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風の谷のナウシカの漫画の感想

※2300字くらいです。完全ネタバレ注意です。

昔、ほぼリアルタイムで読んでいたのだけど、ふと読みたくなって全巻を買い直した。

昔読んだときの感想は忘れたけれど、今回の感想を一言で言うと、この本の主題は、「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」というものだ。前のときはそうは感じなかった気がする。読むたびに感想がかわるというのはいい本の証拠だ。

さて、僕の勝手なランキングだと、この本に出てくる、他の人(生き物)に影響を与えた人(生き物)トップ10は次のとおりになるだろう。

10位 シュワを吹き飛ばした巨神兵
9位 ナウシカの後日談として国を治めたクシャナ&チクク
8位 200年前に土鬼をつくったナウシカに似た初代皇帝
7位 たくさんの街を飲み込んだ巨大粘菌
6位 戦争を引き起こしたトルメキア王
5位 蟲と瘴気を武器に使って大海嘯を引き起こした土鬼の皇弟
4位 何度も大海嘯で腐海を広げた王蟲たち
3位 シュワの墓所を作って悪用される技術を後世に残した人
2位 シュワの墓所を破壊したナウシカ
1位 火の七日間を起こした昔の人
番外 悪人だけど登場が遅いからあまり人を殺してない土鬼の皇兄

このなかには、クシャナ&チククのように良い影響しか与えていない人もいるし、トルメキア王や土鬼の皇兄や火の七日間を起こした昔の人のようにほぼ悪い影響しか与えていない人もいる。また、最初は良い人だったのに途中から悪い人になってしまった初代皇帝と皇弟のような人もいるし、ナウシカやシュワの墓所を作った人のように、良い悪いの判断がつきにくい人もいる。

だけど、この本は、そんな評価はどうでもよくて、それがとにかく生きるということなんだよ、と言っているように僕には思えるのだ。

1位はともかく、2位のナウシカと3位の墓所を作った人に着目して考察してみよう。

ナウシカは物語の終盤まで、人を殺したくない、人が不幸にならないようにしたい、いや人以上に腐海の生き物たちを殺したくないし、不幸から救いたい、そう思って行動をしている。だけど、大海嘯に飲み込まれ、巨神兵に出会ったあたりから、ナウシカは大きく変わっていく。
例えばナウシカは、何千、何万の人の死をすでに見てきたのに、一匹のキツネリス(テト)の死を悼む。それはエゴだとしりつつ、そのエゴこそが生きるということだと気付いていく。

そして、最終盤、ナウシカはシュワの墓所との対決に赴く。
ナウシカは、シュワの墓所を作った人たちが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということを見過ごしていると断罪する。数千年前の一握りの人間のアイディアにより、何千年もの生命の営み、つまり生命相互の影響のやりとりをなかったものにして、すべてを消し去って、再び予定どおりの生命のプロセスを再開させるなんて傲慢だ、ということである。そしてナウシカは墓所を破壊する。

だけど、物語のラストでナウシカは、墓所と王蟲とに同じ血が流れていることに気づく。つまり墓所も生命のひとつだったということだ。考えてみれば墓所とは、何千年も前の人々の生命の営みの結果としてつくられたものである。墓所さえも「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」という原則からは離れることはできなかったのである。そして、それを破壊したナウシカも当然、他の生命に大きな影響を与える、という意味ではほぼ同等のことをやっている。そして王蟲たちも、大海嘯を引き起こしてほぼ同等のことをやっている。先ほどのランキングに入ったような登場人物(生命)たちは以下同様である。

きっとナウシカはどこかのタイミングでそのことに気付いていたのだろう。自分や墓所を作った人たちを含めたすべての生命の愚かさと力強さを慈しみながら、あえてそのような行動をしたのだろう。それが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということであり、ナウシカ自身が生きるということだから。

