この文章は、土屋陽介氏の論文「子どもの哲学と理性的思考者の教育 ―知的徳の教育の観点から―」のうち、第3章と第4章を中心に読んだ後に書いたものですが、感想というほどの関連はなく、インスピレーションを受けて書いた、と言ったほうがいいものです。

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1 僕にとっての論文の意義:認識論の徳論的転回

この論文では、徳認識論というアイディアについて、「知的徳」という観点からわかりやすくまとめられている。
そして、わかりやすいだけでなく、僕の問題意識に対しても刺激となるものだった。
僕が自身に引きつけて考えることができた手がかりは「認識論の徳論的転回」という言葉にあ

「ザグゼブスキの、目的は、「徳倫理学をモデルにした「認識者」を基本概念とする新しい認識理論の構築」という壮大なものであった。いわば「認識論の徳論的転回」とでも名づけられるようなこのような問題意識」(p.65)という箇所だ。

そうか、認識論については、個々の「認識や行為」といった場面が問題となっていたけれど、徳論においては、その行為などが帰属する「人」が問題となるということか。ここに視点の逆転があるのか、と腑に落ちた。

ざっくりと言えば、こういうことになるだろう。

「個々の場面における真や善について認識論的に分析することでは、個別に現れる真や善のそもそものありかを把握することはできない。その真と善のありかを指し示そうとするならば、(外在主義的に)それに携わる「人」の能力や性質、つまり徳とでもいうべきものと想定しなければならない。」

正直言って、ギリシャ哲学などで徳と言われても、どこかピンとこなかったが、こう言われると、徳も大事かもしれないと思えた。その意味でこの論文は意義深いと感じた。

2 論文の半歩外へ:徳と認識の相補関係

この論文を刺激として僕なりに思いついたことをふまえ、僕はここで、この論文においてなされた議論を半歩先に進めたい。なぜ半歩かと言えば、この論文の中で、そのことは暗示されていると思うからだ。
僕が思いついたこととはこういうことだ。

徳とは、あくまで認識と相補関係にあるものなのではないか。

徳とは、いわば、潜在する真・善である。つまり、徳を構成する能力や性質といったものは、常に潜在していて、必要とされる場面を待っている。そして必要となれば、真なる認識や善なる行為として発現する。
一方で、認識論的に把握し、個別に分析可能な真や善とは、顕在する真・善である。具体的な認識や行為として顕在化しているからこそ、具体的な分析の対象とすることができる。
このように考えれば、潜在する真・善と、顕在する真・善が相補的であるということは明らかだろう。
別の言葉で言い換えるならば、顕在した個別の認識・行為がどうして真・善とされるのかと言えば、それは、潜在している真・善としての徳に基礎づけられているからである。
また、潜在する徳がどうして真・善とされるのかと言えば、それは、潜在の発現としての個別の認識・行為が分析され、真・善なるものとして明らかにされるからである。
(よって、一般的な真理貢献性のようなものを措定するのは誤りであり、あくまで現に個々の場面で真理に貢献したことが明らかになるだけであると考える。)

では、この循環により、認識論と徳論はともに無意味なものとなってしまうのだろうか。
僕はそうはならないと考える。この相補関係が明らかになることにより、真・善についての理解が深まったのだから。それは、弁証法的な前進だと言ってもよいだろう。
真・善は、認識論と徳論を循環するようなあり方をしているのである。

3 論文の一歩外へ:徳・認識と対話の相補関係

3-1 問題意識

ここで僕は、調子に乗って、この議論を更に半歩進めたい。これは、この論文が行った議論を完全に一歩外れ、僕独自の議論を行うということである。
つまり、これは、この論文を乗っ取って、僕がこれまで行ってきた僕の哲学の続きを語るために使わせてもらうということでもある。
だから、ここからは、この論文からの単なる脱線だ。
だが僕の哲学とは、哲学と対話の関係性を重視するものだ。そして、この論文が「知的徳」と哲学対話をめぐるものであることを踏まえると、無意味な脱線とはならないと信じたい。

この論文において、徳をめぐる議論を通じて明らかにされた「知的徳」は、子どもに対して、哲学対話を用いた教育により身につけさせることができると論じられている。
それは、哲学的な観点から明確化された「知的徳」を身につけるためには哲学対話が有効だということを教育学的、心理学的な観点から検証するという議論の流れである。
そこでは、アリストテレス等の見解も用いて、哲学的な観点も触れられているが、それはあくまで補強としての議論である。よって、この論文によって、哲学的に「知的徳」と哲学対話の関係性が確認された、とまで位置づけることはできないだろう。

