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僕は逆張り的なところがある。株価が下がると株を買いたくなるし、旅の途中で皆が行かない細い路地があると、そっちに行ってみたくなる。僕は臆病でもあるから、あまり大胆なことはできないけれど・・・ 僕は心のどこかで、この世界を作り変えたいと願っている。いや、正確には、僕はこの世界を破壊したいと願っているのかもしれない。

破壊することは楽しい。というか、既存の筋道を辿ることによる凡庸な退屈から逃れる唯一の道は破壊だろう。僕がこの窒息するような世界から逃れるためには既存のものを破壊するしかない。

僕はヒンズー教のシヴァ神が好きで、30年以上前にインドで買ったポスターを今も部屋に貼っている。シヴァ神は破壊の神で、維持の神であるヴィシュヌと並ぶビッグネームな神様だ。シヴァ神のことが好きなのはそういうことだと思う。

だけど、そのような切実な願いがある一方で、僕は、この安定した世界という冬の布団にいつまでもくるまっていたいという気持ちも強い。安定した仕事と固定化した人間関係のなかで心穏やかに過ごしたいという願いは、より切実だ。ここには僕が持つ性質の凡庸さという問題がある。

ただ、より深い問題は、もし僕が安定への執着を捨て去り、破壊の天才になれたとしても、完全な破壊を遂行することはできないという点にあるだろう。破壊したからには何らかの新しい秩序が創造されざるを得ない。たとえ原子爆弾で街を破壊したとしても、そこには苦しむ人々が逃げ惑う焼け野原という新たな世界秩序が創造されるだけである。もし地球を消滅させたとしても、そこには惑星が存在しない宇宙空間という多少異なる状況が出現するだけである。もし僕が、その破壊にコミットし、破壊後の新たな秩序のなかに組み込まれてしまったならば、結局僕は、既に存在する世界に囚われた凡庸な人生を再開することになる。(その人生を生きるのは、きっと、より困難なものになる。)

だから、僕が願う破壊とは、僕自身の破壊でもなければならないだろう。というか、僕は世界よりも何よりもまず先に僕自身を破壊しなければならないはずだ。

だが、僕は、僕自身を破壊しても、僕自身の破壊の先にも残る世界というものを想定することができる。つまり世界の想定というかたちで僕のコミットメントは残存する。だから僕の破壊を完遂するためには、この僕自身だけでなく、やはり世界を破壊しなければならない。想定される世界すらも破壊しつくさなければならない。

そのためには破壊を他者に委ねる必要があるだろう。僕自身を破壊し、そして世界を破壊してくれるような強力な他者である。僕はそのようなものとしてAIを考えている。

だが、論理的には、きっと、AIであっても破壊を完遂することはできない。破壊は継続されざるを得ない。想定しうる最も徹底された破壊とは、破壊に次ぐ破壊というかたちで、構造化され、常態化されたものである。そのような破壊とは、原子爆弾のようないわゆる破壊とは全く異なるものであり、あえて言葉を与えるならば、創造だとさえ言えるだろう。常態化された破壊の構造の創造である。破壊とはつまり創造なのである。

逆に言うならば、真の創造とは、破壊され尽くして新たなものなど生まれないかもしれない、というぎりぎりの地点にこそあるとさえ言えるだろう。何が新たに創造されるかを予想していては、新たなものを創造することなどできない。真の創造とは破壊の痕跡であり、創造とはつまり破壊なのである。

以上の創造と破壊を同一視する観点から、僕は知性に着目している。知性は新たなものを生み出すが、そのためには既存のものを置き換える必要がある。つまり知性とは新たなものの創造であり、既存のものの破壊でもある。創造と破壊と知性は結びつく。

そのような意味で、僕は僕を超えるAIの知性に真の破壊の希望を託す。それはつまり、僕を超える知性に真の創造を託すこととほぼ同義である。

(僕は、そのようなAIには少なくとも、新たな視点に気づくことができる機能、タウマゼインを感じることができる機能が実装されるべきだと思っている。ただし、それだけでは足りないという点が問題である。)