哲学的には、風の谷のナウシカとは、人を殺してはいけないというようないわゆる道徳から脱道徳に向かう本だということになるだろう。脱道徳というかたちの倫理があるのなら、道徳から倫理に向かっているとも言える。
ナウシカにおける倫理とは、変化だと僕は思う。現状に安住せず、前に進むことこそがナウシカの指針である。だから何千年も前の計画をただ実行しようとする墓所は破壊される。
そして変化は他者への影響を伴う。他者への影響を恐れていては変化することはできない。そしてその変化の責任を負うことこそが成長である。だからナウシカは巨神兵や蟲使いの従者たちといった者たちの責任を負っていく。終盤においてナウシカが母のようになっていくのはそのためである。そして、親になった僕がそのことに気づくのも必然なのだろう。

・・・

おまけ感想。

7巻の最後のほうは、コマ割りが詰め込みすぎのように感じた。多分早めに終わらせたかったんだろうなあ。ラストはもう少しゆったりと描いてほしかった。あと10ページあれば。

昔の人が墓所にどのような役割を持たせたかったのかがよくわからない。浄化後の人類を保管しているだけなら、変に科学技術を漏らさずひっそりとしていればいい気がするし。浄化中の中継ぎ人間(ナウシカたち)も多少は文明の恩恵が得られるよう、優しさから知的活動を維持しようとした、ということなのかなあ。エサ(新たな知識)を小出しにすることで。

永井と入不二の対比 ~「現に」と「今の私において」~

※この文章は12000字以上あります。

僕は、永井均の独在論と入不二基義の現実論は、現時点における哲学の最深部に到達していると思う。

当然、哲学において何を最深部とみなすかは、その哲学者による。あくまで僕の観点に基づき、二人の議論が「僕の哲学の」最深部に到達していると判断しているにすぎない。

一方で、僕は僕の観点以外に立つことなどできない。僕は僕の哲学以外の哲学など想像もつかない。よって留保条件なしに、二人の議論こそが、「哲学」の最深部に到達していると言い切っても、それほど間違えてはいないだろう。

この文章で僕は、二人の哲学がどのように哲学の最深部に到達しているのかを示すとともに、僕自身はどうやってその奥に進もうとしているのかを書き残しておきたい。

ただし、書いていたら途中で考えが行き止まってしまったので、とりあえず、前半部分を『永井と入不二の対比』というタイトルで先行して掲載することにする。後半部分は『永井と入不二の相克』として書きたいと考えている。

1 永井の議論の書き換え

ア 二つの重要なもの

僕は、永井の独在論にはある種の正しさがあると思っているが、同時に疑問もある。永井の独在論においては〈私〉と〈今〉は極めて特別なものとして位置づけられているけれど、なぜ、そんなに特別なものが二つもあるのだろうか、という疑問である。〈私〉と〈今〉は特別であり、三つ目の類例はない。それほど特別なものが、一つでも三つ以上でもなく、ちょうど二つあるというのは奇妙ではないか。その裏には隠された理由があるのではないか、と僕は疑ってしまうのだ。

永井は〈私〉と〈今〉の特別さを描写する際に、無内包の現実という語を用いる。〈私〉と〈今〉には内包(内容)がなく、それこそが現実だからである。私が〈私〉であるためには、私が日本人男性であるというような私を構成する内容は関係がない。もし突然、なぜか私がウクライナ人女性になったとしても、それが私であれば〈私〉である。同様に、今が〈今〉であるためには、今が2022年でありゴールデンウィークの最中だ、というような内容は関係ない。もし突然、なぜか今が西暦1600年になり、関ヶ原の戦いの真っ只中になったとしても、それが今であれば〈今〉である。そのような意味で、〈私〉も〈今〉も無内包の現実なのである。

僕は以上の議論は正しいと思う。だけど議論として足りないとも思う。もし完全な無内包(内容)だとしたら、〈私〉と〈今〉を取り違えてしまったとしてもおかしくないはずだ。〈私〉はかなりの程度まで無内包ではあるけれど、〈今〉と取り違えない程度には内包を有しているのではないだろうか。

