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ウクライナのこと

いつもは哲学が最優先で、他に大きなニュースがあってもいずれ哲学に戻っていくのだけど、今回はそうもいかないのでここに吐き出しておく。全く哲学な話ではないし、政治素人の特に目新しいこともない話なので、読む価値は全くない。ご承知おきを。

僕が気になって仕方ないのは、当然ウクライナ侵略のことだ。

ウクライナで起こっていることは、多分、死者の数や被害の大きさでは飛び抜けて酷いことではないだろう。これまであった、そして今現在も起きているだろう中東やアフリカでのよく知らない出来事のほうが、よほど悲惨なものである可能性が高い。世界がウクライナに注目するのは、そこで苦しんでいるのが白人だからであり、そして悪のプーチンと善のウクライナ市民の対決というエンターテイメント性があるからではないか、と勘ぐってさえしてしまう。

だけど、やはり僕もウクライナのことが気になる。それはなぜかといえば、ロシアという国連常任理事国が、政情不安でもない国に対して、直接、首都にまで攻撃するというのが衝撃だったからだ。そして、そのような蛮行に対して、国際社会は、経済制裁以上のことができないということが露呈したからだ。これは第二次世界大戦以降、初の事件だと思う。

今回のことから、NATOや日本や韓国などのアメリカと直接軍事同盟を締結している国でなければ、アメリカは軍隊を動かさないということが明らかになった。加えて、軍事同盟を締結していたとしても、そう簡単には助けてくれないだろう、ということも明らかになった。

独立国家ウクライナ相手でいけるなら、中国の一部である台湾はもっと危ない。明確にアメリカと軍事同盟を結んでいないベトナムもやばい。日本だって、日本人が何人も戦い、死んでいかなければ、アメリカはきっと助けてくれない。

僕の中に、ベルリンの壁崩壊以来、すっかり忘れていたあの感覚が蘇ってきている。僕たちは常に(内戦状態にあるなどのきっかけがなくても)突然、日常を奪われる可能性に直面しているのだ。

そして今回僕が学んだのは、このようなときに大事になるのは「物語」だということである。プーチンやトランプには本当にやばいことをやるかもしれないという物語があるし、ウクライナ軍には祖国を愛し、勇敢に戦うという物語がある。僕は当然反トランプだけど、残念ながらバイデンには鈍重で扱いやすいという物語しかなかったのだろう。人が紡ぐ物語が複雑に絡まり合い、政治は思わぬ方向に進んでいく。

専門家は、軍事力を比較したり、経済制裁時の世界経済への影響を考慮したり、地政学的な影響を分析したりするけれど、なかなかそのとおりにものごとは進まない。なぜそうならないかといえば、そこには理性ではすくい取れない感情があり、人間の生き様があるからなのだろう。

重要となるのは「物語」つまり、他者、この場合は世界からどのように見られているか、という視点である。僕たちはプーチンの心の中は読めないし、ウクライナ軍人ひとりひとりの人生も知らない。だけど、僕たちはプーチンに狂った独裁者、または強いロシアを回復しようとするしたたかな政治家という物語を読み込むし、ウクライナ軍人には絶望的な状況でも勇敢に戦う愛国者という物語を読み込む。物語が悪い方向に働けば、(ナチスドイツのチェコ併合のように)プーチンの暴走を止められないという事態を生み出すし、良い方向に転がれば、SWIFTからのロシア排除のような動きにもつながる。(僕は、損得勘定だけではなく、ウクライナ国民の努力が世界を動かしていると信じたい。)

だから、今回のことで僕が気づいたのは、(僕自身も含めて)人は、他者にどのように見られているかを、もっと気にするべきだということだ。人は、他者にとっては、物語の演者である。他者に働きかけるうえでは、わかりやすく、心に訴えるような物語を紡ぎ出すことが有効だ。政治家のような人ならなおさらだ。トランプのようなポピュリストが成功するのはそのためだし、ジョブズのようなプレゼンがうけるのもそのためだ。そして、それは生半可にできることではない。ときにはウクライナ軍人のように命をかけなければ、他者を動かすような物語を紡ぐことはできない。その点で僕は、日本の政治家にも、日本人にも、僕自身にも不満がある。例えば、僕たちは、安全安心で健康で幸福になれるような制度や年収というような静的な状態ではなく、活き活きとした予測不可能な物語をもっと大事にしなければならないのではないか。

