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空と大地の間の「幅」

似たような話が続くけれど、またヨガ・瞑想と哲学の話。

数年前のヨガフェスタで、ODAKAヨガの創始者であるロベルト先生のクラスに参加したことがある。大人数だし、通訳を介してだし、そんなに期待していなかったけれど、とてもよかった。独特の空気感があって、さすが大御所だという感じ。クラスの内容としても、特に、自由に翔ぶというイメージを強調していたのが興味深かった。時間が経ち、記憶もあやふやとなり、僕の勝手な解釈が入り込んでいるかもしれないけれど、重力から解き放たれ、自由に翔ぶ鳥のようになる、というイメージだ。確かに、インナーマッスルの力も使って、重力に押しつぶされないようにするという感覚は、その後のヨガでも役立っているように思う。

だけど、ヨガでは、重力に抗い、上方向に意識を向けることは少ない。どちらかというと、立っているときには、しっかり足裏に感覚を向け、大地に根ざしているというイメージを持つことが推奨される。また、仰向けに寝ているときも、背中が地面に沈み込むような感覚を持つと上手にリラックスできるとされる。

どうも、ロベルト先生が言っていたことと、普通のヨガが言っていることは矛盾しているのではないか、という気もする。だけど当然、そんなはずはない。きっと両方が重要なのだ。例えば、気をつけの姿勢で立っているとする。ヨガではこれをサマスティヒというのだけど、このとき、僕の頭は上に伸びつつ、僕の足裏はしっかり地面に根付いている。僕はそんなに上手にはできないけれど、そういう方向で頑張る。理想的には、僕は空に羽ばたきつつ、大地に根付いている。ヨガは、その拮抗状態を目指していると言ってもいいかもしれない。僕は重力ゼロで大空と大地を結ぶ紐帯となっている。そんなイメージを持つと上手くヨガのポーズがとれる気もする。

 どうも理想論すぎて無理筋の話だと感じるかもしれない。人間が紐帯と化すことなんてできる訳がない。ちょっとスピ系すぎるように思える。だけど、実はヨガなんてやらなくても、人間はそういうものだとも言える。なぜなら、僕たちは飛行機や地下鉄に乗らない限り、大空と大地の間に生きているからだ。事実として、僕は約170cmの長さで空と地面との間をつなぐ存在だということまでは言えるような気がする。

 そうだとするならば、ヨガとは、実際生まれながらにして空と大地の間に生きる存在であることを思い出し、それを意識することにより、より上手に生きることを目指すものなのかもしれない。空と大地の間にある、人間の領域の幅を意識し、羽ばたき、根付くことにより、その領域の拡大を目指すものなのかもしれない。

 ここまでは、ちょっとスピリチュアル寄りの話すぎるので、ここまでなら僕が話すようなことではないだろう。こういうことについては、もっと造詣が深い人がたくさんいるのだから、僕などが出る幕ではない。

 僕がこのような話をしたのは、ここでの、空と大地の間の人間の領域の「幅」というアイディアは、哲学的に拡張することができそうだと思ったからだ。

 まず哲学の方向に進まず、いわゆるカジュアルなヨガの領域にとどまったままでも、空と大地(つまり頭と足の裏)以外にも色々な幅を見出すことができる。特に重要なのは、胸・お腹と背中の間の幅だろう。呼吸において、胸と背中の間や、お腹と背中の間の距離に意識を向けることはとても重要だ。

 そこから、身体から離れて瞑想的な話に入っていくと、きっと注意を向ける対象と、注意をしている自分との間の距離も重要だろう。例えば、目の前に燃えるロウソクの炎を見て瞑想していたとする。(したことはないけど。)そこで重要なのは、きっとロウソクと自分の間の距離だ。その距離を無限小にし、自分とロウソクを一体にするのがサマタ瞑想で、その距離を無限大にとっていくのがヴィパッサナー瞑想の道筋ではないだろうか。だけど、瞑想をしていない僕たちは、無限小でもなく無限大でもない日常的な「幅」をロウソクとの間に感じて生きている。

 いよいよ哲学の領域に入り込んでいくと、二点間の距離という意味で重要なのは、未来と過去の間の時間的な距離だろう。僕たちは、未来と過去の間の現在に生きていて、それがいわば、人間の領域の「幅」だと言ってもいい。なぜなら、手が届かない未来には自由はなく、確定した過去にも自由はないという意味で、現在にしか自由を見出すことできないからだ。人間にとって自由意志が必須だとするならば、現在こそが人間の領域だとすることは、そうおかしいことではないだろう。

 同様に、二点間の幅のなかにこそ人間性を見出すという思考の道筋はいくつもありうる。例えば、人間が、人間らしく生きるためには、ガチガチの因果的決定論でもなく、単なる神の気まぐれでもなく、その両者の間にある考え方をする必要があるという考え方がある。これは偶然と必然の間にある「幅」のなかに人間の領域を見出す考え方だといっていいだろう。

 ほかにも、色々なところに「幅」を見出すことはできるだろうが、重要なのは、そのいずれもが、人間の領域の「幅」として表現できるということだ。空と大地、お腹と背中、ロウソクと観察者、過去と未来、偶然と必然、いずれにも「幅」はあり、その幅にこそ人間の領域がある。(逆に、すべての「幅」とは人間の領域のことである、と言ってもいいようにさえ思える。)

 僕は哲学的興味に基づき、そんなことを考えているけれど、まだ、それが何を意味するのかはよくわかっていない。そのためには、もっと様々なところにある「幅」を発掘する必要があるのかもしれない。それこそが、人間らしく生きるということの鍵でもあるような気がする。  だけど、そんなことばかり考えてもいられないので、実際の僕は「幅」のことなどすっかり忘れ、日常を生きている。それでも僕は、時々、空と大地の間の「幅」を思い出すことで、僕は「幅」的思考の入り口に戻ってくることができる。このことは、ヨガや瞑想に役立つだけでなく、哲学にも役立っているような気がする。

ネコとの会話、瞑想

これから始めるのは、言語と瞑想についての話である。

まず、言語の側からの導入として、一週間くらい前の夜のうちのネコとの話をしておきたい。

そろそろ寝ようと思ってトイレに行ったあとだっただろうか、僕のあとをくっついて歩いていたネコが、先回りして二階に向かう階段を駆け上り、僕の目の高さまで上がったうえで、僕に向かってニャーと啼いた。何がご所望なのかよくわからないけれど、なにかしてあげないとなあ、と思い、抱きかかえてエサがある皿の前まで運び、キャットフードに我が家の用語でのフリカケ(犬猫用のビーフジャーキーを砕いたもの)をかけてあげた。

ムシャムシャ食べるネコを見ながら、僕はぼんやりと、ネコの言葉がわかったら、本当は何をしてほしかったのかがわかるのになあ、なんて考えていた。さっきの僕はなんとなくご飯かな、と思ったけれど、もしかしたら、おもちゃで遊んで欲しかったのかもしれないし、抱っこしてほしかっただけなのかもしれない。

