偽善とユートピアと創造と没頭

1 前置き

 前半は、ぼんやりと昔からそう思ってきて、僕の中ではあまり新味のない話だけど、世間ではあまり馴染みがない話かもしれないから書き残しておきたいと思って書いた。

 後半は、そこからバーナード・スーツの『キリギリスの哲学』の話を思い出して話を展開してみたら、まとまりがなくなってしまった。

2 前半

2-1 教育の偽善

 僕は子供の頃から学校の先生に対して不信感があり、今でも学校的なものがどうも好きになれない。教育というものに偽善的なものを感じ続けている。

 彼らは世のため人のためになる仕事をしている。生徒という他者の成長のために自分の人生のかなりの割合を費やしている。これは一見、素晴らしいことをしているように思える。だけど、自分の人生の大半を他者のために使うような人生が本当に素晴らしいものだと言えるだろうか。自分の人生はどこにいったのだろうか。先生はうまく生きているのだろうか。僕はそんな疑問を持って生きてきた。

 先生が生徒に対して行っていることを、次のような言葉で表現できるのではないか。「先生は自分の人生をうまく生きることができなかったから、君たちが代わりに自分の人生をうまく生きてね。」先生は自分の人生を生きることを放棄し、生徒にその責任を押し付けている。更に教育という高尚な言葉で隠蔽までしている。そんなふうに僕は思う。

2-2 偽善の拡大

 同じようなことは医者やボランティアのような人たちに対しても言える。医者が自らの人生を他者の命を救うために費やし、ボランティア団体の人が自らの命を賭けてアフリカの難民の命を救おうとするのは、つまりは自分の人生からの逃避であり、病人や難民といった都合のよい他者に対する責任の転嫁である。そのように考えるならば、きっと、世の中において意義があるとされる活動は多分、例外なく、偽善や隠蔽や逃避や転嫁にまみれている。

2-3 僕の偽善

 当然、この組織的犯罪には僕自身も加担している。僕は世の中で意義があるとされる方向の仕事をしているし、実はそういう意識も強い。僕が哲学的な文章を書き残すのも、これが誰かに読んでもらえると思うからだ。僕は、僕の文章が読者の役に立つことを願って書いている。それが書く動機の全てではなくても、少なくともその一部ではある。これはつまり、僕が読者の代わりに考えることを引き受けているということだ。これは高尚な自己犠牲だとも言えなくはないように思う。つまりそれは、僕が考えることを引き受ける代わりに、読者に生きることを押し付けているということでもある。

2-4 未来の自分への偽善

 更には、他者だけではなく自分自身に対する責任転嫁という場面も考えられるだろう。いい学校に入れるように苦しい思いをして勉強したり、健康に気を遣ってタバコや酒を控えたり、刑務所に入れられるのを恐れて麻薬に手を出さなかったりするのは、今現在の自分の人生から逃げ出し、将来の自分に責任を転嫁している、という捉え方もできる。節制や努力といった美徳さえも、偽善であると見做すこともできる。自分自身における、今の自分と未来の自分という違いに着目するならば、未来の自分自身を他者と同じように捉え、同様の偽善をなすことも可能である。

2-5 ユートピアの思考実験

 このような、すべてを偽善と捉えるような考え方はなかなか賛同が得られないかもしれない。だけど、この考えの正しさは思考実験をしてみれば明らかだろう。それは、『キリギリスの哲学』という本に登場するユートピアの思考実験である。(確か、そんな名前はついていかなかったけれど。)

 これは、もし、この世界が改善され、問題が解決されていき、ついに全ての願いが叶うようなユートピアに到達したならば、僕たちはどのように生きるべきなのだろうか、という思考実験である。そこでは、子どもたちは生まれながらに十分な知性を手に入れているし、当然、病気もないし、貧富の格差などもない。そこでは、学校の先生も、医者も、ボランティアも必要ない。人類は完全な知識を手に入れているから、僕がやっているような哲学的考察も必要ない。このユートピアの思考実験によって、そのような事態を想定することができる。

 そこでは、誰か他者のために生きる必要などないはずだ。学校の先生や医者やボランティアや哲学者なんて、ユートピアにおいては必要ないのだから、そこに本質的な価値はない。彼らには、せいぜい、ユートピアに至るまでの過渡期的な価値があるに過ぎない。本質的な価値を手に入れることを諦め、その代わりに過渡期的な価値で満足するなんて、自己欺瞞でしかないのは明らかだろう。先生や哲学者といった役割に満足して生きるということは、贋金で満足するような人生を生きるということなのだ。

