僕は先日、『新しい語り方と環世界』(https://dialogue.135.jp/2021/09/23/new/)という文章を書いた。そのときの僕は書きたいことを書ききったつもりだったけれど、読み返してみて、どうも話がずれてしまっていたことに気づいた。僕はもう少し、形而上学っぽいことを考えていたはずなのに、どうも倫理学寄りにずれてしまったようだ。

実は、僕が書いたことは、フォーラムでの現代認識論やフェミニスト認識論と呼ばれる分野についての話を踏まえたものだった。(僕の理解では)フェミニズムとは女性の価値の問題であることからも明らかなように、つまりこれは認識論という(僕にとっては)形而上学的な問題を価値化し、倫理学化した議論であるとも言えるだろう。

だから、形而上学っぽい話が倫理学にずれていくのは当然ではあるのだけど、僕としてはできるならば、形而上学の問題を倫理学的に答えるのではなく、倫理学の問題を形而上学的に答えることを目指したいという気持ちがある。価値の問題を僕の形而上学に取り込んでいきたいのだ。だから、現代認識論がやろうとしていることと僕が目指すことは、よく似ているけれど、ちょうどベクトルが逆だとも言える。

だから僕の考えでは、やはり僕が先日の文章で語った「真ではないことを語る」というフェミニスト倫理学的なアプローチは、成功し得ない。だけど、成功しないから意義がないのではなく、成功しないからこそ意義がある。なお、その逆である「真であることを語る」ことも同様に、成功し得ないし、だからこそ意義がある。「真ではないことを語る」ことも「真であることを語る」ことも、ともに成功し得ないということこそが、僕が本当に語りたいことを指し示しているように思う。

僕が語りたいことは、比喩で表現するならば、深い海のようなものである。僕は先日の文章で、梅雨の雨の湿気のなか包まれるような環世界を思い描いた。あの空気感と、僕が深い海としたものは同じものである。僕が語りたいことは、僕を包む梅雨の雨のようで、深い海のようなもので、それを言葉で捉えることはできない。

僕は海の底から沸き上がったひとつの泡に包まれているかのようだ。決して捉えることができないもののなかから、突然、僕の世界が立ち上がる。そこから僕の語りも含めた全てが始まる。僕はそんなことを書きたいと思っていた。だから、もともとのタイトルは『語られない世界からの語りの立ち上がり』というものだった。

このように書いてみると、やはり『新しい語り方と環世界』という文章は必要だったのだろう。あれを書いたからこそ、この文章が少しは理解し得るものとなった。二つの文章があるからこそ、僕が本当に表現したいものに少しは近づくことができた。そんな気がする。