら、厳しい状況にあっても、その現在において、現実に何らかの主体的な決断をすることこそが生きるということなのだ。
「人間とはなにかをつねに決定する存在だ。~ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在」(p.145)とは、この意味で解すべきだろう。ガス室においても主体的な決定の機会がある。
そして、この生は、苦、そして死をも包み込む。
主体的な決断をするからこそ、そこに苦悩が生じる。それが、この本における苦悩に値する人間(p.112)という言葉の意味だろう。
そして、主体的に選択し、苦しみや死を引き受けるからこそ、苦しみや死にも意味があり、生きることの一部であり、それがあるからこそ人間という存在ははじめて完全なものになるとまで言えるのだ。(p.113)
私の言葉で言い直せば、収容所や病室において、過去や未来に逃げ込まず、現在において現前している現実に向き合い、何かを選択したからこそ、その人は生きていたと言える。
たとえ選択したのが、苦しみ、死ぬことであったとしてもだ。その選択が欠けてしまったなら、その生から、最も重要なものが欠けてしまう。
そのような意味で、現在の生とは、選択したものとしての苦と死を含むのだ。
これが、停電の夜のエピソードにおける、「人間が生きることは、苦しみ、死ぬことを含めて意味がある。苦も死も生の一部である。」ということの意味なのだと思う。
まとめよう。
過去は既に確定しており、現在の自分自身は関与できない。未来は偶然に左右されるから、現在の自分自身は主体的に関与できない。できることは、現在、この現実において、主体的に決断することだけだ。その決断が、たとえ苦しみや死を引き受けるというものであっても、その決断こそが生きることそのものなのだ。
なお、過去や未来に逃げ込まず、現在において全てに向かい合うということは、現在という一時点における判断が人生全てを背負うことを意味する。なぜなら、そのとき、過去や未来はなく、ただ、現在だけがあるのだから、現在という唯一の時点が人生全体に重なることになるからだ。
これが、この本における、苦しみを引き受けることに、なにかをなしとげるたった一度の可能性があり(p.131)、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味がある(p.132)という言葉の意味なのだろう。
【喜び、無私、内的成長】
さて、現在における選択が最も重要だということはわかった。それでは、具体的に、どのような選択をすべきなのだろうか。
人は目の前に好きなミカンと、嫌いなピーマンがあれば、ミカンを選ぶだろう。なぜなら、ミカンを得た場合のほうが嬉しいからだ。
しかし、ここは収容所だ。選びたくなるような望ましいものなど見当たらない。先ほど、過去の追憶や未来への期待に頼らず、現在において現実に向かい合うしかないことを確認した。過去の愛する人への思いや、未来の家族との再会への期待といったものは選択の対象外だ。そういったものを取り除き、収容所にいる現在の自分を見つめ直すなら、何か選択に値するような望ましいものなんて転がっているのだろうか。
いや、この本によれば、収容所においても具体的な喜びがあるようだ。
まず、自然の美しさ(p.65)、芸術(p.68)、ユーモア(p.71)といった積極的な喜び(p.78)がある。
また、かまどがない収容所に幸運にも移送される、というように、運不運の階梯において、少しでも幸運が舞い降りたという消極的な喜び(p.74-78)もあるとされる。
とするならば、これらの喜びこそが、現在の自分を肯定的に捉えられる唯一の材料であるように思える。これらの喜びを追い求めることこそが、現在における選択の基準になるのではないか。
この本も、収容所の苦しい状況で自然の美しさ、芸術、ユーモアといったものを見出すことができる人間の力強さを賛美しているように感じる。
しかし、この本には、ここにも不整合があるように思える。