もうひとつ、僕が感じているのは、こんなときでも僕は僕自身ができることをするしかない、ということだ。僕が構想しているのは、このサイトにあるとおり「対話の哲学」だ。対話の哲学というからには、プーチンのような独裁者とは反対の立場を表明するものとなるだろう。対話の重要性についての説得力を高めることは、権力者の独断に制限を加えることにつながりうるはずだ。

つまり、僕が哲学をすることは、ひいては、僕が望むような世界をつくりだすための営みともなりうる、ということである。だから、僕が哲学をするにあたっては、ウクライナの人たちを思うことはモチベーションになりうる。今回のことはそのように僕自身と結びつけることもできる。

だが、それはそれでいいことではあるのだけど、実は余計な夾雑物であり、僕の哲学を変質させてしまうのではないか、という危惧もある。実は、僕は僕の哲学に、あまり倫理的な含意を込めたくなかったのだ。だけど、今回のことで、ちょっと気持ちが変わりつつもある。

そんな迷いはあるけれど、ここで吐き出したので、とりあえず哲学のほうに頭を切り替えよう。

スノーボードのこと

※2000字くらいですが、それにしても読者が得るものがなさそうな文章なのでスルーして結構です。

全く哲学ではないけれど、自分のことが少しわかったので、うれしくて書き残しておくものです。だから、僕に興味がある人(つまり僕)以外は読まなくていいです。

今、冬季オリンピックがやっているけれど、僕は平野歩夢のハーフパイプでの金メダルの滑りをきちんと見ていない。

まあ、スノーボードに興味がなければ普通のことだけど、僕は20代の頃、スノーボードが好きで、あんなオリンピックサイズじゃないけれど、ハーフパイプに入ったこともあるから、それは普通のことではない。

(僕は運動があまり得意ではないけれど、スキーは子供の頃からやっていたので、その流れでスノーボードも好きで、黎明期のスノーボードにはハマっていたのだ。)

僕は小さなハーフパイプに入ったことはあるけれど、あれは怖い。まずハーフパイプに入るためには、崖のようなところを真下に滑っていかなければいけないのだけれど、それが結構怖い。そしてガリガリに固められた氷のようなところを失速しないように滑るのも難しい。そして、その勢いを殺さないように壁のようなところを上がっていくのが更に難しくて怖い。

怖いから無意識にスピードを殺してしまい、壁の一番上まで登って、その上に飛び出すことなんて結局できず、壁を登る途中でパタッと向きを変えて滑ることくらいしかできない。

だけど、そのときにわずかに感じる浮遊感が気持ちいいのだ。体が横になりながら斜め上に浮かび上がるような、ちょっと他では味わえない感覚である。ジャンプ台から飛び立つのが縦の浮遊感だとしたら、ハーフパイプの浮遊感は3Dの立体的浮遊感という感じだろうか。その浮遊感は30年近く経った今でも覚えている。

それを感じたくて何回かハーフパイプに入ったけれど、20代半ばになり、怪我をすると色々と支障が生じる立場になり、また、自分の運動神経のなさを思い知ったので、そういうのはやめることにした。

このくらいのことは語れるくらいだから、オリンピックのハーフパイプ競技くらい見てもいいと思われるかもしれない。だけど、僕は見たくないのだ。あれは、僕が好きだったハーフパイプではない。

平野歩夢がリップ(ハーフパイプの縁)から飛び出る瞬間は心が踊る。あんなに高く飛べたらどんなに気持ちいいだろうかと思う。だけどそこからすぐにハーフパイプは高飛び込みかフィギアスケートのように回転数を競う競技になってしまう。くるくる回る平野君を見ていて、あんなの全然気持ちよさそうじゃないしクールじゃない、と感じてしまうのだ。

