※7000字くらいあります。

1 決定疑問文と補足疑問文

疑問文には、はい/いいえで答えられる決定疑問文と、はい/いいえでは答えられない英語の5W1Hのような補足疑問文という区分があることを最近知った。「ここにリンゴはありますか。」が決定疑問文であり、「ここに何がありますか。」や「リンゴはどこにありますか。」が補足疑問文である。

僕がここで提示したいアイディアはふたつある。一つ目が「疑問文は本来、決定疑問文ではなく、補足疑問文なのではないか。」というものであり、二つ目が「懐疑論者がやっていることは、決定疑問文をつくるという作業なのではないか。」というものである。

2 質問と確認

まず、一つ目の、「疑問文は本来、決定疑問文ではなく、補足疑問文なのではないか。」から始めよう。

疑問文は質問をするために用いられるということまでは言っていいだろう。では、なぜ人は質問をするのだろうか。人は、何かわからないことがあるから質問をするのだろう。「ここに何がありますか。」「リンゴはどこにありますか。」というように。これはつまり、知識が欠けていて、「ここに◯◯があります。」とか「△△にリンゴがあります。」といったことしかわかっていないことを意味する。欠けている知識を埋めようとして、質問者は質問をする。

ここで用いられるのは補足疑問文である。

一方で、決定疑問文においては、質問者は「ここにリンゴがあります。」ということは知っている。知っているからこそ、「ここにリンゴはありますか。」という言葉遣いをすることができる。ただ、その知識に自信がないから、確認しようとして、決定疑問文を発話する。もし、リンゴがない、ということを知っているならば、「ここにリンゴはありませんか。」と発話するだろう。

これを広義の質問と呼んでもいいけれど、欠けている知識を埋めようとする、という動機がない点で、(狭義の)質問とは大きく異なる。その点を考慮すると、僕は、補足疑問文は(狭義の)質問であるが、決定疑問文は確認である、と区別したい。

2-1 例外

この話には例外があると思われるかもしれない。テストの設問では「リンゴが2つ入っているカゴに3つのリンゴを加えると全部で何個ですか。」(答えは5個だと先生は知っている。)などと補足疑問文を用いることもある。また、15行くらい前で僕が用いたように「なぜ人は質問をするのだろうか。」(僕なりの答えを提示する準備ができている。)などと、話を進める上でのレトリックとして用いることもある。これらは確かに、欠けている知識を得ようとして行う質問ではない。

だが、本来の質問としての補足疑問文と、テストやレトリックとしての補足疑問文との違いは、ある種の真剣さの有無により見分けられるように思う。真剣に補足疑問文を用いていれば、それは質問だが、一見、同じように補足疑問文を用いていても、そこに真剣さがなければ、それは質問ではないということになる。当然、テストの出題者である学校の先生や、この文章を書いている僕は、真剣に補足疑問文を用いてはいるが、ある種の真剣さには欠けている。ここでは二種類の真剣さが登場しており、僕はその違いについて説明しなければいけないのだけど、結構難しい問題で、話が長くなりそうなので省略したい。今のところはなんとなく、真剣に生きることと、真剣に発話することくらいの違いがあるという予感がある、という程度にとどめておきたい。

なお、その場合でも、補足疑問文の受け手である生徒(児童)や読者の立場に立つならば、それがある種の真剣さを獲得し、質問になるということはありうる。この点でも真剣さの有無はわかりにくい。

3 区別の理由

話がややこしくなるので例外については横に置いておき、補足疑問文は(狭義の)質問であるが、決定疑問文は確認である、と区別できることまでは同意いただいたことにしよう。

さて、なぜ僕は、あえてこのような区別を強調するのだろうか。ここからは、その理由について、二つのやり方で説明を試みたい。この説明を通じて、この問題は単なる言葉の分類の問題ではなく、少なくとも僕にとっては、切実な問題であるということが伝わることを願っている。

