5 おまけ
最後に、この文章のどこにも入らなかった考察をメモ書き程度に残しておく。
5-1 愛着・暴力
この本には猫が登場する。しっぽの先が少し曲がったハチワレだ。(p.284)
だが、この猫は、ただのしっぽの先が少し曲がったハチワレではない。名付けられ、長年ともに暮らす「この猫」として、波及と還流の構図に巻き込まれ、この猫は世界に溶け込んでいく。
これは、円環モデルを用いるならば、顕在性の意味論の領域から離れ、解像度を落としていくプロセスだと言っていいだろう。このようなプロセスを駆動するものは猫への愛着だ。愛の力が世界を動かしている。
猫の議論の箇所は、以上のようにも読むことができるものであり、入不二には珍しく、非常に倫理的な描写だと思う。
だが、一方で入不二は同じものを暴力とも表現している。
他の猫との比較としての相対的な猫から、この猫という絶対的な猫となるのは暴力でもある。これは「相対主義が開く他の選択肢や異なる相貌を無きものにするような、問答無用の破壊的な力」(p.312)である。
この破壊的な力を入不二は「黙らせる力」(p.318)とも呼ぶ。
このような力のあり方を踏まえるなら、一見、倫理的と思える場面での力さえも、「語ることを強いる力」や「愛着を持つことを強いる力」とも表現することができるだろう。(僕も猫を飼っているけれど、ネコの魅力には、そういう暴力的な側面があるように思う。)
5-2 身体・生命
入不二は森岡との「このもの主義」の議論において、森岡との距離を縮めるために「身体」のとりあえずの源泉性を認める(p.238)。そこまで歩み寄ったうえで残る(または歩み寄ったからこそ強調される)森岡との違いを、入不二は「もの」と「こと」の違いとして示している(p.242)。
入不二が身体の「とりあえず」の源泉性を認めるとは、つまり、入不二が白眉と認めるプギャーの一コマ(p.240)のようなかたちで、身体が、力の受信側としての二人称と、力の発信側としての一人称の両方を持つことを認めることだと解釈できる。身体がこのような二面性を持っているからこそ、身体は波及と還流の構図に巻き込まれることができることとある。こうして身体は波及と還流の構図のなかの一点として位置づけられることになる。以上が入不二と森岡との歩み寄りの場面だ。
しかし、入不二によれば、入不二の波及と還流の構図はあくまで「こと」的な力の流れであり、一方で、森岡のものは人や局所という事物「もの」が主人公であるという点に違いがある。
しかし、僕はここに疑問がある。入不二が述べるほど、「こと」的な入不二と「もの」的な森岡との違いは明確ではないように思う。
入不二が歩み寄りのために認めた身体とは、いわば、「もの」化した「こと」であり、多分、森岡ならば、「生命」と表現するのではないだろうか。森岡的に表現するならば、波及と還流の構図とは、生命の力が波及・還流し、この世界を巡っていることを示すものであり、生命は身体というかたちで分有されている、ということになるのではないか。(森岡の議論はあまり承知していないので、なんとなくそう思うだけだけど。)
「生命の力」という「もの」と「こと」の中間的な用語を用いるならば、表現の好みの違いはあっても、二人の考えはかなり接近するような気がする。
だから入不二と森岡の違いを強調するためには、より直接的に身体の受け入れの場面に立ち戻ったほうがいいように思う。
入不二の議論の魅力は妥協を許さないところにある。それならば、森岡が描く「生命の力」という道筋につながる「身体」など、とりあえずであっても認めないほうがいいのではないか。
入不二は既に別のかたちで「生命の力」や「身体」を表現している。それは、動物が持つ黙らせる力であり、問答無用の破壊的な力だ。
そちらの方向での入不二と森岡の議論の絡み合いを見てみたい気がする。