僕は、哲学対話や哲学カフェという、いわば哲学を広げる活動をしてますが、実は、僕には哲学について門戸を広げたいという思いと、もうひとつ、
広げるほうはよくある話だから、狭めるほうの話をしますね。
まずはじめに、門戸を狭めたいと言っても、
これは、ある種の人に哲学の門をくぐってもらうためには、
哲学対話をしている方のなかには「誰でも哲学ができる。」とか「誰にでも哲学が必要だ。」
哲学なんて必要ない人もいるし、
哲学を必要とし、哲学ができる人というのは、
それなら、哲学は「哲学を必要とし、哲学ができる人」
正直、僕もそう思ってしまう面もあります。
そこまで、みんなに哲学を押し付ける必要があるのかな、それって勝手な哲学の押し売りじゃないかな、ちょっと哲学を知っていることをいいことに、優位に立とうとしているだけないかな、って。
だけどそこで終わったら、哲学の門をオーダーメイドすべき、
僕には、この哲学の門は、「哲学を必要とし、哲学ができる人」より狭いように思えるのです。
つまり、世の哲学ができるとされている人だって、
更に言えば、有名な哲学者たちだって、
はっきり言います。「僕以外に本当の哲学者はいない。」
そう、哲学の門をくぐるべき、ある種の人とは、僕のことです。
僕が通った哲学の門は、僕だけがくぐれるよう、ちょうど、
いや、この僕自身だって、日頃、
ほんの奇跡のような瞬間が訪れた時だけ、僕の思考が深まり、
哲学って、こんなふうに、
この孤独と自負の根源には、ある種の違和感があるように思います。
哲学とは、
僕は、中高生の頃、この世界の当り前に違和感を感じ、
そして、
その後、哲学だけでなく、いろいろな本を読んだり、
僕にも大好きな哲学者がいるし、
この違和感が僕にとっての僕の哲学の営みを駆動する動力源になって
この違和感を持つ人だけができる特別な営みだからこそ、真の
なんでこんなことを書いているかと言えば、それは、この思いが、
きっと、その人は、この文章を読んで「
もしかしたら、「いいこと言ってるし、
それでも、何かがその人に届き、
確かにそれは、僕の哲学とは違う、あなたの哲学のかたちをしているかもしれない。
だから、僕は、あなたの哲学を哲学として認めないかもしれない。それでも僕は、
確かに既存の哲学の世界には、
先人たちが歩いた、哲学という、
この僕の思いは、要は「あなたのその違和感は、
つまり、みんな違和感を抱えている仲間なんだ、それぞれにとってのそれぞれの哲学を必要とする仲間なんだ、ということです。
だからこそ、その先に「誰でも哲学ができる。」とか「
この意味でこそ「誰でも哲学ができる。」「
こうして、哲学の門を狭めるという話は、
めでたしめでたし。
いや、待てよ。
誰にもわからない孤独なものだからこそ違和感であるはずなのに、
「その違和感、よくわかるよ。」
これこそ、僕が一番避けたかった言葉だったはずです。
それでも、その言葉をかけずにはいられない。これは矛盾ではないか。
これまでの議論を整理すると、「1 いわゆる皆が共有できる哲学」「2 それぞれの人にとっての哲学」「3 僕にとっての哲学」という3種類の哲学があったことになります。
このうち、「1 いわゆる皆が共有できる哲学」と「3 僕にとっての哲学」はある意味純粋ではっきりしていますが、その中間の「2 それぞれの人にとっての哲学」というのは矛盾しているのではないか。そんな気がします。
だけど、とりあえずはそれでいいのではないでしょうか。
僕には、そんな矛盾したものが哲学のかなり根源的なところにはあるような気がするのです。
この矛盾は誤りの兆候として即座に消し去るべき悪しきものではな
だからこそ、こうして、矛盾を抱えたこんな文章を書いた訳です。
ということで、色々と行き来しましたが、これは、哲学的な違和感を抱えた人が、