1 はじめに
僕は入不二基義という哲学者のファンなので(この導入を使うのは何回目だろう?)、彼の対談が載っている『現代思想』の2021年1月号を買った。2021年のエッセイ書き初めということで、正月に読んだこの本について書くことにする。
正月はコロナでどこにも行かず、時間があったので、まず、楽しみにしていた入不二基義・上野修・近藤和敬の3人の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下『現実性とは』とする。)を読んだ。正月ボケの頭には面白かったけど難しかった。一つ一つの言っていることは理解できる箇所もあったのだけど、どうしてこのように話が展開するのかがよくわからなかったのだ。対談の流れにうまく乗れないというのだろうか。
対談を読み終え、せっかくなので、ぱらぱらと面白そうな文章を拾い読みしてみた。いくつも面白いものがあったが、特によかったのは、T・ガルシアの『概念の羅針盤 現代実在論の認識的方向と存在論的方向』(以下『羅針盤』とする。)だった。ただ面白かったというよりは、驚いたと言ったほうが正確だろう。
タイトルを見る限り、入不二たちの対談は現実論がテーマであるのに対し、ガルシアの文章は実在論がテーマであるのは明らかだ。だから多少は関連性があるのではと期待していたけれど、読んでみて、両者の議論の重なりに驚いた。それぞれ読み返してみると、両者が互いに理解を深め合う関係にあるとさえ言える。ガルシアの文章を読むことで、どうして入不二たちの対談がこのような展開になったのか少しわかり、また、入不二たちの対談を読むことで、ガルシアが何を問題としているのかがわかった気がする。
(僕はあまりこういう雑誌を読まないのでわからないのだけど、編集者の才覚によりこのような化学変化を起こすことができるのだろうか。それとも、偶然の一致が生じやすいほどに、ありがちな議論だということなのだろうか。)
ということで、これから、この二つの文章をつなげるかたちで論じていきたいが、僕は入不二ファンなので、どうしても入不二に肩入れしてしまうことになるだろう。あくまでガルシアの文章は入不二たちの対談の導入として使うことになるし、入不二の対談相手についても、あくまで入不二の引き立て役として扱う予定だ。特に近藤については、そのような側面が強くなるだろう。
だが、当然ながら、ガルシアと近藤の議論には独自の価値がある。そのことを示すためにも、この文章の最後では、彼らの議論を踏まえるかたちで入不二に対してツッコミを入れることも目指したいと思う。
なお、彼らの議論を用いるうえでは、本来、正確に引用すべきだろうが、文章の流れを優先したいという理由から、また僕なりの読解を共有したいという理由から、正確な引用はあまり行わず、彼らの議論を僕なりの言葉で表現し直すこととしたい。だから、以降の文章は、実際には彼らが言っていないことを言ってしまっている箇所も多いと思う。いずれもそれほど長くない文章なので、是非お読みください。
2 『羅針盤』の紹介
まず、ガルシアの『羅針盤』を紹介するところから始めよう。これは、かなり長々と紹介することになる。僕にとってはとても示唆に富む文章だったので、自分のための備忘録を兼ねて丁寧にまとめておきたいのだ。
なお、その後の展開も前もって示しておくと、第2章での『羅針盤』の紹介を踏まえ、第3章では『現実性とは』について論じていくことになる。
その方向は、ガルシアが重視している「存在論的実在論」を更に二つに分け、ひとつを近藤に、もうひとつを入不二に割り振ることとなる。そして、二人の違いを踏まえ、哲学と非哲学との接触点を「書くこと」に見出し、哲学とその外との関係についても考えていきたい。この議論を駆動するのは、ガルシアの「無関心」というキーワードである。
さて、話を進めよう。
ガルシアは『羅針盤』において、実在論をいくつかに分類し、わかりやすく整理している。その整理自体も非常に興味深かったけれど、より重要なのは、その整理を通じて、実在論とは何か、更には、実在とは何か、ということを明確化してくれたという点にあると思う。
ガルシアは実在論について次のように分類する。
①認識論的・名詞的実在論:例:近年の現象学
②認識論的・形容詞的実在論:例:クワインの弟子たち
③認識論的・副詞的実在論:例:ウィトゲンシュタイン
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④認識論的・逆説的実在論:例:ルイス、思弁的実在論
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⑤存在論的実在論:例:アレクシウス・マイノング
区切り線を入れたとおり、①~③は一連のものとして扱うことができ、④との間にはそれらと違いがあり、⑤との間には更に大きな違いがあるという関係にある。
過去の高名な哲学者の議論をこのように区分できるということ自体も示唆に富むものだが、重要なのは、それぞれの議論の種類によって、実在という語に込めるものが大きく異なるという点にある。更には、その異なり方にも、いわばレベルの違いがあるという点が非常に興味深い。
簡単にその異なり方について述べるならば、まず、①~③の議論の相違点は、実在と非実在の切り分け方にあると言えるだろう。そして、①~③と④の違いは、非実在を実在論から切り離そうとする前者と、非実在を可能性というかたちで取り込もうとする後者の違いだと言っていいと思う。また①~④と⑤の違いは、なんらかのかたちで実在と非実在の違いを重視する前者と、実在と非実在の違いを重視しない後者の違いだと言えるのではないか。
詳細はこれから述べるが、なんとなく、ここには実在と非実在とに関わる議論のレベルの違いとでもいうべきものがあることを感じていただけると嬉しい。
そのうえで、それぞれの違いの説明に移ろう。①~③の議論の相違点についてだが、まずガルシアは、認識論的実在論を大きく名詞的実在論・形容詞的実在論・副詞的実在論の3つに分ける。僕なりの説明になってしまうが、名詞的実在論は、名詞、つまりモノの実在を考察の対象とする。だから、例えば、目の前のペットボトルや、夢の中のドラゴンや、彼女を愛する気持ちといったものが実在するかどうか、といったことを検討することになる。
