哲学者とは、言葉にこだわる人のことなのではないか。
一般的に、世界のあり方とか、人生の意味とか、根源的なことを知ろうとする人こそが哲学者だとされているように思う。僕もそう思ってきたし、そうありたいと思ってきたけど、しかし、そうではないかもしれないと気づいた。
なぜなら、哲学者かどうかに関わらず、人は、世界や人生について、現にある程度知っているからだ。知っていなければ、世界のなかで人生を生きていける訳がない。当然、十分に知っているとは思っていないし、もっと知りたいと願い、知ろうと努めているだろう。ただし、強調したいのは、多くの人は、世界とか人生について、全く知らない訳ではないし、哲学者に比べて、その知っている程度が低い訳でもないということだ。
当然、哲学者としては、その知り方に不満がある。そんなのは、知っていることにならないと思う。だから哲学をする。
そうだとするならば、哲学者かどうかを分けるのは、根源的なことを知っているかどうかや、知ろうと努力しているかどうかではなく、その知り方なのではないか。
哲学者とは、その知り方として、どこまでも言葉にこだわる人のことなのだ。哲学者は、根源的なものごとについて、言葉にしたいと願っている。人々がすでに知っていることについて、それを知っているだけでは飽き足らず、それを言葉にしたいと願っている。
だから、哲学という営みには、ウィトゲンシュタインが指摘したような言語の限界が横たわっている。言語の限界とは、思考の限界ではなく、哲学の限界なのだ。
このような定義の仕方は、かなりざっくりしたものだとは思う。ただ、明らかに言えることは、言語の限界のぎりぎりのところを目指そうとしない哲学は、哲学ではないということだ。哲学者には色々な定義の仕方があると思うが、僕は、哲学者とは、言葉に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことを指すのだとしたい。
なお、言葉へのこだわり方にも色々なやり方があるように思う。子どもが粘土で遊ぶように、ただ言葉をこねくり回すのが楽しい人、言葉を適切なかたちで並べたときの美しさに囚われた人などなど。
そのなかでも、言葉が持つ力に魅了された人のことを倫理学者というのだろう。正しい言葉には有無を言わせず世界のあり方を変える力がある。正しい言葉が正しくないことはありえないし、正しい言葉を無視することが正しいこともありえない。正しい言葉というものが持つこのような力に心を奪われ、正しい言葉を求める人こそが、倫理学者なのだろう。
哲学者とは、言葉というものの魅力に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことである。そう考えると、哲学という活動の輪郭が少しはっきりしてくるように思える。