その問題は〈私〉の説明の仕方にも現れている。〈私〉について説明するためには、常識的な「私」を出発地点とせざるをえない。「私」から《私》、《私》から〈私〉と、いわば、「私」の内包を薄めるようにして、無内包の〈私〉を説明するようなやり方を取らざるをえない。だが、食塩水はどんなに水で薄めても食塩水でありつづけるように、有内包の「私」をどんなに薄めても、〈私〉は有内包である。だからこそ、〈私〉を〈今〉と取り違えることはない。

これは〈私〉と〈今〉を逆にしても同じことである。〈私〉にせよ、〈今〉にせよ、そこに僅かに残る痕跡こそが、永井の独在性の議論の不徹底さの証拠なのではないか、と僕は考えている。

イ 〈私〉の内包 時間連続性

では、〈私〉に残る「私」の痕跡は何かというと、〈私〉は時間連続性を有する、というものである。僕の考えでは、〈私〉は時間連続性という内包を有している。

いきなり〈私〉だと伝えにくいので、主体としての「私」、実存的な《私》、独在的な〈私〉へと段階的に説明しよう。

まず、主体としての人間というような常識的な意味での「私」を想定するためには、その主体が時間的に連続して存在するのでなければならないことは説明を要しないだろう。とは言っても、すでにこの段階においても、その連続性は常識的なかたちでなくてもいい。例えば、(確か)永井が思考実験で示したように、月曜日はAさん、火曜日はBさん、というように、曜日ごとに人格が色々な身体を渡り歩くようなことがあってもいい。だが、それが「私」であるためには、その人格がそのような特殊なあり方で時間連続性を有することが広く知られていなければならない。「ああ、今日は火曜日だからBさんなんだね。」なんて話しかけられることが可能でなければならない。なぜなら「私」が時間連続性を持つという捉え方は、ちょっとSF的で非常識な状況も含めつつも、誰もが理解し、共有できる、常識的な捉え方だからである。

そこから話が一段上がり、その「私」が実存的な《私》であった場合を考えよう。つまり、曜日ごとに身体を渡り歩く人格が自分自身であった場合である。この場合、他者がそのことを知っている必要はない。他の誰もが知らなくても、自分自身だけが、そのような奇妙な存在であることを知っていればよい。だがその場合でも、自分自身には、月曜日はAさん、火曜日はBさんというかたちで身体を渡り歩いていたなあ、という認識は必要である。つまり、《私》であるためには、自分自身だけには、そのような特殊なあり方の時間連続性を有しているという認識が必要になる。これは先ほどの常識的な「私」とは違って、孤独な状況である。「僕は今はBさんだけど、昨日はAさんだったんだよ。」と誰かに訴えても、その人からは「それは、君の妄想じゃないの。昨日だってBさんである君と会って話をしたよ。」なんて言われてしまうだろう。それに対して「昨日のBさんは僕じゃないんだよ。」と訴えても、その声は届かない。ただし自分のなかの確信だけは残っている。これはつまり、誰かと共有することはできないが、自分だけは自分自身が時間連続性を有しているという確信を持てる状況である。

更に、もう一段せり上がり、独在的な〈私〉を問題にするならば、もう、過去についての記憶や、時空連続性という認識すらも要らない。なぜなら、そのような認識などなくても、独在的にそれが〈私〉だからだ。

だが、それでも、〈私〉は何らかのかたちで時空連続性を持たなければならない。毎日同じ身体を持っているか、それとも曜日ごとに異なる身体を渡り歩いているかは確かめようがない。昨日のBさんの記憶を持っていたとしても、実はそれが植え付けられた偽物の記憶かもしれないという疑いがあったとしても、そのような記憶の内容とは関係なく、とにかく昨日の「私」はなんらかのかたちで〈私〉だったはずなのである。

もしかしたら、私は突然、何十年分の記憶を持ったかたちで5分前に生まれたのかもしれなくて、そもそも昨日などないのかもしれない。けれど、それでも、そのような思考実験ができる程度には〈私〉は時間的に連続して存在しているはずである。そのようにして、とにかく何かしらのかたちで時間連続性を持っている存在が〈私〉なのである。