形容詞的実在論は、例えば、このペットボトルは実在的である、というとき、どのような基準でそれを実在的と扱うか、といったことを検討するものだと言えるだろう。だから認識論的実在論のように、ペットボトル自体が実在するかどうか、ではなく、ペットボトルが実在するかどうかを判断する私たちの、いわば心の内側にある基準が問題となる。(心の内側というのが非常に問題があるけれど、ここではわかりやすさを優先しています。)
副詞的実在論とは、またペットボトルの例を用いるなら、「このペットボトルを実在的に扱う。」というとき、私たちが、どのように扱うのかを問題とするものだと言えるだろう。そこでは実在に対する私たちの態度が問題となることになる。
以上の3つの論を並べてみると、名詞的実在論においては認識対象のモノ、形容詞的実在論においては認識の働きの基準、副詞的実在論においては認識における態度といった違いはあっても、そこには共通項がある。いずれも、認識における実在と非実在の切り分け方についての議論であるという点で、認識論的実在論という同じグループの一員であると捉えることができる。
以降の議論につなげるために指摘しておきたいのは、そこには、議論の順序があるという点である。多分、最も素朴な実在論は名詞的実在論である。ここがスタート地点となる。(と言っても現在の名詞的実在論が素朴だということではない。なぜなら名詞的実在論はその議論領域のなかで議論が深められ、精緻化するからだ。魚類、両生類、爬虫類と進化したからと言って、現在の魚がトカゲより進化の度合いが低いとは言わないのと同じことである。)
そこから、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と議論が進むにつれ、実在と非実在の切り分けの歯切れが悪くなっていくという傾向があるのがみてとれるだろう。名詞的実在論では、外的なモノを明確に切り分けられたが、形容詞的実在論では、それは内的な基準にすぎないものとなっていく。更に副詞的実在論においては、その違いは、実在に対する態度と非実在に対する態度の違いという、非常にわかりにくいものになってしまっている。
副詞的実在論での実在と非実在の切り分けのわかりにくさについてはもう少し言葉が必要だろう。副詞的実在論が持ち出す非実在に対する態度とはそもそもなんだろうか。少し考えただけでも、非実在に対してなんらかの態度をとるということ自体、かなりの困難であるように思える。非実在について、実在と全く関係ないことと強く捉えるならば、実在と全く関係ないものに対する態度を実在論的に有意義に議論することなどできないのではないだろうか。そう考えると、副詞的実在論とは、実在論の成立ぎりぎりのところにある、とても歯切れが悪い議論であると言えるだろう。
その歯切れの悪さを引き継ぐような立場にあるのが、④の逆説的実在論である。①~③の議論はやり方の違いはあっても、いずれも、実在と非実在とを区分しようとするものだった。なぜ、そのような区分け作業をするのかといえば、非実在を実在論から切り離し、追放することで、実在だけの世界を作ることが目的だからだといえるだろう。いわば、いずれの議論も純血の実在の王国を目指すものだったのだ。一方で、逆説的実在論とは、非実在を追放するのではなく、王国の構成員になるのを認めることで、融和により王国の統一を図ろうとするものだと言えるだろう。
非実在を取り込むために重要となるのが、可能性であり、ガルシアによれば「可能なもの」というアイディアだ。実在論において非実在を捉えるためには、非実在を思考し、認識しなければならない。ガルシアはそれを「実在的でないものを思考し認識する奇妙な実在論的様態」と呼ぶ。この奇妙なことを成し遂げるためには、非実在を「可能なもの」とし、実在と同等に扱わなければならない。
ガルシアは、その道筋をふたつ提案し、「かもしれない」という控えめな留保付きの述べ方ではあるが、一方をデイヴィッド・ルイスの可能世界論、もう一方を思弁的実在論と結びつける。
ルイスは、「可能なもの」について、可能世界という考え方を導入することにより、現実世界とほぼ同等の地位を与える。そのことにより、「可能なもの」に重みを付けて、実在と等しいものとして認識しようとする。
一方で、思弁的実在論は、実在するものの偶然性を強調することで、実在が持つ重みを割り引き、「可能なもの」と等しいものとして認識しようとする。
前者は、「可能なもの」を実在と同等まで引き上げようとする試みであり、後者は、実在を「可能なもの」と同等まで引き下げようとする試みであるという点で、鏡のように正反対の対となるアプローチと言えるだろう。
こうしてついに、逆説的実在論において、実在と非実在の区分の歯切れの悪さは、積極的な区分の放棄というところまで進むことになる。
だがそれでも、実在と非実在を切り離そうとするか、取り込もうとするかの違いはあっても、両者の違いは重視されていた。
その違いの重視すらも放棄するのが、⑤の存在論的実在論である。ガルシアは①~④を、いずれも認識論的実在論としたが、なぜ「認識」論なのかといえば、実在と非実在の違いを認識することを目指すという点で共通点があるからだろう。認識の仕方や認識したものの取り扱いには違いはあっても、いずれの議論も実在と非実在の違いを認識することを重視するという共通点がある。
一方で、存在論的実在論とは、認識という言葉が含まれていないという点に示されているように、実在と非実在の違いを認識することを重視しない。認識論的実在論のある側面での最終形とも言える④逆説的実在論においては、実在と非実在を同等に扱おうとするベクトルが働いてはいても、そこには実在と非実在とを異なるものとして認識し、それぞれに別種の操作を加えることができることを前提としていた。だが、存在論的実在論においては、実在と非実在の間にある違いを認識することすらも放棄するものなのだ。
