※1000字くらいです。
ハーバーマスの入門書を読んでいて思ったことを書き残しておく。多分、それほど目新しい話ではないので自分のためのメモとして。
ハーバーマスは道徳と法を重視したようだけど、道徳は内容としての普遍的な正しさであり、法は手続きとしての普遍的な正しさということなのかなあ、と思った。人を殺してはいけない、というのは全員が合意できることだから道徳的に正しくなる。一方で、殺人は刑法上罰せられる、というのは民主主義国家のプロセスを経て決定されたことだから法的に正しくなる、という対比があるという話。
だから、法とは、あくまでも道徳の代用品なのだろう。幸せになることと、幸せになるための手続きをきちんととることのどちらが大事かといえば、当然、幸せになることなのだから。(まあ、きちんと手続きをとらずに結果を手に入れることはできない、という反論はあるだろう。けれど、あくまで手続きは結果のための手段であるとするなら、僕が言いたいことは揺るがない。)
更には、理想的な概念上の法ではなく、実際にこの世にある法律のことを思い起こすならば、そこに手続き的な正しさがあるかどうかさえ怪しい。日本の国会の惨状を思い起こすならば、立法のプロセスは普遍的な正しさがある手続きを経ている「ことになっている」に過ぎない。ちょうど今問題になっているプーチンのウクライナ侵略を持ち出すまでもなく、日本のような民主主義法治国家は独裁国家よりはマシだ。だけど、だからといって、それが普遍的に正しいとまでは残念ながら言えない。
以上のような意味で、日頃我々が目にしている法律とは、二重の意味で劣化版の代替物に過ぎない。道徳の劣化版としての(理想的な)法、そして、(理想的な)法の劣化版としての現実の法律、という関係性である。
更に僕がウィリアムズから学んだことを踏まえるならば、個別の人間の人生にとって必要なのは倫理であり、そこから切り離された普遍的な道徳などというものは幻想にすぎないとも言える。だから、実は、倫理→道徳→法→法律というように、3重に脱線し、間違えてしまっているとさえ言っていいと思う。
だが、つまらない話だけれど、この世界で役に立つのはちょうど逆である。つまり学ぶべき優先順位は、法律→法→道徳→倫理である。だから弁護士は役に立つ。なぜ間違えたもののほうが役立つのかといえば、役立つようにあえて意図的に間違えているからだ。
なぜこんなことをあえて書いたかというと、僕は法学部出身で、法律に関わりが深い人生を歩んできたからだ。だから哲学的にはつまらなくても、僕にとっては書き残す価値がある話だということになる。