3 後半

3-1 ゲームプレイという解決策

 では、ユートピアに到達しても揺らがないような本質的な価値とはなんだろうか。ユートピアにおいて僕たちはどのように生きるべきなのだろうか。

 『キリギリスの哲学』の答えは、そこではゲームプレイをするしかない、というものだ。これはつまり、僕の解釈によるならば、手に入れたはずのユートピアをそっと手放し、あたかもユートピアになど到達していないような素振りで、ユートピアを手に入れようとするゲームをプレイするしかない、というものである。または、暇つぶしとして、チェスなどのゲームを、全く無意味なものとしてプレイするしかない、というものである。(そこでは、チェスのようなゲームは、それしかない、という意味で、極めて有意味なものとなるとも言える。)

3-2 実際にどのように生きるのか

 この答え方に賛同するかどうかは別として、ユートピアにおいていかに生きるべきかという問いに対しては、こんな方向でしか答えようがないことは明確だろう。ユートピアの思考実験においては、明らかに「いかに生きるべきか」というような倫理的な問い方は空転してしまっており機能していない。それならば、問題は「実際にどのように生きるのか」というような処世術的なものとして設定し直さざるを得ないのではないか。少なくともその点では『キリギリスの哲学』が進む道筋は正しいのではないか。

3-3 創造という道筋

 さて、僕ならばこの問いにどのように答えるのだろうか。つまり、僕は実際にどのように生きるのだろうか。

 その答えは、何らかのかたちで創造に関わるものになるのではないだろうか。なぜなら、ユートピアにおいてゲームプレイのほかにとりうる道は、何かを創造するという道筋しかないと思うからだ。

 当然、完全なユートピアにおいては何かを新たに創造することはありえない。どんなに繊細な芸術作品であっても、それはすでに人類は手に入れているはずだ。なぜなら、それがユートピアということなのだから。

 それでも、すでに存在するものの二番煎じであっても新たに創造するということは可能なはずだ。すでにどこかにモナリザが存在し、皆がそれを知っていたとしても、レオナルド・ダ・ビンチが新たにモナリザを描くことは可能であるように僕には思える。それならば、同じように、僕が哲学的文章を書き、創造することにも同様の意義があるように思える。

 確かに、ユートピアにおいては倫理的な価値を創造することはありえないし、美的価値の創造についても通常のかたちではありえないだろう。だけど、美的価値については、かなり細い道筋ではあっても、そこには創造への道筋が残されているのではないだろうか。

3-4 創造のゲームプレイ性

 ただし、レオナルド・ダ・ビンチがユートピアにおいてモナリザを創造するためには彼は既にあるモナリザを忘れなければならない。僕も、それが既に人類が手に入れた知識であることを忘れて書かなければならない。それは『キリギリスの哲学』におけるゲームプレイの道筋に重なる。美的創造というゲームをプレイしていると言ってもいいほどだ。

 もしかしたら、そのようなことまで含めて『キリギリスの哲学』は道筋を示しているのかもしれない。それならば、ゲームプレイという描写は芸術についての本質的な美的価値さえも捉えているということになるのかもしれない。

3-5 美的価値と倫理的価値

 逆の道筋で考えるならば、きっと、チェスなどのいわゆる純粋なゲームの価値も美的なものだと言えるだろう。AIが進歩しても藤井聡太さんのようなプロ棋士が人気を集めるのは、彼がAIよりも強いからではなくて、彼が芸術家であり、彼が将棋という手法によって美を創造しているからなのではないだろうか。

 世の中の価値を美的価値と倫理的価値に単純化して区分するならば、ゲームプレイの価値は明らかに前者に含まれる。または、ユートピアにおけるゲームプレイという見地で世の中を捉えるならば、そこでも生き残ることができる価値(これを美的価値とする)と、そこでは居場所がない価値(これを倫理的価値とする)とに単純に区分できることとなる。

3-6 倫理的価値の非創造性

 そして、前者は創造という言葉と親和性があり、後者は創造という言葉と相容れないという点でも違いがある。なぜなら、美的価値は発揮されないよりも発揮されたほうがよいという極めて単純な意味で創造的である一方で、倫理的価値は世界がユートピアに至る途上における過渡期的な便宜的価値に過ぎず、そのような価値が発揮されずに済むこと、いわば創造されないことにこそ本来の価値があるからだ。教育が必要ない状況において他者に教育を施したり、治療が必要ない人に対して治療を施したりすることは余計なお世話でしかない。