いや、きっと平野君はクールなのだろう。クールじゃないのは、オリンピック競技化したハーフパイプだ。僕がハーフパイプに求めていたのは、1cmでも高く飛び、より浮遊感を感じることであったはずだ。そのうえで、見たこともないようなグラブを決めたり、ひねりや回転を加えたりして、周囲に自慢することはあってもいい。だがそれは、浮遊感を感じる余裕を周囲に見せつけるためのトッピングであり、ちょっとした遊びの要素に過ぎない。ハーフパイプはおろかワンメイク(ジャンプ台から飛ぶこと)でもグラブなんてできなかったけれど、目指すべき理想としては、そのように思っていた。

そんな理想から遠くかけ離れたハーフパイプなんて見たくない。僕が好きなのは、スキー場の脇にある、誰にも注目されることのない小さなハーフパイプなのだ。

なお、僕は小学生の頃スイミングスクールに行っていたので水泳も好きなのだけど、水泳については、ハーフパイプに感じるようなモヤモヤはない。水泳のトップレベルの選手を見ていると、あんなに早く泳げたら楽しいだろうなあ、と思う。スノーボードで転んで肩を痛めたから、今はもう泳げないけれど、調子よく泳いでいるときに、体が水と一体になったような浮遊感とでも言うべき感覚になったことは今でも少し覚えている。あんなのを感じているなんて羨ましい。

水泳と対比するとよくわかるけれど、やっぱり僕は採点競技が嫌いなのだろうと思う。僕が好きだった自由なスノーボードというものに、誰かの勝手な価値観を持ち込み、その価値観に沿って競わせて、それを商業化していく。僕はそれが許せないのだ。

また、この文章を書いていて気づいたけれど、僕は、そもそもスポーツというのは見るものではなくてやるものだと考えているのだろう。だから僕は、結局水泳がテレビでやっていてもほとんど見ない。

さらに、もうひとつこの文章を書いていて気づいたけれど、僕は、スポーツの魅力とは、快感、それも浮遊感とでもいうべき、ある特定の快感が得られるところにあると考えているようだ。そういえば、僕はスキューバダイビングも好きだったのだけど、あれにも浮遊感がある。また、スポーツではないけれど、最近はまっている哲学対話の魅力とは、うまく対話できているときに感じる浮遊感である。

そう考えると、僕の好みは意外と単純だなあ、と思う。これが今回の大きな気づきである。

上手なセックスと上手な対話

※3800字くらいです。あとタイトルのとおりセックスの話なので注意を。

こういう書き出しをすることにはちょっと躊躇したのだけど、僕はあまりセックスが上手ではない。

手先が不器用なせいだと考えていたけれど、どうもそればかりではないということに最近気づいた。いや、薄々気づいていたことが、より明瞭になったと言ったほうが正確だろう。

こういう話題なので、あまり具体的にならないようするけれど、僕はどのように相手に触れればいいのかがよくわかっていないのだ。わかっていないから、ただ相手が気持ちよさそうな反応をすればいい、なるべく強い反応があればなおよい、そんなざっくりした指針に基づいて行動してしまっていた。

では、具体的にはどのように行動すればいいのか、ということになるが、世にはセックス教則本とでも言うべきものがたくさんあって、その答えをていねいに教えてくれている。(僕は、セックス教則本の作者であるアダム徳永についての文章を書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2020/06/21/adam/)

だが、残念ながら、彼らの答えは彼の経験から導かれた、過去の彼らにとっての答えであり、僕の答えではないし、更には、これからの未来の僕にとっての答えではない。他者の過去の経験に基づく知見は参考にはなるが、それを自分自身のこれからの未来に直接導入するべきではない。

では、どうすればいいのかといえば、セックス伝道師のような他者ではなく、当事者、つまり相手と僕自身に聞くしかないのだろう。僕は、相手が望むこと、そして僕自身が望むことを丁寧に把握し、両者を調和させ、そこから導かれた道筋を実現すべく行動するしかない。これは結構難しいことだけど、幸いにもセックスでは五感をフル稼働させることができる。通常のコミュニケーションの場であれば、「気持ちいい?」などと言葉で相手の気持ちを確認し、「こうしたい」などと言葉で自分の気持ちを伝えることしかできないけれど、セックスの場では、触覚や息遣いといった様々な感覚を用いることができる。持てる感覚を最大限に活性化させることで、相手と深い交流をすることができる。これはセックスならではの醍醐味だろう。