いや、ここで「放棄」という言葉を使ったのは不適切かもしれない。ガルシアは、それを「無関心」と表現している。
『羅針盤』において「無関心」は重要なキーワードである。彼によれば、①~④の認識論的実在論を駆動するのは「主体に対する無関心、認識するものに対する認識されたものの無関心」である。ガルシアは無関心が認識論的実在論を論ずる動機につながる経路を、見返りを求めない愛を比喩として用いることで説明している。つまり、私たちがペットボトルの実在について論じたくなるのは、いわばペットボトルを一方的に愛しているからなのだ。認識論的実在論とは、決して振り向いてくれない、そっけないペットボトルへの片想いのことなのだ。
そのように言うと違和感があるかもしれないが、私たちがペットボトルの実在について論ずるのは、私たちが考察の主体であり、ペットボトルが考察の対象だから、とすることには同意いただけるのではないだろうか。決して、ペットボトルという客体が、客体のままに私たち主体を考察してくれることはない。
そこには主体と対象の非対称性がある。この非対称性を比喩的に無償の愛や片想いと表現することはそうおかしいことではないだろう。主体は認識の対象に関心を持たざるを得ない。なぜならそれが認識ということだからだ。一方で、対象は主体に対して無関心であらざるを得ない。なぜならそれが認識ということであり、もし対象が主体に関心を持ってしまったら、ペットボトルが主体で、私たちが対象ということになってしまうからだ。その非対称性を、ガルシアは見返りを求めない愛も用いて、無関心という言葉により指し示そうとしている。
この「無関心」とは、①~④の認識論的実在論においては非対称性のなかに位置づけられるものだったが、⑤の存在論的実在論においては拡張され、「無関心」が全面化していく。それをガルシアは「主体に対して認識の対象が無関心であることではもはやなく、対象と主体のあいだの無関心なのである。」と表現する。
認識論的実在論における無関心は、対象から主体に対する一方的なものであり、主体から対象に対する関心は、無償の愛に喩えられるように前提とされていた。しかし存在論的実在論においては、主体から対象に対する関心さえも失われ、双方向的な無関心という状況が現出することとなる。
ここには、主体から対象へという視点の切り替えがあり、この切り替えは、存在論的な転回とさえ言うことができるものだろう。
僕はこの転回に着目し、更に論じていきたいのだけど、先を急がずに、まずは、存在論的実在論とは何かという点について説明しておくべきだろう。
ガルシアは存在論的実在論について「対象それ自体の存在様態として(の)実在論」とする。そして「現実存在する対象よりも多くの対象が存在する」と論ずるものだとする。つまり存在論的実在論においては、主体が認識する対象よりも、より多くの対象が存在するということにある。これは、主体から対象に視点が移され、対象それ自体の視点から対象それ自体の存在について捉えようとすることからの当然の帰結だろう。主体の認識から解き放たれたならば、対象が主体の認識とちょうど同じだけしか存在しないとする理由はなくなる。対象は主体の認識をはみ出しているのだ。ガルシアによれば、マイノングはそれを「超存在」と呼ぶ。そして、マイノングは「そうした対象はそれぞれが、完全であれ不完全であれ、可能であれ不可能であれ、具体的であれ抽象的であれ、実在であれ非実在であれ、そのように存在する実在的な様態をもっている。」とする。
このようなマイノングの考え方はとても興味深いものだが尖りすぎているように思う。僕自身はこのような議論の方向が魅力的だと思っており、後ほどあらためて取り上げたいが、とりあえず存在論的実在論というもののイメージを捉えるには少々常識から離れすぎていて理解し難いように思う。存在論的実在論のとりあえずの理解のためには、ガルシアの別の表現を引用したほうがいいだろう。それは「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」という箇所である。つまり、存在論的実在論とは、主体としての人間を、動植物など生物全般のなかに同等のものとして再配置しようとするものである、ということになる。そこでは、人間にはもはや主体としての特権はなく、主体として対象に関心を持つという特別な地位に立つことはなくなる。このように描写される存在論的実在論においては、無関心の全面化により認識主体と対象という区分自体が無効化され、私たち人間を含む全てがただ平等に存在することになる。後ほど論ずるように、僕はこのような捉え方には問題が含まれていると考えるが、少なくとも、存在論的実在論の近似値を指し示すためには、十分にわかりやすい描写ではないかと思う。
ガルシアの『羅針盤』の議論を紹介するにあたって、最後に留意を促したいのは、認識論実在論から存在論的実在論に転回するにあたり、実在という語の意味も大きく変わっているということである。認識論的実在論においては、認識されるものだけが実在だが、一方で、存在論的実在論においては、認識されないものも実在である。つまり、実在という言葉が表すものは、明らかに前者よりも後者のほうが広い。認識論実在論から存在論的実在論への転回とは、実在の捉え方の違いに留まるものではなく、実在という語の適用範囲の拡張でもあるのだ。
以上、ガルシアの『羅針盤』の議論について、今後の議論に必要な範囲で抽出し、僕なりにわかりやすく紹介してみたつもりだ。ここから、更に議論を深めていきたいが、それは『羅針盤』単独で行うのではなく、入不二・上野・近藤の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下、『現実性とは』とする。)と絡めつつ行っていきたい。
3 『羅針盤』も踏まえた『現実性とは』の議論の考察
ここからは、『現実性とは』について、議論の論理的な流れはあまり気にせず、対談で出てきた話題の順序に沿って考察していきたい。
そこでは、先ほど紹介した『羅針盤』と絡めることもあるし、絡めないこともある、ということになるだろう。
