これは本当に自分向けの備忘録なので読む価値はないです。この問題については既に教科書的なきちんとした答えが既にありそうな気がします。知っている方がいたら教えてください。
僕の疑問は、分析・総合と演繹・帰納の関係だ。
僕の理解では、分析的な言明とは「ネコは動物である。」のようなものだ。カントによれば、「ネコ」という主語に既に「動物」が含まれているということになるそうだ。つまり分析的な言明は「動物の一種は動物である。」という極めて当然のことを言っていることになる。
一方で、総合的な言明とは「ネコは紐で遊ぶのが好きだ。」のようなものだ。カントによれば、「ネコ」という主語に「紐で遊ぶのが好き」ということは含まれていない。つまり総合的な言明は新しいことを言っていることになる。ただし、うちのネコは二匹とも紐で遊ぶのが好きだし、たいていのネコはそうだろうけれど、どこかに紐で遊ぶのが好きではないネコもいるかもしれない。歳をとったネコは紐になんて見向きもしないかもしれない。だから総合的な言明とは、新しくて意義もあるけれど、どこか危うい言明だとも言える。
当然でつまらない「分析」と意義があるけれど危うい「総合」という対比から、僕は演繹と帰納の関係を連想する。
演繹では「哺乳類は動物である。」と「ネコは哺乳類である。」から「ネコは動物である。」を導く。演繹とは論理構造だけから導くことができることを導くものだと言っていいだろう。一方で帰納では複数の実例を観察し、そこに共通する法則を取り出そうとする。何匹ものネコの目の前に紐をぶら下げ、その紐に興味を持つかどうか実験することを通じて「ネコは紐で遊ぶのが好きだ。」を見出す。
ここには明らかに分析・総合の対比と同様に、当然でつまらない「演繹」と意義があるけれど危うい「帰納」という対比がある。僕は分析・総合と演繹・帰納は全く同じもので、分析=演繹、総合=帰納だとすら思っていた。
だが、どうやらそれほど問題は単純ではないようだ。澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』を読んでいたら、まるで当然かのように「帰納/分析」と「演繹/総合」というペアでの対比構造が図示されていたのだ。(澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』p.99)どういうことだろう。これは大問題だ。
澤田のこの対比が登場するのは、ニュートンの分析・総合とヒュームの演繹・帰納を比較する場面においてである。
澤田によれば、ヒュームは仮説演繹法の一種とでもいうべき考え方をとっている。
つまり、
(1)個別的因果関係を観察する。
(2)その観察からの帰納によって一般原理を仮説として立てる。
(3)その原理の仮説を演繹的推論によって別の個別事例へと適用し、観察予測を立てる。
(4)その観察予測を経験によって「確証(confirm)」する。
(5)以上の手順の繰り返しによって一般原理の体系全体を確証する。
(澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』p.79)
という手順である。(2)の帰納による仮説定立と、(3)の演繹による予測定立と、(4)の実験による予測(と仮説)検証というサイクルが回ることとなる。
澤田はこれを一般原理と実験観察の間の往復構造として描写し、帰納を実験観察から一般原理に向かう矢印として書き入れ、演繹を一般原理から実験観察に向かう矢印として書き入れている。
これは僕の理解によれば、世界の個別の事象から、何らかの法則を導くのが帰納であり、具体的な法則から世界の事象について説明・予測するのが演繹だということになる。
澤田によれば、ニュートンも、分析と総合という用語を用いて同じようなことを言っているらしい。実験結果からその原因を発見しようとすることが分析であり、つまり実験観察から一般原理に向かう矢印にあたる。また、分析により見出した法則・原理から、新たな実験観察について統一的な説明を行うことが総合にあたるということになる。
ある特定の事象について精緻に考察し、そのような事象が生じるに至った理由やメカニズムを捉えようとするという営みは、語感としても分析という言葉がふさわしいように思う。また、複数の事象について統一的な説明を行おうとする営みが総合と呼ばれることも自然なことだと思う。つまり、ここまでの議論の展開は、なにげなく読み進む限り、大きな問題はないように思える。
