※1700字くらいの短い文章です。

チーズという飼い猫のことを何回か書いたけれど、もう、チーズが死んで4ヶ月になる。

だけど、あんまり、チーズのことを悲しむ暇はなかった。その後、残されたもう一匹のネコのタックンがなんだか元気がなくて、そっちの心配ばかりだったのだ。

あまり水も飲まないし、妙に甘えてくるし、ストレスからか、毛づくろいのしすぎで、お腹の毛もなくなってしまった。チュール(という麻薬のようなネコのおやつ)を水に溶かして水を飲ませたり、時間をかけてなでてあげていたら、少しずつ元気になってきたけど、前のタックンとは変わってしまったなあ、と心配だった。

そうこうしていたら、妻がやっぱりもう一匹飼いたいということで、3週間くらい前に新しいネコがお試しで来た。すると、先住猫タックンはすっかりもとに戻った。新参ネコに追いかけられたり、逆に、うざ絡みしたり、一緒に寝たり、楽しく過ごしている。もう、水も飲むし、ご飯も食べ過ぎなくらいで、僕に甘えてくることもあまりない。ようやく、僕らは落ち着き、心穏やかにチーズのことを思い出しながら、タックンのことを撫でることもできている。(新参ネコとも遊んでます。)

タックンのことを撫でながら僕は思う。タックンは幸せかなあ、と。そして僕は思う。きっとタックンは幸せなのだろうなあ、と。僕は、きっと、このタックンのことを幸せにできている。この僕の手の動きが、タックンのことを幸せにしている。

そして、撫でることで、撫でられるタックンだけでなく、撫でる僕も幸せを感じている。さわり心地がいいし、心が落ち着くし、何より、タックンが幸せそうにしているのがうれしい。この撫でるという作業は、タックンと僕の両者を幸せにしている。

僕にとって、タックンとは他者の象徴である。より厳密に言うならば、タックンとは愛すべき他者の象徴である。だから、撫でるという作業は、僕と他者との理想的な関係性を象徴していると言ってもいいだろう。他者が幸せになり、そして、僕自身が幸せになる、というのは極めて理想的なことである。

それならば、理想的な人生とは、ネコを撫でるような人生なのかもしれない。もし、ネコを撫でることが仕事で、ネコを撫でていればお金に困らず暮らしていけるならば、それは、多くのネコ好きの人にとって理想的な生活だろう。(ちなみに僕は、実はイヌ派です。)

ちょっと哲学的に味付けをすると、僕は時間論が好きだ。僕は、時間と人称の問題は同型の問題として論ずることができると考えている。永井均は、〈私〉と〈今〉は同型性があるとしているけれど、そういう意味である。

それならば、ネコを撫でるという、人称的な他者についての作業は、時間論的に拡張することができるはずだ。つまり、ネコを撫でるように、他の時点の自分自身を幸せにし、そして、そうすることが今の時点の自分自身も幸せにするような、理想的な作業があるはずではないか、ということである。

今の僕が、過去の僕や未来の僕を撫でる。そうすることで、過去の僕や未来の僕が幸せになる。そして、そうすることが、今の僕の幸せにもなる。もし、そのような理想的な作業を発見できれば、それが、僕の理想的な人生の送り方となるのではないだろうか。

残念ながら、今のところ、そんな理想的な作業の具体的な中身を想像することもできない。例えば、幸せな思い出を思い出すことは、今の僕を幸せにするけれど、過去の僕をより幸せにすることはできない。また、将来の目標に向かって努力することは、未来の僕を幸せにするけれど、今の僕を必ずしも幸せにしない。いずれも、ネコを撫でるほどにはうまく、現在と過去・未来の両者の幸せを両立してくれない。

ただし、過去と現在と未来をひとつながりのものとして捉え、過去を想起し、未来を予期することが、異なる時点における「私」の幸せを両立させるための鍵になるのは確かだろう。もし、過去を撫で、未来を撫でるように生きることができれば、それが幸せの道なのだろう。人称的には、他者を撫で、そして時間的には、過去を撫で、未来を撫でるということである。

ただ、僕には、過去の撫で方や、未来の撫で方はわからないし、むやみに他者を撫でたら犯罪になってしまうので、とりあえずはネコを撫でることにしよう。