1 哲学若手研究者フォーラム
先日、哲学若手研究者フォーラムというイベントに参加した。(http://www.wakate-forum.org/)
僕も将来、大学院に行って、年齢はともかく、キャリアとしては若手研究者になることがあるかもしれないから、どんなものか見ておきたかったのだ。
せっかくなので色々と読んだり参加したりしてみたら、刺激を受けた。消化できないほどのインプットを詰め込むという体験は久しぶりだったように思う。少しでも消化するため、ここに吐き出しておきたい。
なお、フォーラムの発表内容は非公開なので、具体的な内容にはなるべく踏み込まず、そこから僕が勝手に考えたことだけを書くことにする。
2 新しい語り方
一番の収穫は、哲学には、従来型の語り方とは別に、新しい語り方があるという可能性に気づけたことだ。
哲学とは、ある側面では、「真なることを語ることを目指す営み」だと言っていいだろう。その対象が善や美といったものであっても、善や美について、なんらか真なることを語ろうとするはずだし、真そのものを考察の対象とする場合でも、真についての真なることを語ることを目指そうとする。
僕は、それが当然だと思っていた。
だけど、そうではないのかもしれない。真なることを語ることは必然的に失敗せざるを得ないのかもしれない。やるべきことは、真ではないことを語ることであったり、真なることを語らないことであったりするのかもしれない。
例えば、フェミニズム的な文脈においては、従来の哲学が行ってきた「真なることを語ることを目指す営み」は、生理や出産が必然的につきまとわないという意味で、男性的な身体を持った当事者としての哲学者が前提にされているという批判がある。その場合、「真なることを語ることを目指す営み」自体が、男女の差に目を見落とし、その点で、本質的に誤りとなる可能性を秘めている。
それならば、真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。それはつまり、フェミニズム的に述べるならば、まずは男女の性差という不正を暴くことが出発点となるということである。そして、これまで当然視されてきた男性的な語り方とは違う、全く新しいかたちでの語り方を探していくべき、ということになる。
3 パラリンピック
僕はそのような方向性には魅力を感じる。新しい可能性が秘められているような気がする。だけど、そこには困難もあるように思える。その困難は、パラリンピックをテレビで観て感じたものと似ている。
パラリンピックでは、障害の程度によりクラス分けがされる。実はきちんと観ていないので適当な例だけど、100メートル走であれば、きっと、足に障害がある人と手に障害がある人では、足に障害がある人のほうが障害の重いクラスになるだろうし、片足に障害がある人よりも、両足に障害がある人の方が障害の重いクラスに振り分けられることになるだろう。競技を成立させるためには、そのような振り分けが重要となるから、ニュースでもやっていたけれど、振り分けの基準ギリギリの人がどちらのクラスに振り分けられるのか、といった問題も生じることになる。
僕が感じた困難とは、同じ障害のクラスの中でも、障害が比較的軽い人と、比較的重い人がいて、明らかに障害が軽い人のほうが有利になるという問題のことだ。どんなに細かく障害を区分けしても、障害の程度は一人ひとり微妙に違うから、この問題はどこまでもつきまとう。(またより現実的には、あまり細かく区分すると、クラスあたりの参加者が少なくなりすぎ、競技として成立しなくなるという問題もあるだろう。)
これと同じようなことが、弱者を論理で擁護しようとするフェミニズムのような営みには本質的につきまとうのではないだろうか。
例えば、「女性は出産という不利があるのだから、女性を優遇すべき」という考え方が説得力を持ち、そのとおり女性が優遇される社会になったとする。そうすると、出産が可能な女性と、出産が不可能な女性(病気で出産ができない人など)との間での差別が生じることになる。
更に、何らかのかたちで全女性を平等に優遇する社会になったとしても、人種や年齢といった、それ以外の側面による差別の解消は後回しになる。更に、そのような先天的な差異による差別をすべて解消したとしても、学歴や努力や運といった後天的な要素による差別は解消しない。どこかで何らかの区別をして異なる取り扱いをするならば、そこに差別が生じることは避けられない。