(1)行って帰ってくる
対談の最初の方において、近藤は、哲学のあり方の問題として、「行って帰ってくる」という思考の運動のかたちを問題とする。これを僕は、「哲学とは、どんなに知的冒険をし、とんでもないところに議論が進んだとしても、そこから既知の日常に戻ってくることを目指すべきである。」という主張だと理解した。少なくともある側面では当然だろう。どんなに壮大な知的構造物をつくりあげたとしても、それが日常と乖離していたら説得力がない。
そのうえで近藤は、入不二は帰れていないのではないか、と問題提起をしている。更には、帰れているのは歴代の大哲学者のなかでもスピノザだけなのではないかとさえ言っている。(これに対して、上野が、そもそもスピノザは行って帰るのではなく、向こうから出発している、と応じているのが面白い。)
ここで注目したいのが、「帰ってくる」ことについての入不二と近藤の違いである。
まず入不二の立場について。擬製的創造の議論(擬製的創造については後ほど取り上げる)のなかで、対立するプラトニズム的創造との議論の対立により、両方の議論自体が抹消されるという話が出てくる。これに絡めて、入不二は「両方がいっぺんに消えることが「戻ってきたという徴表」だとすれば、私は実はもう戻ってきているのかもしれません。」と言う。確かに入不二は『現実性の問題』において抹消の作業を随所で行っている。最も鮮やかな例が、「ソクラテスは哲学者である。」という文から「現にソクラテスは哲学者である。」へと進んだうえで、更に「現に」を消去し、「ソクラテスは哲学者である。」へと至っている箇所だと思う。(第3章)
一方で近藤は、戻ってきているとするためには抹消だけではなく、なんらかの条件を満たす必要があるとする。その条件とは、僕の理解では、哲学を始めかた、つまり哲学の動機であり、哲学において目指すもののことである。近藤は、近藤にとっての条件を「私が人間以外のものの一部になる」ことだとする。つまり、近藤にとっての哲学とは、「私が人間以外のものの一部」として位置づけられるような結論となる考察を行うということであり、そうでない議論は、十分に戻ってきていないということになる。
僕はここに、重大な哲学観の違いを読みとる。僕は入不二ファンなので、はっきり言えば、近藤の主張は哲学ではなくて思想だと思う。もし、ある考察が、ゴールを定めて行われているのであれば、その考察とは、ゴールとして設定されている主張を行うための手段となってしまう。それは哲学ではなく思想と呼ばれるべきものではないだろうか。真の哲学とは、そのような手段として用いられるものではなく、ただ考察自体を目的として行うべきものなのではないだろうか。なぜなら、設定されているゴール、例えば、近藤の「私が人間以外のものの一部になる」とは、その議論においては決して侵すことのできない聖域であり、もしそれを侵そうとする主張があったならば、それは、この議論の目的に合致しないという理由から却下されるしかないからだ。このように聖域を確保したうえでなされる議論を、僕は哲学とは呼びたくない。
この方向で突き進むならば、実は、日常に「帰ってくる」という目標設定さえも哲学にとっては夾雑物だということになる。よくできた哲学とは「帰ってくるつもりもなかったけれど、帰ってきてしまった」というあり方をするべきものなのかもしれない。僕は詳しくないけれど、もしスピノザの哲学がよくできたものならば、それは、スピノザの議論が、無理やり帰ってこようとはしておらず、ただ帰ってきてしまったようにしか見えないからなのではないか。(ただし、上野の「うまくいけばいい」という言葉を踏まえると、スピノザも日常に戻ってくることを目指していて、そのように意図的に議論を構成していたように思える。)
僕はこの「帰ってきてしまった」というあり方に、『羅針盤』でのキーワードであった「無関心」と同種のものを感じる。また、入不二の『現実性の問題』における「ケセラセラの運命論」とつながるものを感じる。これらに共通する「力み」のなさにこそ、哲学の羅針盤があるように思える。
(2)円環モデルのギャップ
ここまで僕は近藤を貶めるように扱ってしまったが、僕は近藤の『〈内在〉の哲学試論』を読んでいないので彼の哲学の中身を知らない。だが、少なくとも、対談を読む限り、とても興味深い方だと思う。
例えば、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げないであろうという(ことになる)とは言うことができますが、次に泳ごうとして泳げたとき、そのあいだに何があったかということに関しては私の図式だと何も言えません。」、「常に、何が起こっても驚かなければいけないし、何が起こっても驚いてはならない」といった表現がある。これは、入不二の円環モデルの始発点のところにあるギャップを表現するものとして、入不二自身が言っていてもおかしくない表現だと思うし、とにかく格好いい表現だと思う。
(3)擬製的創造
入不二ファンの僕にとって、この対談のひとつの山場は、近藤の擬製的創造の入不二の扱いだった。入不二は他の哲学者の議論を自らの土俵に取り込み、拡張していくのが上手い。当然、もともとの議論が良い素材だからこそなのだが、僕はやはり、入不二の鮮やかな包丁さばきを見るのが好きなのだ。
入不二は擬製的創造の構図のなかに、二つの「ある」と二つの「なる」を見出す。「ある」と「なる」と言えば、入不二が運命論について論じた『あるようにあり、なるようになる』の題名にもなっているとおり、入不二の重要概念である。「ある」の無時間的な現実論と、「なる」の時間論とが織られるようにして運命論が駆動していくというのが、僕が理解する限りの入不二の運命論の概要である。
だから当然、入不二は、擬製的創造の構図と自身の運命論とは繋がっていると考えているはずなのだが、この対談ではそこまでは示されていない。だから入不二が述べるだろうと思われることについて、僕なりの理解を備忘録的に残しておくこととする。
