山口尚の『日本哲学の最前線』を読んだ。山口は最近の日本哲学(J哲学)の潮流を不自由論という切り口で鮮やかにまとめ上げている。僕の理解では、ここでの不自由論とは、常識的な意味での自由に不自由をぶつけ、自由と不自由とをかき乱し、その撹乱の中に、より深い自由を見出そうとする議論だと言ってもいいと思う。
その撹乱のやり方は、この本に登場する6人の哲学者によって、それぞれ違う。また、撹乱自体に注力するか、それとも撹乱を手段としてその先に何を見出そうとするか、といったウェイトの置き方も違う。(多分、千葉と苫野がそれぞれの両極にいる。)だが、大ざっぱに捉えるとそのような潮流にあると言われると、確かにそんな気もしてくる。
この話と、僕が考えていることをつなげてみたい。
僕がやっていることも、この流れに位置づけられそうに思える。
僕が重視するのはある種の動性だ。自由と不自由という両極を捉えて論じるためには、その両極を媒介するようななんらかの動きが必要となるはずだ。
動性を拒否し、自由と不自由という両極を静的に論ずるためには、その両極を一挙に捉える視点が必要となる。もしそれが成功したとすると、ひとつの視点のなかに自由と不自由が含まれてしまうから、そこでの自由と不自由は両極性を失ったものとなってしまう。以上のように考えるならば、自由と不自由の両極性と静的な議論とは両立しないと言えるだろう。
僕は動性を議論に導入することによって、自由と不自由とを撹乱しようとしているとも言えるだろう。
僕から見ると、この本で紹介されている6人の哲学者も似たようなことをしているように思える。國分にとっての中動態とは静的なものではなく、そこに巻き込まれてしまうようなものであり、そこに動性がある。青山は自由の肯定と否定を一挙に成し遂げることにより、ゆらぎとでも言うべき動性を浮かび上がらせる。千葉の偶然性に動性が含まれているのは言わずもがなだろう。伊藤と古田と苫野はこの本でしか知らないから怪しいけれど、伊藤は身体をうごかしていると言えるだろうし、古田は言葉が動くのを待っているように思える。苫野の議論にも弁証法という動きがある。
僕が重視する動性を僕なりの言葉で表現すると、対話や呼吸といった言葉で表現することもできる。対話という双方向の動きとして、私(一人称)とあなた(二人称)とが接続する。呼吸という双方向の動きとして、私の身体と世界とが接続する。そんなイメージだ。
なぜ僕が対話や呼吸という言葉を使うのかというと、対話なら私とあなた、呼吸なら身体と世界という二つの対となるものを導入することができるからだ。
僕の実感として、ひとつだけの道具立てで豊かにものごとを描写することは難しい。僕は独我論者的だけど、完全な独我論、つまり「我」だけでものごとをうまく説明することはなかなかの困難だ。だけど、私とあなた、私と世界といった二元論を出発点に置くことが許されるならば、かなり容易にいろいろなものごとをうまく説明できるようになる。常識的な二元論を立ち上げることができるという点で対話や呼吸といった動性は使い勝手がよい、と言ってもいいだろう。
対話や呼吸といった動的な仕組みを使って、私とあなた、身体と世界といった複数のものごと(または地点)をまとめあげるという点を強調するならば、僕がやっていることはシステム的だと言ってもいいだろう。システムだと静的ならば動的なサイクルと言ったほうがいいかもしれない。対話ならば、私からあなたに向かうフェイズとあなたから私に向かうフェイズという2つのフェイズを含むサイクルがある。呼吸ならば私から世界に向かう(呼気という)フェイズと世界から私に向かう(吸気という)サイクルがある。そういったサイクルが何度も繰り返される。
何度もサイクルが繰り返されることで、そのサイクルの居場所としての場のようなものが成立するだろう。それこそが人間と呼ばれるものだったり、日常や実践と呼ばれるものだったりするのだと思う。そこにある現実の厚みのようなものこそが、このサイクルの場なのではないだろうか。
このような場が成立することにより、場の外側にあるものも浮き彫りになってくる。サイクルが届かないところに、人間でも日常でも実践でもないものがあることが明らかになる。きっとそれは神や(純粋な)理性や論理と言われるものだろう。なお僕はそこに言語を加えることもできると思っている。更には(ちょっと問題含みだけど)、永井的な(究極的な)私や実存といったものも加えられると思っている。
比喩的に描写するならば、神や理性を象徴するものとしての天と、(究極的な)私や実存を象徴するものとしての地の間に人間の日常の実践の領域があるという感じとなる。いわば、これは天と地の間にある僅かな人間との土地で行われているローカルな営みである。そして、先ほど述べたとおり、この人間の日常の実践とは、動的なサイクルである。そのような意味で、僕はこれをローカル・サイクルと名付ける。僕が重視する動性とは、天と地の間でささやかに行われているローカル・サイクルのことなのだ。