いや、差別と区別は異なる、という反論は当然あるだろう。きっと差別とは、悪い区別のことである。区別には差別と呼ばれるような悪い区別と単なる区別があり、悪い区別だけを撲滅すべきということになる。それはそうなのだけど、パラリンピックでのクラス分けのような単なる区別も、クラス分けによる不幸を生み得るという点で悪い点もある。少なくとも、差別と区別はよく似ている。
4 区別による立ち上がり
人間を男性とそれ以外に区別することで男性が立ち上がり、人間を健常者とそれ以外に区別することで健常者が立ち上がる。障害者を足に障害がある人とそれ以外に区別することで(パラリンピックでの)足障害者クラスが立ち上がる。それは価値中立的に捉えるならば区別である。
ただしフェミニズム的には、何かと「それ以外」というかたちで区別するということに差別を見る。男性ではない女性やLGBTは「それ以外」としてひとくくりに扱われ、健常者ではない知的障害者や身体障害者が「それ以外」としてひとくくりに扱われ、足障害者クラスではない右手障害者や両手障害者が「それ以外」としてひとくくりに扱われ、無視される。
そこで、着目されてこなかった「それ以外」に着目し、スポットライトを当てることで悪しき区別(差別)を価値中立的な区別に是正しようとするのがフェミニズム的な道筋なのだろう。
そのような流れの先に、男性でも女性でもない「それ以外」をLGBTとして着目したり、身体障害に比べて扱いにくかった知的障害に着目したり、といった最近の動向は位置づけられるのだろう。
僕はこれを「区別による立ち上がり」と呼びたい。男性をそれ以外から区別することで男性が立ち上がり、男性を除くそれ以外から女性が立ち上がり、男性と女性を除くそれ以外からLGBTが立ち上がる。更には男性と女性とLGBTを除くそれ以外からQやXジェンダーが立ち上がったりもするのだろう。
この「区別による立ち上がり」には原理的に限界はない。パラリンピックでのクラス分けの例を用いるならば、どんなに細かく障害を捉えてクラス分けをしても、そのクラス内では微細な障害の程度の違いが残る。男性のなかにも男性っぽい男性もいれば、女性っぽい男性もいるだろうし、そもそも、男性・女性という区分自体がなじみにくい男性もいるだろう。そのような違いはほぼ個性と言ってもいいものであり、男性や女性やLGBTといった言葉では掬い取ることはできない。
5 「区別による立ち上がり」の功罪
論理上重要なことは、この「区別による立ち上がり」により同じ区分に捉えられた人の内部では、区別は差別として機能するということである。パラリンピックで同じクラスに区分されたならば、そのクラスのなかで比較的障害が軽いAさんと、比較的障害が重いBさんの間では、Aさんのほうがきっと活躍できるだろう。Aさんはパラリンピックに出場できても、Bさんは地元の草大会にしか出場できないかもしれないし、AさんはレギュラーでBさんは補欠になるかもしれない。同じように頑張っていても、そこには外的な要因による扱いの違いがある。これは差別である。
だが、より実践的に重要なことは、一旦「区別による立ち上がり」が起動したならば、そこで生じた差別を是正するために「区別による立ち上がり」は有用である、という点である。男性という区別が立ち上がった後の男性社会において、それまでスポットライトが当てられてことなかった「それ以外」に女性という名前を与え、女性という区別を立ち上げることは、女性の立場を引き上げることに直結する。
区別は本質的に差別的であるが、その差別を是正できるのも区別の力である。
6 言語の差別性
最善の解決策は、そもそもの区別が始まる前に戻ることだと考えるかもしれない。男性にスポットライトが当たるという第一歩がなければ、それ以降の問題も立ち上がらなかったはずだからだ。
だがそれは難しいと僕は思う。(後ほど修正するので、正確には、僕はそう思っていた。)なぜなら、この第一歩は、言語の働きと直結しているからだ。言語を使用するということは、その発せられた言葉を「それ以外」と区別するということだからだ。つまり言語とは「区別による立ち上がり」である。僕が「コップがある。」という言葉を発することで、僕はそこにペットボトルや茶碗ではなく、コップがあるという区別を立ち上げている。その区分上、ペットボトルや茶碗の可能性は全て「それ以外」として均され、ペットボトルと茶碗の違いは抑圧される。これは差別である。(これを外的差別と言ってもいいだろう。)更には、ただ「コップがある。」という描写に留めるということは、そのコップのより詳細の内容、例えば青い色や使い込まれてついた傷といったものには着目しないということである。これも、コップという種のなかにある違いを抑圧するということであり、差別である。(これを内的差別と言ってもいいだろう。)つまり、言語とは、本質的に差別を発生させる装置なのである。
