GIRL FRIEND

※1700字くらいです。

僕は高校生の頃、ある人を好きになった。帰国子女で英語がペラペラで、クラスで一番の成績の女の子だった。僕は頭がいい女の子が好きだったのだ。結局、その恋はうまくいかなかったけれど、それからずっと、僕が好きなタイプは「頭がいい人」としてきたし、実際そうだった。

なお、頭がいいといっても、成績がいいというだけの意味ではない。ROOSTERSのGIRL FRIENDという曲に、「そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる」という歌詞がある。そういうことなんだよなあ、って高校生の僕は思っていた。

高校生の僕の気持ちをより正確に表現するなら、僕は、僕のことを理解してくれる人を求めていた。きっと当時の僕は、母性のようなものを求めていて、母親のように、よしよし、と僕の頭をなでながら、僕のことを全て包み込んでくれるような人を求めていたのだろう。(実の母親がそのような人だったかどうかは別として。)

当然、そのような人などいる訳ないから、高校生の僕の恋はうまくいかなかったし、その後の僕は路線変更していくことになる。

だけど結局僕は、たいして変わることができなかったのかもしれない、と最近気づいた。僕がこのような文章を書いているのは、心の奥底では誰かに理解してほしいと願っているからなのだろうし、哲学カフェのような活動をしているのも、互いに理解しあうことを目指しているからなのだろう。僕は君を理解しようとするから、君も僕を理解しようとしてほしい、そんな場を作り上げようとしているのかもしれない。僕は、僕を理解してほしいという気持ちを手放すことはできなかった。

僕は、僕の何を理解してほしいのだろう。それは決して、僕が好きな食べ物や僕が昨日したことのような事実を知ってほしいということではない。僕が理解してほしいのは僕の心のなかであり、僕が何を感じ、何を考えているのか、といったことである。

当然、人間の内面を完全に理解することはできない。完全に理解できないどころか、全く理解できないという考え方もありうる。哲学的には、他者の痛み自体を直接的に知ることはできない、という議論もあるくらいだ。

だから、僕が僕のGIRL FRIENDに願うのは、僕の内面に興味を持ち、僕の内面を知りたいと願ってくれることだと言ったほうがいい。加えて、いろんなことがわかってて、ちょっと機転が効いた言葉があればなおよいけれど、それはおまけであって、必須ではない。

だけど僕も年齢を重ね、そんな青臭いことは切り離して生きていくこともできるようになった。今の僕は会話において僕の内面の理解なんて求めていない。僕は聞き役を務めるのも苦手じゃないし、僕のことを話す場面でも、海外旅行での失敗談のような面白かった出来事や、テレビやネットから最近仕入れた知識など、差し障りのない話もできる。差し障りがないというのは僕の外の世界の客観的な出来事についての話であり、そのような話であれば、大抵の人は興味を持ってくれる。そのような話で会話を埋め尽くすことはできるし、そのような会話も結構楽しい。

だけど僕は孤独だなあ、と思う。

僕が夢想するのは、このような場面だ。

僕はその人の内面に興味を持ち、その人も僕の内面に興味を持ってくれる。互いに相手のことを知ろうとするけれど、当然、それは決して完全に達成されることはない。だから、僕からその人に向かう興味のベクトル、そしてその人から僕に向かう興味のベクトルが何重にも重ね書きされることになる。これが対話である。

その対話の成果物として何かが生まれる。それは僕の内面自体ではなく、相手の内面自体でもないけれど、それでも、僕たちの内面と何らかの関係があるものが、興味のベクトルの軌跡の集合体として生まれることになる。

このような、何か新しいものを生み出すような営みを、誰かとともにできれば、僕は孤独ではなくなるのかもしれない。

だけど経験上、このような願いは、実現の見込みがない青臭い幻想だということも、重々承知している。

僕は少し疲れているのかもしれない。疲れると、どうも極端な方向に思考が進む。孤独や幻想といった極端な言葉しか思いつかないのは、その現れかもしれない。

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