しかし、振り返ってみると、いずれも事象から法則に向かうものだという意味で、ヒュームの帰納とニュートンの分析が重ねられ、いずれも法則から事象に向かうものだという意味で、ヒュームの演繹とニュートンの総合が重ねられることになる。
これは明らかに、分析=演繹、総合=帰納 という僕の直観と異なる。いつのまに、こんなことになってしまったのだろう。
自説を論じる前に、澤田が着目しているヒュームとニュートンの違いについては言及しておくべきだろう。
澤田によれば、ニュートンの一般原理とは法則とでも言うべき揺るがない確たるものだが、ヒュームの一般原理とは、あくまでも仮説であり、更新可能なものである。そのような違いがあるという点が重要である。
だから、ヒュームにおける一般原理と実験観察との間の往復(循環)構造とは、文字通り、往復構造だと言っていいだろう。個別の事象の観察により、仮説が更新・強化され、仮説が更新・強化されることを通じて、個別の事象の観察の精度が上がっていく。
一方で、ニュートンにおける一般原理と実験観察との間の往復構造とは、実は、増殖とでも言うべきものだろう。個別の事象の観察により発見された法則は見直しの対象とはならず、確定する。そのようにして成立した法則は、新たな事象の観察と、観察による新たな法則の発見の礎となっていく。だから、一般原理と実験観察との間の往復が一巡するごとに、新たな法則がひとつずつ増殖していくこととなる。
懐疑主義的な僕からすると、軍配はヒュームに上がる。ニュートンはあまりにもナイーブだと思う。ヒュームや僕は、確たるものを見つけようとしつつも、グルグルと仮説でしかないものと格闘しているのに対し、ニュートンはあっさりと確たる法則を見出し、次のステップに進んでしまっている。
常識的な言い方だけど、帰納では確実な真理には到達できない。いくら黒いカラスを観察しても、白いカラスがいないことは証明できない。その問題に向き合っていないという意味で、ニュートンの道筋には誤りがあるし、ヒュームのほうがそのような問題に真摯な態度をとっている。
だけど、澤田の図を眺めていると、どうもそこには、単なる誤りではない何かがあるようにも思えてくる。どうしてこんなにきれいに違っているのだろう。
まず言えそうなことは、ヒュームの帰納・演繹のプロセス全体が、ニュートンの分析に相当するのではないか、というものだ。ヒュームの実験と仮説のサイクルを何度も回すことによって、仮説の確度は高まり、ニュートンの確たる法則に近づいていく。ヒュームの往復運動の果てにある、(到達できない)理想形として、ニュートンの法則があるとも言える。
考えてみれば、僕もヒュームもナイーブだ。様々なことを懐疑に付しながらも、何度も、実験と仮説のサイクルを回すことができるということについては疑っていない。世界のものごとを何度も繰り返し観察し、ひとつの仮説を何度も更新できるために必要な「複数性」とでもいうべきものを疑っていない。永井の言葉で言うならば「ものごとの理解の基本形式」の枠内にいることについては疑いを持っていない。
もし、それを疑わず、信じ込むならば、一気にニュートンのように、もっと楽天的にすべてを信じてもいいような気もする。僕もヒュームも信じることに敏感な割に、疑うことに無頓着すぎるような気もする。(ヒュームは実は両方に配慮しているのだ、というのが自然主義と懐疑主義の両立を主張する澤田の解釈なのかもしれない。)
言うならば、何かを疑うためには、その疑いを成立させるために何かを信じざるを得ないということである。ニュートンはそこで、あえて疑うことを放棄し、信じることを選んだとも言える。(それならばニュートンは僕の懐疑の先をいっているということになる。)
あくまでも、僕のアイディアの備忘録に過ぎないけれど、僕が澤田の図に違和感を持ったのは、澤田が一般原理と実験観察というひとつの軸しか書き入れていないからなのではないだろうか。僕の違和感を解消するためには、その軸に直交するようにして、もう一つの軸を書き入れなければならないような気がする。
今のところ、第2の軸には、信じる-疑う、または、楽観-悲観 という名前が書き入れられるような気がする。そして、ヒュームとニュートンの往復運動を分けて配置することで色々なことが見えてきそうな予感がある。
色々なこととは、例えば、時計回りに総合の円環があり、反時計回りに分析の円環がある、というようなことだけど、そこから先は何も考えられていないので、この文章はおしまい。
※ ニュートンは読んだことがないので、『光学』を読んでみようと思っています。