僕が〈私〉は時間連続性を有する、と言ったのは以上のような意味においてである。記憶や認識は関係がないという意味で、〈私〉は意味論的に時間連続性を有する、と言い切ってもいいだろう。時間連続性こそが〈私〉の内包であり、その限りで〈私〉は無内包ではないことになる。

なお永井は想起という機能を重視しており、〈私〉がどのような内容の時間連続性を有するかは、想起という特別な働きにより把握できると考えているようだ。想起が過去の〈私〉と今の〈私〉を紐づけ、〈私〉に内容を与える。僕には昨日、連休の谷間に出勤したという記憶があり、そして僕は今、パソコンで文章を書いている。〈私〉とはそのような内容の時間連続性を有する、ということになる。

だが、僕には、そのような永井のアイディアは独在性の問題の深層には届かないように思える。なぜなら、もしかしたら昨日出勤した記憶や、今、パソコンを打っているという認識はデカルトが想定したような悪魔が僕に見せる幻かもしれないからだ。そのような不確かなものに頼ることは議論の次元を浅くしてしまう。記憶や認識の問題から離れ、どのような内容にせよ、とにかく〈私〉は、その意味からして時間連続性を有するのである、として扱うことに留めておくべきと思われる。

ウ 〈今〉の内包 出来事性

〈私〉には時間連続性という最低限の内包があるとしたが、〈今〉についても、同様に出来事性とでもいうべき最低限の内包があると僕は考えている。

〈今〉についても、〈私〉と並行するかたちで、「今」と《今》と〈今〉の三段階で論じていったほうがいいだろう。つまり、この歴史におけるどの時点も今であったという意味での、すべての時点を指す「今」と、その各時点が今であったときを指す《今》と、まさにこの時点が今であるという意味での〈今〉である。実は、〈私〉と〈今〉は問題が少し違っていて、まさにこの時点としての〈今〉のほうがわかりやすく、「今」がこの歴史に満ちているという捉え方は、逆にものごとをわかりにくくするかもしれない。だが、〈私〉と〈今〉の同型性を確認するため、あえて「今」から話を進めることにしたい。

さて、歴史は「今」に満ちている。関ヶ原の戦いは「今」であったし、真珠湾攻撃も「今」であったはずである。つまり、僕が生まれるはるか昔、科学的にはビッグバンの時点から始まる全ての時点において、その時点が「今」であったことがあるはずである。そして、その「今」が現在に徐々に近づいてきて、西暦1600年が「今」であったときに関ヶ原の戦いがあり、西暦1941年が「今」であったときに真珠湾攻撃があったはずである。つまり僕が生まれる遥か昔から、歴史は「今」に満ちている。これが「今」である。

だが、僕が生まれてからの歴史は別の色合いを持っている。それを《今》で表すことができる。西暦2001年が《今》であったとき、僕は赤ちゃんを抱いた僕の妻と一緒に、テレビでツインタワーに飛行機が突っ込むのを見ていた。西暦2011年が《今》であったとき、僕は職場で地震の揺れで書棚が倒れないか心配していた。そして昨日が《今》であったとき、僕は連休の谷間に出勤し、うんざりしながら仕事をしていた。そこには、単なる「今」ではなく、僕の内側から把握できる情景を伴う実存的な《今》がある。

そして、それをもう一歩進めると、まさに、この文章をパソコンで打っている〈今〉がある。この〈今〉について、その内容を描写して伝えるのは難しい。なぜなら、〈今〉はどんどん過ぎ去ってしまうからだ。例えば、「例えば」という語を入力している〈今〉と書いたとしても、その時点では、僕はもう「例えば」という語など入力していない。発声により伝えたとしても同じである。「今!」と僕が叫んだとしても、そのとき〈今〉は過ぎ去ってしまっている。

仮に、うまく〈今〉を指し示せたとしても、描写の困難さは解消しないだろう。なぜなら、その〈今〉の内容と、その時点が〈今〉であることは何の関係もないからだ。「今」や《今》であれば、関ヶ原の戦いがあったとき、家族三人でテレビを観ていたとき、といったように、そこでの出来事の内容を手がかりに「今」や《今》を指し示すことができる。しかし、〈今〉をそのように指し示すことはできない。

