ネタバレにならない範囲での感想はこっち( https://www.135.jp/2019/07/06/jugyo-2/ )に書いたので、ここではネタバレ&批判も含めた感想を。
一見、この本は、こどもの哲学を中心としたオーソドックスな哲学対話の紹介のように見える。実際それが目指されていて、門外漢の僕が見ても、現時点ではこどもの哲学を知りたいならまず読むべき基本書となっているように思う。コンパクトで読みやすいし。
だが、僕にとってのこの本の魅力は、そこかしこに土屋さんの独自の思いが表現されているというところにある。
いくつか挙げてみよう。
「哲学対話では、議論に「勝つ」ことよりも「負ける」ことのほうが重要だ。」(p.48)
これは、通常であれば、哲学対話は勝ち負けではない、と言われるところだろう。
それを、あえて、勝負として、そして、負けることだというところに凄さがある。
「哲学対話とは負けることと見つけたり」なんて武士みたいだ。
僕も、哲学対話が言葉を用いた論理的なやりとりである限り、どうしても論理的な勝ち負けという側面は顕在化してしまうと思う。それが人格的な勝ち負けにはつながらない、というフォローは必要だし、慣れるまでは勝ち負けを目立たせないような配慮も必要だ。だからといって、勝ち負けの側面を隠蔽することで論理を軽んじたと感じ、傷つくタイプの人もいるということも知っておいてほしいと思う。哲学対話の楽しみを知れば、大抵の人は、負けたっていいし、負けたいくらいなんだって自然と思うのではないだろうか。
「「無知の下の平等」とでも言うべき独特な関係」(p.79)
これも、あまり言われない言葉だと思う。通常、哲学対話は、論理力を身につけたり、何かポジティブな効果があるものとして語られる。だけど、ソクラテスではないけれど、哲学は人を無知の地平に引き下げる。それは、自分に対しても、相手に対してもだ。それを相手からの攻撃と受け止める人もいるだろう。だけど、その先にしか、哲学対話の魅力である本当の平等はない。そんな覚悟にもつながる言葉だと思う。
「「難解さ」ごときには怯まずに、過去の哲学者の著作を何度も繰り返し読んで吟味するべきです(こうしたことを面倒くさがる人は、本当の意味で「知を愛し求めている」とは言えないでしょう)。」(p.122)
これは、この本を読んでいて一番びっくりした言葉だ。こんなこと言っちゃっていいのかな、と。これは、前後の文脈を含めて僕なりに理解すると、こういうことだ。
「哲学対話と「哲学する」はかなり近いけれど、「哲学する」には難解な本を読むことが含まれ、哲学対話には含まれない点で異なる。だから、難解な本を読むことを避ける哲学対話は、本当の「知を愛し求めている」哲学ではない。」
そのとおりなんだけど、そう言っちゃって大丈夫なのかな、と。
一応フォローのために言っておくと、多分、もうひとつの読み方があるだろう。
「哲学対話は、難解な本を読むことも含む「哲学する」と地続きだ。だから哲学対話を通じて「知を愛し求める」ことを知ったなら、いつかは難解な本にもチャレンジしてほしい。(忙しいとか慣れてないとか色々事情もあるだろうけど)そのような思いを持ち続けることが「哲学する」ということだ。」
というように。
このように、哲学対話のなかに、いわゆる哲学というものが持つ厳しさをさらりと紛れ込ませているのが、この本のひとつの特徴だろう。
また、僕があくまで哲学的な側面から重要だと思った箇所が2つある。
まずは、知的徳(p.146)という概念だ。詳しくないけど、多分、哲学の第一線にある概念なのだろうと思う。それが実験的に確かめられたというのだから凄い。(博士論文ってどこで読めるのかな。)僕も哲学と哲学対話はもっとつなげて論じることができると思っているけど、こんなふうに繋げられるなんて思いもしなかった。
また、僕的にはこの本のクライマックスだと思っている「4.1」章から「4.2」章の流れの最後で、概念の洗練(p.136)と無知の気付き(p.138)という二つの概念を挙げたうえで、「(哲学者は)この2つの運動を、生涯をかけて延々と繰り返し続けるのです。」(p.141)としている点は哲学的に最重要だろう。
概念の洗練も無知の気付きも、確かに哲学の重要な要素だと思うけれど、「哲学とは、その二つを繰り返すことである。」というのはかなり強い主張だと思う。
疑り深い僕としては、本当にそうかな、と疑心暗鬼だけど、確かにぱっと考えて、それ以上のものが思いつかない。概念の洗練だけでも、無知の気付きだけでも足りないし、逆に第三の概念を加えることもできない。
これは、もう少し考える必要がある重要な提案だと思う。
以上、主に土屋さんの哲学観がにじむ部分を中心に見てきたが、永井均ファンとしては、土屋さんの師匠?として永井均が登場(p.123)してうれしかったし、全体として、かなり、僕と哲学観が近いと感じました。
だから、哲学対話というものに対する観方も近いと感じる。
まとめとして書かれている進行役のコツ(p.209)なんて、まさにそのとおりだと思う。
あえて付け加えるならば、土屋さんの表現で言うなら「進行役自身が~一生懸命考え」「進行役自身も考えることを楽しみ」ということが何より大切で、それ以外の「心得」のようなものは、そこから必然的に導かれる、ということだ。
進行役をしてみて実感するけど、進行役には心得を思い出す余裕はない。事前に心得のリストに目を通すことは大事だけど、僕ならば、本番では、そんな心得は脇に置いて、ただ、自分自身が一生懸命楽しむことに集中するくらいしかできない。そして、それで大抵は十分と感じる。(子ども向けではなく、大人向けの哲学カフェだからかもしれないけど。)