僕の理解では、擬製的創造の構図のうち、現在の「ある」は遍在する現実の力により、無時制的な「ある」と接続する。なぜなら、「もともとそうであった」も「これからもそうである」も潜在的には「ある」からだ。しかし、この接続は円環モデルの始発点にあるギャップを越えなければいけない。
その困難を可能にするのが「なる」の垂直的生成である。決してなるはずがないことになるのだから、これはいわば創造と言ってもいいだろう。更には、それが波及するようにして、過去・現在・未来という時制間の水平的生成としての「なる」も立ち現れる。この創造の不思議を近藤は、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げない」はずなのに、なぜか次に泳げてしまうという驚きに喩えたのだろう。このような創造は決して起こるはずがないのに、なぜか日常的に起こっているという驚きである。
その鏡像関係のようにプラトニズム的生成がある。そこではイデア的な無時制的な永遠の実在としての「ある」が転落し、現在の「ある」として立ち表れることになる。これは現実論的には転落ではあるが、一方で、過去・現在・未来という時制の生成でもあるとも言える。
そのように捉えるならば、擬製的創造とプラトニズム的生成を組み合わせて、入不二の円環モデルを描くこともできるだろう。始発点としてのイデア的な実在が転落し、過去・現在・未来の3時制が生じる。更には各時点での過去・現在・未来が生じるというかたちで時制が豊穣化していく。ここまでが円環モデルの右半分にあたる。しかし、やがて豊穣化には限界が来る。なぜなら時制は豊穣化する一方で、現に手元にある現在がどんどん痩せ細っていってしまうからだ。それを取り戻そうとするのが、「そうである」を持続的現在と捉えることで、無時制的な「そうである」に繋げようとする近藤の擬製的創造というアイディアである。これは円環モデルを時計に喩えるならば6時のところで行われる転回であり、この転回により実在は時制的な分断から回復され、潜在的なものとして位置づけられていくことになる。これが円環モデルの左半分となる。
だから、入不二は「擬製的創造(正立)とプラトニズム的創造(逆立)の両方がいっぺんに消されるかたちで「ということになる」が抹消される水準もあるのではないか」とするが、僕の考えでは、その抹消は「いっぺんに」行うものではなく、円環モデルを丁寧にたどるようにして行うものであるように思う。
だから抹消された先にある祈りとは、突き詰めれば「現実性の力」のことなのだろうと思う。だが、入不二は、祈りは行為であり、内容があり、時制があるとしていることから、力そのものではないとも言えそうだ。「これ」や〈私〉が特異点であるように、「祈り」も完全な抹消の際(きわ)で垣間見ることができる特異点のひとつなのかもしれない。
(4)入不二の視点問題のエレガントな解決
特異点というつながりでは、上野の「じゃあ今あなたはどこから語っているんだ」という問いに対して、特異点を持ち出すという入不二の答え方はとてもエレガントだと思った。僕の勝手な解釈だと、これは、「上野さん、その問いを有効に成立させるための足がかり(投錨地点)としての上野さん自身=「この私」こそが既に現実論上の特異点なのだから、現実性の力に巻き込まれるようにしてしか、現実論を語ることはできないんですよ。」と答えていることになる。
以前、森岡からの「この現実はどこから語られているか。」という似た質問に対して「いや、どこからでもない」「あえて変な表現で言うならば~現実自身が現実を語っている」と答えていたけれど、それよりもいいと感じた。(『運命論を哲学する』)
森岡に対する回答は、現実自身をスタートに置くかたちになっていて、いわば外から現実を捉えたような回答だったけれど、上野に対する回答は、現実の内側から、特異点を通じて透かし見るようにしか現実論を語ることはできないという点が強調されているという点で、より正確なものだと思う。
(5)いわゆる存在論的実在論と、真の存在論的実在論
この章が『羅針盤』と『現実性とは』とを最も絡めたかったところだ。
最初に『現実性とは』を読んだ時、僕は、どこで入不二と近藤の議論がすれ違っているのかがわからなかった。例えば、上野が「近藤さんのドゥルーズ論で引っかかるのは、その思想を自然科学と捉えているところです。」と述べているのが、なぜここで、このような問題を持ち出すのかがわからなかった。
そのとき僕には、入不二は近藤をよく理解しており、近藤も入不二をよく理解しているように思えた。入不二ファンとしては入不二が近藤を理解しているのは当然として(笑)、近藤も入不二を明らかに理解していると思ったのだ。例えば近藤は、実在には事象内容性が伴っていて不十分だから実在性から現実性に向かうべきという入不二の提案に対して、「実在が事象性と一致するようにはわたしは考えていません。」と答えている。これは明らかに、入不二が現実論のなかで見出した潜在性(潜在性は事象内容性と離れていくベクトルを有していることが特徴である)を、近藤は実在に含めることができると応答していることになる。もしそうならば、事象(内容)性と潜在性を合わせたものを現実性と呼ぶか実在性と呼ぶかという名付け方の違いがあるだけで、少なくともここでのやりとりの限りでは両者の議論は一致することになる。一致する二人が何を問題としているのか僕はわからなかったのだ。
だが、『羅針盤』を読んで少しわかった気がする。先ほどひととおり紹介したとおり、『羅針盤』によれば、実在論をある観点から捉えるならば、名詞的・形容詞的・副詞的・逆説的と認識論的実在論の議論がせり上がっていった先に存在論的実在論があるといえるだろう。認識論的実在論においては、実在と非実在の違いについて、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と進むにつれ、徐々に歯切れが悪くなっていきつつも、なんらかのかたちで関与を保っていた。逆説的実在論に至っても実在と非実在を同視する方向に向かいつつも、それはあくまで違うことを出発点としたうえで違うものを同視するという議論だった。だがついに存在論的実在論において、実在と非実在の違い自体に目を向けない地点に到達する。