3-1 確認はきりがない

第一の理由は、質問に比べて確認は問題含みの行為だと思うからである。

確認というのは、実はきりがない行為である。外出したとき、家から数歩離れてから、家の鍵をかけたか気になって戻って確認する、という経験は多くの人があるだろう。たいていは一度確認すれば安心するけれど、病的な人ならば、もう一度戻って確認するかもしれない。もしかして、さっき戸締まりを確認したのは記憶違いかもしれない、なんて哲学的懐疑を始動してしまったら、原理上はその確認は無限に何度でも行うことができる。AがBに対して戸締まりをしたか確認する場面を考えよう。

A「戸締まりをしましたか。」

B「はい。」

A「本当に戸締まりをしましたか。」

B「はい。」

A「本当に、本当に戸締まりをしましたか。」

B「はい。」・・・

というように。この応答は無限に続けることができる。

戸締まりだと思考実験的すぎるかもしれないけれど、日常的な実感として、例えば本の校正などではきっと何度も文章を確認し、その確認作業はきりがないと思うのではないだろうか。そのような意味で確認はきりがない。

一方で、補足質問により「リンゴはどこにありますか。」と話し手が質問したなら、聞き手は「テーブルの上にあります。」などと応答することで質問は終了する。ここには大きな違いがあるように思える。

通常の決定疑問文はもっと穏やかなかたちで用いられるという反論もあるだろう。A「戸締まりをしましたか。」B「はい。」というやりとりは通常一回限りで終えられ、しつこく続けられることはない。

だが、そのような場合には、その決定疑問文は、実は決定疑問文ではなく補足疑問文であったのだと考えることができるのではないだろうか。実際は次のような補足疑問文の省略表現であると考えられる。

A「戸締まりをしたかしていないかのどちらですか。戸締まりしている可能性のほうが高   いので、戸締まりしていた場合には省略して、はい、と答えてください。」

B「はい。」

つまり、穏健な質問としての決定疑問文とは、実は、答えの予測と答え方の省略を組み合わせた補足疑問文なのである。

3-2 文化的要因

このような説明だけだと、僕が単に細かいところにこだわっているだけに見えるかもしれないので、もう一つの理由に移ろう。

僕が決定疑問文と補足疑問文との区別を意識するのは、決定疑問文の存在は、多分に文化的な要因によるものだと考えられるからだ、とも言える。決定疑問文は便利で広く使われているから実例があるかどうかは知らないが、理屈上は、決定疑問文がない言語というものも想像できる。例えば「リンゴがテーブルの上にありますか。」は完全に「リンゴがテーブルの上にあると思われますが、確認をお願いします。」という表記で置き換えることができる。

一方で補足疑問文は、どのような疑問詞を用いるかは文化による違いはあっても、全く補足疑問文がない言語は想像できない。時間についての疑問詞がなく「いつですか。」を「いずれの時点ですか。」としか表現できない言語体系はありえても、全く補足疑問文がない世界は想像ができない。もし、そんな世界があったとしたら、それは、つまり話し手が不知の事項について聞き手に質問することができない世界が存在してしまうということである。

決定疑問文が表現する確認という行為は、疑問文によらずとも表現が可能だが、補足疑問文が表現する質問という行為は、何らかの専用の表現が必要なのである。つまり、他の表現で置き換え可能である確認としての決定疑問文は本当の疑問文ではなく、置き換えができない補足疑問文こそが真の疑問文なのである。

3-3 純粋に知的な行為としての発話

二通りのやり方で、質問としての補足疑問文から、確認としての決定疑問文を区別することの意義を強調してきたが、実はこの二つの説明は同じ一つの動機から行ったものである。

僕は、純粋に言語的な行為と、純粋でない言語的な行為を区別したいと考えている。純粋に言語的な行為とは、例えば、(理想状態としての)哲学カフェなどで行われるような、言葉を交わすことだけを目的とした発話のことであり、純粋でない言語的な行為とは、そこに僅かではあっても、言葉を交わすこと以外の何らかの目的が混入しているような、より日常的にありがちな発話のことである。