なお、批判も書いておくと、僕が最も同意できなかったのは、ただの会話と哲学対話の違いについての部分だ。(p.124以降)
僕は、ただの会話と哲学対話はきれいに二分できるものではなく、ゆるやかにつながっていると考えている。哲学対話のなかにもただの会話としての要素は含まれているし、ただの会話のなかにも哲学対話としての要素は含まれている。
そうでなければ、居酒屋でのただの会話のなかで「幸せってなんだろうね?」という言葉は出てこないだろう。ふと出た言葉でも、そこには、きっと、この問いの答えを知りたい、という目的地がかすかにでも含まれているはずだ。
また、ただの会話は散歩のようだとするが、哲学対話も散歩のようだという実感がある。頂上を目指すという目的を持って登山をしていても、道端の花を眺めるために回り道をしたりする。そのような登山のような散歩のような、どちらとも言えない雰囲気が哲学カフェの醍醐味だと思う。
また、書き方にもひとつ不満がある。
この本では、哲学対話でのやりとりを、そのまま会話調で表現している部分が何箇所かあるのだが、これは必要だろうか。
僕は、自分で哲学カフェを開き、その結果を簡単にまとめてもいるが、そこでの発言をそのまま書いて、うまくいった試しがない。
どう発言を記録しても、哲学対話の一番の魅力を取り逃がしてしまうと考えている。確かに、哲学対話を全く知らない人に、本を通じてイメージを持ってもらうためには、発言をそのまま載せる必要があるのかもしれないが、これを読んだ人が、哲学対話の一番の魅力を知らないまま、哲学対話を評価してしまうことを僕は危惧する。
だから、会話の部分は斜め読みをして雰囲気だけつかんで、あとは実際に哲学カフェに来てほしいと思う。
最後に、土屋さんは意図していないだろうし、大抵の人には関係ないだろうことなので読み飛ばしてもらっていいけど、僕にとっては大きな意義があったことを自分のために書き残しておく。
僕は、学校教育というものに否定的な思いを持っていて、こどもの哲学についてもどこか信頼していなかった。
従来型の学校で教育を受け、学校に恨みがある僕としては、「そんなにうまく哲学対話が子どもの頃の僕を救ってくれるのかなあ。」なんて疑いの眼差しでこどもの哲学を見ていた。
「学校の先生や学校の同級生も含め、誰も僕のことをわかってくれない。話しても話が通じる訳がない。」これがこどもの哲学に対する僕の根本にある懐疑だ。
だが、この本が紹介しているブラジルのこどもの哲学の事例は、そのような日本的な文脈とは全く別な景色を開いてくれた。
ブラジルでの哲学対話は、何かを学ぶためではなく、何かを忘れないためにある。
「貧しくて公正さを欠いた世界に住んでいると、「みじめさ」の感情は次第にあまり強く感じられなくなる」(p.71)そうだ。その不公正さ、みじめさを忘れないためにブラジルでのこどもの哲学は行われているということだ。
不公正さやみじめさが現にそこにあることを言葉で確認し、その思いを大切に慈しむということが、哲学対話の効用の一つの側面であることは確かだろう。
それは、不公正さやみじめさに苦しむブラジルの貧困層の子どもだけでなく、一般的な日本人としての子供時代を送ってきた僕自身についても言えるのではないか。
この世界は疑問だらけだ。それは「この世界はどうして不公正なのか。」というような社会的な疑問や倫理的な疑問ばかりではない。僕が子供の頃抱いた「宇宙の果てはどうなっているのか。」「1個の無限と2個の無限はどちらが大きいのか。」「物が確かに存在しているとどうしたら確かめられるのか。」というような科学的な疑問や哲学的な疑問だってある。
このような疑問につきあうのは面倒くさいから、世間の人たちは疑問をなかったことにする。僕はそのように扱われて傷ついてきた。
本を読んでも、それっぽい答えは書いてあるけど、どうも納得できず、どこか誤魔化されたような気がした。大人の世界全体が、僕の疑問をわざと無視して、隠しているように感じていた。
おとなになってから、それは、僕の周囲の大人の教育の低さや、僕自身の読解力の不足のせいであって、また、一番大きな問題は、哲学的に突き詰めれば、誰も答えを知らない、というところにあると知った。
だけど、子どもの頃の僕は、誰にも伝わらなかったから、そのような大難題を一人で沈黙したまま抱えてきた。そして、言葉にしなかったから、そのうち忘れてしまった。
このようなことは、僕だけでなく、多くの人が思い当たる体験なのではないだろうか。もし思い当たらないとしたら、それほどに深く傷つき忘れてしまったのかもしれない、とも思う。
だから、この本をきっかけに、「通じなくても、言葉にして誰かにそのまま認めてもらうだけでもよかったのかもしれない。」と気づくことができたのは収穫だ。
ブラジルの子どもが差別感を忘れずに生きることができるように、子どもの頃の僕も誰も答えてくれない疑問をそのままに抱えたまま生きていくことができる。
そんなこどもの哲学なら悪くないかもしれない。もっと早く出会いたかったなあ、と思う。まあ、こうして出会ったからいいのかもしれないけど。
ということで、とても楽しく拝読しました。
僕がやっている「哲学対話・哲学カフェガイド」のサイトも使っていただき、うれしかったです。人生初献本もいただいたし。
この本をきっかけに、少しでも良質なかたちで、学校に哲学対話が広がっていくことを願っています。
どうでもいいけど、僕が時々やっているあれは、プレーンバニラ(p.201)って言うのか。なんかかっこいいから、この言葉、今度使ってみよう。