この本は、収容所でのささやかな喜びを意義深いものとして描きながら、勇敢、無私(p.114)というような判断基準も示している。より勇敢で、より無私な選択肢を選ぶということは、自分の利にならないのに、自分を危険に陥れる選択をすべきということだ。これは、つまりは、自分を顧みず、他者のために生きよ、ということなのだろう。
それならば、美しい夕焼けを見て感動したり、仲間とユーモアを言い合ったりするような、収容所でのささやかな喜びすら投げ捨て、他者のために生きなければならない、ということになる。
また、この本では、その他にも、人が追い求めるべき人生の目的として、人間の内的成長(p.121)というものが示されている。
たとえ収容所にいても、いや、収容所という厳しい状況にあるからこそ、人は自分自身の内的成長を追求することができる、とされる。
しかし、無私であるということは、自分自身の内的成長の機会を捨ててでも、他者のために生きなければならないということも要請する。
ここで不整合による混乱が生じる。「喜び」、「無私」、「内的成長」のどれを選ぶべきなのか。
この不整合については、この本は、一応の答えを用意している。
具体的にどう選択するかの答えは、一般論ではなく具体的な何か、答えは具体的な状況に用意されている、としている。「生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。」(p.130)、「その答えは、具体的な状況にすでに用意されている」(p.131)という、この本の思想の根幹にあたるだろう部分だ。
この答えを適用するなら、つまりは、「喜び」も「無私」も「内的成長」も、どれも重要だから、その場の状況に応じて、個別に判断すべきということになる。
しかし、これは、選択の基準について何も言っていないに等しい。
この本は、「喜び」、「無私」、「内的成長」という三つの視点を提示しながら、これらの視点を、どのように整合させて判断するかについては何も言っていないのだ。
それならば、私自身で考えを進めるしかない。
まず、自分自身の喜びは、無私や自分自身の内的成長に劣ると言えるだろう。
なぜなら、人生のどのような場面でも、無私であり、自分自身の内的成長を実現することは可能だが、極めて厳しい状況では、喜びが存在する余地がない状況もありうるからだ。
アウシュビッツのガス室に入り、死を観念した瞬間であっても、無私であり、自分自身の内的成長を実現することは可能だが、そのような状況で、ミカンを選んだり、美しい夕焼けを見たりするような喜びを感じることはできない。
偶然に左右され、人生のある場面では得られるが、ある場面では得られないようなものは、人生において本質的なものではないはずだ。
得られるかどうかが偶然に左右される自分自身の幸せではなく、自分自身の選択により確実に到達できる無私、自分自身の内的成長こそ、選択の基準としてふさわしい。
この本も、偶然に左右される生に生きる価値はない(p.113)と言っている。
それでは、次に、無私と自分自身の内的成長の優劣関係を検討することとしよう。
そこで、考えを進めてみると、実は、この両者は同じものではないかと気づく。「人は、内的成長により必然的に無私に至る。」ということなのではないか。
どういうことか説明しよう。
内的成長とは、人生の本質的な意義を捉えようとする過程であるとも言えるだろう。
この本における具体例としては、不治の病にかかった若い患者が友人に勇敢に死を覚悟すると手紙に書いたという収容所の外のエピソード(p.115)や、収容所であと数日で死のうとする若い女性が人生に感謝し、マロニエの木と語らうエピソード(p.116)がある。
これらは、まさに厳しい状況において、人生を鮮やかに捉えなおした例と言えよう。
これらの例からもわかるように、内的成長にあたっては、人生において本質的でない部分を捨て去らなければならない。
それは、まさに、過去の追憶、未来への期待、自分自身の喜びといったものを捨て去るという、この文章で行ってきたことにあたる。そこに残るものが無私である。
このような内的成長の過程を経て、人は、必然的に、過去の追憶、未来への期待、自分自身の喜びといったものを捨て去り、無私に至るのだ。