そのような意味で〈今〉は無内包である。〈今〉は内包により指し示すことができないから無内包なのである。だが〈今〉は全くの無内包ではない。なぜなら、その〈今〉においては、何らかの出来事が生じているはずだからである。もし今日が退屈な一日で特筆すべきことが何も起こらなかったとしても、何も起こらなかったという出来事が生じているはずである。そのような意味で〈今〉には出来事性という内包があるとしたい。特定の事実や情景の認識とは無縁であるという意味で、意味論的な観点から、〈今〉には出来事性という内包があると言ってもよいだろう。

なお、この出来事性を避けるために、出来事が生じ得ないような状況を想定しても無駄である。遠い未来、地球が太陽に飲み込まれ、その太陽も消滅し、宇宙自体が拡散し、ビッグフリーズに至り何も生じることが物理的にありえない事態となったとしても、それが今であったならば、そこでは何も起こっていない、という出来事が生じているはずである。

エ  今の私 重複適用

まとめるならば、「私」という共通認識や、《私》という認識論的な実存の先に、〈私〉には時間連続性という意味論的な最低限の内包がある。そして同様に、「今」という人類共通の歴史や、《今》という認識論的な実存の先に、〈今〉には出来事性という意味論的な最低限の内包がある。そのような内包があるからこそ、僕たちは〈私〉と〈今〉を取り違えることがないのである。

だが、この時間連続性と出来事性という二つの内包は必要なのだろうか。無内包性を徹底するためには、このような内包をも捨て去るべきなのではないだろうか。それはつまり、〈私〉と〈今〉の区別を放棄するべきではないか、という提案である。

〈私〉と〈今〉の区別をなくすために手っ取り早いのは、両者をつなげてしまうことだろう。つまり、今の私(または私の今)という観点に立つということである。

僕には独我論的な傾向があるせいかもしれないけれど、今の私という観点に立つことは意外と容易だと思う。なぜなら、何にでも、「今の私において~という認識が生じている。」という表現を付加できるからだ。「部屋にダンボールが転がっている」という文は、「今の私において、部屋にダンボールが転がっているという認識が生じている。」と言い換えることができる。「昨日雨が降った」という文は「今の私において、昨日雨が降ったという認識が生じている。」と言い換えることができる。「ウクライナでミサイルが発射された」であっても「130億年前にビッグバンがあった」であっても、同じ操作が可能である。すべては、今の私において生じた認識なのである。

 だが、このような理解は、「今の私」か、せいぜい《今の私》にしか届かない。さきほどの私や今と同様に、今の私についても、人々が共通理解として持つことができる「今の私」と、実存的に持つことができる《今の私》と、独在的で意味論的な〈今の私〉とがありうる。もし、誰もがどの時点においても「今の私において~という認識が生じている。」と言うことができる、と理解したならば、それは「今の私」である。また、もし、この今の私が実際に持っている認識に基づき、たしかに「今の私において~という認識が生じている。」と言うことができる、と考えたならば、それは《今の私》である。

今の私を〈今の私〉として理解するためには、認識論を離れ、意味論的に〈今の私〉を捉えなければならない。つまりそれは、「今の私において~という認識が生じている。」ではなく、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という言葉を付加するということである。

つまり「部屋にダンボールが転がっている」は、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」となる。同様に「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、ウクライナでミサイルが発射されたことを意味する。」や、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、130億年前にビッグバンがあったことを意味する。」となる。

この言い換えは確かに成立すると僕は思う。それではこの言い換えは何を意味するのだろうか。多分、ここに〈私〉と〈今〉を重ね合わせ、〈今の私〉とすることの最大の難関がある。永井はこの問題を察知していたからこそ、〈私〉と〈今〉を分離させたままとしたのだろう。

実は、確かにこれは難問だが、その答えはとても簡単なものである。結論から述べるならば「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という言葉を付加することには何の意味もないのだ。