そんなことを考えていて、ふと思った。言葉はたしかに便利だけど、もしネコと言葉が通じてしまったら、ネコが何を考えているのか思いを巡らせることもなくなってしまうのではないか。ネコとは言葉が通じないからこそ、ネコについて深く考えるとも言えるのではないだろうか。言葉と思いを寄せることとはどこか相容れないところがある。

もうひとつの導入として、瞑想の話もしておきたい。素人の不確かな情報だけど、瞑想にはサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の二種類があるようだ。サマタ瞑想とは、目の前に置かれたロウソクの炎や「息を吸う時に鼻の穴を空気が通る感触」のような特定のものに意識を集中させて瞑想するもののようだ。ヴィパッサナー瞑想は、あらゆるものごとを観察するようなかたちで瞑想するもののようだ。どうも言い回しがあやふやなのは、きちんと勉強をしたことがなくて知識がないからだけど、多分、不備はあっても大きく間違えてはいないと思う。一点集中のサマタと全体的なヴィパッサナーというイメージを持てさえすれば、少なくとも僕がこれから書く文章を読む上では十分だろう。

なぜ、言語と瞑想をつなげるのかといえば、まあ、どちらも僕が興味を持っているからなのだけど、内容としても、両者には「切り替え」という共通点があるように思うからだ。

瞑想に「切り替え」があるのは明らかだろう。一点集中のサマタ瞑想から全体に注意を向けるヴィパッサナー瞑想に移行※するためには何らかの切り替えは免れないはずだ。(※両方向への移行がありうるけれど、ネットで見ると、サマタ瞑想を練習してヴィパッサナー瞑想に進むのが一般的なようなので、そちらを例にしています。)

なぜなら、例えば、鼻の穴の空気の流れを感じることと、身体全体で感じることの間には飛躍があるからだ。その飛躍を緩やかに徐々に埋めていくことなど不可能に違いない。

その不可能性は、その緩やかな拡大の道のりがあまりにも遠大だからとも言える。鼻の周囲に集中するのに3分かかったとして、その集中を口に広げ、目に広げ、耳に広げ、とやっていたら、それだけでも単純計算でも3分×4(鼻・口・目・耳)=12分かかるし、同様のペースで身体全体に広げるならば、きっと何時間もかかるだろう。そんなに集中力を保てるはずがない。

だけど、より根源的な不可能性は、鼻という部分への意識の集中により、その集中の対象には面積のような数量性が失われるというところにあるだろう。鼻に集中するということは鼻のみが意識の対象であり、意識の対象の全てが鼻となるということである。他に比較対象がない状況では、鼻が全体に占める割合や面積といった数量のようなものには意味がなくなる。集中の対象が面積ゼロとなってしまえば、ゼロに何を掛けてもゼロのままとなる。そもそも集中の対象を拡大するということには言葉遣いからして無理があるように思う。集中と拡大は矛盾していると言ってもいいだろう。このような経路から導かれる不可能性こそが一部を全体に徐々に広げることの不可能性の本質だろう。

では、どうやって一部に集中している状況から、全体に集中している状況に至ることができるのかといえば、それは何らかの切り替えによるしかないはずだ。(僕は瞑想が上手じゃないから、あくまで予想です。)一部への集中を練習することで集中するという作業に慣れて、それを全体への集中へとステップアップするという感じなのではないだろうか。心機一転、よし次回は全体への集中を練習するぞ、と気持ちを切り替える感じといえばいいのだろうか。(あくまで予想です。)

次に、言語についても「切り替え」があるという話をしたいと思う。

完全に僕が好きな哲学者である入不二基義の受け売りだけど、言語には否定を介して全体を指し示すという特殊な機能がある。例えば、青を否定して「非青」とすれば、「非青」は赤や黄色や緑といった青でない全ての色を指し示すことができる。成田空港の入国ゲートに「日本人」と「日本人以外」という二種類のゲートを設ければ、全ての入国者をいずれかのゲートに案内することができる。「青」+「非青」とすればすべての色を示すことができるし、「日本人」+「日本人以外」とすればすべての人間を示すことができる。

念のためだけど、これは決して青や日本人を優遇している訳ではない。「山吹色」+「非山吹色」でも、「ローマ教皇」+「非ローマ教皇」でも(ローランド+非ローランドでも)同じことだ。

言語がここで行っているのは否定を介した切り替えだと言っていいだろう。青が非青に切り替わっているのだから。

僕は、この瞑想の切り替えと言語の切り替えは深く関わっているのではないかと考えている。なぜなら、言語が「青」+「非青」とすることで全体を指し示していることと、ヴィパッサナー瞑想が全体に注意を向けるものであるということとは、「全体」という面で共通点があるからだ。瞑想においても、一点集中のサマタ瞑想から、非サマタ瞑想とでもいうべき瞑想の反転が起こり、ヴィパッサナー瞑想に至るのかもしれない。

ただし、言語においては、正確には、青から切り替わる先は非青であり、色全体ではない。それならば鼻の先にだけ集中しているサマタ瞑想から、非サマタ瞑想に至っても、それは、鼻の先以外のすべてに集中する瞑想にしかならない。それでは画竜点睛を欠くような気がする。

では、言語においては全体を捉えることはできないのかといえば、そのようなことはない。全体は、青から非青への切り替えを可能とするような全体を見渡す視点として現れる。青も青以外の色もいずれにせよ色の一種だよね、と全体を見渡す視点があるからこそ、青から非青への切り替えが可能となる。一点集中のサマタ瞑想から全体に注意を向けるヴィパッサナー瞑想への切り替えにおいても、同様に、集中というものをメタ的に捉えるような視点に切り替えを行うことで全体に至ることは可能であるように思える。

(青+非青というかたちで加算表現をすることで全体を指し示すことができるが、このような説明も、そのような加算を可能とするような場を想定するという点で、視点の切り替えを行っていると言える。)

また、メタ的な視点への切り替え以外にも切り替えの道筋はありそうだ。

ひとつ思いつくのは、客体から主体への切り替えだ。僕が青いコップを見ているとき、そこには青しかない。だけど、注意を青いコップではなく、それを見る主体、つまり僕自身に注意を向けてみる。そうすると、そこには青いコップを見ている僕がある。青いのはコップではなく、僕自身がそう感じているだけだということに気づく。僕が別のものを見れば、そこには黄色があるかもしれないし、また別のものを見れば、そこには赤があるかもしれない。いわば、僕のなかには全ての色があるとも言える。つまり、コップという客体から、僕という主体に注意を切り替えることで、僕のなかにすべての色を見出すことができる。このような捉え方が瞑想と親和性が高いかどうかはわからないけれど、内観に向かうという点では、なんとなく瞑想っぽいアイディアのような気もする。