なぜ、ローカル・サイクルという名前にしたかというと、この本の第4章で伊藤の哲学について説明する際に、ローカル・ルールという言葉が登場したからだ。僕はこの言葉が気に入って、そこに動性を意味するサイクルという言葉を入れ込み、ローカル・サイクルとした。伊藤のローカル・ルールとは、僕のローカル・サイクルについての(ちょっと静的な)描写のことだと思う。
伊藤だけでなく、この本に登場する哲学者たちは、皆、このローカル・サイクル的な議論を繰り広げていると思う。そのように言える根拠は、彼らが皆、内側の視点からの議論を繰り広げているという点にある。彼らは、神や実存といった振り切った特別な視点を所与の出発点として議論を始めるようなことはせず、人間の日常の実践を踏まえて議論を丁寧に進めているように見える。それがローカルだということである。当然、ただ日常の実践に留まっていては話が深まらないから、形而上的な領域まで議論を動かしている。そのときに使っているのが何らかの動性だ。その動性は一度限りのものではなく、サイクルとして繰り返されることで、議論が力を持ち、形而上学的な領域にまで議論を進めることができる。だから彼らの議論はローカル・サイクル的だということになる。
だけど、そのようなやり方は、この本に登場している世代の哲学者の専売特許ではないだろう。その上の世代に位置づけられる、僕が好きな永井均や入不二基義もそのようなことをやっている。永井の議論の妙は、私の独在性という極を、あくまで内側の視点からの「ひたりつく」ような議論によりあぶり出しているという点にあり、その際に用いているのは〈私〉と《私》といったサイクルを回すという動性だとも言える。入不二の場合はもっと明確で、『現実性の問題』において円環モデルという、いわばローカル・サイクルそのものを描き出している。実は、僕がローカル・サイクルと呼ぶときに常にイメージしているのは、この入不二の円環モデルである。入不二はこの円環モデルにより、形而上学的な思索を深め、ついには神と実存を内側の視点から捉えることに成功している。つまり僕の評価だと、最も成功し最も大きなサイクルを描くことに成功しているローカル・サイクルとは、入不二の円環モデルである。ローカル・サイクルの起源は少なくとも永井と入不二に遡る。
なお、入不二や永井の議論は、外側の視点から客観的に神や実存を捉えているのではなく、あくまで内側の視点で捉えているという点が重要である。その重要さを強調するために、僕は「ローカル」サイクルと名付けていると言ってもいいだろう。決してローカルという言葉により何らかの限定や限界を強調している訳ではない。
そのように考えるならば、この本に取り上げられているような、永井や入不二の次の世代に位置する哲学者たちは、先人たちが発見し、すでに手元にあるローカル・サイクルを使って何ができるかを考えていると言ってもいいだろう。永井や入不二がローカル・サイクルの限界・地平を明らかにしたことを受け、そこから具体的に何が帰結するのかを考えていると言ってもいい。
山口の見立てでは、この本に登場する哲学者たちがやっていることは不自由論であるということが、僕の見立ての正しさを示唆していると思う。
不自由論に対比するならば、永井や入不二がやっていることは、不実存論であり不現実論だと言ってもいいだろう。または「不」論だと言ってもいいかもしれない。これらは、いわば形而上学の極北に位置づけられるような議論だと言えると思う。
それに比べて不自由論というのは、もう少し人間の日常の実践に寄ったところに位置づけられそうだ。きっと形而上学と倫理学が重なるあたりに自由は漂っているのだろう。そのようなものと格闘する思索はより倫理学的で実践的だと言ってはずだ。対比するならば、永井や入不二がローカル・サイクルのギリギリを攻め、ローカル・サイクルと格闘しているとするならば、この本の哲学者たちはローカル・サイクルに乗っかり、ローカル・サイクルの力をどれだけ引き出せるのかを試していると言ってもいいと思う。
当然、この本に登場する哲学者たちに形而上学的な思索が足りない訳ではない。その思索の方向づけにちょっとした違いがあると感じるのだ。
僕は彼らよりちょっと年配だからか、僕の好みは永井や入不二のほうにある。正直、この本に登場する哲学者たちの議論がちょっと物足りない。なんというかぶっ飛びきれていないのだ。だけど、そういうことではないのかもしれない。例えば、この本を読む限り、伊藤の魅力は、ぶっ飛んでいないというところにこそあるように思う。このあたりはちょっとわからないから、ぶっ飛んでない哲学の魅力を確かめてみたいから、まずは伊藤亜沙の『手の倫理』をポチってみようと思う。