言語はとても強力な装置だと思う。なぜなら、なにもかもが結局は言語のなかでのことだ、という捉え方ができるのだから。例えば、神は存在する、といくら言っても、それは言語のなかでのことである。また、この世界は全てが夢かもしれない、という懐疑も、それは言語のなかのことである。それならば、すべては言語のなかでしか存在することはできない、とさえ言えるのではないか。それならば、言葉について考えることで全てについて考えることができるということになるのではないか。

そういう方向で考えたのが(特に後期の)ウィトゲンシュタインであり、言語論的転回ということであり、だからこそ意味論という議論の仕方に意義があるのだろう。(哲学史的には不正確な理解かもしれないけれど、そうは間違っていないように思う。)

実は僕もそのような観点を重視している。僕は『対話』をキーワードにして色々と考えているけれど、結局は、対話、つまり言葉のやりとりという言語のあり方に注目することで、なにか哲学的に意義のある捉え方ができると僕は考えているということになる。

このような言語優位の捉え方は懐疑論者である僕にとっては魅力的だ。なぜなら、僕は特に過去や未来といった時間が常識的なかたちで存在するということについて懐疑的なのだけど、すべては言語システムのなかでのことだと考えれば、言語の外に時間が存在すると考えなくてもよくなるからだ。例えば、実は時間は流れず、そこにはいわば一瞬の時間しかないと考えたとしても、その一瞬の時間のなかに言語システムが存在してさえいれば、そのなかで悠久の時間の流れ、時間が折りたたまれるようにして存在することが可能になる。多少不正確だけど僕が持っているのはそのようなイメージだ。

だけど、このように言語を最上位に置いたような捉え方は端的に間違えているだろう。なぜならば「今僕はパソコンで文章を書いている。」という文章は、単なる言葉ではなく、実際に僕が行っていることを示しているからだ。常識的に考えるならば、「近所の家にバラが咲いている。」という言葉も、「昨日、花火大会の花火の音がした。」という言葉も、それは単なる言葉ではなく、実際にそのような状況や出来事があったことを示している。実際にうちの数軒隣の家の庭できれいなバラをいつも咲かせているのを毎日見ているし、2021年6月2日の横浜の開港祭で花火が上がったことはネットにも出ている。現実の世界は言葉を超えて溢れ出ている。現実の世界よりも言語が上位にあるはずがない。

ただ、そのような反論に対しても、そのような主張だって結局は言葉によって行っているに過ぎず、結局は言語システムの外に逃れることはできないのだと反論することはできるだろう。言語優位派と現実世界優位派の戦いは、そう簡単に決着をつけることはできない。

この文章では、この戦いの決着をつけるのを目指すのではなく、なぜ、そもそも、言語によって言語の外を指し示すような芸当ができるのか(少なくとも、できるように見えるのか)ということを考えていきたい。「近所の家にバラが咲いている。」というとき、僕は単なる言葉以上のことを言っているように見える。僕は言葉によって、言葉の外にあるこの世界のあり方(のうちのひとつ)を描写することができているように見える。このようなことがどうしてできるのだろうか。

それは言葉の不正確な使用によって可能になるのではないだろうか、というのが、僕が思いついたことだ。実は「近所の家にバラが咲いている。」という言葉は正確ではない。なぜなら正確には「『近所の家にバラが咲いている。』と僕は書いた。」だからだ。いや、それも書かれたことだから、より正確には「『『近所の家にバラが咲いている。』と僕は書いた。』と僕は書いた。」であり、更に「・・・と僕は書いた。」であり、更に「・・・と僕は書いた。」であり、そのように無限に続く文章で表現すべきだろう。僕がやっていること、つまり、そのような文章を書いているということを極力正確に描写しようとするならば、「・・・と僕は書いた。」とどこまでも続けるしかない。だが僕たちは、あえて不正確な表現を選び、「・・・と僕は書いた。」という言葉を付加することを拒否する。そのことにより、僕は文章を書いているに過ぎないのに、なぜか近所の家にバラが咲いているという事態を描写することに成功しているように見せることに成功する。これが、言葉によって、言葉の外にあるこの世界を描写したように見せることに成功するということなのではないだろうか。

もう少し掘り下げてみよう。では、無限に続けることができることをどこかで打ち切るのは何故なのか。それも通常は初発の「・・・と僕は書いた。」からして拒否するのは何故なのか。

そうすることは、書き手にとっては当たり前のことだとも言えるだろう。なぜなら、「近所の家にバラが咲いている。」と僕が書くことで、それが書かれた言葉にすぎないということは十分に示しているからだ。書き手の僕は何も隠していないし、何も省略していない。「・・・と僕は書いた。」とあえて書かなくても、そのことは十分に伝えられている。いわば遂行的に示していると言ってもいいだろう。そこには言葉の不正確な使用の問題は生じていない。

言葉を不正確に使用しているのは読み手のほうである。本来、読み手は「近所の家にバラが咲いている。」と書かれた文章に出会ったならば、「『近所の家にバラが咲いている。』と僕(筆者)は書いた。」と読まなければならない。なぜなら、そのように読まなければ、そこにある文章が示していることを十分に捉えたことにならないからだ。しかし、僕自身も含めて、きっとほとんどの読者はそのようには読まない。ただ「近所の家にバラが咲いている。」という事実の描写として読む。これが僕の考える、言葉の不正確な使用の問題の正体である。

つまり、言語によって言語の外を指し示すことができる(または、できるように見える)のは、読者が、それが書かれた言葉だということを忘れ、見落とすからなのだ。これは誤読の問題だとも言えるだろう。いわば必然的に生じる誤読こそが、言語が言語の外を指し示すことを可能としているのだ。僕のこの文章での主張は以上である。

誤読についてもう少し考えてみる。誤読は哲学にとって大きな問題だ。僕が好きな入不二先生は『哲学の誤読』という本を書いているけれど、一言一句を丁寧に読み解くような高精度の哲学的な読み方は、誤読を極力排除するためのテクニックだとも言えるだろう。だけど、それでも誤読はつきまとうものだし、僕はそこに創造性とでも言うべきポジティブな意味合いが込められているはずだとも考えている。

そのなかでも最も重要な誤読こそが、この文章で指摘した誤読なのではないだろうか。つまり書き手と読み手の間に横たわる階層の違いを無視するという誤読である。この誤読により、書き手と読み手は完全なかたちで繋がることができるようになり、言語は言語の外にある当たり前の世界を描写することができるようになり、そこに豊穣な世界が出現することになる。誤読こそが、いわば全てを創造しているようにさえ思える。