ほかにも、コップの色ではなく、コップのマテリアルとしての大きさや形のほうに注意を向けるというやり方もあるかもしれない。そうすれば、そこにはコップが様々な色を持つ、潜在的な可能性を感じることができる。可能性というかたちで色全体にアクセスする道筋もありえるように思う。

重要なのは、意識の切り替えには色々なやり方があり得るということであり、きっと、瞑想での切り替えは、そのいずれのやり方も含みつつ、どのやり方よりも深いところで切り替えを行っているのだろう、ということである。

そして、僕の興味は、それをどこまで言語で捉えることができるのか、ということであり、僕の問題とは、その切り替えを、どこまで、言語的なものとして解釈すべきなのか、ということだったとも言える。

だけど、先日、ヨガの先生が興味深いことを言っていた。(その日はもうひとつ一つ興味深い言葉があって、それはhttp://dialogue.135.jp/2021/06/13/kokyu-gyaku/に書いている。)

先生は、瞑想の手順の話のなかで、「最初は呼吸により空気が鼻を通る感じや心拍に集中して、その集中を徐々に身体全体に広げていく。」というような話をしていたのだ。先生はサマタやヴィパッサナーという言葉は使っていなかったけれど、これは明らかにその類の話だ。サマタからヴィパッサナーに徐々に移行するなんていうことが可能なのだろうか。ここまで論じてきたような「切り替え」のない道筋なんてあるのだろうか。

実は、この問題については既に僕の見解は述べている。サマタ瞑想で一点集中するということは、その集中の対象が面積ゼロになるということだから、ゼロに何を掛けてもゼロにしからないように、ゼロを徐々に拡大するなどということは不可能であるはずだ。

だが僕のこの主張は机上の空論だ。瞑想の初心者の想像に過ぎない。瞑想に限らず、現実というものはいつも想像の斜め上をいく。論理的なギャップが、瞑想の実践により軽々と飛び越えられていくということは非常にありうる。だから、先生の言葉には真実が含まれているような気がする。(現実にはギャップを飛び越える力があるという話は、入不二の円環モデルの12時のギャップの話と通じると思う。)

もしそうならば、言語における切り替えはどうなるのだろう。もし瞑想の実践において(もしかしたら、瞑想に限らず、人生全般としての実践において)「切り替え」が決定的な役割を果たしていないならば、言語における切り替えをどのように位置づければいいのだろうか。

多分、その答え方としては、言語を実践のなかに位置づける方向と、言語を実践の外に位置づける方向とがあると思うけれど、そのどちらを進むべきなのかは、僕にはわからない。

ただ、冒頭のネコについてのエピソードを思い出すと、言語というのは現実を切り刻んでしまうところがある。ネコが語る言葉に頼り切り、ネコの現実の思いに目を向けなくなったとき、言語は僕とネコの間を切り裂き、そこに分断や切り替えを招き入れる。

僕は哲学カフェをやっているのだけど、うまくいっているときの哲学カフェのような理想的な状況であれば、言葉がすべてを解決してくれるという楽観的な立場だった。だけど、言葉だけじゃないんだよな、そんなことを感じた二つの出来事だった。

分析・総合、演繹・帰納

これは本当に自分向けの備忘録なので読む価値はないです。この問題については既に教科書的なきちんとした答えが既にありそうな気がします。知っている方がいたら教えてください。

僕の疑問は、分析・総合と演繹・帰納の関係だ。

僕の理解では、分析的な言明とは「ネコは動物である。」のようなものだ。カントによれば、「ネコ」という主語に既に「動物」が含まれているということになるそうだ。つまり分析的な言明は「動物の一種は動物である。」という極めて当然のことを言っていることになる。

一方で、総合的な言明とは「ネコは紐で遊ぶのが好きだ。」のようなものだ。カントによれば、「ネコ」という主語に「紐で遊ぶのが好き」ということは含まれていない。つまり総合的な言明は新しいことを言っていることになる。ただし、うちのネコは二匹とも紐で遊ぶのが好きだし、たいていのネコはそうだろうけれど、どこかに紐で遊ぶのが好きではないネコもいるかもしれない。歳をとったネコは紐になんて見向きもしないかもしれない。だから総合的な言明とは、新しくて意義もあるけれど、どこか危うい言明だとも言える。

当然でつまらない「分析」と意義があるけれど危うい「総合」という対比から、僕は演繹と帰納の関係を連想する。

演繹では「哺乳類は動物である。」と「ネコは哺乳類である。」から「ネコは動物である。」を導く。演繹とは論理構造だけから導くことができることを導くものだと言っていいだろう。一方で帰納では複数の実例を観察し、そこに共通する法則を取り出そうとする。何匹ものネコの目の前に紐をぶら下げ、その紐に興味を持つかどうか実験することを通じて「ネコは紐で遊ぶのが好きだ。」を見出す。

ここには明らかに分析・総合の対比と同様に、当然でつまらない「演繹」と意義があるけれど危うい「帰納」という対比がある。僕は分析・総合と演繹・帰納は全く同じもので、分析=演繹、総合=帰納だとすら思っていた。

だが、どうやらそれほど問題は単純ではないようだ。澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』を読んでいたら、まるで当然かのように「帰納/分析」と「演繹/総合」というペアでの対比構造が図示されていたのだ。(澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』p.99)どういうことだろう。これは大問題だ。

澤田のこの対比が登場するのは、ニュートンの分析・総合とヒュームの演繹・帰納を比較する場面においてである。

澤田によれば、ヒュームは仮説演繹法の一種とでもいうべき考え方をとっている。

つまり、

(1)個別的因果関係を観察する。

(2)その観察からの帰納によって一般原理を仮説として立てる。

(3)その原理の仮説を演繹的推論によって別の個別事例へと適用し、観察予測を立てる。

(4)その観察予測を経験によって「確証(confirm)」する。

(5)以上の手順の繰り返しによって一般原理の体系全体を確証する。

(澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』p.79)

という手順である。(2)の帰納による仮説定立と、(3)の演繹による予測定立と、(4)の実験による予測(と仮説)検証というサイクルが回ることとなる。

澤田はこれを一般原理と実験観察の間の往復構造として描写し、帰納を実験観察から一般原理に向かう矢印として書き入れ、演繹を一般原理から実験観察に向かう矢印として書き入れている。

これは僕の理解によれば、世界の個別の事象から、何らかの法則を導くのが帰納であり、具体的な法則から世界の事象について説明・予測するのが演繹だということになる。

澤田によれば、ニュートンも、分析と総合という用語を用いて同じようなことを言っているらしい。実験結果からその原因を発見しようとすることが分析であり、つまり実験観察から一般原理に向かう矢印にあたる。また、分析により見出した法則・原理から、新たな実験観察について統一的な説明を行うことが総合にあたるということになる。