そして、僕は、質問としての補足疑問文のほうに純粋性を見出し、確認としての決定疑問文のほうに言語以外の夾雑物を見出そうとしている。「リンゴはどこにありますか。」は不知のものを知りたいという動機による知的に純粋な発話だが、「本当に戸締まりをしましたか。」は、不安を払拭して安心したいという不純な動機による発話だ、という方向で僕は考えたいと思っている。※1

当然、補足疑問文を使っていても、純粋な発話ばかりではない。(殺人を認めていない被疑者に対して)「あなたが殺していないと言える証拠はどこにあるんですか。」などと問い詰め、罪を自白させ、憎い犯罪者を牢屋にぶち込もうとするだけの発話もあるだろう。※2

きっと、ほとんどの補足疑問文がそのようなものなのだろうが、それでも僕は、補足疑問文というものの中に、純粋に知的な行為としての発話の萌芽を見出している。

※1 このように述べてみて明確になったが、僕は、純粋に言語的な行為と、純粋に知的な行為とを結びつけているようだ。つまりそこには、言語とはどこまでも知的なものであり、純粋な言語とは知的な目的にのみ用いられるものである、という思想がある。この思想を別のかたちで表しているのが、このブログのタイトルにしている「対話の哲学」というアイディアである。

※2 僕は、刑事の取り調べが非倫理的で劣っていると言っている訳ではない。僕は発話には、言語としての側面と、行為としての側面があると考えている。(ネーミングはともかくとして。)そして、通常の意味での倫理性は、行為がその評価対象となる。だから、刑事が凶悪犯を自白させることは、溺れる人を助けに海に飛び込むのと同じように、行為として倫理的な行為である、ということになる。

4 懐疑論者

では、二つ目の「懐疑論者がやっていることは、決定疑問文をつくるという作業なのではないか。」という話に移りたい。

ところで、いろいろな文章で繰り返し書いているけれど、僕は懐疑論者だ。だから、この問題は、つまり、「懐疑論者である僕が行っている懐疑は、一見すると質問のような見かけをしているが、実は、それは知識を求めようとするものとしての(狭義の)質問ではなく、確認としての決定疑問文をつくる作業に過ぎないのではないか。」という問題であることになる。

要は、ここまで僕が行ってきた補足疑問文と決定疑問文の区別の話は、懐疑論者である僕のための話だったということになる。きっと読者の多くは懐疑論者ではないだろうから、ここからの話はあまり役に立たない話になってしまうだろう。そのような方にとっても少しでも役立つ話をしようとここまで頑張ってきたので、それで勘弁していただきたい。ここまでの話は、流れとしては、ここからの話のための枕に過ぎないとは言え、懐疑論者ではない方にとっても独立した価値がありうるものだと僕は思っている。

さて、懐疑論者である僕にとっての目下の悩みは、懐疑に答えが出ないことである。「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑に対して、「そのとおり、夢である。」という答えも、「いいや、夢ではない。」という答えも出すことができない。

だが、ここまで行ってきた、質問としての補足疑問文と、確認としての決定疑問文という区別を当てはめるならば、この問題は雲散霧消してしまう。「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑は決定疑問文であり、質問ではなく確認なのである。だから、戸締まりの確認が無限に可能なように、このような懐疑も無限に可能なのである。この懐疑を打ち切るためには、答えを見つけるのではなく、ただ確認を打ち切るしかない。それが答えなのである。

戸締まりの確認との類比性を強調するならば、「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑は不安の表現である。この世界というものに不穏さを感じ、その不穏さを解消するためには質問に対する答えを探さなければならないと誤解し、僕は懐疑論者になったということである。