それならば、言語を使用する存在である人間が、この差別から逃れることは不可能であるように思える。(少なくとも僕はそう思っていた。)
7 真ではないことを語る
だけど僕は、先述のフォーラムに参加し、「真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。」ということに気づき、この先入観の是正可能性を考え始めている。
僕は、哲学とは「真なることを語ることを目指す営み」だと考えてきたけれど、実はこれは、哲学に留まらず、言語使用全般に当てはまる。僕が「コップがある」と語るということは、つまり「コップがある」が真であり、その真なることを言葉で指し示そうとしているということである。
確かに、言葉とは(そして多分、人間の思考というものは)そのようなものなのだろう。だが、もしかしたら、コップがある状況を描写するときに、あえて「『ペットボトルがある』は真ではない」というような語り方が可能なのではないだろうか。僕が考え始めているのはそのようなことである。
ちょっと例が抽象的すぎて逆にわかりにくいかもしれないので、別の例を用いるならば、男性がいる状況は「『女性がいる』は真ではない」とも描写できるし、健常者がいる状況は「『障害者がいる』は真ではない」とも描写できるということである。ある状況を描写する際に、「ではない」という否定を経由することにより、そこにいる男性や健常者ではなく、不在の女性や障害者に焦点をあてた描写が可能となる。
これが、「真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。」という僕の気づきの実践例であり、「区別による立ち上がり」が必然的に導入する差別に抗う道である。このような新しい語り方がありうるのではないだろうか、と僕は考えている。
だが、「『女性がいる』は真ではない」も「『障害者がいる』は真ではない」も不格好で不自然な表現だ。これらは、要は、女性や障害者を「ではない」という言語の否定の力を用いて逆説的に表現しようとしたものだと言える。「○○に注目しない」とあえて明示することで、その注目されなかったものに注目を向ける論法である。この不自然さは拭い去り難く、このような語り方では、自由に言語は操り、更に議論を進めることは難しい。別のやり方が必要となるように思える。
8 環世界
言葉によって直接的に言葉で表現できないものを指し示す道筋はそう多くはないと思うが、もうひとつ、イメージに訴える語り方というものもあるだろう。
僕にとってのイメージに訴える語り方とは「環世界」という言葉を使ったものである。少し昔の哲学者(調べてみるとユクスキュルというドイツ人)が生物学っぽい分野で使ったもので、虫には虫の環世界がある、というような話だったと思う。僕が知っているのは、そのような「環世界」という言葉の表面だけであって詳細は知らないけれど、確かにそうだと思うし、いい言葉だと思う。
僕は環世界について考えるとき、僕をつつむ世界の触感のようなものを重視する。季節は梅雨で、天気は雨だ。濃密な湿気が僕の身体を包んでいる。湿気が湿気として、世界のマテリアルとしての存在感をもって、僕を取り囲む。僕は、水の底に沈み込んだようで、まるで水中に漂う空気の泡のひとつのなかに捉えられたように感じる。梅雨の雨の日の水中の空気の泡。これが僕の環世界のイメージである。だから僕は、人間には人間の環世界があり、カエルにはカエルの環世界があるのだなあ、と思う。なぜカエルかというと、季節は梅雨で、天気は雨だからだ。
環世界における、僕とカエルの間にあるものは区別ではないし、差別でもない。なぜなら、僕とカエルの間は、濃密な梅雨の湿気によって完全に隔絶しているからだ。僕をつつむ水中の空気の泡と、カエルを包む水中の空気の泡は交信不能であり、相互に関わることはありえない。だから、僕をつつむ空気の泡は広大な宇宙を旅する宇宙船になぞらえてもいいだろう。ただし、通信機能は故障し、行く先もわからず孤独に漂う宇宙船である。
残念ながら、このように下手な詩のような言葉をいくら積み重ねても、言葉で区別を否定することはできない。僕とカエルが属するのは同じ水中であり、同じ宇宙でなければならない。同じところに属する二者の間には区別が必然的に存在しなければならない。だけど僕が環世界の比喩でなんとかイメージとしてでも伝えたいのは、区別を超えた隔絶である。