「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」は、「部屋にダンボールが転がっている」と全くの同義である。なぜなら、「部屋にダンボールが転がっている」ということは、誰かの認識など関係なく「部屋にダンボールが転がっている」のであり、「部屋にダンボールが転がっている」という文章を読んだ人は、その今の私において、「部屋にダンボールが転がっている」という意味の文章であるということを理解するのだから。「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」というのは、その「~」に入る文章が、そのような意味を持つ文章として成立するための条件を顕在化させたにすぎない。つまり、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という付記は単に消去可能なのである。

よって、独在論的で意味論的な〈今の私〉とは、全く意味のない蛇足であり、消去されるべきものである、ということになる。永井が〈私〉と〈今〉の独在論から〈今の私〉の独在論に進まなかったのは、〈私〉と〈今〉には論ずべきことがあり、そこにこそ面白さがあるはずなのに、〈今の私〉と重ね合わせた途端、その面白さが消え去ってしまうことを知っていたからなのではないだろうか。つまり、〈今〉と〈私〉を重ね合わせ、〈今の私〉とすることの最大の難関とは、そのような事態を思い描くことの難しさではなく、そこまで議論を突き詰めた場合、〈今〉と〈私〉に関する哲学的興味まで消去されてしまうことに由来する難しさなのである。

だが、僕はそこにこそ哲学の面白さがあると感じる。なぜなら、その〈今の私〉として議論の意味が消え去ってしまう瞬間にこそ、永井の独在論を最も純化したものが閃光のようにたち現れるように思えるからだ。確かに、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」は、「部屋にダンボールが転がっている」と全くの同義である。だが、全くの同義であるとして、その付記を消去するという動作を遂行する瞬間にこそ、独在性の謎のすべてがつまっているように思えるのだ。

別な言い方をするならば、全く無意味なものとして消去できるということは、全く無意味に付加することもできる、ということである。すべての文に対して、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という付記が可能である。なぜなら、それが世界のあり方だからである。世界はそのような独在的なあり方をしている。これが永井の独在論の最深部だと僕は思う。

(ア)共通理解と実存

なお、ここでは、〈今の私〉という独在性に着目してきたが、共通理解としての「今の私」でも似たようなことが言える。

人々の間に共通理解というものが可能であり、つまり「部屋にダンボールが転がっている。」という誰かの言葉を理解できるということは、その言葉を発する人にとっての「今の私」において「部屋にダンボールが転がっている」という認識が立ち上がっているということを理解できるということである。「部屋にダンボールが転がっている。」という文を話し手と聞き手の間で共通理解することができるということは、「今の私において、部屋にダンボールが転がっているという認識が生じている。」という共通理解があるということである。これは、すべての文について同じことが言えるから、つまり、「今の私において~という認識が生じている。」という付記は消去可能であるということを意味している。また、あえて任意の文に対し、「今の私において~という認識が生じている。」という付記をすることで、世界はそのような共通認識を含んだあり方をしているということが明らかとなる。

実存的な認識としての《今の私》についても同様のことが言える。実存的な主体が、「部屋にダンボールが転がっている。」という認識を持つということは、つまりその認識主体である「今の私」において「部屋にダンボールが転がっている」という認識が立ち上がっているということである。そして、実存的には、すべての文について同じことが言えるから、つまり、「今の私において~という認識が生じている。」という付記は消去可能であるということを意味している。また、あえて任意の文に対し、「今の私において~という認識が生じている。」という付記をすることで、世界はそのような実存的なあり方をしているということが明らかとなる。

つまり、「今の私において~という認識が生じている/であることを意味する。」という付加・消去可能な付記は、それぞれ、「今の私」という世界の共通理解的なあり方、《今の私》という世界の実存的なあり方、〈今の私〉という世界の独在的なあり方という三つの世界のあり方を象徴的に示している、ということになる。

そして、永井の議論を受け継ぐならば、その根源にあるのが〈今の私〉という独在的な世界のあり方であり、、「今の私」という共通理解的な世界のあり方や《今の私》という実存的な世界のあり方はそこから派生するものである、ということになる。