そのような交流を、セックスにおける対話と呼ぶこともできるだろう。

上手なセックスとは、五感をフル稼働させた対話的なセックスのことであり、僕は独りよがりで対話的でないからセックスが下手だということなのだ。

そして、対話的なセックスとは、それが終わった後の視点から振り返ってみれば、美しい物語のように見えるだろう。物語とは対話の軌跡であり、丁寧に調和した対話により紡がれた物語は美しいに違いないのだから。僕が目指すべきは、対話し物語を紡ぐようなセックスなのである。

だから、物語を書く際に美しい古典文学に触れたことが役に立つ程度には、セックス教則本に載っている先人の美しいセックスを勉強しておくことはセックスにおいて役立つだろう。だけど古典文学の盗作が決して美しい物語にはならないように、セックス教則本どおりのセックスは決してよいセックスにはならない。

セックスとは、二人で対話しつつ、一つの物語を紡ぐようなものだという比喩は、僕に二つのことの重要性に気づかせてくれる。

ひとつは、時間経過の重要性である。セックスには、一直線に頂点を目指すような短編小説のような良さがあるし、丁寧に細部を掘り下げていくような長編小説の良さもある。臨機応変に二人ならではの物語をつくっていけばいい。簡単に言えば、飽きない程度に急がず対話していけばいい、ということになる。

もうひとつ重要なのは、波のような緊張と弛緩である。二人にとってのちょうどいい接触の具合を探っていくためには、接触の度合いを高めたり、弱めたりして、ちょうどいいところを探っていくしかない。そのちょうどいい地点こそが、二人の結節点であり、その結節点の軌跡こそが二者間での対話から生まれる一つの物語である。だから、僕とパートナーがショートショートの名手でもない限り、セックスにおいては、波のような緊張と弛緩を入れ込み、ちょうどいいところを探りやすいように中長編の物語を書いたほうがいい、ということになるだろう。

・・・

長い導入部となってしまったが、実は、僕が書きたかったのは、この緊張と弛緩の話であり、そのなかで見いだされる結節点の話である。

そろそろセックスの話から離れ、もう少し広く行われているコミュニケーション、つまり言葉による対話の話に戻ることにしたい。

セックスであれば、緊張と弛緩は愛撫の強さなどで生み出されるが、言葉による対話の場であれば、それは言葉の量によって生まれると考えていいだろう。たくさんの言葉を一方的にまくしたてるような場面は緊張した場面であり、わずかな数の言葉しか発せられないような場面は弛緩した場面である。

緊張した対話の代表例は演説の場面だろう。登壇者には聴衆に伝達したいことが明確にあり、そのことについて一方的に何分間も言葉を連ね続ける。その間、聴衆は言葉を発さず、それをただ聞くだけである。

一方の弛緩した対話においては、発話者に伝達したい言葉は明確にはない。例えば、お通夜の場面では、出席者は、滔々と悲しい気持ちや相手を思いやる気持ちを説明するなんてことはせず、ただ一言、「お悔やみ申し上げます。」というような言葉を発するだけである。それもできるだけ不器用なかたちで。なぜそうするのかといえば、そこにあるのは言葉にはできない感情であり、こんなときには言葉は無力だと気づいているからである。弛緩した対話とは、このような場面を思い浮かべてほしい。

考えてみれば、対話とは、演説のように言葉が重視される方向と、お通夜のように言葉が重視されない方向という、二つの方向の間で揺れ動くもののように思う。

喧嘩をしていて自分の正当性を相手にわからせようとするとき、僕は言葉に言葉を足して、まくしたてるようにしてこちらの事情や考え方を理解させようとする。だけど、そのような説明によっても理解が得られなければ、僕は無言となり、言葉を発しないことにより、僕の中にある怒りや悲しみといった感情を、その相手に伝えようとする。演説においても、あえて沈黙の時間をつくり、そこで言葉の裏にある感情を伝えるという技法もある。