僕が入不二と近藤の違いがわからなかったのは、二人とも、(当然、上野も含めた三人とも、)存在論的実在論をしっかりと捉えているという点では違いがないからだったのだ。
そして、それでも二人に違いがあるのは、存在論的実在論にも少なくとも二種類あるということを意味している。その違いがわからないから『現実性とは』の対談が理解できなかったのであり、また『羅針盤』でガルシアが言っていることが腑に落ちなかったのだろう。僕の読解では、『現実性とは』でも『羅針盤』でも、この問題は明確に表現されていない。少なくとも僕にとっては、この問題は両者を参照し合うようにすることで、ようやく理解できるようなものだった。
では、この問題、つまり、存在論的実在論のなかにある二つの議論の違いとは何か、について、『羅針盤』を起点として考えてみよう。
僕が『羅針盤』を読んでいてわからなかったのは、存在論的実在論の中身である。ガルシアは存在論的実在論を説明するうえで、マイノングの超存在、デランダのフラット存在論、スーリオ、ラトゥールらによる質化する存在論としての存在様態の理論、(ガルシア自身の捉え方である?)鷹揚な存在論といったものを持ち出す。いずれの人名も『羅針盤』ではじめて知ったものなので、その限りでの理解となるが、僕にはそれらが同じものを指し示しているようには思えなかった。確かにそこには、主体から対象へという視点の転回という共通項がある。だが、例えば、不完全や不可能や非実在さえも、そのような存在として捉えようとするマイノングと、「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」というガルシアの描写との間には大きな隔たりがあるように思える。前者は尖っていて興味深いが理解し難い。一方で後者はイメージしやすいが何かを捉え損なっているように思える。当初、僕にはその違いが何を意味するのかがわからなかった。
そこで理解の助けとなったのが、『現実性とは』での入不二の自然と非自然の違いについての指摘だった。入不二は、近藤との違いを明確にするにあたり、「物理的な自然だけでなく、内在平面からカオスまで含めたすべてを自然と考え」られるとしたうえで「現実性は自然の力ではなく非自然(形而上)の力」であるとする。つまり、近藤の現実は自然の段階に留まっているが、入不二の現実性は形而上にまで突き抜けている、と言っていることになる。
この指摘を踏まえるならば、ガルシア=近藤の自然派と、マイノング=入不二の形而上派の対立が見いだされるということになる。ガルシアは、意図的かどうかわからないけれど、この両者を混淆させて語っていたためにわかりにくく、そこに実は違いがあったからこそ、入不二と近藤は対立していたのだ。
僕は入不二ファンなので、ガルシア=近藤の自然派を、わかりやすいが実在を捉えきれていないという点で「いわゆる存在論的実在論」と呼び、マイノング=入不二の形而上派を「真の存在論的実在論」だとしたい。だが後述するように、僕自身、そのように単純に優劣をつけたような評価できないとは考えている。
(6)閉塞感と開放感
上野は入不二の議論について閉塞感があると指摘する。(後ほど撤回するけれど。)なぜならば「現実には外がない」からだ。これに対して入不二は逆に開放感があると応じる。なぜならば閉じ込めるための壁や境界などありえないのだから。僕はこの対比は重要だと思う。確かに入不二の議論は閉塞感と開放感が同居している。
端的にまとめるならば、入不二の議論は一見閉塞感があるけれど、よく味わうと、そこに開放感が生じてくるようなものだと思う。外側から見たときと、内側から見たときとで景色が違うと言っていいだろう。あまりよい比喩ではないが、F1でレーシングカーがサーキットでレースをしているのを見て、あまり知らない人は、同じところをグルグル回って飽きないのかね、なんて思うかもしれない。だけどファンにとっては、そうでなければF1ではないのだから、そもそも楽しくもなんともない。そのような視点の違いがあるように思う。
ただし入不二の議論とF1で異なるのは、入不二の議論が、外側などないと主張しているという点だ。サーキットには外があるけれど現実性には外がない。いや、F1においても狂信的なファンならば、サーキットの外なんてないと言うかもしれない。それならばF1と入不二の議論は重なることになる。(その方向に進んでいるのが『キリギリスの哲学』だと思う。)
とにかく重要なのは、入不二の『現実性の問題』での議論が内側からの議論であるという点である。(『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外側から運命論を描写しようとしていたように思う。)
なお、内側・外側という視点の違いに留意するならば、上野が持ち出すスピノザの永遠の問いに対する入不二の答えも予想できるように思う。
完全に内側から捉えるならば、確かにスピノザの言うとおり、ひとつながりの永遠の現在しかない。だが特異点に視点を向けることで、外部が垣間見え、時制の一つとしての今が見えてくる。私たちは現にそのような日常を生きている。だが、更に注意深く特異点を見つめ、特異点を通して、あたかも外側から全体を捉えようとするならば、再度、そこには現実性の力そのものとしての神が垣間見えてくる。だが、それはあくまでも垣間見えるのみであり、そのように捉えきることはできない。
(7)非哲学
僕は入不二ファンなので、ここまで、どうしても入不二対近藤の勝負を、入不二優勢と判定してきた。しかし、僕が近藤の入不二に対する有効打だと思うのが、ドゥルーズの「非哲学」を持ち出すところだ。
僕なりに解釈すると、近藤は、入不二の「(哲学は、始めも終わりもないというかたちで)始めから終わっている」という主張に対して、非哲学を持ち出すことで反論している。確かに哲学単独ではすでに終わっているかもしれない。だけど、哲学の外、つまり非哲学という外部を考慮するならば、哲学には非哲学に対する関与という未来があるはずだ。近藤はそう言っているように思う。