ある特定の事象について精緻に考察し、そのような事象が生じるに至った理由やメカニズムを捉えようとするという営みは、語感としても分析という言葉がふさわしいように思う。また、複数の事象について統一的な説明を行おうとする営みが総合と呼ばれることも自然なことだと思う。つまり、ここまでの議論の展開は、なにげなく読み進む限り、大きな問題はないように思える。

しかし、振り返ってみると、いずれも事象から法則に向かうものだという意味で、ヒュームの帰納とニュートンの分析が重ねられ、いずれも法則から事象に向かうものだという意味で、ヒュームの演繹とニュートンの総合が重ねられることになる。

これは明らかに、分析=演繹、総合=帰納 という僕の直観と異なる。いつのまに、こんなことになってしまったのだろう。

自説を論じる前に、澤田が着目しているヒュームとニュートンの違いについては言及しておくべきだろう。

澤田によれば、ニュートンの一般原理とは法則とでも言うべき揺るがない確たるものだが、ヒュームの一般原理とは、あくまでも仮説であり、更新可能なものである。そのような違いがあるという点が重要である。

だから、ヒュームにおける一般原理と実験観察との間の往復(循環)構造とは、文字通り、往復構造だと言っていいだろう。個別の事象の観察により、仮説が更新・強化され、仮説が更新・強化されることを通じて、個別の事象の観察の精度が上がっていく。

一方で、ニュートンにおける一般原理と実験観察との間の往復構造とは、実は、増殖とでも言うべきものだろう。個別の事象の観察により発見された法則は見直しの対象とはならず、確定する。そのようにして成立した法則は、新たな事象の観察と、観察による新たな法則の発見の礎となっていく。だから、一般原理と実験観察との間の往復が一巡するごとに、新たな法則がひとつずつ増殖していくこととなる。

懐疑主義的な僕からすると、軍配はヒュームに上がる。ニュートンはあまりにもナイーブだと思う。ヒュームや僕は、確たるものを見つけようとしつつも、グルグルと仮説でしかないものと格闘しているのに対し、ニュートンはあっさりと確たる法則を見出し、次のステップに進んでしまっている。

常識的な言い方だけど、帰納では確実な真理には到達できない。いくら黒いカラスを観察しても、白いカラスがいないことは証明できない。その問題に向き合っていないという意味で、ニュートンの道筋には誤りがあるし、ヒュームのほうがそのような問題に真摯な態度をとっている。

だけど、澤田の図を眺めていると、どうもそこには、単なる誤りではない何かがあるようにも思えてくる。どうしてこんなにきれいに違っているのだろう。

まず言えそうなことは、ヒュームの帰納・演繹のプロセス全体が、ニュートンの分析に相当するのではないか、というものだ。ヒュームの実験と仮説のサイクルを何度も回すことによって、仮説の確度は高まり、ニュートンの確たる法則に近づいていく。ヒュームの往復運動の果てにある、(到達できない)理想形として、ニュートンの法則があるとも言える。

考えてみれば、僕もヒュームもナイーブだ。様々なことを懐疑に付しながらも、何度も、実験と仮説のサイクルを回すことができるということについては疑っていない。世界のものごとを何度も繰り返し観察し、ひとつの仮説を何度も更新できるために必要な「複数性」とでもいうべきものを疑っていない。永井の言葉で言うならば「ものごとの理解の基本形式」の枠内にいることについては疑いを持っていない。

もし、それを疑わず、信じ込むならば、一気にニュートンのように、もっと楽天的にすべてを信じてもいいような気もする。僕もヒュームも信じることに敏感な割に、疑うことに無頓着すぎるような気もする。(ヒュームは実は両方に配慮しているのだ、というのが自然主義と懐疑主義の両立を主張する澤田の解釈なのかもしれない。)

言うならば、何かを疑うためには、その疑いを成立させるために何かを信じざるを得ないということである。ニュートンはそこで、あえて疑うことを放棄し、信じることを選んだとも言える。(それならばニュートンは僕の懐疑の先をいっているということになる。)

あくまでも、僕のアイディアの備忘録に過ぎないけれど、僕が澤田の図に違和感を持ったのは、澤田が一般原理と実験観察というひとつの軸しか書き入れていないからなのではないだろうか。僕の違和感を解消するためには、その軸に直交するようにして、もう一つの軸を書き入れなければならないような気がする。

今のところ、第2の軸には、信じる-疑う、または、楽観-悲観 という名前が書き入れられるような気がする。そして、ヒュームとニュートンの往復運動を分けて配置することで色々なことが見えてきそうな予感がある。

色々なこととは、例えば、時計回りに総合の円環があり、反時計回りに分析の円環がある、というようなことだけど、そこから先は何も考えられていないので、この文章はおしまい。

※ ニュートンは読んだことがないので、『光学』を読んでみようと思っています。

呼吸と集中と弛緩

ヨガの先生が言っていたことが、先生自身の意図とは違うかもしれないけれど、僕にとってはとても興味深かったので書き残しておく。

先日、ヨガスタジオでヨガのクラスに出ていたとき、先生が「普通の深呼吸だと、息を吐きながら脱力するけれど、今は息を吸うときに力を抜いて、息を吐くときに力を入れてね。」というようなことを言っていた。確か体をねじるポーズかなにかのときだった気がするけれど、そのあたりはあやふやだし、先生の言葉自体も正確には覚えていない。

僕はなんとなく、息を吸う=力をためる、息を吐く=力を抜く、だと思っていたので、その逆の場合があるというのが新鮮だった。確かに言われてみれば既にやっていたことだけど、明確に言葉で整理できたことが新鮮だったのだ。

実際は、ヨガをやっていると、息を吐きながら力を入れることもあれば、息を吐きながら力を抜くこともある。つまり、息を吸う・吐くと力を入れる・抜くでは、2×2=4通りの組み合わせがあって、場面によって使い分けている。同じ前屈でも、少しでも深く前屈しようとするときは、息を吐きながら筋肉を使って体を前に倒しているし、後屈のあとにリラックスのために前屈するときは、息を吐きながら力を抜いて腰を伸ばしている。

既にやっていたことを言葉で捉え直すことで、いつでもそれを意識的にできるようになるし、更に別の場面でも応用できるようになる。

これは日常生活の場面にも応用できるのではないだろうか。日常生活のなかでも緊張・弛緩と呼吸の組み合わせのバリエーションを増やせるのではないだろうか。既に同じようなことは、日々の生活でもやっていて、それを意識的に行うことで、もっとうまく精神と肉体をコントロールできるのではないだろうか。そんなことに気づいたという点でヨガの先生の言葉は興味深かったのだ。

僕はヨガを少しやっているから、仕事のときにも多少は呼吸を意識することがある。仕事のストレスで呼吸が浅くなっていることに気付き、深呼吸をして気持ちを落ち着けることもある。