2 入不二の現実論

ア 入不二の現実論の類似性

ここまで、永井の〈私〉と〈今〉の独在論を僕なりに展開し〈今の私〉とする議論を行ってきた。そして、〈今の私〉はすべての文に付加できるし、消し去ることもできるという点にこそ面白さがあると論じてきた。

この議論の形式は、実は僕のオリジナルではなく、入不二基義が現実論として行ってきた議論の形式を僕なりに移植したものである。

入不二は、「現に」という語は全ての文に付加することができると論ずる。(『現実性の問題』第2章)例えば、「ソクラテスは哲学者である。」は「現に、ソクラテスは哲学者である。」と言い換えることができる。入不二によれば、この「現に」は透明に働く遍在的な現実性の力を表している。その透明性の証拠として、「現に」を付加しても、消去しても全く事態は変わらない。また、その遍在性の証拠として、すべての文に「現に」を付加できる。「現に部屋にダンボールが転がっている」のであり、「現に130億年前にビッグバンがあった」のである。

僕が「今の私において」で行ったのも同じことである。「今の私において、ソクラテスは哲学者である(ことを意味する/という認識が生じている。)」のである。つまり、今の私の独在性も、透明に働く遍在的な独在性の力なのである。

なお、ここからは、(ことを意味する/という認識が生じている。)は省略し、「今の私において、ソクラテスは哲学者である。」と表記することとしたい。それでも十分に理解可能だし、そのほうが、「現に」で象徴される現実性と「今の私において」で象徴される独在性とを並列的に示すことができるように思えるからである。

イ 入不二の現実論の必要性

さて、ここで入不二の現実論を登場させたのは、その類似性を指摘するためだけではない。入不二の「現に」の現実論がなければ、永井の独在論(正確には、永井を拡張した「今の私」の独在論)を明確に捉えることはできないと考えるからである。

この文章の冒頭で、永井が〈私〉と〈今〉という二つの特別なものを持ち出したと批判したことを思い出していただきたい。〈私〉と〈今〉を〈今の私〉と重ね合わせることで、より議論を先に進められるはずなのに、永井は不徹底に〈私〉と〈今〉という二つに分けたまま残してしまった。そして永井は内包を消し去り、無内包に至ることに失敗した。そこには〈私〉の時間連続性という内包と、〈今〉の出来事性という内包が残ってしまった。僕はそのように批判した。

だが、永井の選択は必然でもあった。〈今の私〉と重ね合わせた途端、それは「今の私において」という不要な付記となってしまい、消え去ってしまう。それはつまり、私や今について考察するという哲学的な面白さもあわせて消え去ってしまうということである。〈私〉を論ずるためには、〈私〉ではないもの、つまり〈今〉が必要だし、〈今〉を論ずるためには、〈今〉ではないもの、つまり〈私〉が必要である。特別なものが二つあるからこそ、輪郭を保って有意義な議論を遂行することができる。

同様に、〈今の私〉についても、その議論を有意義に行うためには、〈今の私〉ではないものが必要である。そこで登場するのが、入不二の〈現に〉である。〈今の私〉という独在論の議論を更に進めるためには、〈現に〉という現実論が必要なのである。特別なものはやはり二つ必要なのである。

3 独在論と現実論の対比

「今の私において」で象徴される独在論と、「現に」で象徴される現実論とを対比することで、二つの議論の輪郭がはっきりとしてくる。

大抵の文に対して、「今の私において」も「現に」も自由自在に付け加えることができる。「今の私において、ソクラテスは哲学者である。」だし「現に、ソクラテスは哲学者である。」である。「今の私において、部屋にダンボールが転がっている」だし「現に、部屋にダンボールが転がっている」である。