現在がどんなに苦しく、例え、死に向かっていても、過去や未来に逃げ込まず、この現在において、現在を受け止め、無私を選択し、内的成長を果たすことが、生きるということなのだ。
これが、私がこの本から読み取ったエッセンスだ。
【脱線:この文章の意義】
私は、この文章を書くことで内的成長ができたのだろうか。
当然、そうではない。文章を書くことと、現にそのように生きることとは全く違う。
私の真価は、私が苦しいとき、現に、この文章で書いたように生き、内的成長ができるかどうかにかかっている。
【末期がんになったら】
ここまでで、かなり、苦と生の問題を整理することができた。人は、苦しい状況であっても、その現実を受けとめ、無私、つまり他者のために生きるという選択をすべきということになる。
ただ、入院した当時の実感として、私は、死ぬ間際まで、このような選択をし続ける自信がない。
というのは、ICUで、判断力が低下し、選択自体ができなくなる自分を自覚したからだ。
ICUで最も大きかったのは、この苦しさだった。頭がうまく回らず、自分が自分の人生を把握し、コントロールできなくなるという怖さが一番つらかった。ICUで混乱しながらも、時々、冷静になったとき、それまで混乱していたことにぞっとした。そのまま混乱から戻ってこれなかったら・・・と思い、怖くなったのだ。
収容所でも、これに似た問題が生じている。
乏しい食事や睡眠不足(p.111)による反吐が出そうな問い(p.124)を繰り返さざるをえず、食べることしか考えられないような人間としての尊厳にふさわしくない状況(p.50)に陥るという問題だ。そして、ついには、チフスによる譫妄で祈りの言葉さえ出てこない状況(p.56)に陥る。
そのような状況では、判断力が低下し、主体的な判断は難しいだろう。
収容所と病院ではレベルは違うものの、環境や身体面から生じる苦痛による判断力の低下という類似した問題がある。
更には、収容所特有の問題として、ナチス親衛隊のような他者による支配による判断力の低下が生じる。
これは私には想像もつかないが、この本によれば、現在を過去のようにみなさ(p.124)ざるを得ず、感情の消滅(p.33)や鈍磨(p.104)が起こり、意志などもたない気まぐれの餌食となり、決断をくだすことをしりごみするようになる、とされる。その結果、テヘランの死神の話が印象的だが、ついには人間の下す決定など信頼がおけない(p.103)と思わざるをえないという状況に至る。
理想としては、いくら苦しくても、感情の消滅や鈍磨を避け、主体性を持った決断を行い、精神の自由を保つことが望ましいだろう。そのぎりぎりで保った例が、不治の病にかかった若い患者の覚悟(p.115)や、若い女性のマロニエの木との語らい(p.116)なのだろう。
しかし、私には、少なくとも私自身に、主体的な判断が不可能となる状況が訪れる可能性があるということを、現に想像できる。私にとっての主体的な選択の前提を崩し、生きることの根源的な意味を奪ってしまいかねない状況を想像することができる。
そのような状況になったら、私はどうすればいいのか。
私は思う。
現在において主体的な判断ができない、ということは、要は、人生を生きていないということなのだろう。
過去や未来でもなく、どこまでも現在に着目するならば、現在は人生すべてと重なる。
その現在を主体的に生きることができないなら、人生を生きていないのと同じだ。
人生の重さ全てを背負っている現在のことだけを考えて決断すべきなのだ。
そこから一つの結論が得られる。
「判断力が低下し、主体的な選択をできなくなったら、死を選んでもよい。」
【二つの矛盾】
しかし、本当にそうだろうか。
私は、この結論には、過去や未来を無視し、現在の判断のみを重視したことによる弊害があると思う。
その弊害を、二つの矛盾を指摘することで示してみたい。
まず第一に、過去や未来を否定するならば、判断力の低下ということすら言えないはずだ。
判断力が低下したと言うためには、過去の判断力と現在の判断力を比較し、現在の判断力のほうが劣っているのでなればならない。
