1 5つの愛の言語

「愛を伝える5つの方法」という本を読んだ。夫婦が仲良くするためにとても大切なことが書かれていた。わかりやすく、コンパクトなのでたくさんの人に読んでほしい。数時間あれば流し読みで十分理解できると思う。(僕は古本で買ったけれど、キンドル・アンリミテッドにも入っているようだし。)

この本の主題は、一言で言うならば、「愛の伝え方には5種類あり、相手が得意な方法で伝えないと、その愛は伝わらない。」というものだ。5種類の愛の伝え方とは、僕の表現で置き換えるならば、①言語、②時間、③物、④行為、⑤身体となる。言葉で愛を表現してほしい人に対して、物(プレゼント)で愛を表現しても、その愛は伝わらない。身体接触で愛を表現してほしい人に対して、掃除をしてあげたり、ご飯を作ってあげたり、といった行為をいくらしても、その愛は伝わらない。そういったズレが、夫婦の問題を生じさせている。だから、夫婦がうまくいくためには、相手の愛の言語を知り、その言語で愛を語らなければならない。この本で書かれていることの主なところはこのようにまとめることができるだろう。なお、この本では、愛の伝え方のことを愛の言語とも呼んでおり、英語話者に対して中国語で語りかけるような愛の言語のズレが生じているから、夫婦の問題が生じてしまう、という比喩も用いている。

2 脱線:夫婦カウンセリング

脱線だが、なぜ僕がこの本を読んだのかというと、夫婦カウンセリング(コーチング)を受けていたら、この本の話が出てきて、興味が湧いたからだ。確かに、僕と妻との問題は、愛の言語のずれに起因する側面があったように思う。

なお、脱線してまでプライベートな夫婦カウンセリングのことになぜ触れたかというと、第三者がカウンセラー(コーチ)として夫婦関係に関与することがもっと一般化したらいいと思ったからだ。夫婦で正式にカウンセリング(コーチング)を受けるというのは思ったより意義ある経験だった。お金を払った分だけ真剣に取り組めたし、夫婦で同じ話を聞いて共通の知識を身につけることで、その後の生活でも「これは、あのときのあの話だから注意しようね」なんていうかたちで使えるからだ。閉鎖的なものになりがちな夫婦関係に他者の目が入ることで明らかに夫婦関係はもっとよくなる。ぜひ、特に結婚したての夫婦に、もっとカジュアルに体験してほしいと思う。

3 キリスト教的な愛

実は、この本に書かれていたことで、主題である5種類の愛の言語の話以外に、もうひとつ興味深かったことがある。

それは、キリスト教的な愛についての描写だ。キリスト教的な愛と言っても、神学的な難しい話ではない。多分、日曜日の教会での説教で聞いても皆が理解できるような話だ。この本の作者はアメリカのキリスト教の牧師でもあるからだろうが、この本の根底には、世俗的キリスト教の観点からの愛が流れている。

僕は、この愛の話を、相手に合わせて自分と異なる愛の言語を語ることの困難さと、その困難を乗り越えることの重要さについての話だと理解した。

この本は、妻と触れ合ったり、旅行をしたりして一緒に楽しい時間を過ごすことこそが愛の表現だと思っている僕に対して、そうではなく、毎日トイレ掃除をすることで愛を表現しなさい、と命ずる。正確には、そのようなかたちで愛を表現するかどうかを僕の選択に委ねる。この本は僕に対して「彼女は毎日のトイレ掃除を通じて愛されていると理解することができるようだけど、あなたは毎日のトイレ掃除というかたちで愛を囁く覚悟はある?」と問いかける。

これはかなり厳しい選択だ。これではまるで僕は彼女に気に入られるためだけにトイレ掃除をするみたいだ。確かにトイレ掃除は必要だけど、たいして汚れていないのに、ただ彼女の機嫌を取るために毎日、無駄なトイレ掃除をするなんて耐えられない。(なお、これはフィクションです。我が家ではトイレ掃除は僕の担当ではありませんし、毎日は掃除していません。)

ここで、この本はキリスト教的な愛を持ち出す。これは彼女の機嫌を取るための行為ではなくて愛なのです、と。トイレ掃除とは、キリストが弟子の足を洗うのと同じく献身としての愛なのです、と。

4 恋と愛

ここでの愛とは、恋愛という言葉を用いるなら、恋と対比しての愛だと言ってよいだろう。「恋と愛とは違うのか」という、多くの人が一度くらい考えたことがあるだろう人気のある哲学的テーマだ。

この本では、この恋と愛の違いの問題ついても見解を述べている。その見解は、恋と愛とは全く違う、というものだ。この本によれば、恋とは一時的な(多分罹患後2年ほどで自然治癒する)病のようなものだ。そして嵐のような恋が過ぎ去ってから、全く別のものとして本当に重要な永続的な愛が始まる。一時的な恋と永続する愛の間には大きな違いがあり、だからこそ夫婦で愛を育むことは重要だとこの本は強調する。

