プラトンの『パルメニデス』を読んだ。これは、僕の理解だと、若き日のソクラテスが、老パルメニデスに議論をねちっこく行う(永井的には「ひたりつく」)という哲学のやり方を教えてもらう話だ。
その教材として用いられるのが「一なるもの」についての話なのだけど、正直、その内容はねちっこすぎてさっぱりわからなかった。だけど、一つ収穫があったので、そのことを書く。

「一なるもの」についてなされる色々な話のなかに、一と無限を対比する箇所がある。これを読んでようやく、加算無限と非加算無限という数学上の概念が持つ意義が少しわかった気がしたのだ。
僕の文系なりの理解だけど、カントールは対角線論法により、加算無限と非加算無限では濃度の違いがあることを証明したとされる。これは僕がぎりぎり理解できた範囲で文系的な緩い説明するならば、加算無限の代表例である自然数と、非加算無限の代表例である実数とは、一対一に対応できないことを明らかにしたということでもある。
実数は自然数と一対一で対応できないのだから、自然数より実数のほうが大きい。これは、なんとなく文系の僕の実感とも合う気がする。自然数と実数を対応させるということは、実数を昇順に並べなければならないということだが、二つの実数「1.111・・・(無限の繰り返し)・・・1」と「1.111・・・(無限の繰り返し)・・・2」とを昇順に並べることは不可能だろう。なぜなら、二つの数の大小を判断するためには無限の1の羅列を最後まで目で追わなければならないが、それは不可能だからだ。非可算無限の集合とはつまりは、無限が含まれた数が要素として無限個含まれている集合のことだから、並べ替えてナンバリングすることなど不可能なのだ。その点で、ナンバリングできる無限である可算無限とは違う。
そこまではなんとなくわかるし、数学的には加算無限と非加算無限とを分けることには意義があるのだろうだけど、だからどうしたというのだろう。とにかく、僕には関係なさそうな話だな、そんなふうに考えていた。
しかし、『パルメニデス』を読んでいると、このカントールの話が哲学的に役立つように思えてきた。

老パルメニデスは、僕の怪しい理解によれば、一と一ではないもの(勝手に名づけるなら「非一」)との区別について論じている。
この区別は一見、容易なように思える。1、2、3という数字の羅列から、一と非一を分けろと言われれば簡単にできるし、ケーキが1つ乗っている皿と、2つ乗っている皿と、3つ乗っている皿を見せられて、これを一と非一に分けろと言われてもつまみ食いさえ気をつければ同程度に容易だろう。
だが、そこからパルメニデスは奇妙な話を展開する。
まず、パルメニデスは非一には一が含まれていてはならないことの同意を求める。確かにそうだろう。同意を求められたら、若きソクラテスでも僕でも同意するしかない。(「はい、そうではないことなどありましょうか。」などという言い方をするかどうかは別として。)
そこから、パルメニデスは、2という数字は1と1に分けられ、また、3つのケーキが乗った皿は、ひとつのケーキが三つ乗った皿という言い方ができるのだから、一が含まれているではないか、と指摘する。(実際はケーキを例にしていないけど。)そして、これらはいずれも、一が含まれているのだから、非一ではない、とする。僕もソクラテスもそれに同意するしかない。
この指摘に従えば、自然数や世の中の数えられる物体はすべてが非一ではないということになる。その物体が1つであれば、そこには一があるし、複数であっても、それを分ければ、そこに一が含まれているからだ。例えば、自然数以外の数の集合、例えば、{-3、1/3、π}という集合も、非一ではない。なぜなら、3つの要素をひとつずつ取り出せば、それは一つの数であり、そこに一が含まれるのだから。このように考えると、非一にあたるものなど何もないように思えてくる。