9 当事者性
とにかく、環世界の比喩が成功し、僕はイメージとして、何かを読者に伝えることが成功したとしよう。それならば僕は、「真ではないことを語る」やり方(「『女性がいる』は真ではない」など)で表現したことと、全く同じことを環世界の比喩で伝えることができたということになる。女性には男性から隔絶した女性の環世界があり、障害者には健常者から隔絶した障害者の環世界がある。そこには通常の意味での区別は存在せず、だから差別も存在しない。僕が表現したいのは、そういうことである。
「真ではないことを語る」という否定を用いたやり方と、環世界の比喩というイメージを用いたやり方を重ね合わせることで、見えてくるものがあるように思う。それは、女性の環世界にいることができるのは女性だけであり、障害者の環世界にいることができるのは障害者だけだということである。男性がいる場面において「女性がいる』は真ではない」と発言できるのは女性だけなのである。そこには極めて強力な当事者性が入り込んでいる。
そして環世界という捉え方に忠実になるならば、女性一般というような環世界はない。そこから、僕ならば一気に実存や永井の独在性のような話に持っていきたいけれど、そのような話を抜きにしても、女性でも障害者の間にも身体的な差異や過去の経験の積み重ねによる個人差があることは確かだろう。これは一人称的な当事者性から始めるべき話なのだ。
10 僕の当事者性・反知性主義
それならば僕も、僕の当事者性から語るべきだろう。僕は男性で、僕は健常者だ。僕は世間的には最も優遇されがちな中高年男性で、実際、職場では年功序列でそのような立場にいる。金銭的にも困っていないし、このような文章を書くことができるくらいには知的能力もあるし、ヨガをやるくらいには身体能力もある。つまり僕は強い立場にあり、僕は決して差別される側の立場にはいない。(時々、海外旅行に行くと、一部の白人が差別的だと感じるくらいだ。)
だから僕は差別を語る資格はないし、きっと差別を語る能力もない。
資格も能力もないことの証左だと思うけれど、健常者の男性的な論理からすると、正直、フェミニズム的な言説は反知性主義的だと感じる。知性とは「真なることを語ることを目指す」ものだとするならば、その否定から始めようとするフェミニズム的議論は、これまでの知の積み重ねを全否定するものであり、危険を感じる。なぜなら、言語とはそもそも「真なることを語ることを目指す」ものならば、それを言語によって否定するような試みは究極的には失敗することは自明だからだ。僕が行った二つのアプローチ、つまり言語の否定の力を用いるやり方とイメージに訴えるやり方がともに完全には成功し得ないことからも、それは示されていると思う。
11 何を語るか、から誰が誰を語るか
ではどうすればいいのか。きっと、進むべきは、完全に男性的な従来型の知のあり方でもなく、かといって(急進的な?)フェミニズム的に完全に従来の知を否定するのでもないような、その両者を調停するような道筋なのだろう。
僕はそのような道筋を見つけられてはいないけれど、ひとつの改善点として、「語られた内容だけではなく、誰が語ったかに注目する」ということが挙げられると思う。例えば「白人はずるい。」という言葉は、それだけでは誤りだろう。なぜなら、明らかに、ずるくない白人もいるからだ。だが、差別を受けてきた黒人がその言葉を発したならば、それは正しいものとなる。また、「不法滞在する外国人の犯罪率は高い。」という言葉も、客観的な数値としては正しいかもしれないが、合法的に日本に住む日本人が発したものならば、検討の余地があると思う。その言葉は、明らかに在留外国人の当事者性に不用意に踏み込んでいる。ある命題の真偽を判定するためには、その命題の内容だけでは足りず、その命題の発話者が重要となるのだ。
そのようなところからなら、被差別の当事者ではない僕でも語ることができるというのが、僕のアイディアの利点だと思う。キャッチコピーとしては内包から外延へ、とでもなるだろうか。
僕は、語られた言葉の内容だけではなく、その人がどのような人なのかに思いを馳せなければならない。一方で、誰が発した言葉か、というだけでなく、その言葉の内容にも、もっと注目してほしいとも思う。必要なのは静的なバランス感覚ではなく、その両極の動的な行き来なのだろう、と僕は考えている。