しかし、比較対象となる過去の判断力は、無視されるべき追憶のなかにしかない。
判断力が低下したと言うためには、追憶のなかの判断力の素晴らしさに浸らなければならない。しかし、これこそが忌むべき逃避なのではないか。
また、そもそも、判断力が低下している状況では、そもそも合理的な判断などできないのだから、判断力が低下していると判断することはできないとも言える。
判断力が低下していると判断するということは、判断力が低下していた過去を、判断力が回復した現在において思い出し、あのときは判断力が低下していたと思うか、判断力がある現在の視点から、判断力が低下する未来を予測するか、のどちらかにならざるを得ない。
言い換えるなら、過去や未来を無視し、現在のみを重視する視点においては、判断は、現在のこの1回しかない。他に比べるものなどないのだから、判断力が低下するということはありえない。
判断力が低下したと言うためには、現在のみを重視しつつも現在から離れ、未来、過去という視点に立たざるを得ない。
このような矛盾が生じる。
第二の矛盾として、現在の判断のみを重視し、過去や未来を無視するということは、究極的には、人生というものの存在すら危うくする、ということがある。
現在とは違う過去があったという記憶は、単なる甘い追憶ではない。現在とは違う過去の記憶の存在は、過去の根源的な前提でもある。それさえ認めないならば、過去という概念自体を否定することになる。過去の記憶を否定してしまったら、過去という捉え方自体を否定したことになってしまう。
未来についても同じようなことが言える。現在とは違う未来が訪れるという期待は、単なる現在の視点からの根拠の無い期待ではない。現在とは違う未来が訪れる、というのは、未来の根源的な意味でもある。未来が現在と全く違わないならば、それは未来ではなく現在だ。そのような最低限の可能性さえ認めないならば、未来という概念自体を否定することになる。つまりは、未来への期待を否定してしまったら、未来という捉え方自体を否定したことになってしまうのだ。
つまり、過去を宝物として大切にし、未来を可能性として期待することを止めたなら、過去、現在、未来へと続く人生という捉え方自体を否定したことになってしまう。逆に、過去、未来という概念の成立を認めるならば、宝物としての過去や、可能性としての未来を認めなければならない。
【もう一つのあたり前な道】
ここには、現在の判断という視点からのみ捉えるという、ここまで述べてきたアプローチとは別に、人生をひとつながりのものとして捉えるという、いわばあたり前のアプローチがある。ここにもう一つの道筋が見えてきた。
このあたり前な道について、もう少し考えてみよう。
この道筋からは、具体的な生き方についても異なる結論が得られそうだ。
先ほどの現在を重視する視点においては、「この現在において、現在を受け止め、無私を選択し、内的成長を果たすことが、生きるということなのだ。」と結論づけた。しかし、過去から未来に続くひとつながりの人生を重視する視点からは、全く違う結論が得られる。
ひとつながりの人生というあたり前な観点に立つなら、過去の追憶し、未来に期待することは、決して現実逃避ではない。人生をひとつながりのものとして捉え、生きるうえで必要な作業だ。過去の愛する人の面影を追い現実逃避し、恩赦妄想のように愛する息子のもとに戻る未来を思うからこそ、人生をひとつながりのものとして理解できる。
更に言うならば、一連の人生全体が価値あるものとするためには、現在だけでなく、過去や未来の価値も高め、有意義なものとするよう働きかけなければならないとさえ言える。現在だけでなく、過去や未来も含めた人生全体として、人生の価値を判断するなら、幸福な過去があったことを追憶により確認し、幸福な未来が訪れる可能性をしっかりと見積もることこそが、人生全体の価値を高めるのだ。
そこから、先ほどの、自分自身の喜び、内的成長、無私のいずれを選択すべきかという問題についても、別の判断を導くことができる。