だが、パルメニデスは、非一にあたるものとして、「多多」というものを提案する。多多とは全体としても多であり、分割しても多であり、決して一にはならないようなもののことだ。当然、僕も、「多々」というようなものがあるなら、それは「非一」であることに同意するだろう。だが、そのようなものがありえるのだろうか。
例えば、3つのケーキは1つずつに取り分けると一になる。だがそのひとつのケーキを更に切り分けることもできて、そうすると1つのケーキは多になる。3つの多のケーキが多の部分に分解されるのだから、一見「多多」のようにも思える。しかし、残念ながらパルメニデスは、細かく切り分けられたケーキの一片をつまみ上げ、これは一ではないかと言うだろう。この例も一からは逃れられない。
それでは、すべての自然数というような、無限についてはどうだろう。残念ながら、この例もうまくいかない。なぜなら、全ての自然数という集合には、1が含まれており、そこから一を取り出すことは可能だからだ。または取り出す数字が1ではなくても、2でも3でも実は同じことだ。なぜなら、一つの数字を取り出すというということは、そこに一を見出すことができるということなのだから。多多であるためには、多としての全体から取り出した部分も多でなければならない。このようなことは自然数全体という加算無限については不可能だ。
では、非加算無限についてはどうだろう。残念ながら、実数全体というようなものを例とする限り、事態は変わらないように思える。実数全体のなかには、1は含まれており、それを取り出すことは可能だからだ。または、1が含まれていない非加算無限であっても、何か一つの数を取り出すことは可能であり、そこに一を見出すことができるとも言える。
このように考えると、パルミネデスの一と非一(=多多)とを対比する議論とは、そもそも非一(=多多)なるものなどないのだから、机上の空論であって、まさに頭の体操のように思える。

しかし、カントールの非加算無限の議論を思い出し、そこにヒントがあると気づいた。カントールによるならば、実は、非加算無限から、1であれ何であれ、ひとつの要素を取り出すことなどできないのではないだろうか。
どういうことか説明しよう。
非加算無限とは、加算無限である自然数と対応できないものであった。だから、非可算無限の集合、例えば、全ての実数という集合を昇順に並べ替え、ナンバリングするようなことはできない。ナンバリングできないということは、そこから一つの要素を取り出すことなどできないということではないか。なぜなら、要素を取り出すためには、どの要素を取り出すかを指定しなければならないが、非加算無限においては、その指定が不可能なのだから。つまり、要素の指定ということを厳格に考えるならば、非可算無限の集合から要素を取り出したり、非可算無限の集合を分割したりすることはそもそも不可能なのだ。
当然、要素の指定をせずに、非可算無限の集合のなかから、とにかく要素をひとつ取り出すことは現実には可能かもしれない。しかし、それは有限の集合や、可算無限の集合から、要素を取り出すこととは大きく異なる。有限の集合や可算無限の集合ならば、それを順番に目で追って、どれを取り出すか、取り出す前に指定してから取り出すことが可能だ。そして、実際に取り出したものが取り出そうとしていたものと一致しているかどうか確認することもできる。しかし、非可算無限集合の場合には、取り出すまでは何を取り出そうとしていたかはわからず、取り出して、その数を見て、初めて何を取り出したかがわかることとなる。この作業は取り出すというよりは、くじ引きを引くと名付けたほうがいいもののように思える。
僕のこのアイディアが正しいならば、実は、非加算無限の集合から、一つの要素を取り出すことはできない。これは、パルメニデスの言い方によるなら、非加算無限である多は分割できないということである。
パルメニデスの多多の定義とは異なるが、これこそが多多のことなのではないか。多を無限と読み替えるならば、多多とは無限の無限、つまり、加算無限のべき集合のことであり、非加算無限のことなのではないか。
このような意味で、多多(=非一)とは、非可算無限集合のことである、というのが、僕がこの文章で言いたかったことだ。

僕のような数学が苦手な文系の哲学好きのサラリーマンが、あえてこんな苦手分野の危うい話をしたのは、そこに哲学的含意があるからだ。
そのことを説明するために、一と非一(=多多)に加えて、もうひとつの分類を設けたい。一と非一(=多多)との間には、一多または多一または単に多とでもすべき領域があるのだ。