僕はこれまで、恋と愛について、重なる部分もあり、異なる部分もある、というくらいに考えていた。だが、確かに恋と愛の間にはこの本が述べるような断絶はあるように思う。そして、その断絶は、きっと恋と愛のプロセスには真逆といってよいほどの違いがあることに由来するのだろうと気づいた。

4-1 恋

ここからは、この本に書かれていることではなく僕個人の理解だが、恋のプロセスは次のようになるだろう。

① AがBに好ましい特徴を見つけて、相手を気に入る。

② うまくいけばBもAに好ましい特徴を見つけて、自分を気に入る。

③ AとBは、お互いに好ましい特徴を持っていて、相性がいいのだから、二人とも自然体でやりたいことをすればうまくいく。

このようなプロセスを経て恋は始まる。しかしこの本に沿うならば、この恋のプロセスは行き詰まることとなる。

恋のはじまりにおいて、僕は、彼女には好ましい特徴(優しい、趣味が合う 等)があるから、僕が自然体で振る舞えば、きっとそれを受け止めてくれるし、一緒に色々なことができるだろうと考える。きっと彼女も、彼には好ましい特徴(頭がいい、頼りがいがある 等)があるから、私が自然体でいれば、きっと理解してくれるし、安心して過ごすことができると考えるだろう。恋の始まりにおいて抱くこのような思いは一見妥当なように思える。お互いに認めた者同士がペアになれば、他の組み合わせよりもうまくいく可能性は飛躍的に高いに違いない。

しかし実際にはそうはならない。長時間にわたり一緒に過ごすことは思ったよりも難事業であり、一点でもうまくいかないことがあると、そこから綻び、全てが崩れてしまうことがありえる。確かに、お互いに認め合った夫婦であれば、他の人と組むよりも多くのことはうまくやれるけれど、どうしても生じてしまうたまたま合わなかった僅かなことが問題となり、その問題が夫婦関係全体を覆い尽くしてしまうことがあるのだ。

それでも、恋の初期には取り繕って相手にいいところばかり見せてしまうし、恋で盲目になってしまっているから僅かな問題に気づくこともないだろう。けれど、いつか恋の魔法が解けると、問題が顕在化し、それがたとえ僅かなものであっても、うまくいっている部分よりも、その僅かな問題のほうに目を向けざるを得なくなる。

これは、砂漠で喉が乾いているときに、空気があるからいいとは思えないのと同じことなのだろう。人間は生きていくうえで水も空気も必要だ。空気がなかったら一瞬で死んでしまうのだから、はるかに水よりも空気のほうが重要だと言ってもいいだろう。しかし砂漠で喉が乾いているとき、空気があったからいいとは思わない。周囲にある空気には意識も向かない。

同じことが夫婦の間でも起きる。彼女の優しさや彼の頭の良さは空気のように充満しているけれど、そこには目が向かず、毎日のトイレ掃除を求める彼女のヒステリックな物言いや、生返事でさぼる彼のだらしなさが砂漠での喉の乾きのように二人の心を支配するようになる。

このようにして恋は夫婦関係の変化に対応することができず、恋という熱病は冷めていくこととなる。

4-2 愛

そこで登場するのが愛だ。愛の立場に立つならば、そもそも、好ましい特徴があるから相手を好きになる、という順序自体が間違いなのだ。本当の愛においては、理由などなくても、まず献身しなければならない。相手に好ましい特徴があるかどうかや相性がよいかどうかなど関係なく。

このような愛の立場は、さきほどの恋のプロセスの反転図形のように、次のようなかたちで描写できるだろう。

① (なにもなくとも、まず)Aは、Bに対してBが望むことをする。

② BがAのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、BはAを気に入る。

③ (Aを気に入った)BがAが望むことをする。

④ AがBのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、AはBを気に入る。

⑤ AとBとが、お互いに好ましい特徴を持つようになり、よい関係となる。

以上の恋と愛のプロセスを対比するならば、

恋:(好きという)理由→行為→(結果は自然についてくる)

愛:(理由はない)→行為→(相手が喜び、二人がうまくいくという)結果

というように、理由・行為・結果という三者のなかでの力点の置き方の違いがある。恋においては、お互いが好きであれば、どのような行為をしても結果は望ましいものであるはずだ。一方、愛においては、理由はどうでもよく、ただ相手に奉仕し、相手が望む結果を目指すものである。または、恋においては、好きだから相手に奉仕する。奉仕したならば当然にお互いにとって良い結果を招くのだからそんなことはどうでもいい。愛においては、好きでも嫌いでもいいのでただ相手に奉仕する。だからこそ夫婦関係がうまくいくという結果がついてくる。