だけど、深呼吸はリラックスのためだけのものではない。深く息を吸いながら体と心を緩めることで、より多くの空気を取り入れ、深く注意深く息を吐きながら精神を集中することで、よりテンションを上げることもできる。深呼吸によりテンションを上げ、集中力を高めるようなコントロールもできるようになる。まだ慣れていないけれど、そういうこともできそうな気がする。

今までは呼吸による力の抜き方しかわからなかったけれど、どうやら呼吸により力を込めることもできそうだ。僕はブレーキの踏み方しか知らず、アクセルは勝手に上がるままにしていたけれど、両方をうまく使えるようになれば、ブレーキも上手に踏めるようになるはずだ。僕は少し自律神経失調気味なところがあるけれど、これからは多少上手に自分のテンションをコントロールできそうな気がする。これが今回の収穫である。

更に、呼吸そのものから少し離れ、アナロジーになるけれど、ここで述べたことは僕たちの思考と行動というあり方にも応用できそうに思う。僕たちは何かをするとき、思考と行動という二段階を経るけれど、それが息を吸うことと吐くことに似ているように思うのだ。例えば僕が仕事帰りにコンビニに寄って、晩酌のお酒を買う場面を考えてみる。僕はお酒コーナーの前で立ち止まり、ビールにしようかな、酎ハイにしようかな、それともハイボールにしようかな、よし、ちょっと疲れたしアルコール度数が高い酎ハイにしよう、なんて思考する。そして酎ハイの500ml缶を手に取り、レジに向かったとする。このうちの酎ハイを手に取るまでが思考という段階で、実際に手にとってからは行動という段階となる。厳密には色々と問題はあるけれど、だいたい、このような二段階を経るということに異論はないだろう。なんとなく、思考と吸気、行動と呼気という対応関係があるように思う。

この思考と行動という組み合わせについても、呼吸と同様に、更に、力を込めた思考、力を抜いた思考、力を込めた行動、力を抜いた行動という4つの組み合わせに細分化することができるのではないだろうか。

なお、力を込めた思考と力を抜いた思考という組み合わせは、演繹と帰納(正確にはアブダクションかな※)という組み合わせと結びつけて考えることができると思う。

演繹は力を込めた思考である。厳密で脱線を許さない。「ツバメは空を飛ぶ」ということから「イワツバメは空を飛ぶ」は許しても「鳥は空を飛ぶ」は許さない。

一方で帰納は力を抜いた思考であり、脱線を許容する。「ツバメは空を飛ぶ」ということから「鳥は空を飛ぶ」というアイディアを思いつき、「スズメは空を飛ぶ」を発見したり、「ペンギンは空を飛ばない」を発見したりする。

厳密に考察を進める時、僕は議論に漏れがないかどうか気にしつつ、集中して思考を行う。ツバメが空を飛ぶということから言えることと言えないこととを厳密に判断する。一方で、新しいアイディアを考える時、僕は少し力を抜いてみる。ツバメが空を飛ぶのならば、他の鳥も空を飛ぶのかな、なんて連想してみる。

演繹と帰納という区分と完全に一致するかどうかは自信がないけれど、思考には、厳密な力を込めた思考と自由な力を抜いた思考の二通りがあるというのは確かだと思う。

また行動にも、力を込めた行動と力を抜いた行動との二種類があるのも確かだろう。僕がコンビニで酎ハイを手に取り、レジに向かうのは力を抜いた行動の代表例だ。一方で、例えばプロサッカー選手がサッカーの試合をしているときは力が込められているだろう。そういうときにはきっと、思考面ではうまく力が抜かれ、行動面でのみ力が入っているはずだ。だからこそ自然と体が動き、独創的なプレイを生み出すこともできるはずだ。こういうとき、フロー状態やゾーン状態に入ったと呼ぶのだろう。これが力を込めた行動の代表例である。

なお、高所恐怖症の僕が恐る恐る崖を歩くような場面は、一見、力が込められているようで、そこに集中しきれていないという点で、実際に力は込めきれていないだろう。うまく行動に力を込めるためには、断崖絶壁の恐怖心といったような思考の力を抜くことが必須であるように思える。

プロスポーツ選手や断崖絶壁のような極端な場面ではなくても、僕にとっても、思考と行動のどこに力を入れて、どこに力を抜くかは大事なことなのだろう。単に思考と行動の両方に力を入れてしまったら、ただ緊張するだけとなってしまい、うまく体も頭脳も動かない。単に思考と行動を弛緩させるだけでは眠くなるだけで日常生活を送ることはできない。重要なのは意識的に緩めるところと力を入れるところを使い分け、繊細な心と体の使い方をすることなのだろう。

更に、特に思考については、思考の一部に力を入れ、一部を緩めるようなことも可能だ。例えば、思考を弛緩させることに思考を集中するような場合だ。このようなことができるのは、思考に関してはメタ的な思考が可能だという特性を活用している。このメタ的な適用は更に積み重ねることもできるはずで、思考を弛緩させるという思考を弛緩したかたちで行い、その思考を更に弛緩したかたちで行い、更にその思考を弛緩したかたちで行い、ただし、最も外側の思考は集中したかたちで行う、というようなメタ的な思考の階層的な適用も可能なはずだ。僕はうまくできないけれど、これが瞑想やマインドフルネスなのだろう。ポイントは、メタ的な弛緩を積み重ね、集中をできるだけ遠ざけるというところにある。集中を遠ざけることにより、その分、最も外側にある集中は高まることとなり、高度な弛緩と集中が同居することになる。

または、集中した思考をメタ的に積み重ねるという道筋もありうる。集中した思考を行うことに集中し、更にそのことにも集中する、というかたちで最高度に集中した思考を積み重ねた先に、思考の最高度の弛緩(というか解放)が生じうる。これが高度な弛緩と集中を同居させるためのもうひとつのやり方だろう。僕は具体例として、僕が好きな入不二基義の議論を思い描いている。彼がやっていることはマインドフルネスや瞑想とは真逆の、もうひとつの悟りへの道なのかもしれない。瞑想が密教的だとすれば、神に到達する顕教的道筋である。(ここには二種類の最高度自由が描かれていると思う。※※)

僕はプロスポーツ選手ではないし、瞑想もうまくできないし、入不二ほどの厳密な思考もできない。だけど、ここで僕が書いたようなことは多少なりとも僕自身に役立つような気がする。なぜなら、身体はともかく、思考の集中・弛緩は、ある程度までは呼吸でコントロールできるように思うからだ。

ただ僕は、呼吸と集中・弛緩を4通りのかたちで組み合わせることで、思考についても集中に集中を重ねたり、弛緩に弛緩を重ねたりすることができるはずだ。これについては実際にやってみて確かめるしかないけれど。