※ 多多と同様に一についても一一とでも言うべき困難があるのだが、ここでは省略し、仮に一とし、1がその具体例とする。

この領域を「多」と呼ぶならば、多という領域には、数を例にするなら、2から数え上げられる自然数から始まり、加算無限までが含まれる。
また、数に限定せず、この世界のものごとに広げるならば、「多」には、ほぼすべてのものが含まれる。なぜなら、この世界にあるたいていのものは数え上げられるものだからだ。目の前にあるペットボトル、イスや机など世の中にあるものはたいていが数えられるものだ。少なすぎて数え始めることができない一や、多すぎて数えられない多多(=非一)ではないすべてのものは多であると言える。
さらには、数えられるものとは、名前がついていて、その名前により、そのものごとを指し示すことができるもののことだとも言える。なぜなら、名前で呼ぶことができるということは、複数存在しうるもので、数え上げる可能性を含むものだということだからだ。(永井的には「ものごとの理解の基本形式」に収まっているからだ、とも言える。)
いや、ペットボトルや椅子はともかく、液体状で数えようのない水や、ひとつしかないので数えようがない太陽のように、名前がついていても数えられないものもあるといわれるかもしれない。
しかし、水については、数え方さえ決めれば数えることは可能である。コップ3杯分の水を、水3つと言うことは、思考実験的にも、ラーメン屋的にも可能である。太陽についても、例えば、地球が二連星の惑星だった場合などを考えればいいだろう。その場合、その恒星のうちのひとつが雲で隠されていたなら、太陽が一つだけ見える、というようなことが言えるはずだ。つまり太陽はたまたま一つしかなかっただけに過ぎない。
これらは、一ではないが、ひとつひとつに分割することができ、一が含まれていることから、非一(=多多)でもないことから、いずれも多であると言える。

では、多ではないもの、つまり、一や非一(=多多)となるものは、数ならば、1や非可算無限のことであった。では、数以外の世界のものごとの場合には、何が一や非一(=多多)に該当するのか。
いずれも、数え上げることができないものであり、名前がついていないもの、または、名前がついていても、その名前で、そのものごとを指し示し切ることができないものだろう。
一については、今回論じていないので結論だけ言うならば、それは、自我や実存と呼ばれるようなものだろう。僕の実存が二つあるとは言わないし、僕の自我と誰かの自我という呼び方をしたとしても、僕の自我と言うときの「自我」と誰かの自我と言うときの「自我」が同じものを指すとは言えない。つまり、「自我」という言葉では、自我を指し示しきれていない。これらのことは、自我や実存が多ではないというということを示しており、それならば、多ではなく一だと言ってよいだろう。(この話は、永井均の独在論の入り口にあたる。)
では、非一(=多多)とは何かというと、それは、神のことなのではないだろうか。宗教学的な視点に立つ限りは、あの神、この神という言い方はできるし、神の数を数えることもできるだろう。しかし、信仰の内側に立つならば、神はひとつしかありえず、神を数えることはできない。(多神教であれば、神の数は、その登場する神の数で数えるのではなく、その神話体系の数で数えることとなる。)これこそが、多ではない多多のことなのではないだろうか。
なお、神とは、信仰がない人であれば、世界全体やスピノザ的な神と言い換えてもいいだろう。または、唯物論者なら科学の体系全てと言ってもいいかもしれない。これらは、多すぎて多を超えてしまった多多なのだ。

数としての1が自我や実存についての話に深く関わっているように、非可算無限は世界や神に至る道につながっているように思える。というか、非可算無限という特殊なあり方をしているものの先に見いだされるものは、世界や神といった特殊なものごとであるべきであるように思える。

このようなことが語りたくて、僕は、ここまで非可算無限の話をした。
非可算無限とは、世界や神といった、そう簡単に理解できそうにないものにつながる道の入り口にありながら、簡単に理解できるものだ。ここに、この話の面白さがあるように思う。
簡単な話を簡単なまま捉えることは簡単だし、難しい話を難しいまま捉えることも多分それほど難しくない。一方で、難しい話を簡単に捉えることはとても難しい。非可算無限という切り口には、その難しいことを可能にするような糸口があるように思える。
もしかしたら、非可算無限とは、本質的に理解できうるものと理解できえないものとの間の接点にあるのなのかもしれない。