確かに述べられる限りのことについては誤りではない。特に具体的な実験により心理学的に明らかにされたことは興味深い。だが、哲学好きな僕の視点からは物足りないと感じる。僕は、哲学対話が役立つということについて、教育学的、心理学的な観点からだけではなく、哲学的な観点からの必然性のようなものを見出したくなる。

3-2 僕のアイディア

3-2-1 概要

この問題に対する僕のアイディアを述べることにする。

この議論には、裏方向から語られるべきもうひとつの議論があり、二つの相補的な議論として弁証法的に進められるべきものなのではないか。
いわば、この論文は、「知的徳」という目的と哲学対話という手段としての両者の関係性という方向で考えていると言える。だがそれだけではなく、まず、哲学対話があり、その実践により必然的に身につけることができるものが「知的徳」である、という方向性で考えるというもう一つの道があるのではないか。
この論文が挙げる「知的徳」の要素、つまり「人格の卓越性」「知識を求める動機」「信頼できる成功」といったものは、特に教育的な配慮などしなくても、ただ哲学対話を行うことにより、それだけで自ずと身につけることができるものなのではないか。

このアイディアの背景を説明するためには、まず、僕が対話というものをどのように考えているか説明する必要があるだろう。

僕は、いわゆる哲学対話に留まらず、一人での自問自答としての思考も含めた全ての知的行為は広義の「対話」であると考えている。
それはどういうことか、若干不正確になるが簡単にニュアンスだけ説明しよう。

「全ての思考は言語で行われるとするならば、他者と言葉を交わして行う狭義の対話と、一人で行う思考とでは何ら変わるところはない。そして、全ての思考や対話は、哲学書のように文章で言語的に書き残すことがきるのだから、全ての知的行為は広義の「対話」である。」

というような言語活動的な側面で捉えようとする道筋だ。
(この話は、もっと説明が必要だと思うが、そうするとこの論文と関係ない方向に脱線が申告になりそうなので、話を先に進めることにする。)

そして、この広義の対話の内容には、真や善といった価値判断は及ばないと僕は考えている。どのような対話をしても、そこには真や善だけでなく偽や悪もない。だから、「世界一高い山は富士山だ。」と言っても、(この論文で挙げられているように)「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」と言っても、それは間違えていないし、悪いことでもない。ましてや正しくもないし、良いことでもない。

このような言明が何か価値判断に関係すると感じるのは、それは対話の外に出ているからだ。「世界一高い山は富士山だ。」が誤りだと感じるのは、それは、言語活動としての対話の内容とは無関係に、現実の富士山のことを勝手に考え、それとの対応関係を勝手に設定するというようなことを勝手にやっているからに違いない。僕は対話について「世界一高い山は富士山だ。」という言葉から離れることなく捉えたい。僕は普段、一緒くたにしてしまっているものを、解像度を上げて捉え直し、対話とそれ以外のものの間に楔を打ち込みたい。

では、対話の対話たる部分を純粋抽出して捉えるという方向性に同意いただいたとして、何が対話における真や善なのかと問われれば、それは「対話を続けること」であると答えたい。一方で、対話における偽や悪とは何か、の答えは「対話を終えること」となる。

3-2-2 対話を続けること

このような考えは非常識であり受け入れがたいかもしれない。しかし、具体的な状況を思い浮かべるならば、それほど違和感はないだろう。
「世界一高い山は富士山だ。」と僕が言ったとする。
それに対してあなたが「富士山は日本一高い山だよ。」と答える。
僕は「え、世界って日本のことじゃないの?」と驚く。
あなたは「日本の外にも別の国があって世界は広がっているんだよ。」と教える。
僕は「日本の外の国も世界に含めるならば、世界にはもっと高い山があるんだね。」と納得する。
話を長引かせないために少々強引な例になってしまったが、なんとなくニュアンスは伝わったのではないだろうか。