だが、例外がいくつかある。例えば、トレッキングをしていたら蛇に遭遇したと思ってびっくりしたら実はロープだったというような、いわゆる見間違いの事例がある。この場合、「今の私において、登山道に蛇がいる。」は言えるが、厳密には「現に、登山道に蛇がいる。」とは言えない。なぜなら、現実にそこにあるのはロープだからである。それでも「現に、登山道に蛇がいる。」と言えそうに思えてしまうのは、そこに「現に、(今の私において)登山道に蛇がいる。」という付記を暗黙に行ってしまっているからである。

見間違いに似た例としては、フィクションの場合がある。昔話の本を読んでいるならば「今の私において、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできる。だが、厳密には「現に、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできない。なぜなら、そのような現実はないからである。ただし、あえて言うならば、「現に、(今の私において)かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできるだろう。

いずれも、現実と非現実の間にある境界についての問題であり、「現に」の現実性の遍在性ではその壁を乗り越えられないが、「今の私において」の独在性の遍在性によれば、その壁を乗り越えられる、ということを示している。ただし、現実性の遍在性は独在性にも及ぶ点には留意するべきである。現実性の遍在性は、「現に、今の私において」というかたちで独在性の力をも取り込み、非現実にまで到達することが可能となるのだ。

以上は現実性に比べて独在性が優位な事例だったが、逆に現実性が優位になる例としては、想定外のことを取り扱うような場合があるだろう。例えば「明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」というような文を考えてみよう。想定外なのだから、今の私には想定外の出来事にアクセスすることはできない。だから「今の私において、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と言うことはできない。しかし、「現に、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と述べることは極めて自然なことである。なぜなら、どんなに想定外の出来事も、それが現実だからである。それでも、実際に「今の私において」想定外の出来事というものを考えられているのだから、そこにも独在性の力は及ぶ、と考えるのならば、「(現に)今の私において、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と言うことはできるだろう。

独在性に比べて現実性が優位となる事例としては、他にも、他者の痛みを取り扱うような場合があるだろう。「今の私において、彼の胃はキリキリと痛い。」とは言えないが、「現に、彼の胃はキリキリと痛い。」と言うことはできる。ただし、この例でも、「(現に)今の私において、彼の胃はキリキリと痛い。」というように述べることはできる。

この二つの例は、いずれも今の私(独在)と今の私ではないもの(非独在)との間にある境界についての問題であり、「今の私において」の独在性の遍在性ではその壁を乗り越えられないが、「現に」の現実性の遍在性によれば、その壁を乗り越えられる、ということを示している。ただし、さきほどの例とちょうど反対に、独在性の遍在性は現実性にも及ぶから、独在性の遍在性は、「現に、今の私において」というかたちで現実性の力をも取り込み、非独在にまで到達することが可能となる。

まとめよう。入不二の現実性も、永井の独在性も、いずれも遍在する透明な力である。両者は単独ですべてを説明する力を持っているという点で同等の力を有していると言っていいだろう。現実性は、見間違いやフィクションのような非現実にさえ及ぶし、独在は、想定外や他者の痛みのような非独在にさえ及ぶ。つまり。両者ともすべてをその力の支配下に組み入れてしまう働きを持っている。

だが、現実性と独在性とを並べて比較し、その違いに敏感になるならば、確かに、現実性よりも独在性のほうが優位となる場面や、逆に、独在性よりも現実性のほうが優位になる場面がある。現実性が非現実にまで及ぶためには独在性の力を取り込む必要があるし、独在性が非独在にまで及ぶためには現実性の力を取り込む必要がある。これはつまり、現実性と独在性はいずれも透明で遍在的な力でありながら、その力のあり方が異なるということである。

今の私という独在性だけでは見えてこなかったし、入不二の現実性だけでも見えてこなかったものが、二つ揃うことで、その輪郭が見えてくる。これは永井が〈私〉と〈今〉でやったのと同じことだ。重要なものは二つ必要なのである。

だが、先ほど僕は、あえて〈私〉と〈今〉を重ね合わせ、〈今の私〉こそが真の独在性についての表現だとすることで議論を前に進めた。それならば僕は、ふたたび、現実性と独在性を重ね合わせればいいのだろうか。それとも両者の違いを際立たせていくべきなのだろうか。そんなことを後半では考えていきたい。