そしてまた、言葉にならない感情を、あえて言葉にしていくことにより、その感情が癒やされていくというようなことも起こる。長年言葉にしてこなかった戦争の苦い思い出を、年老いてからあえて語るような場面である。これが、はたして言葉により感情を癒やすのか、時間経過により感情が癒やされたから言葉にできるのかは別として、言葉が前景に出てくるのに呼応するようにして、感情は背景に退く。

このように、対話には、感情から言葉に向かうベクトルと、言葉から感情に向かうベクトルという、二つのベクトルがある。僕はこれを緊張と弛緩と表現したが、それはあくまで言葉の側からの捉え方であり、感情の側からしたら、演説のような場は感情の弛緩であり、お通夜のような場こそが感情の緊張であるということになるのだろう。

だから、対話においては、そこで発せられる言葉の内容だけでなく、それ以上に、現在、言葉が加算される方向にあるのか、それとも言葉が減算される方向にあるのかに注意を払うことが重要だ。言葉が加算されている限りは、そこでは言葉が重要な役割を果たしていることになるので、その言葉の内容に注意を払っていればいい。だけど、言葉が減算されているときは、そこで発せられている言葉ではなく、そこで発せられなかった言葉にこそ注意を払う必要がある。そこには、言葉にしない、というかたちで逆説的に表現された感情があるはずだからだ。

そこのようにして、僕と相手とのコミュニケーションにおいて、ちょうどいい言葉と感情のバランスを調整することにより、僕たちにとっての適切な結節点を見出すことができる。二人の間に一つの結節点を見出すという意味で、文字通り僕たち二人は、二つが一つになる。そして、その結節点を丁寧に維持し、その結節点の軌跡を描くことで、僕たち二人は一つの物語を描くことができる。

いや、理想的な結節点を見出し、それを維持するなどというのは幻想だろう。どうしてもコミュニケーションにおいては想定外のズレが生じる。適切な結節点の維持などというのは、あくまで彼方の理想であり、その理想を目指して対話を継続していくことこそが対話のそもそものあり方だと考えたほうがいいだろう。なかなか完璧に成功するものではないからこそ、対話は面白い。

・・・

一応、最後にセックスの話に戻ると、明らかに、対話とセックスは並行関係にある。ただし、通常の対話に比べてセックスにおいて描かれる物語は、結局、二人の間の恋愛の物語であるという点で、その内容としての多様性には乏しいと言えるだろう。一方で、通常の対話においては、言葉や、せいぜい表情や身振りといったものしか用いられない一方で、セックスは、触覚や息遣いといった様々なものが用いられるという点で、手段が豊かである。つまり、通常の対話とセックスはかなりよく似ているが、対話に比べてセックスは、その目指す目的は狭いが、手段は幅広いという違いがあるという関係にある。つまり対話とセックスは相補的な関係にあるということである。だから僕は、セックスをするように対話をしていきたいし、対話をするようにセックスをしていきたいなあ、と思う。

GIRL FRIEND

※1700字くらいです。

僕は高校生の頃、ある人を好きになった。帰国子女で英語がペラペラで、クラスで一番の成績の女の子だった。僕は頭がいい女の子が好きだったのだ。結局、その恋はうまくいかなかったけれど、それからずっと、僕が好きなタイプは「頭がいい人」としてきたし、実際そうだった。

なお、頭がいいといっても、成績がいいというだけの意味ではない。ROOSTERSのGIRL FRIENDという曲に、「そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる」という歌詞がある。そういうことなんだよなあ、って高校生の僕は思っていた。

高校生の僕の気持ちをより正確に表現するなら、僕は、僕のことを理解してくれる人を求めていた。きっと当時の僕は、母性のようなものを求めていて、母親のように、よしよし、と僕の頭をなでながら、僕のことを全て包み込んでくれるような人を求めていたのだろう。(実の母親がそのような人だったかどうかは別として。)