このような(理由を無視して)行為と結果というかたちで描写されるものが、この本での、世俗的キリスト教の文脈での愛のかたちなのだろう。

4-3 世俗的な愛

なお、この愛について、「世俗的」キリスト教的な愛としたのは、この愛が結果を重視したものだからだ。これに対しては、多分、相手が喜ぶというような見返りを期待しているようでは本当の愛ではないという反論があるだろう。愛をつき詰めるならば、理由も結果も関係なく、ただ奉仕という行為だけが重要だという真っ当な考え方だ。

だが僕はあえて、行為と結果というペアで愛を捉えるべきと主張したい。奉仕した結果として相手が喜び夫婦関係はうまくいくと考えることは、僕のような凡人が奉仕するにあたってはとても重要なことだ。あえて言うならば、相手を喜ばせるために、夫婦関係をうまくいかせるために方便として奉仕すると言ってもいい。それでは奉仕とは呼べないかもしれないけれど、それでもいいと思っている。

僕が描こうとしているのは、求道者でなくても、長くつきあった老齢の夫婦であれば誰でも普通にたどり着くことができるような、どこにでもある愛の姿だ。僕はどこにでもある普通の夫婦関係がうまくいくことを願っている。この本と同じように。

5 格好悪い愛

さて、普通の恋愛における恋と愛のプロセスの違いについて再確認しよう。恋と愛では、理由と行為と結果での力点の置き方に違いがあるのだった。

ここで特に着目したいのは、恋には好きという理由があるが、愛は理由ない行為、つまり奉仕から始まるという点だ。

この違いを重視するならば、恋から愛に進むために必要なのは、まず自分から格好悪い役回りをすることだと言ってよいだろう。自分の価値観と相容れなくても、プライドを捨てて、まず自分から相手が望むことをする。「あなたの愛を手に入れるために、まず自分からあなたを愛します。」恥をかき捨ててこんな宣言をし、愚直にそのとおりに実行することこそが愛なのだ。奉仕の愛とは、このようにとても格好の悪いものなのだ。

できれば、こんな格好の悪いことは極力手際よく済ませて、はやく愛のエンジンを着火し、愛の好循環を起動させたい。多分、一旦起動してしまえば、そんなに格好悪い思いはしなくて済む。愛は羽ばたくまでがみっともない。

では、愛を効率よく起動させるためにはどうしたらいいのだろう。せっかくプライドを捨てて、力を振り絞って自分から率先して愛を表現するならば、できれば最初から成功させたい。そのためには、失敗なくストライクを狙えるようなノウハウを事前に入手しておいたほうがいい。

そこで重要になるのが、この本が示してくれる5つの愛の言語だ。奉仕の愛を成功させるためには愛の言語について学び、相手への上手な伝え方を知る必要がある。ここにこの本の大きな意義がある。

だから、この本では自分の愛の言語を知り、相手の愛の言語を知るためのノウハウが色々と書かれている。愛の始まりは格好の悪いものだからこそ、このようなノウハウを知り、最短距離で愛を立ち上げることは、とても重要なのだ。

6 この本への不満

だけど僕はこの本の詳細に不満がある。5つという愛の言語の区分は粗すぎるように思うのだ。それは、この本でも愛の言語に「方言」という下位区分が登場することからも明らかだろう。「方言」という言葉は、お互いに同じ愛の言語を使っていても方言が違うから理解し合うことができない、という文脈で登場する。この本も、愛の言語を5種類に分類するだけでは足りないことは認めている。

それならば、方言の違いも事前に列挙すればいいように思うけれど、それは難しいだろう。なぜなら方言はいくらでも考えつくことができるからだ。例えばプレゼントを喜び、プレゼントを愛情言語とする人々のなかにも金額が高い品物が好きな人とセンスがいい品物が好きな人がいる、というように細分化はどこまでも可能だ。多分、愛の言語は5種類どころではなく、人の数だけあるのだろう。それどころか同一人物のなかでも、愛の言語は少しずつ変わっていくに違いない。昨日は優しい言葉が欲しかったけれど、今日は勇気づけるような言葉が欲しい、というように。

だから、相手の愛の言語を十分に把握することは不可能だ。それならば常に、相手のことを丁寧に観察し、完全には把握できない相手の愛の言語を少しでもよく知ろうとする絶え間のない努力が必要になる。

そもそも、愛の言語を分類し、当てはめて理解する、というやり方が、愛の言語を描写するには不十分なのだろう。

だから、この本における、チェックリストで愛の言語を見つけるというアプローチも不完全である。5種類ではなく、例えば方言も取り入れて10種類に増やしても同じことだ。またチェックリストの結果が同じだったり違ったりすることで一喜一憂することにも意味はない。最終的に愛の言語を見つける唯一の道筋は、この本にも書いてあったが、二人で話す時間をとり、お互いに望みを具体的に伝え合うしかない。

