僕は時々、過去のちょっとした失言などを思い出して、ヴァー!!って叫びたくなることがある。
会社からの帰り道など、ふとしたときに、唐突に数年前の失敗を思い出す。
言わなくてもいいことを言ってしまったことや、適切ではない言い方で言ってしまったことや、ちょっとした嘘をついてしまったことなどを思い出す。
全く関係ないタイミングで、唐突に。
そんなとき、僕は衝動的に、とにかく深く、強く息を吐き出したくなる。
流石にヴァー!!とは言わないが、周りに人がいなければ、ちょっと大きめにため息をついたり、周りに人がいれば、咳払いをしたりしてごまかす。
(わかってくれる人も多いのではないかと期待して書いてます。)
こんなとき、僕は、僕の存在を全否定して、消えてなくなりたくなる。
これは論理的に考えた結果としてではなく、衝動的に、そんな気分になる。
だから「そんな昔のちょっとした失敗なんて、もう誰も気にしてないよ。」という慰めは言われなくてもよくわかっている。
もし誰かに気づかれて、声をかけられたら、数十秒、長くても2、3分くらい、この気持ちに付き合ったら回復するから大丈夫だよ、と返事をするだろう。
今まで気づかれたことはないけど。
多分、このようなことが起きるのは、僕が、その過去をきちんと処理しきれていないからなんだろう。
何かを失敗したとき、仕方ないよ、忘れるしかないよ、と自分の胸の深くにしまっておく、という解決策をとる。
当然、きちんと謝ったり、挽回しようと努力したり、といったこともする。
だが、たとえ失敗を謝罪して許されたとしても、なんであんなことを言っちゃったんだろう、という自己嫌悪みたいなものは残る。
その気持ちは、もうどうしようもないから、自分の中に収めておくしかない。
そんな失敗たちが、僕の心の奥底にマグマのように溜まっていて、時々、噴き出すのだろう。
それは、失敗というものが生じる限り、仕方のないことなのではないか。そう思って過ごしてきた。
さて、なんで、こんな文章を書いているのかと言うと、僕は、うまい対処方法を思いついたからだ。
それも、マグマの噴出を抑える、というような対症療法ではなく、根治療法だ。
「そもそも、失敗なんていうものはない。」というアイディアだ。
失敗の反対には、成功がある。失敗とは、ある行動を、失敗と成功に二分した場合の、悪い方のことだ。
だが、そもそも成功と失敗を二分する考え方がおかしいのではないか。
僕は今、コリングウッドという哲学者の本を何冊か読んでいる。
僕の理解では、彼は、物事とは抽象的に区分されるのではなく連続していると考えている。
美術は宗教につながり、宗教は科学につながり、科学は歴史につながり、歴史は哲学につながる、というように。
真偽の区分についても同様で、世の中には色々な哲学があるが、完全に間違えている哲学というものはなく、どこか、真なるものを含んでいる、としている。
そして、それらは、弁証法的に動的に連続していると考えている。
美術から段階を経て哲学に至り、間違いの多い荒っぽい哲学から間違いの少ない精緻な哲学に至る、というように。
このアイディアの哲学的意義は改めて考えたいが、その前に実生活でかなり使えるのではないか、と思いついた。
先ほどの話に戻ると、コリングウッド的に言えば、僕の過去の行動は完全に間違えてもいないし、完全に正しくもない。
僕のどうでもいい嘘は、本当はそうすべきだった正しい発言と、弁証法的に連続してつながっている。
僕の嘘は確かに駄目だ。だけど、そのなかには少しは正しさが含まれている。そこに正しさがあるからこそ、僕はそうしたのだ。
自分を守りたいというような、程度の低い正当性であっても、そこには正しさがあるから、僕は嘘をついた。
そのことは尊重して、大切にしてあげてもいい。
僕は嘘をついた僕自身にこんなふうに語りかけてもいいのではないか。
「その行為はちょっとは正しかったよ。だけど正しさが足りなかったから、次はもっと正しくなろうね。」
嘘をついた過去の僕は、未来の正直な僕に弁証法的につながっている。
そう思うことで、過去の行為をそのままに受け止め、過去の自分を肯定してあげることができる。
「わかるよ、仕方なかったんだよね。」と過去の自分の頭をなでてあげることができる。
僕が会社帰りに、踏切を待ちながら、過去についた嘘を思い出して叫びたくなるのは、嘘をついたからではなくて、嘘をつかざるを得なかった自分のことを否定し、心の奥にしまったままにしているからかもしれない。
僕はもう少し過去を解き放ち、未来に活かしてあげたいと思う。それが、弁証法的な生き方ということなのだろう。