僕の「世界一高い山は富士山だ。」という発言は、それ単体で捉えるならば誤りのように見える。しかし、僕はあなたの意見を聞く態度を持っており、あなたの意見を受け入れ、発言を訂正する余地を有している。だから、対話が続けられ、意見は訂正されることとなる。
「世界一高い山は富士山だ。」という発言は、そこだけ切り取って評価されるべきものではなく、あくまでひとつながりの対話のなかで捉えられるべきものなのだ。「世界一高い山は富士山だ。」が誤りであるという常識的な感覚は、それは、そこで対話が終わったとしたら、という仮定付きの特殊条件下での評価なのだ。
以上のような意味で、個々の発言は真でも偽でもなく、対話を続けるという態度だけが真への道である。このように考えれば、多少は僕のアイディアも受け入れやすくなるのではないか。

なお、善や悪についても同じだが、同じ説明をより冗長に繰り返すことになるだけなので、説明は省略する。

3-2-3 対話を終えること

ここまでの僕のアイディアを受け入れ、対話を続けることの重要性は認めるとしても、対話を終えることが一概に偽や悪につながるものではないと感じるかもしれない。

「世界一高い山は富士山だ。」から始める対話は「世界一高い山はエベレストだ。」で終わることに何の問題もないのではないか。
(ここからは、僕の懐疑論的傾向が全開になってくるので全員から同意は得られないかもしれないが、僕にとって自然と感じられる議論を進めていく。)

疑り深い僕は問いたい。
「世界一高い山はエベレストだ。」というのは本当だろうか。
世界にはまだ発見されていない山があるかもしれないし、エベレストの高さを測ったときの測量が間違っていたかもしれない。チョモランマやサガルマータでなければ間違いかもしれない。世界という語を地球上に限定せず、火星の山なども含めるという解釈もあるかもしれない。または、僕は全能の悪霊に騙されているかもしれず、僕は世界を正しく認識できていないかもしれない。
このように疑問を投げかける余地はいくらでもある。それでも通常の状況で発せられるだろう疑問の数は有限かもしれないが、最後に例として挙げたデカルト的な懐疑も含め、思考実験のような方向性も認めるならば、疑問は尽きないと言ってもよいだろう。

以上を認めるならば、対話を終えることは、このような重箱の隅をつつくような疑問であっても、その疑問が生じる余地を無視するということである。
つまりこれは考慮すべきことを考慮していないということであり、対話を終えることは誤りにつながる。
「世界一高い山はエベレストだ。」で対話を終えてしまうということは、未発見の山の可能性や、測量技術や、山の呼称や、世界の定義や、デカルトの方法的懐疑といった新たな知に触れる機会が永遠に失われるということであり、それはより大きな知への絶対的な不到達を意味する。これは、絶対的な偽である。

ここまでの主張を強すぎると感じるかもしれない。しかし、ここでの対話とは、僕の定義では広義の対話であり、自問自答も含めた知的行為全般であることを思い出してほしい。
そして、この知的行為としての対話は、切れ目なく人の人生の全てを覆うものであるはずだ。人生とはひとつながりの対話であると言ってもよい。後出しジャンケンのようで申し訳ないけれど、僕はそう考えている。
なぜなら、知的行為としての対話に切れ目があるということは、それは知識が完全に分断されているということを意味するからだ。一見すると、人生の場面ごとに、二人以上で行う狭義の対話や一人で行う思考は終わったように見えるかもしれない。しかし、僕は、後日、同じ言葉を使って思考を続けることができる。「ネコはモフモフしていてかわいい。」ということを考えた数日後、「だけどネコは毛が抜けて掃除が大変だ。」ということを考えることができる。このように狭義の対話や思考が続けられるなら、それは、広義の知的行為としての対話は継続されているということなのだ。
そうでなければ、「ネコ」はいつでも「ネコ」を意味するというように、ひとつの言語が一連の思考の基盤にあるということの説明がつかない。

このようにして、言語というもののそもそものあり方を踏まえるならば、対話においては、対話を続けることが真・善であり、対話を終えることが偽・悪である、という価値判断が成立するはずなのだ。
(このあたりは異論も多そうだが、反論は別の機会として、話を先に進めることとする。)