愛の言語は無限にあり、変化していくものだから、二人の対話を通じて少しずつ知っていくべきものなのだ。

7 格好の悪い愛2

二人で話し、お互いの望みを伝え合う場面を想像してみる。「僕は毎朝、ハグをして、キスして欲しい。」「僕は一人で休日を過ごすのが寂しいから、一緒に海に行きたい。」僕はそんなことを妻に言っているはずだ。こんな情景を思い浮かべてみるととても恥ずかしくなる。僕にとっては格好の悪いことで、プライドもなにもあったものではない。

だけど、やはり、このような格好悪いことこそが愛なのだ。

格好悪いことをすることこそが格好いい。そのような逆転が愛という言葉のなかには含まれている。僕は愛という言葉がどこかいかがわしく、あまり好きでなかったが、このように解釈するならば悪くないと思う。僕は愛という言葉に勇気づけられて、率先してプライドを捨てることができる。

愛とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その愛し方を愚直に実行することなのだ。

全てが認められ、自由気ままに振る舞えばよかった恋の季節が終わった後、つまみ食いのように別の恋を求めるのではなく、恋ではない生き方を求めるならば愛するしかない。それは一見、かなり格好悪くてプライドを傷つけられることだ。だけど、この本は「それは愛だから大丈夫だよ」と勇気づけてくれる。僕はキリストの愛をそのようなメッセージと受け取った。

格好悪さを乗り越える勇気を与えてくれるもの、これこそが愛なのだろう。

8 蛇足:この本を批判したことへのフォロー

(以下は蛇足です。)

なお、僕は、この本が愛の言語を5種類に分け、チェックリストで簡単に判別できるようにしたことを不十分だと批判したけれど、この本の目的を考えるならば適切なものだと思う。

なぜなら、この本が第一に目指したのは、夫婦間での愛の言語の「違い」を具体的に、かつ簡単に理解してもらうことだろうからだ。5種類にすれば、相手と違う可能性は5分の4で80%となる。チェックリストを使って愛の第一言語を調べるだけでほとんどの夫婦は愛の言語の違いに気づくことができる。この本が伝えたいのは愛の言語の「一致」ではなく「違い」だとするなら、この80%という数字は悪くない。不幸にも20%に含まれてしまった夫婦も、方言の違いを考慮できるし、なにより、二人で愛の第一言語を調べる過程で、お互いの感じ方の違いに気づき、そこから話し合いを始めることができるだろう。

なお、以上のこの本の効能は、夫婦で仲良く読んだ場合を想定している。だが残念ながら、パートナーと一緒にこのような本を読むことができない状況でも、この本のアプローチは有効だろう。

とりあえず、相手の協力がなくても、5区分を用いて、荒っぽくでも相手の愛の言語にあたりをつけることができる。そして、一人だけでこっそりと相手に奉仕し、愛の好循環のプロセスを発動することができる。それは二人で始めるよりも大変な道のりだろうが、少しずつでも良い方向に進むことはできるだろう。(この本にもそのような事例があった。)一人でとりあえずのスタートを切るためには、二人で始めるときよりも、この本のようにわかりやすく単純化された記述は役立つに違いない。

以上の二つの理由から、僕はこの本のアプローチは適切だと思う。僕がこの本を批判してでも描きたかったのは、その先の続きだ。

9 蛇足:対話

僕がこの本を取り上げたのは、僕が興味を持っている「対話」につながるものだからだ。最後に、多くの人にはどうでもいいことだろうけど、自分のために、ここまでの話と対話とをどのように接続できるかを述べる。

繰り返しの確認になるが、夫婦の間の愛の最も望ましいあり方とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その教えてもらった愛し方を愚直に実行することであった。

ここには僕が重視する対話の二つの要素が現れている。自分をさらけ出すとは、対話において話し手に求められる誠実性のことだ。妻と対話するならば、話し手である僕は、プライドなど捨てて、愛し方がわからないことを妻に申し出ることが重要となる。それが妻に対して誠実であるということだ。また、教えてもらった愛し方を実行するとは、対話において聞き手に求められる誠実性のことだ。せっかく伝えてもらった言葉を、自分の価値観に合わないから、格好悪いから、といった理由で無視することなく、しっかり受け止め、そのまま自らの行動に反映させることが重要だ。このように、愛においては、対話における話し手としての誠実性と聞き手としての誠実性の二つが重要となる。このようにして、ここまで述べてきた愛と対話は重なっていく。

更には、愛とは、誠実な対話のことだと言ってもいいように思う。僕が妻を愛するとは、誠実に妻と対話することなのだ。