または、先日書いた文章、『驚きと疑い』(https://dialogue.135.jp/2022/04/09/utagai/)を踏まえるならば、僕はこの世界への驚きの表現として、このような決定疑問文を用いているに過ぎないとも言える。

どちらにせよ、僕の懐疑は、純粋に言語的な行為ではなく、大いに不純な夾雑物が含まれている。つまり、言語性に対比するものとしての行為性の混入である。

5 わからない

以上の話は、ここで終わればうまくまとめられていると思う。だが、残念ながら、当初の計画どおりにはいかず、不器用に付け足さなければいけないことを思いついてしまった。

懐疑論者が行う懐疑には、補足疑問文も用いられる。例えば「この世界において確かなものは何か。」というような懐疑である。これをどのように扱えばいいのだろうか。

まず言えるだろうことは、この懐疑は、「この世界は巨大な夢なのではないか。」のような懐疑とは種類が違うということである。夢の懐疑にせよ、「これはプラスではなくクワスなのではないか。」という規則の懐疑にせよ、思考実験的な具体的状況を想定した懐疑は、(多分)決定疑問文で表現することできる。一方で、「この世界において確かなものは何か。」という懐疑には具体的な状況想定がない。そこに違いがあるように思える。

なお、具体的な状況を想定した思考実験的な補足疑問文を作ることもできるだろう。例えば、「この世界が巨大な夢だとしたら、夢から覚めた世界はどのようなものなのか。」という補足疑問文は成立する。

だが、これは懐疑論者の懐疑ではない。なぜなら、「この世界が巨大な夢だとしたら」という状況設定が揺るぎないものとして確定しているからだ。懐疑論者ならばまさに疑うべきところが前提になってしまっている。やはり決定疑問文を用いて、夢の懐疑のように、思考実験的な状況設定をまるごと疑うのでなければ、懐疑論者の懐疑を十二分に表現することはできないのだ。

残念ながら、僕はこの問題について、これ以上の答えを今は持ち合わせていない。あえて答えの方向を予想するならば、それは「わからない」という答え方に関係しているように思う。

「この世界において確かなものは何か。」という質問に対しては、「わからない」という答え方がありうる。その場合でも、「この世界において確かなものは◯◯である。」という知識の欠如に対して、「この世界において確かなものは「わからない」である。」という穴埋め(補足)がされる。つまり、質問に対するきちんとした回答となっており、新たな知識を獲得しているという点で、純粋に知的で言語的な活動だと評価することができる。その証拠に、「この世界において確かなものが何かはわからない。」ということを前提にして、どうしてわからないのか、とか、いつかわかるときがくるのか、というような思考を続けることができる。

だが、「わからない」という言葉は、補足疑問文だけではなく、決定疑問文の答えとしても用いることができる。「リンゴは机の上にありますか。」「わかりません。」という応答である。もし、補足疑問文に対しても、決定疑問文に対しても、同じ「わかりません。」という答え方を認めるならば、ここまで論じてきた、質問としての補足疑問文、確認としての決定疑問文という議論の枠組みがすべて壊れてしまうように思える。なぜなら、見かけ上、補足疑問文であっても、決定疑問文であっても、結局は、「わかります」か「わかりません」かの二者択一の返答がまずあるはずだ、ということになるからだ。

「リンゴはどこにありますか。」「(その答えは)わかります/わかりません」

「リンゴは机の上にありますか。」「(その答えは)わかります/わかりません」

という応答である。補足疑問文か決定疑問文かを区分するためには、「(その答えは)わかります」という応答があった場合に、更に「では、リンゴはどこにありますか。」という補足疑問文や「では、リンゴは机の上にありますか。」という決定疑問文を重ねなければならない。

どうも、「わからない」という答え方には、ここまで論じてきた補足疑問文か決定疑問文かという問題とは、別の問題が潜んでいるように思える。そのことと、「この世界において確かなものは何か。」という「わからない」としか答えられないような補足疑問文についての問題はつながっているように思える。