当然、そのような人などいる訳ないから、高校生の僕の恋はうまくいかなかったし、その後の僕は路線変更していくことになる。

だけど結局僕は、たいして変わることができなかったのかもしれない、と最近気づいた。僕がこのような文章を書いているのは、心の奥底では誰かに理解してほしいと願っているからなのだろうし、哲学カフェのような活動をしているのも、互いに理解しあうことを目指しているからなのだろう。僕は君を理解しようとするから、君も僕を理解しようとしてほしい、そんな場を作り上げようとしているのかもしれない。僕は、僕を理解してほしいという気持ちを手放すことはできなかった。

僕は、僕の何を理解してほしいのだろう。それは決して、僕が好きな食べ物や僕が昨日したことのような事実を知ってほしいということではない。僕が理解してほしいのは僕の心のなかであり、僕が何を感じ、何を考えているのか、といったことである。

当然、人間の内面を完全に理解することはできない。完全に理解できないどころか、全く理解できないという考え方もありうる。哲学的には、他者の痛み自体を直接的に知ることはできない、という議論もあるくらいだ。

だから、僕が僕のGIRL FRIENDに願うのは、僕の内面に興味を持ち、僕の内面を知りたいと願ってくれることだと言ったほうがいい。加えて、いろんなことがわかってて、ちょっと機転が効いた言葉があればなおよいけれど、それはおまけであって、必須ではない。

だけど僕も年齢を重ね、そんな青臭いことは切り離して生きていくこともできるようになった。今の僕は会話において僕の内面の理解なんて求めていない。僕は聞き役を務めるのも苦手じゃないし、僕のことを話す場面でも、海外旅行での失敗談のような面白かった出来事や、テレビやネットから最近仕入れた知識など、差し障りのない話もできる。差し障りがないというのは僕の外の世界の客観的な出来事についての話であり、そのような話であれば、大抵の人は興味を持ってくれる。そのような話で会話を埋め尽くすことはできるし、そのような会話も結構楽しい。

だけど僕は孤独だなあ、と思う。

僕が夢想するのは、このような場面だ。

僕はその人の内面に興味を持ち、その人も僕の内面に興味を持ってくれる。互いに相手のことを知ろうとするけれど、当然、それは決して完全に達成されることはない。だから、僕からその人に向かう興味のベクトル、そしてその人から僕に向かう興味のベクトルが何重にも重ね書きされることになる。これが対話である。

その対話の成果物として何かが生まれる。それは僕の内面自体ではなく、相手の内面自体でもないけれど、それでも、僕たちの内面と何らかの関係があるものが、興味のベクトルの軌跡の集合体として生まれることになる。

このような、何か新しいものを生み出すような営みを、誰かとともにできれば、僕は孤独ではなくなるのかもしれない。

だけど経験上、このような願いは、実現の見込みがない青臭い幻想だということも、重々承知している。

僕は少し疲れているのかもしれない。疲れると、どうも極端な方向に思考が進む。孤独や幻想といった極端な言葉しか思いつかないのは、その現れかもしれない。

言葉と感情

※2400字くらいです

最近、僕のツイッター上は、老犬が亡くなったという書き込みばかり流れてくるようになった。なにかのきっかけで「いいね」をしたら、その履歴に応じて似たような書き込みばかりながれてくるようになったのだ。

僕はそんな書き込みになるべく「いいね」をしている。長年飼っていたペットを失うというのは大変なできごとだから、せめて「いいね」数が何かのプラスになればいいと思っている。

ただ、そうするのには、もうひとつ別の理由もある。僕はその書き込みが好きなのだろう。そこには、ペットを見守る飼い主と、健気に生きて死んでいくペットという、極めてわかりやすい一つの情景が切り取られているのだ。

ツイッターには色々と興味深い書き込みがなされる。不思議な話や面白い漫画や美しい絵もある。ツイッターは思いもよらなかった新しい表現にあふれている。だけど、老犬が亡くなるという書き込みには、別に新しい表現などないし、読者を惹き付けるような工夫もない。たいてい、その犬の写真が貼られていて、犬に対する感謝や、見守ってくれたフォロワーへの感謝や、寂しい気持ちなどが書かれている。ただそれだけだ。