3-3 対話と「知的徳」の関係

さて、長々と僕の哲学的アイディアを説明してきたのは、対話と「知的徳」の哲学的な関係を明らかにするためであった。

この論文によれば、「知的徳」の要素は「人格の卓越性」「知識を求める動機」「信頼できる成功」であるとされる。

まず、このうち「知識を求める動機」については、僕のここまでの対話の話に対応させるなら、「対話を続ける動機」と対応することは明らかだろう。たとえ、世界一高い山をエベレストと思い込むような拙い考えを出発点としていても、相手の発言に耳を傾け、相手のアイディアを自らの内に取り込もうとする姿勢があれば、いつかは知識に近づくことができる。そのような姿勢こそが、「知的徳」としての本当の「動機」なのではないだろうか。

また、「人格の卓越性」については、対話の成果に結びつけて考えることができるだろう。
僕は対話を終えるということに特別な意味を持たせているので注意が必要だが、対話のある時点での成果を中間的な成果物として切り出し、評価することは可能だと思う。
そうしたとき、対話する前と対話した後では、僕の人格は変化しているだろう。
それは、対話の内容というより、対話を現に行ったということによるように思う。僕の思考の内容がどうこうというより、現にある一定の時間、対話に従事したという実績こそが僕の人格に反映されているのは確かだと思うのだ。
そのような意味で、この論文でモンマルケの性格特性として挙げられているような人格の要素「公明正大さ」「知的な冷静さ」「知的な勇気」(p.60)といったものは、まさに、具体的な対話の場において、現にとった態度であるはずだろう。
なぜなら、そのような態度がなければ、対話は成立しないからだ。他者の意見を「公明正大」に耳を傾け、「冷静」になって対話を打ち切らず、「勇気」を持って自分の意見を主張する、ということは対話が対話であるために必要な条件に違いない。
そして、そのような態度を現にとり、対話を行ったということは、僕は「人格の卓越性」をいかんなく発揮したということなのだ。

「信頼できる成功」についても、現に対話を行ったということにつながるだろう。
対話を行うということは、対話を始める前に持っていた視点とは別の視点に出会うということでもある。新たな視点に出会うことで、最終的な真理(そのようなものがあるとすれば)にたどり着けたかどうかは別として、真理に向けた方向に一歩進んだ(または誤りから一歩離れることができた)ことは確かであるに違いない。
そして、実際の対話を通じて、一歩前進するという成功を成し遂げたということは、成果と呼べるだろう。そして、そのような成果を何度も積み重ねることができたなら、その奥に、「知的徳」とでも呼びたくなるような潜在的な性質を見出したと感じることになるだろう。

以上のような意味で、対話と「知的徳」は深い関係にある。
まとめると、対話において唯一必要なのは、僕の言葉で表すならば「対話を続けること」であり、それは徳論的には「知識を求める動機」と言い換えることができる。
そして、あくまで、その結果として「人格の卓越性」や「信頼できる成功」といったものがついてくるのだ。

以上、対話から「知的徳」に至る道筋を明らかにした。これは、対話というものを存在論的に認め、前提としたうえで、そこから「知的徳」に至る道筋だったと言ってもよい。
より正確には、その道筋の目的地は、先ほど徳論と認識論の相補関係としたものであったと言うべきだろう。更には、徳論と認識論の相補関係とは、つまりは個々の認識と、認識を成立させる人格の関係であるのだから、それは、つまり、対話という存在論から認識論に道筋であったと言うべきだろう。これが、僕がここまで描いてきた道筋だ。

よって一方では、認識論から存在論に進む道も認めなければならないが、それは、まさに、この論文が行っていることである。具体的な対話の状況を認識し、観察したうえで、それを証拠に対話というものの存在のあり方を描き出そうとする取り組みとして、この論文は極めて真っ当なことをしていると評価したい。(認識論から存在論に進む道とは、つまりは科学的道筋のことだから、僕個人の哲学的興味とは異なるけれど。)
そして、ここでも、二つの道筋があるということは相補的であり、弁証法的な前進なのだ。

中間的にまとめておこう。
まず最初に、この論文をふまえ、個々の認識や行為として捉える「いわゆる認識論」的な道筋と、「知的徳」というかたちで人格的に捉える「徳論」的な道筋は、相補的関係にあり、弁証論的に両者をとりこんだ「広義の認識論」とでも言うべきものを生み出した。これが、この論文の半歩先として読み込んだものである。
そして、それとは別に、ここまで長々と僕独自のアイディアとして紹介した対話の道筋がある。ここでは述べられなかったことも多いのでどこまで賛同いただけるかはわからないが、もし認めてもらえるならば、それ対話を存在論的に捉えるものということで「存在論」的道筋と呼ぶこととする。
この「存在論」は、さきほどの「いわゆる認識論」と「徳論」の弁証法的成果である「広義の認識論」に対して相補関係に位置づけられる。そして、更にこの両者は互いに巻き込まれつつ、弁証法的に更に一歩先に進んでいく。
この二段階の弁証法的前進こそが、この文章で最も僕が語りたかったことだ。