確かに、哲学と非哲学にはある種の関係性が生じてしまう。哲学と非哲学は定義上無関係のはずだが、無関係というかたちで関係せざるを得ない。それはほぼ入不二の議論をなぞるものであり、入不二も同意するはずだ。更に時間論も導入するならば、無関係で「ある」哲学と非哲学が、時間経過により、なぜか関係することに「なる」のでなければならない。それがギャップの飛躍という謎だからだ。これも入不二は同意するだろう。そのうえで、入不二ならば、非哲学の領域にも現実性の力は遍在しているとするだろう。なぜなら、そのような遍在性こそが現実の力なのだから。
しかし、非哲学の側からは、そのような哲学的な言説は非哲学には届かないと反論するはずだ。なぜなら、それこそが非哲学なのだから。そのようにして、非哲学はどこまでも哲学から逃れようとする構造を有している。つまり、ここには入不二的なシーソー関係が現出している。近藤が持ち出す「非哲学」という視点には、少なくとも、入不二との勝負をドローに見えるところにまで持っていくポテンシャルがあるように思う。
そのように解釈するならば、近藤のその他の主張についても、入不二への有効打になるように思えてくる。例えば、「行って帰ってくる」の議論のなかで、近藤は、哲学の動機や目的のようなものを持ち出し、そこに帰ってくることが必要だとした。僕はこれを思想に過ぎないと却下したが、これは非哲学との接続の試みだとするならば、見える景色が変わってくる。もしかしたら、僕は哲学の理想を「力み」のなさに見出したけれど、それも無色透明な哲学こそがよいものだという、いわば哲学の思想のひとつに過ぎないのかもしれない。哲学は思想からは逃れられないということになる。
(8)書くということ 動詞的実在論
哲学と非哲学との接点として僕がイメージするのは、哲学的な文章とは非哲学の日常のなかで書かれるものである、ということである。僕は今、ご飯を食べたり、ネコと遊んだりという非哲学的な日常のなかで哲学の文章を書いている。そこでは、文章を書くという行為は日常の一コマとしての出来事であるはずなのに、哲学的な文章を書くという行為にいったん視点を移すと、非哲学的な日常さえも哲学的な考察の対象のひとつとなっていく。書くという行為にはこのような不思議な魅力がある。
この話につながると思うのが、『羅針盤』においてガルシアが導入した「動詞的実在論」という考え方である。彼は「実在化するとは、実在に気づき、実在を説明し、実在にするということである。」と言う。つまり、思考されたものこそが実在するのだと言っていいだろう。更には、思考することと書くことを同一視するならば、書かれたものこそが実在するのだとさえ言っていいと思う。
なお、念のためだが、このガルシアの考えは、強く願えば「思考は現実化する」というようなどこかのビジネス書にあるようなものを指しているのではない。ガルシアは、思考することや書くことに何らかの力があるとさえ考えていないだろう。きっと動詞的実在論のアイディアの根底にあるのは、なんにせよ、思考されたものは、思考されたというかたちで実在していると捉えることができるという事実に違いない。どんなにありそうのないことでも、例えば、飛行機の部品を並べておいたら、ちょうど台風が来て、偶然にも寸分の狂いなくジェット旅客機が組み立てられるかもしれない、というようなことでも、それは、そのように言及されたから、実在するのである。(これが可能的に実在するということである。)
入不二もこのようなただ思考し、書かれただけの仮定の現実性を否定することはないだろう。このような仮定についても、現に仮定されているというかたちで現実性は流れ込んでいると言うだろうし、このような突拍子もない可能性についても、台風や飛行機の部品が有する潜在性として取り扱うことができるだろう。
そのように考えると、思考すること、または僕の言い方ならば書くことには、実在を論ずるうえで特別な意味がありそうだ。
ここで疑問に思う。それならば、もし思考せず、書かなかったら実在しないのだろうか。ガルシアは実在しないと考えているように思える。それは「実在にする」というような表現に現れている。また近藤も、具体的な言及はないが、同様に考えているように思う。なぜなら、彼は、哲学と非哲学を峻別し、「未来形式」というかたちで、将来的に哲学が非哲学にアクセスする可能性を見出しているからだ。未来において哲学が新たに非哲学に関わるということは、つまりは哲学的な思考をすることや哲学的な文章を書くこと自体に、新たな対象にアクセスする力があるということになるはずだからだ。
一方で、入不二はそうは考えないだろう。思考してもしなくても、書かれても書かれなくても、そのようなものとして現実はただそのようにしてあるし、なるようになる。だからこそ、哲学は始めから終わっている。
それは入不二自身の思考や執筆活動にも及ぶはずだ。入不二が本など書かなくても、『現実性の問題』で描写されたような現実性の力は現にある。そのような本として『現実性の問題』は書かれているのだろう。
ここにおいて、ガルシアが指摘した無関心はついに、哲学することへの無関心にまで拡大しているように思う。無関心だからこそ、軽快に「力み」なく哲学ができるのかもしれない。入不二自身がそのような態度にあるかどうかはわからないが、『現実性の問題』はそのような態度で書かれたものとして読まれるべきものだと思う。
だがそれでは話は終わらない。哲学をそのように捉えることは、一方で、その裏にあるはずの、達観せず、哲学を駆動する野生児・近藤のような哲学の重要さも浮かび上がらせるように思うからだ。哲学とは、非哲学と関係する何らかの動機と目的をもって、いわば哲学の思想を持って取り組むべきものだという強い決意があるということになる。それが入不二の哲学の哲学に対置されるだろう、思想の哲学であり、非哲学のなかでの哲学である。
(9)実在の質
最後に、ガルシアの側からの入不二への反撃の橋頭堡となるかもしれないと僕が考えるものを紹介したい。
ガルシアは「存在を量化するのではなく質化する存在論」を提案する。その考えは「様々な存在様態は、けっして互いに還元可能ではなく、またある一つの同一的存在の異なる質なのでもない。」と示される。