そのような何の変哲もないような書き込みに僕は惹きつけられる。そして「いいね」をすることで、その関係者になれたような気がして、少しうれしくなる。

これは共感の話だろう。僕は、犬が死ぬという出来事に感情を揺り動かされ、死んでいく犬やそれを見守る飼い主に共感している。僕はこの共感の場に惹きつけられている。

この共感とは、僕にとって重要用語だ。僕は共感と言葉による伝達を対立的に捉えている。

言葉と共感は水と油だ。例えば「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という発言に対しては「大変だね。」なんていう、あたりまえで、実質的な意味がほとんどない返事がなされる。この「大変だね。」は、言葉としてはかなり貧弱であり、ただ共感しているという事実を表現しているに過ぎない。その証拠に、「大変だね。」という言葉を発さなくても、ただ理解し苦しんでいるような表情をすれば済むし、「大変だね。」という言葉を発しても、ニコニコと笑っていたら不適切な反応となる。また、「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という言葉に対して、残業せずに効率よく働く工夫を提案したり、残業を生み出す社会構造について説明することは、残業で大変な状況に共感するうえでは邪魔にしかならない。必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉であり、目をみつめて黙ってうなずくことである。

また別の例では、人が痛そうにしているのが伝わるのは、うずくまって苦しそうにしている姿に共感するからである。いかにひどい怪我かを言葉で流暢に説明すればするほど、その人は痛そうではなくなる。

以上のような意味で、共感と言葉は水と油のように対立している。

世間は共感のほうが優勢だ。皆、場の空気を読んで共感し、言うべきでないことを言わなかったり、言うべきでないことを言った人を批判したりする。「残業続きなんだ。」という言葉に対して、いきなり残業を生み出す社会構造について説明し始めてしまったら、きっと煙たがられるだろう。

一方で僕は共感よりも言葉による伝達のほうが重要だと思っている。当然、「残業続きなんだ。」という言葉に対して「大変だね。」という言葉は必要だし、その言葉に沿った適切な表情をすることも重要だろう。だけど、それで終わってしまったら、その残業続きの状況は解決されない。本当になすべきことは、では、その残業続きの状況を改善するにはどうすればいいのかをともに考えることなのではないだろうか。

それが言葉の力である。僕は言葉の力をもっと引き出したいと願っている。当然、言葉には限界があるけれど、「言葉には限界がある。」と言えるほど、人は言葉の力を引き出していないように思う。言葉が共感なんかに負けてたまるか、と僕は思っている。

だが、ふと、それはかなり難しいことなのかもしれない、と気付いた。考えてみれば、感情は言葉とかなり相性が悪い。感情を伝えるときに余計な言葉は不要だ。感情は共感でしか伝えることはできない。「悲しい」という感情を伝えるのは、「悲しい。」という言葉や「誰もいない教会でパトラッシュと一緒に凍え死にました。」という言葉ではなくて、その人の悲しそうな雰囲気であり、フランダースの犬の物語に没入したような共感と呼ばれる感覚である。

このことを「感情は言葉の減算によって伝達される。」と表現できるかもしれない。言葉は、大抵のものごとを伝達することができる。だけど、感情だけは、言葉はうまく伝えることができない。言葉で伝えようとすればするほど、感情は言葉から逃れていく。だから感情を伝達するためには、言葉を抑制的に用いることが重要だ。同情する感情を伝えるために必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉である。そして言葉を削ぎ落としたところでこそ働くものが共感である。

僕が世間の人とずれているのは、世間の人が言葉の力をみくびっているからではなく、僕が、感情というものを理解していないからなのかもしれない。僕以外の人は言葉に大きな力があることは重々承知しており、そのうえで、言葉には、感情をうまく捉えられないという限界があることも知っているのかもしれない。僕だけが、感情を理解していないが故に、その限界に気づかず、言葉の力を盲信していただけなのかもしれない。

そんなふうに少し落ち込んだけれど、ツイッターで老犬の書き込みを見て思い出した。僕には、言葉によらずとも、このような書き込みに共感する力がある。ちょっとずれているけれど、僕は僕なりに共感し、他者の感情を理解できている。僕は、僕なりに手持ちの駒でなんとかやっていくしかないのだろう。きっと、みんな、そうするしかないのだろう。