3-4 半分語り終えること

ここまでで、僕の大枠は語り終えたのだが、ひとつあやふやなままにしてきてしまったことがある。
それは「語り終える」ということだ。ここまで僕は、広義の知的活動としての対話は人生を通じて行われるものであるとしてきた。つまり、死ぬまで語り終えることはありえない。
一方で、対話の成果のようなもの持ち出し、語り終えた視点から、対話を振り返ることも可能であるように論じてきた。
これは矛盾ではないのか。

ここで「半分語り終える」という概念を導入したい。
僕は、語り終えるとは、知的活動を終え、現実世界にバトンタッチすることだと考えている。
「世界一高い山は富士山だ。」や「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」が誤りとなるのは、それは、そのような言葉に基づいて、現実の行動がなされるからだ。
地理の先生の「世界一高い山は富士山だ。」という発言で対話が終わり、先生がテストの採点を始めたなら、それは誤りとなる。
ヒトラーの「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」という発言で対話が終わり、ヒトラーがアウシュビッツを建設させたなら、それは誤りとなる。
それは明らかに「語り終える」ということの誤りである。
しかし、もし、生徒が「先生、この採点間違えているよ。」と言葉を発し、先生が誤りに気づいたなら、その誤りは訂正されうる。ヒトラーがホロコーストの途上で信念を変えたなら、その誤りは訂正されうる。
原理的には、地理の先生が定年後に誤りに気付いたとしても、ヒトラーがベルリンで自殺する瞬間に誤りに気付いたとしても、対話というものを最も広義にとるならば、人生という対話においては、気付きにより、誤りは誤りではなくなる。

以上は、対話というものを幅広く、人生全体としても捉えられるという方向で解釈した例だが、逆に狭く捉える方向で考えることもできる。
例えば、現代のドイツにおいてユダヤ人に対して「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」と発言したら、そのユダヤ人は怒りを感じたり、傷ついたりするだろう。たとえ両者が対等な立場にあり、ユダヤ人が反論し、対話が継続され、最終的には両者で妥当な結論に達したとしても、その怒りや悲しみがなかったことにはならない。
対話というものを狭く解釈するなら、対話は現に現実世界に影響を及ぼし、現実の怒りや悲しみといったものを生み出したことになる。
そのように考えるならば、一言を発したとたんに、その対話は語り終えられたと言ってもよいだろう。

このように、対話を語り終えるということには、複層的な意味合いがあると思っている。
対話というものを最も狭くとるならば、一言ごとに対話は終えられ、都度、知的活動は現実世界に接続している。最も広くとるならば、人生がひとつの対話である。そして当然、その中間には、カフェを出て友達と別れるとともに対話(会話)が終わったり、夜ベッドに入り色々と考えていたけれど寝るとともに対話(思考)が終わったり、というような、常識的な使い方での対話の終わりもある。
そのように考えるならば、広義の対話とは、常に、終わってはいないし、終わってもいるというあり方をしているのだ。
これを僕は「半分語り終える」と表現することにする。

4 対話と教育

4-1 現実における対話の限界

対話は「半分語り終える」というかたちで、対話と相対するものである現実と接続する。
この対話と接続されるものである現実については、色々な視点から捉えることができるが、この論文では、それを「教育」という面で捉えている。
僕は、対話という知的活動と鋭く対立するものとして現実を捉えているが、この論文では、その現実の代表選手として「教育」が登場しているように思えるのだ。
つまり、対話と教育は鋭く対立する。それが、学校で対話を行うということの困難なのだろう。

学校において対話をするということは、対話の外にある現実に注意が向かざるを得ない。
対話を特にしたいと思っていない生徒に対話を始めさせ、そして、対話をした後も、対話の成果を把握し、教育に活かさなければならない。
これは、対話以前と対話以後に注意を向け、対話を分節化して、対話の持つ力を削がざるを得ないということである。