※ 僕はアブダクションを帰納に含めているけれど、その理由を簡単に触れておく。帰納法で「ツバメは空を飛ぶ」を論証するためには、ツバメが空を飛ぶという複数事例を観察しなければいけないけれど、そこには、ひとつめの事例であるツバメと、ふたつめの事例であるツバメが同じツバメであるという前提が隠れている。これはつまり「複数事例を観察することが可能である」という未論証の命題の導入である。この導入が飛躍でありアブダクションであると僕は考えている。

※※ マインドフルネス的な自由は、リバティとも言える自己統制的自由の最高度の形態であり、入不二の自由は、フリーダムとも言える無制約的自由の最高度の形態だと思う。

偽善とユートピアと創造と没頭

1 前置き

 前半は、ぼんやりと昔からそう思ってきて、僕の中ではあまり新味のない話だけど、世間ではあまり馴染みがない話かもしれないから書き残しておきたいと思って書いた。

 後半は、そこからバーナード・スーツの『キリギリスの哲学』の話を思い出して話を展開してみたら、まとまりがなくなってしまった。

2 前半

2-1 教育の偽善

 僕は子供の頃から学校の先生に対して不信感があり、今でも学校的なものがどうも好きになれない。教育というものに偽善的なものを感じ続けている。

 彼らは世のため人のためになる仕事をしている。生徒という他者の成長のために自分の人生のかなりの割合を費やしている。これは一見、素晴らしいことをしているように思える。だけど、自分の人生の大半を他者のために使うような人生が本当に素晴らしいものだと言えるだろうか。自分の人生はどこにいったのだろうか。先生はうまく生きているのだろうか。僕はそんな疑問を持って生きてきた。

 先生が生徒に対して行っていることを、次のような言葉で表現できるのではないか。「先生は自分の人生をうまく生きることができなかったから、君たちが代わりに自分の人生をうまく生きてね。」先生は自分の人生を生きることを放棄し、生徒にその責任を押し付けている。更に教育という高尚な言葉で隠蔽までしている。そんなふうに僕は思う。

2-2 偽善の拡大

 同じようなことは医者やボランティアのような人たちに対しても言える。医者が自らの人生を他者の命を救うために費やし、ボランティア団体の人が自らの命を賭けてアフリカの難民の命を救おうとするのは、つまりは自分の人生からの逃避であり、病人や難民といった都合のよい他者に対する責任の転嫁である。そのように考えるならば、きっと、世の中において意義があるとされる活動は多分、例外なく、偽善や隠蔽や逃避や転嫁にまみれている。

2-3 僕の偽善

 当然、この組織的犯罪には僕自身も加担している。僕は世の中で意義があるとされる方向の仕事をしているし、実はそういう意識も強い。僕が哲学的な文章を書き残すのも、これが誰かに読んでもらえると思うからだ。僕は、僕の文章が読者の役に立つことを願って書いている。それが書く動機の全てではなくても、少なくともその一部ではある。これはつまり、僕が読者の代わりに考えることを引き受けているということだ。これは高尚な自己犠牲だとも言えなくはないように思う。つまりそれは、僕が考えることを引き受ける代わりに、読者に生きることを押し付けているということでもある。

2-4 未来の自分への偽善

 更には、他者だけではなく自分自身に対する責任転嫁という場面も考えられるだろう。いい学校に入れるように苦しい思いをして勉強したり、健康に気を遣ってタバコや酒を控えたり、刑務所に入れられるのを恐れて麻薬に手を出さなかったりするのは、今現在の自分の人生から逃げ出し、将来の自分に責任を転嫁している、という捉え方もできる。節制や努力といった美徳さえも、偽善であると見做すこともできる。自分自身における、今の自分と未来の自分という違いに着目するならば、未来の自分自身を他者と同じように捉え、同様の偽善をなすことも可能である。

2-5 ユートピアの思考実験

 このような、すべてを偽善と捉えるような考え方はなかなか賛同が得られないかもしれない。だけど、この考えの正しさは思考実験をしてみれば明らかだろう。それは、『キリギリスの哲学』という本に登場するユートピアの思考実験である。(確か、そんな名前はついていかなかったけれど。)

 これは、もし、この世界が改善され、問題が解決されていき、ついに全ての願いが叶うようなユートピアに到達したならば、僕たちはどのように生きるべきなのだろうか、という思考実験である。そこでは、子どもたちは生まれながらに十分な知性を手に入れているし、当然、病気もないし、貧富の格差などもない。そこでは、学校の先生も、医者も、ボランティアも必要ない。人類は完全な知識を手に入れているから、僕がやっているような哲学的考察も必要ない。このユートピアの思考実験によって、そのような事態を想定することができる。

 そこでは、誰か他者のために生きる必要などないはずだ。学校の先生や医者やボランティアや哲学者なんて、ユートピアにおいては必要ないのだから、そこに本質的な価値はない。彼らには、せいぜい、ユートピアに至るまでの過渡期的な価値があるに過ぎない。本質的な価値を手に入れることを諦め、その代わりに過渡期的な価値で満足するなんて、自己欺瞞でしかないのは明らかだろう。先生や哲学者といった役割に満足して生きるということは、贋金で満足するような人生を生きるということなのだ。

3 後半

3-1 ゲームプレイという解決策

 では、ユートピアに到達しても揺らがないような本質的な価値とはなんだろうか。ユートピアにおいて僕たちはどのように生きるべきなのだろうか。

 『キリギリスの哲学』の答えは、そこではゲームプレイをするしかない、というものだ。これはつまり、僕の解釈によるならば、手に入れたはずのユートピアをそっと手放し、あたかもユートピアになど到達していないような素振りで、ユートピアを手に入れようとするゲームをプレイするしかない、というものである。または、暇つぶしとして、チェスなどのゲームを、全く無意味なものとしてプレイするしかない、というものである。(そこでは、チェスのようなゲームは、それしかない、という意味で、極めて有意味なものとなるとも言える。)

3-2 実際にどのように生きるのか

 この答え方に賛同するかどうかは別として、ユートピアにおいていかに生きるべきかという問いに対しては、こんな方向でしか答えようがないことは明確だろう。ユートピアの思考実験においては、明らかに「いかに生きるべきか」というような倫理的な問い方は空転してしまっており機能していない。それならば、問題は「実際にどのように生きるのか」というような処世術的なものとして設定し直さざるを得ないのではないか。少なくともその点では『キリギリスの哲学』が進む道筋は正しいのではないか。

3-3 創造という道筋

 さて、僕ならばこの問いにどのように答えるのだろうか。つまり、僕は実際にどのように生きるのだろうか。

 その答えは、何らかのかたちで創造に関わるものになるのではないだろうか。なぜなら、ユートピアにおいてゲームプレイのほかにとりうる道は、何かを創造するという道筋しかないと思うからだ。