僕はこの文章しか読んでいないので、それが実はどのような主張かは想像するしかないが、この考えを極端に推し進めるならば次のように言えると思う。
「机の上のペットボトルと、その横にあるコップとは、モノという同じ種類のものではなく、あくまでペットボトルとコップという別のものである。現在のペットボトルと1秒後のペットボトルとは、同じペットボトルではなく、現在のペットボトルと1秒後のペットボトルという全く別のものである。さきほどのペットボトルとコップを別のものと捉える思考と、それを思い出している現在の思考とは同種の思考ではなく、全く別のものである。そもそも、ここで何回も登場した思考や存在という語さえも、それは同じ語ではなく、全く別のものである。」
このような極端な議論を仮に「超・質化存在論」とするならば、それは入不二の現実論への有効な反論になるはずだ。なぜなら、この議論は、現実論にせよなんにせよ、議論というものが有効に成立することを否定するものだからだ。
このような議論は否定のためだけのものであり価値がないと否定することはできない。なぜなら、この極端な議論は、全く何も生み出さない訳ではないからだ。ここには、このような議論を通じてしか指し示せないものがあると僕には思える。ここでは、哲学するということすらも抹消することでしか指し示せない、現実というものを暗に指し示すことに成功しているとも言えると思う。
これは、全てを語り切ることで哲学を消去し、それにより現実を指し示そうとする入不二のアプローチに対になるような、全く語り始めないことで現実を指し示そうとする、もうひとつの方向性だと言ってもいいように思う。
4 おまけ 質と量 ギャルの戦略
これで、『現実性とは』と『羅針盤』を読んで考えたことの備忘録は終わるが、もうひとつ『現代思想』のなかには印象深かったものがある。
それは『加工された自己イメージの「自分らしさ」』だ。これは、渋谷のギャルのプリクラ文化に始まる、日本の女の子の自撮りの歴史についての話なのだか、とても面白かったのだ。
久保は自撮りの歴史を「自分らしさ」というキーワードで紐解いていく。そして次のようにまとめる。
彼女たちの言う「自分らしさ」とは、他者に対する「自分らしさ」であった。具体的には二段階で成り立ち、一段目は、「社会」に対する、自分が属す集団の「自分らしさ」、二段目は、自分が属す集団内の他者に対する、個人の「自分らしさ」である。
この図式をあてはめると、例えば昔の渋谷のギャルは、ガングロメイクをしてプリクラにかっこよく映るという価値観を追求し、周囲から差別化することで、ギャル集団としての「自分らしさ」とした。更にはギャル集団のなかで、よりガングロメイクがうまくできるようになることで個人の「自分らしさ」とした、ということになる。その構図が時代の移り変わりとともに、プリクラから写メのブログ、写メのブログからインスタへ、という自撮り文化の移り変わりのなかで反復されていったのだ。
興味深かったのは、まず集団として質的に差別化し、そのうえで集団のなかで(順位をつけるというかたちで、いわば)量的に差別化するという戦略をとっているという分析である。確かにこれは理にかなっているように思う。
ギャル的戦略をとらない生き方としては、例えば、ただ金持ちになりたい、とか、ただ出世して偉くなりたい、という生き方がある。これらは、ただ、量的差別化だけに頼っている生き方だと言ってもいいだろう。金持ちになるとか出世するといった一般的な価値観をそのままに受け入れ、いわばレッドオーシャンで量の競争を強いられている。このような生き方では、いくら金持ちになっても、いくら出世しても、上には上がいて、なかなか満足できなくなる。更には、なぜ金持ちになりたいのか、なぜ出世したいのかと疑問を持ってしまったら、人生の価値さえも否定することになりかねない。
一方で、ギャルの戦略をとれば、競争する人数を絞ることができるし、そのような生き方をする理由についても疑問を感じることはない。なぜなら、ギャルは、どこかの時点で、ギャルとして生きることを意識的に選択したはずだからだ。どうしてかっこいいギャルになりたいのかと問われたら、自分で決めたから、と答えればいい。そして、もしいつかギャルとして生きることに疑問を感じたなら、その時点でギャルを辞めさえすればいい。それは自己否定ではなく、単なるギャルの卒業である。
このように推奨されるべき生き方としてギャル的戦略を取り上げたが、もうひとつの推奨されるべき生き方としては、全く順位付けのような量的差異に関心を持たないような生き方がありうるだろう。ただ人とは質的に異なる生き方をするという戦略である。これを世俗的に表現するならば、「世界に一つだけの花」戦略ということになるだろう。
だが、全く比較しないで生きることは難しい。だからこそ簡単に「世界に一つだけの花」と歌われることはどこか嘘くさくて不穏なのだし、その困難の克服を目指すためにこそ仏教があるとも言えそうだ。
また、この量的差異の比較という観点はとても根深く、哲学のなかでも見いだされる。この文章に関係するところで例示するならば、そもそも、実在と非実在を区分するという考え方が実在と非実在の間で順位付けをしようとするものだと言える。
それでも、時々、量的差異のしがらみにとらわれずに生きているように見える人がいる。(その人の実際の内面は知らないけれど。)そのような人は、たいてい、無関心で無頓着に見える。(みうらじゅん先生とか。)
この無関心こそが『羅針盤』でガルシアがキーワードとした無関心であり、入不二のケセラセラの運命論などに感じる力みのなさであり、入不二が開放感としたもののような気がする。ギャルがガングロメイクにより一定程度まで「自分らしさ」を確保することに成功できたのも、周囲の目への無関心だったと言えるだろう。
僕も、極力、無関心を目指しつつも、せめてギャル的戦略をとり、哲学により質的差異を確保したうえで、哲学集団ののなかで、哲学の順位付けを目指すような生き方をしていきたいと思った。