もう一つの教育と対話の間にある困難について説明するため、政治を例に持ち出したい。
僕が、対話との関係で特に問題となる現実の場面としては、教育ともう一つ、政治がある。
多分、既存の概念のなかで、対話と対立する現実というものを最もよく表しているのは「政治」という言葉だと思う。
政治と対話はセットでよく用いられる。「政治には対話は必要だ。」というように。民主主義という制度などは、まさにその代表だろう。民主主義とは、誰もが参加できる対話に基づいて政治を行うべき、という理想のもとにあるもののはずだ。

しかし、ここまでの議論の流れからわかると思うが、僕はこの民主主義の理想に疑問がある。
政治においては、どこかで対話を終え、決断しなければならない。消費税を増やすかどうか、アメリカに無条件降伏をするかどうか、といったことは、どこかで決断をしなければならない。そこに、どちらでもない、という選択肢はない。
つまり、政治とは対話を終えて決断するということであり、あえて言うならば、政治とは対話を終えるということ、そのものなのだ。

僕はここまで、対話というものを広義に捉え、対話というものが持つ力を最大限解放しようと努めてきた。その努力を認めていただけるならば、対話でないもの、つまり政治についても先鋭化して捉えることをセットで認めていただかなければならない。純粋な知的活動としての対話を認める代わりに、純粋な知的活動の終わりとしての政治も認めなければならないのだ。
すると、常識的な物事の捉え方は色々と変更を迫られることとなる。例えば、民主主義については大きなダメージを受けることとなる。この僕の考え方によるならば、対話に基づく政治という民主主義の理想とは、知的活動としての対話の継続と、決断としての対話の終わりとを取り違えた不純な混合物なのだ。

ここまで、なぜ、政治の話を持ち出したのかと言えば、対話と教育の関係においても同じことが言えるからであった。
最も純粋に理念的に捉えるならば、対等に対話するという知的活動と、先生から生徒に何かを伝えるという現実的な活動とは原理的に両立しない。対話に基づく教育というのもやはり、不純物なのだ。
そのような意味で、この論文における「しかし、そうであるとしたら、子どもの哲学を含む「『哲学』を『教育』する」という営みは一般に、いったい何をしていることになるのだろうか。それは、自身の内に根本的な矛盾を孕んだ、自己論駁的ないし自己破壊的な営みにならざるをえないのではないだろうか。」(p.164)という疑問は極めて正当なものと考える。

4-2 「知識を求める動機」の重要性

しかし、僕は悲観していない。
そこで、重要となるのは、この論文でも重視されている「知識を求める動機」だと思う。

確かに対話は無限に続きうる。
何度も登場した「世界一高い山は・・・」の例を使うなら、「世界一高い山はエベレストだ。」に対しては未発見の山の可能性や、測量技術や、山の呼称や世界の定義、そしてデカルトの方法的懐疑など、いくらでも話は展開できる。

しかし、そのなかで、対話の参加者が切実に答えを求めている議論の道筋はそう多くないだろう。
「世界一高い山はエベレストだ。」のような常識的な発言から展開できる現実的な話題はそう多くないだろうから、いくらでも議論は展開できると言っても、その展開の可能性の大半を占めるのはデカルト的な思考実験のような道筋に違いない。
そのような純粋に哲学的な疑問について切実に答えを求める人は少ないだろう。
だから、対話の参加者の「知識を求める動機」に沿って対話を進めるならば、たいていは中庸的な議論が行われ、そう長くない時間で「世界一高い山はエベレストだ。」についての対話を平和裏に終えることはできるはずだ。

そうすれば、この結論を確実な知として先生から生徒に伝えることができるし、この結論に基づいて正しい政治を行うこともできる。
きっと、極端に哲学的な道筋を避ければ、現実の教育や政治とうまく折り合いをつけることはできるのだ。
このようにして、現実には、哲学対話は、その動機が正当なものである限り、たいていは、うまくいくのだ。

4-3 哲学対話の注意点・「いわゆる哲学対話」の外と内

最後に、あまり哲学的でない、哲学対話を学校で行ううえで注意してほしいと思う点を二つ挙げておきたい。

一つ目は、先ほどの話の続きとしての注意点だ。
多分、多くの場合、哲学対話は中庸的に進められるだろうし、そのような対話が良い対話となるだろう。
ただし、極端に哲学的な道筋は「知識を求める動機」に沿うものではなく、単なる言葉遊びに過ぎないということが経験則的に明らかだとしても、全ての極端に哲学的な疑問を自動的に避ければいいということではない。
極端に哲学的な疑問が「知識を求める動機」により切実に発せられることはありうる。それは丁寧に扱うべきだ。そこに現実に教育をすることの難しさがあると思う。