 当然、完全なユートピアにおいては何かを新たに創造することはありえない。どんなに繊細な芸術作品であっても、それはすでに人類は手に入れているはずだ。なぜなら、それがユートピアということなのだから。

 それでも、すでに存在するものの二番煎じであっても新たに創造するということは可能なはずだ。すでにどこかにモナリザが存在し、皆がそれを知っていたとしても、レオナルド・ダ・ビンチが新たにモナリザを描くことは可能であるように僕には思える。それならば、同じように、僕が哲学的文章を書き、創造することにも同様の意義があるように思える。

 確かに、ユートピアにおいては倫理的な価値を創造することはありえないし、美的価値の創造についても通常のかたちではありえないだろう。だけど、美的価値については、かなり細い道筋ではあっても、そこには創造への道筋が残されているのではないだろうか。

3-4 創造のゲームプレイ性

 ただし、レオナルド・ダ・ビンチがユートピアにおいてモナリザを創造するためには彼は既にあるモナリザを忘れなければならない。僕も、それが既に人類が手に入れた知識であることを忘れて書かなければならない。それは『キリギリスの哲学』におけるゲームプレイの道筋に重なる。美的創造というゲームをプレイしていると言ってもいいほどだ。

 もしかしたら、そのようなことまで含めて『キリギリスの哲学』は道筋を示しているのかもしれない。それならば、ゲームプレイという描写は芸術についての本質的な美的価値さえも捉えているということになるのかもしれない。

3-5 美的価値と倫理的価値

 逆の道筋で考えるならば、きっと、チェスなどのいわゆる純粋なゲームの価値も美的なものだと言えるだろう。AIが進歩しても藤井聡太さんのようなプロ棋士が人気を集めるのは、彼がAIよりも強いからではなくて、彼が芸術家であり、彼が将棋という手法によって美を創造しているからなのではないだろうか。

 世の中の価値を美的価値と倫理的価値に単純化して区分するならば、ゲームプレイの価値は明らかに前者に含まれる。または、ユートピアにおけるゲームプレイという見地で世の中を捉えるならば、そこでも生き残ることができる価値(これを美的価値とする)と、そこでは居場所がない価値(これを倫理的価値とする)とに単純に区分できることとなる。

3-6 倫理的価値の非創造性

 そして、前者は創造という言葉と親和性があり、後者は創造という言葉と相容れないという点でも違いがある。なぜなら、美的価値は発揮されないよりも発揮されたほうがよいという極めて単純な意味で創造的である一方で、倫理的価値は世界がユートピアに至る途上における過渡期的な便宜的価値に過ぎず、そのような価値が発揮されずに済むこと、いわば創造されないことにこそ本来の価値があるからだ。教育が必要ない状況において他者に教育を施したり、治療が必要ない人に対して治療を施したりすることは余計なお世話でしかない。

3-7 書くということ

 以上のことを、僕自身の美的価値の創造、つまり文章を書くという行為を例に確認しておこう。

 僕のなかには、今書いているような文章を書くにあたっては二種類の動機があるような気がする。ひとつは、書かれた内容に何らかの価値があるから書く、という動機であり、もうひとつは、ただ書きたいから書くというような動機である。

 前者は、ここまでの議論では倫理的価値と呼んできたもののことだろう。書かれた内容が持つ価値とは、他の誰かであれ、未来の自分自身であれ、今の自分ではない何かに向けての価値であり、いわば残す価値である。もし僕がこの価値のためだけに書いているのならば、もし他の誰かが代わりに書いてくれるなら僕は書かなくてもいいはずだ。誰も書いてくれないから、この世界がユートピアではないから、僕は仕方なく書いているということになる。

 後者は、ここまでの議論で美的価値と呼んできたもののことだろう。僕はそれが何のためになるかなんて考えず、ただ書くのが楽しいから書いている。うまく書けなくて嫌になることもあるけれど、それも込みで楽しいから、ただ書きたくて書いている。誰のためでもなく、ただ今の僕のためだけに書いている。理想的には、きっと、この世がユートピアかどうかなど関係ないだろう。すでに誰かが書いたことであって、僕がそのことを知っていたとしても、僕はきっと二番煎じの文章を楽しく書くだろう。それは意図的にすでにあることを忘れるから可能になるのではなく、ただ書くことの楽しみに没頭しているからそこに考えが巡っていないに過ぎない。

3-8 没頭

 この没頭とは重要な観点だと思う。なぜなら、没頭により、あえてユートピアにいるということを忘れるというような迂遠な手順が不要になるからだ。ユートピアにいてもいなくても、僕たちは没頭している限り、美的価値を生み出すことができる。いわばユートピアという思考実験を無化することができる。あえて言うならば、ユートピアの思考実験などは単なる回り道であり、唯一重要なのは、この没頭であるとさえ言えるだろう。

 だから、没頭さえしている限り、レオナルド・ダ・ビンチのモナリザのようなものだけではなく、藤井聡太さんの将棋や、僕の文章や、そこらのおじさんの将棋や、お母さんがつくる料理や、カラオケボックスで歌った歌や、ネコをなでたときの感触といったようなありとあらゆるものに美的価値があるとさえ言えるはずだ。

 だから、教育や医療といった活動についても、それに没頭し、その活動内容に囚われずにいる限り、それは偽善ではないと捉えることもできる。学校の先生や医者や僕がまずいのは、没頭していないからなのだ。

4 まとめ

想定より長文になってしまったので一応まとめておくと、この文章は、教育や医療というような世間で有意義とされていることに異議を唱えるために書いたものだ。それよりも、不要不急とされ優先順位が低いとされてきたような活動にこそ本質的な価値があるはずだということを僕は主張していることになる。つまり、これはコロナ禍という時事ネタを取り入れたものだ。

 だが、芸術活動のようなものの価値を確認するために、あえて教育や医療の価値を貶める必要はないと思うかもしれない。そのような論じ方を下品だと感じる方も多いかもしれない。

 しかし、僕がここで価値を確認したかったのは、いわゆる芸術のような狭い領域のものではないという点が重要だ。僕が擁護したかったのは、カラオケボックスで歌うことや、ネコを撫でるというようなことも含む広範なものだ。 僕が擁護しようとしているものは美的価値と名付けはしたが、実は非倫理的価値としかいいようがない、消去法でしか表現できないものだと言ってよい。このように論じるためには、教育や医療といった倫理的価値があるとされるものごとと、それ以外のものごとというかたちで対比せざるを得ない。

 更に僕は、世間で価値が低いとされているものにこそ価値があるということだけではなく、世間で価値が高いとされているものこそが最も価値が低いとさえ論じている。教育や医療のようなものは、それ自体に没頭している限りは、他の活動と同等に有意義なものだ。だけど、その活動内容に固有の価値があるという倫理的主張を始めたとたん、それは害悪とさえなるのではないか。 

