最近、意識的に「やばい」という言葉を使うようにしている。若者用語を使って若者に迎合したいという面もあるのだろうけれど、それを抜きにしても、「やばい」というのは、つくづくいい言葉だと思うのだ。
昔ながらの意味では「やばい」は悪いことだった。やばい奴というのは常識が通じない危険な奴だった。だけど、昔から、やばい奴にはどこか否定しきれない特別さもあったようにも思う。学校の不良にどこか憧れていたように、僕には、やばい奴への憧れがあった。30年近く前、スノーボードが流行り始めた頃、僕はスノーボードのビデオを見るのが好きだった。やばい奴らがやばい高さのジャンプ(エアー)を決めていた。滑り以外でも、きっとクスリでも決めているのだろうと思うような言動をしていて、そのやばさも格好よかった。そのとき、やばい、という言葉を使っていたかどうかは忘れたけれど、僕にとってのやばい、とはそういう感覚をひきずった言葉だ。
僕が好きな怒髪天というバンドのボーカルの増子直純によれば、ロックはやばい優先だ。「やばい」とはロックだということでもある。(そのことについて、僕は『ロックの日』という文章で書いたことがある。https://dialogue.135.jp/2018/02/17/69nohi/)
僕にとっての「やばい」は、逸脱という言葉に置き換え可能だ。今までどおりの延長ではなく、決まったレールから逸脱することが「やばい」だと言える。
「やばい」のよさは、善悪のような物差しが適用できないという点にある。そこにあるのは、逸脱の大きさという絶対値のみである。プラスかマイナスかは逸脱してからでないとわからない。
だから、「やばい」は純粋な驚きの表現だとも言える。未知なるものへの驚きを意識的に見逃さないようにしようとして、僕は「やばい」という言葉を使うのかもしれない。
そのわからなさこそが未来そのものだとも言える。逸脱がなければ、変化もないし、成長もない。僕は未来の可能性という価値の片面は、そこに逸脱し、変化し、成長する可能性が広がっているところにあると思っている。(未来の価値のもう片面は、現在の延長として幸せを掴み取る可能性が広がっているというところにあり、どちらの可能性を重視するかは場合によりけりなのだろう。)
僕は、逸脱し、変化し、成長する場面を想像するときには、フランクルの『夜と霧』を思い出す。僕が好きなのは、収容所のなかでマロニエの木と語らう若い女性が、死の数日前に劇的な成長を遂げたというエピソードだ。その成長は、過去との連続性が乏しいという意味で、逸脱という言葉がふさわしいと思う。(以前書いた『夜と霧を読んで』という文章https://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/で触れている。)
このように、僕が考える「やばい」は劇的な成長という未来の可能性ともつながっている。だから僕は「やばい」と言いたくなる状況に着目し、そのやばさを自分に対して推奨していきたい。
だけどそのように自分を鼓舞しなければならないのは、実際のところ、「やばい」を選ぶのはきついからなのだろうなあ。