ここで注意しなければならないのは、極端に哲学的な疑問はたいてい突拍子もないもので、飛躍しすぎてうまく言葉で表現できないことが多いということだ。多くの人が出会ったことがない問題だから、聞いている人も何の問題だかわからず、既に知っている別の問題と取り違えてわかったような気になってしまうことさえある。
(僕自身の恨みも交えると)哲学対話という名前を用いているからには、最も大事な道筋であるはずなのに、こうして哲学的な道は気づかれず埋もれてしまうことも多い。
できるだけそうならないよう、キリストが一匹の羊も見捨てないように、注意深く生徒を見てほしいと願う。

(1つ目は自分を投影しすぎたが、別のありそうな状況をふまえると)もうひとつの注意点は、哲学対話自体にそもそも参加しない、できない、という問題についてのものだ。
哲学対話を学校でやっても、何割かの生徒はうまいかたちで参加しないし、できないだろう。多分、あまり知的活動というものが必要ではない人たちもいるのだ。そのような意味では、何割かの先生自身もうまく参加できないように思う。
だが、このようなかたちでの否定は哲学対話にとって決して悪いことではなく、これこそが最も急進的に哲学的な道筋ではないか、と僕は思う。

哲学対話は、哲学対話に参加することを前提として組み立てられているはずだ。当然、いかにうまく参加してもらうか、というようなことは教育学的に色々と知見があるだろうが、哲学的には、哲学対話の外に居続けるという視点も成立するところにこそ面白さがあるように思う。言い過ぎかもしれないが、哲学対話という知的活動を最も哲学的にさせるのは、その外にある現実の存在だ。生徒が参加しない、参加できないという極端なかたちで、ある意味参加するということは、哲学対話としてとても意義深いものだということを忘れないで欲しいと願う。

以上、極端なことばかり注意を促したが、これは、哲学対話の力を否定しようとしているものではない。
僕には、哲学対話には、デカルトの方法的懐疑のような極端に哲学的な「いわゆる哲学対話」の先にある領域と、対話に参加しない生徒のような「いわゆる哲学対話」の手前にある領域があるということに注意を向けて欲しいという思いがある。
そして強調しておきたいが、その二つの領域の間には、とても豊穣なものとして「いわゆる哲学対話」の領域がある。
この三領域を戯画的に表現するなら、哲学対話など要らず既存の答えが欲しい人たちがいる。そしてどこまでも自分で突き詰めたい人もいる。その間に、どちらでもあり、どちらでもないような、いわゆる普通の人がいる。ただし、この描写はあくまで戯画的であり、僕も含めてたいていの人は、いわゆる普通のなかでのグラデーションのうちに位置づけられる。確かに僕が指摘したような「いわゆる」の外の視点も重要だが、「いわゆる」のなかでの違いや変化のほうだって同じかそれ以上に重要なのだ。
そのような意味で、理念的に行き過ぎていない、現実に行われている地に足がついた「いわゆる哲学対話」の力を信じたいと思う。

5 ハネムーン

この、「いわゆる哲学対話」とは、哲学と教育の結婚における幸せなハネムーン期間のようだと思う。
たしかに、そのうち倦怠期となり、教育というもの自体を哲学的に疑うようなときも訪れるかもしれない。だけど、それでも、いつでも、あのときを思い出し、相思相愛の関係に戻ることはできる。
なぜなら、哲学と呼ばれるような知的活動と、教育や政治と呼ばれるような現実とは、動的に揺れ動く関係にあるからだ。その動的な関係こそが対話というものだと僕は考えている。
だから、いつでも、あのときに戻れるよう、しっかりとハネムーンを味わっておくべきだ。そうすれば、どこに戻ればいいのか見失わずに済む。それが哲学における哲学対話の意義のひとつだと思う。

そして、この論文における様々な考察は、「いわゆる哲学対話」をより望ましいかたちで行い、ハネムーンをより素晴らしいものとするうえでとても有用だろうし、このような考察が今後も重ねられていくことを願う。