先ほどの、現在のみを重視し、過去や未来を否定する視点においては、自分自身の喜びというような偶然に左右される非本質的なものは重要ではなく、現在において確実な、本質的な内的成長、無私こそが重要だった。
しかし、過去や未来を肯定する立場に立つならば、どんな状況にあっても、過去という幸せの実例は揺らぐことはなく、また、未来において幸せにになる可能性は否定できない。現在はどんな状況であっても、過去や未来において、自分自身の喜びが確実に確保されている。つまり、自分自身の喜びは、現在においてはともかく、過去から未来に続く人生において確実に存在するものとなる。
よって、この視点によれば、過去、現在、未来と続く一連の人生のなかは、自己の喜びが確実に存在することになり、自己の喜びこそが人生で本質的ということになる。
それならば、現在においても、過去の追憶や未来への期待のなかにある、この確実で本質的な自己のの喜びこそ重視すべきはずだ。
このように、人生を過去・現在・未来へとつながるものとして捉えるもう一つの道においては、先ほどの現在のみを重視する道とは全く違う結論が得られることになる。
【客観化】
これは客観化と言ってもよい。
一連の人生という視点に立った場合に重要となる、過去の追憶、未来への期待と現在の自己の喜びの関係について考えてみよう。
過去の追憶は、現在において過去を追憶するから価値があるのではない。現在とは関係なく、過去において追憶に値する喜ばしい過去があるからこそ価値がある。未来への期待も、現在において未来を期待するから価値があるのではない。現在とは関係なく、未来において期待するに値する喜ばしい未来がある可能性があるからこそ価値がある。
そこには、追憶や期待というような心の動きとは関係なく、客観的な価値があると言ってよい。喜びとという価値判断は、客観化によってはじめて生じる。複数のものを並べ、そこで価値判断を行うからこそ、喜びとして捉えることができる。だから、現在において美しい景色を見ることと、過去において妻と語らうことと、未来において家族と再会することとを、同じ喜びとして捉えることができる。
この客観化が、一連の人生という視点のポイントとなる。
【あたり前の道における内的成長、無私の意味】
それでは、この客観化というあたり前な道筋によるなら、内的成長、無私については、どのように扱うべきだろう。
マロニエの木と語らう若い女性は、収容所で内的成長を果たし、収容所に入る前と、収容所で死のうとする数日のの間では、人生が一変した。描かれていないのではっきりとはわからないが、彼女は、私が内的成長の到達点としている無私の境地にあると言ってよいだろう。なぜなら、そこには過去の追憶も、未来への期待も、マロニエの木と語らう以外の喜びもないからだ。そして、マロニエの木は、全存在、他者の尊重の象徴であるということも、無私につながる。
この、究極的な内的成長の場面において、人生の捉え方には重大な変化が起きているはずだ。
彼女にとって、無私の境地にある収容所での最後の数日の人生は、収容所に入る前の平凡な人生と全く異なる。
マロニエの木と語らう彼女は、もう、収容所に入る前の過去を宝物のように思い出すことはない。人生の最後の数日を送る彼女にとって、内的成長を果たす前の過去の自分は、今の、ただマロニエと語らう自分とは無関係のはずだ。それが、無私ということなのだから。
これは、内的成長により、彼女の人生は大きく二つに分けられているということを意味する。内的成長前の人生と、内的成長後の人生は、一連の人生ではない。
羊羹を二つに切ったなら、そこには二つの羊羹があるだけであり、いずれの羊羹にも羊羹の切れ目はない。
この切れ目が内的成長である。
人生の捉え方を劇的に変化させるようなものとして内的成長を想定するなら、その内的成長は、一連の人生という捉え方をはみ出るはずだ。
それは、成長や変化という言葉ですら表現すべきではないだろう。あえて言うならば、生まれ変わったのだ。
羊羹に包丁を入れるように、劇的な内的成長により切断された人生は、内的成長前の人生、内的成長後の人生として、別に存在することになる。