3-7 書くということ

 以上のことを、僕自身の美的価値の創造、つまり文章を書くという行為を例に確認しておこう。

 僕のなかには、今書いているような文章を書くにあたっては二種類の動機があるような気がする。ひとつは、書かれた内容に何らかの価値があるから書く、という動機であり、もうひとつは、ただ書きたいから書くというような動機である。

 前者は、ここまでの議論では倫理的価値と呼んできたもののことだろう。書かれた内容が持つ価値とは、他の誰かであれ、未来の自分自身であれ、今の自分ではない何かに向けての価値であり、いわば残す価値である。もし僕がこの価値のためだけに書いているのならば、もし他の誰かが代わりに書いてくれるなら僕は書かなくてもいいはずだ。誰も書いてくれないから、この世界がユートピアではないから、僕は仕方なく書いているということになる。

 後者は、ここまでの議論で美的価値と呼んできたもののことだろう。僕はそれが何のためになるかなんて考えず、ただ書くのが楽しいから書いている。うまく書けなくて嫌になることもあるけれど、それも込みで楽しいから、ただ書きたくて書いている。誰のためでもなく、ただ今の僕のためだけに書いている。理想的には、きっと、この世がユートピアかどうかなど関係ないだろう。すでに誰かが書いたことであって、僕がそのことを知っていたとしても、僕はきっと二番煎じの文章を楽しく書くだろう。それは意図的にすでにあることを忘れるから可能になるのではなく、ただ書くことの楽しみに没頭しているからそこに考えが巡っていないに過ぎない。

3-8 没頭

 この没頭とは重要な観点だと思う。なぜなら、没頭により、あえてユートピアにいるということを忘れるというような迂遠な手順が不要になるからだ。ユートピアにいてもいなくても、僕たちは没頭している限り、美的価値を生み出すことができる。いわばユートピアという思考実験を無化することができる。あえて言うならば、ユートピアの思考実験などは単なる回り道であり、唯一重要なのは、この没頭であるとさえ言えるだろう。

 だから、没頭さえしている限り、レオナルド・ダ・ビンチのモナリザのようなものだけではなく、藤井聡太さんの将棋や、僕の文章や、そこらのおじさんの将棋や、お母さんがつくる料理や、カラオケボックスで歌った歌や、ネコをなでたときの感触といったようなありとあらゆるものに美的価値があるとさえ言えるはずだ。

 だから、教育や医療といった活動についても、それに没頭し、その活動内容に囚われずにいる限り、それは偽善ではないと捉えることもできる。学校の先生や医者や僕がまずいのは、没頭していないからなのだ。

4 まとめ

想定より長文になってしまったので一応まとめておくと、この文章は、教育や医療というような世間で有意義とされていることに異議を唱えるために書いたものだ。それよりも、不要不急とされ優先順位が低いとされてきたような活動にこそ本質的な価値があるはずだということを僕は主張していることになる。つまり、これはコロナ禍という時事ネタを取り入れたものだ。

 だが、芸術活動のようなものの価値を確認するために、あえて教育や医療の価値を貶める必要はないと思うかもしれない。そのような論じ方を下品だと感じる方も多いかもしれない。

 しかし、僕がここで価値を確認したかったのは、いわゆる芸術のような狭い領域のものではないという点が重要だ。僕が擁護したかったのは、カラオケボックスで歌うことや、ネコを撫でるというようなことも含む広範なものだ。 僕が擁護しようとしているものは美的価値と名付けはしたが、実は非倫理的価値としかいいようがない、消去法でしか表現できないものだと言ってよい。このように論じるためには、教育や医療といった倫理的価値があるとされるものごとと、それ以外のものごとというかたちで対比せざるを得ない。

 更に僕は、世間で価値が低いとされているものにこそ価値があるということだけではなく、世間で価値が高いとされているものこそが最も価値が低いとさえ論じている。教育や医療のようなものは、それ自体に没頭している限りは、他の活動と同等に有意義なものだ。だけど、その活動内容に固有の価値があるという倫理的主張を始めたとたん、それは害悪とさえなるのではないか。 

 僕は教育や医療といった倫理的なるものに対して敬意は払うけれど、それが倫理的「主張」、つまり押し付けとなった途端、抵抗したくなる。学校生活を過ごすことを通じて、僕はそんな性向を持つようになった。

 僕が論じたことは、そのような方向性のなかに位置づけられるものだ。

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