 僕は教育や医療といった倫理的なるものに対して敬意は払うけれど、それが倫理的「主張」、つまり押し付けとなった途端、抵抗したくなる。学校生活を過ごすことを通じて、僕はそんな性向を持つようになった。

 僕が論じたことは、そのような方向性のなかに位置づけられるものだ。

誤読で世界はできている

言語はとても強力な装置だと思う。なぜなら、なにもかもが結局は言語のなかでのことだ、という捉え方ができるのだから。例えば、神は存在する、といくら言っても、それは言語のなかでのことである。また、この世界は全てが夢かもしれない、という懐疑も、それは言語のなかのことである。それならば、すべては言語のなかでしか存在することはできない、とさえ言えるのではないか。それならば、言葉について考えることで全てについて考えることができるということになるのではないか。

そういう方向で考えたのが(特に後期の)ウィトゲンシュタインであり、言語論的転回ということであり、だからこそ意味論という議論の仕方に意義があるのだろう。(哲学史的には不正確な理解かもしれないけれど、そうは間違っていないように思う。)

実は僕もそのような観点を重視している。僕は『対話』をキーワードにして色々と考えているけれど、結局は、対話、つまり言葉のやりとりという言語のあり方に注目することで、なにか哲学的に意義のある捉え方ができると僕は考えているということになる。

このような言語優位の捉え方は懐疑論者である僕にとっては魅力的だ。なぜなら、僕は特に過去や未来といった時間が常識的なかたちで存在するということについて懐疑的なのだけど、すべては言語システムのなかでのことだと考えれば、言語の外に時間が存在すると考えなくてもよくなるからだ。例えば、実は時間は流れず、そこにはいわば一瞬の時間しかないと考えたとしても、その一瞬の時間のなかに言語システムが存在してさえいれば、そのなかで悠久の時間の流れ、時間が折りたたまれるようにして存在することが可能になる。多少不正確だけど僕が持っているのはそのようなイメージだ。

だけど、このように言語を最上位に置いたような捉え方は端的に間違えているだろう。なぜならば「今僕はパソコンで文章を書いている。」という文章は、単なる言葉ではなく、実際に僕が行っていることを示しているからだ。常識的に考えるならば、「近所の家にバラが咲いている。」という言葉も、「昨日、花火大会の花火の音がした。」という言葉も、それは単なる言葉ではなく、実際にそのような状況や出来事があったことを示している。実際にうちの数軒隣の家の庭できれいなバラをいつも咲かせているのを毎日見ているし、2021年6月2日の横浜の開港祭で花火が上がったことはネットにも出ている。現実の世界は言葉を超えて溢れ出ている。現実の世界よりも言語が上位にあるはずがない。

ただ、そのような反論に対しても、そのような主張だって結局は言葉によって行っているに過ぎず、結局は言語システムの外に逃れることはできないのだと反論することはできるだろう。言語優位派と現実世界優位派の戦いは、そう簡単に決着をつけることはできない。

この文章では、この戦いの決着をつけるのを目指すのではなく、なぜ、そもそも、言語によって言語の外を指し示すような芸当ができるのか(少なくとも、できるように見えるのか)ということを考えていきたい。「近所の家にバラが咲いている。」というとき、僕は単なる言葉以上のことを言っているように見える。僕は言葉によって、言葉の外にあるこの世界のあり方(のうちのひとつ)を描写することができているように見える。このようなことがどうしてできるのだろうか。

それは言葉の不正確な使用によって可能になるのではないだろうか、というのが、僕が思いついたことだ。実は「近所の家にバラが咲いている。」という言葉は正確ではない。なぜなら正確には「『近所の家にバラが咲いている。』と僕は書いた。」だからだ。いや、それも書かれたことだから、より正確には「『『近所の家にバラが咲いている。』と僕は書いた。』と僕は書いた。」であり、更に「・・・と僕は書いた。」であり、更に「・・・と僕は書いた。」であり、そのように無限に続く文章で表現すべきだろう。僕がやっていること、つまり、そのような文章を書いているということを極力正確に描写しようとするならば、「・・・と僕は書いた。」とどこまでも続けるしかない。だが僕たちは、あえて不正確な表現を選び、「・・・と僕は書いた。」という言葉を付加することを拒否する。そのことにより、僕は文章を書いているに過ぎないのに、なぜか近所の家にバラが咲いているという事態を描写することに成功しているように見せることに成功する。これが、言葉によって、言葉の外にあるこの世界を描写したように見せることに成功するということなのではないだろうか。

もう少し掘り下げてみよう。では、無限に続けることができることをどこかで打ち切るのは何故なのか。それも通常は初発の「・・・と僕は書いた。」からして拒否するのは何故なのか。

そうすることは、書き手にとっては当たり前のことだとも言えるだろう。なぜなら、「近所の家にバラが咲いている。」と僕が書くことで、それが書かれた言葉にすぎないということは十分に示しているからだ。書き手の僕は何も隠していないし、何も省略していない。「・・・と僕は書いた。」とあえて書かなくても、そのことは十分に伝えられている。いわば遂行的に示していると言ってもいいだろう。そこには言葉の不正確な使用の問題は生じていない。

言葉を不正確に使用しているのは読み手のほうである。本来、読み手は「近所の家にバラが咲いている。」と書かれた文章に出会ったならば、「『近所の家にバラが咲いている。』と僕(筆者)は書いた。」と読まなければならない。なぜなら、そのように読まなければ、そこにある文章が示していることを十分に捉えたことにならないからだ。しかし、僕自身も含めて、きっとほとんどの読者はそのようには読まない。ただ「近所の家にバラが咲いている。」という事実の描写として読む。これが僕の考える、言葉の不正確な使用の問題の正体である。

つまり、言語によって言語の外を指し示すことができる(または、できるように見える)のは、読者が、それが書かれた言葉だということを忘れ、見落とすからなのだ。これは誤読の問題だとも言えるだろう。いわば必然的に生じる誤読こそが、言語が言語の外を指し示すことを可能としているのだ。僕のこの文章での主張は以上である。

誤読についてもう少し考えてみる。誤読は哲学にとって大きな問題だ。僕が好きな入不二先生は『哲学の誤読』という本を書いているけれど、一言一句を丁寧に読み解くような高精度の哲学的な読み方は、誤読を極力排除するためのテクニックだとも言えるだろう。だけど、それでも誤読はつきまとうものだし、僕はそこに創造性とでも言うべきポジティブな意味合いが込められているはずだとも考えている。

そのなかでも最も重要な誤読こそが、この文章で指摘した誤読なのではないだろうか。つまり書き手と読み手の間に横たわる階層の違いを無視するという誤読である。この誤読により、書き手と読み手は完全なかたちで繋がることができるようになり、言語は言語の外にある当たり前の世界を描写することができるようになり、そこに豊穣な世界が出現することになる。誤読こそが、いわば全てを創造しているようにさえ思える。