無私の境地に至るような究極的な内的成長は、人生の質を根本から変え、人生を一連のものとして捉えることを不可能にする。よって、人生と一連のものとして捉える視点に立つならば、一連の人生の内部には、無私に至る究極的な内的成長は存在せず、追求することもできない。
まとめよう。道は二つある。一つは、現在における判断のみを重視し、そこから無私に至る内的成長のみが重要であるとする客観化を拒否する道。
もう一つが、人生を、過去、現在、未来へとつながる一連のものとして捉え、そこから、無私に至る内的成長以外の全て、つまりは、過去の追憶、未来への期待といった自己の喜びを追求すべきとする客観化を受け入れる道だ。
【客観化と内的成長】
このまとめでは内的成長と客観化がキーワードとなる。この二つはどのような関係にあるのだろうか。
これは、先ほどの、羊羹の切れ目の話とつながる。人生を一連のものとして羊羹のように捉えるなら、羊羹の切れ目としてしか内的成長を捉えることはできないという話だ。
一連の人生という客観的な世界把握においては、世界を、まるで皿に乗った羊羹のように、静的に把握する。そこには、羊羹を眺めるように、過去と現在と未来を同質のものとして見渡す視点がある。
しかし、世界はそのようにはなっていない。時が流れるという表現があるように、そこからは、動的な要素、変化や時間と名付けられるような何かが抜け落ちている。
その一点で、この客観的な世界描写は、実際に目の前に広がっているあたり前の世界からかけ離れている。
この動的な何かを捉えようとしているのが、現在のみを重視する、あの道だ。
この道筋から人生を描写するなら、人生は、羊羹の切れ目に例えることができる。現在は一瞬であり幅はない。それは、まるで、二つの別の羊羹が接する切れ目のようだ。そんな現在こそが人生なのだ。そして、この現在という切れ目は、時が流れるように動いている。
私のイメージに近いのは、羊羹を無限に切り刻んているような状況だ。
しかし、このイメージは出来が悪い例えに過ぎない。この切れ目、つまり現在とは、羊羹と羊羹の切れ目の関係などより、もっと違っていて、もっと特別だ。人生の全てを背負っていて、そして、崇高なものなのだ。それは、まるで、マロニエの木と語らう若い女性のようだ。
この動的な何かに、あえて名前をつけるならば、「内的成長」という名がふさわしい。
客観化を拒否したところに見いだされるのが、この動的な何か、「内的成長」としか言えない何かなのである。
【末期がん問題】
遠回りしてしまった。
私は癌で入院し、苦しい死というものを身近に感じた。そして、判断力が低下し、主体的な選択をできなくなった状況において、死を選んでもよいのかという問題について考えている。
どうなのだろうか。
ここで見出した二つの道のうち、客観的に世界を見出す道筋からは、過去の追憶、未来への期待を支えに生きよ。ただし、過去、現在、未来のの自己の喜びと苦しみを通算し、苦しみが喜びを上回るならば、死を選んでもよい、という答えが導かれそうだ。
そして、もう一つの、客観化を拒否し、現在のみを重視し、内的成長を目指す道からは、主体的な選択ができなくなったら死んでもよい。ただし、主体的な選択ができなくなる、などと客観的に描写することができるような状況は訪れない、という答えが導かれそうだ。
多分、客観化の道も、内的成長を目指す道も、どちらも、突き詰めれば、そんなに甘いことは言ってくれないということなのだろう。
客観的な世界も突き詰めればあたり前の世界ではなく、客観を拒否し、内的成長のみを目指す道も、あたり前の世界とかけ離れたものではない。
この二つに分かれた道筋の間に、あたり前の世界は広がっている。
だから、ある一面では、世界はこうなっていて、ある一面では、世界はこうなっていない。ここまでそんな話をしてきたことになる。
つまり、あたり前の世界には判断基準はない。
なぜなら、過去の追憶も、未来への期待も、現在の喜びも、現在の苦しみも、内的成長つまり変化も、他者も、全て、なぜか考慮すべきで、なぜか考慮すべきではないからだ。
だから、人は苦悩して判断しなければならない。
これが、無期限の暫定的存在(p.118)ということの本当の意味なのではないだろうか。