そばにいる

※『無目的のパーティー』の補足的な追記です。3000字くらいです。

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、二周してしまった。

このマンガについては、もう3つも文章を書いたのでおしまいにしようと思ったけれど、ちょっと書き足りないことがあるので、追加で書くことにする。とは言っても、さすがに多分このマンガは登場しない。この文章は、あくまで『無目的のパーティー』という僕の文章(http://dialogue.135.jp/2022/11/16/mumokuteki/)の続きになるはずである。

僕は、『無目的のパーティー』で「そばにいる」という人間関係の重要性について述べた。

この気付きの重要さは、僕にとっては結構大きいことなので、そのことを強調しておきたい。

何度も同じ話になるけれど、僕は高校2年生のとき、僕のことを理解してくれて、僕の問題に答えを出してくれそうな人を好きになった。だけど僕の願いは叶えられなかった。

そのことと僕が哲学をしていることは結構重なっている。僕は彼女に求めて叶わなかったことを一人でやろうとしているのだ。僕は仕方ないから一人で僕自身のことを理解し、僕の問題に自分で答えを出そうとしている。高校時代以降、断続的ではあるけれど、僕はそのことに必死で取り組んできて、僕の人生のかなりの部分をそのことに費やしている。だから、友人関係についても、そのような視点で捉えてしまっている。つまり僕は、僕の哲学にその友人が役に立つかどうかという視点でその友人を評価している。当然、そう簡単に役立つ人などいないから、僕は友人というもの全般に対する評価が低い。ちょっとひどい言い方だけど、誇張して言うと、僕はそのようにして生きてきたのである。

(あくまでも誇張で、僕は友人について、趣味が合うかどうかとか、話が面白いかどうか、といったことも気にしてます。だけど、そのような事情で、友人関係全般に対する優先順位が低いのは事実です。)

だけど当然、こんなやり方はどこか無理があるので、僕自身、それでいいのかずっと心のどこかで引っかかってきた。そのひっかかりが『氷の城壁』をきっかけとして言語化できた。これが僕にとっての『無目的のパーティー』という文章の重要性である。

ようやく僕は、友人とは僕の哲学に直接役立たないからといって価値を減ずるものではないと気づいたのだ。いわば、哲学至上主義であったのを、軌道修正し、世の中の人間関係と折り合いをつけることにした、というのが『無目的のパーティー』での結論だったことになる。

では折り合いをつけるとして、具体的に僕はどのように人間関係を構築すればいいのか、という問題についての回答の指針が、この「そばにいる」である。つまり、あんまりあれこれ悩まず、ただ、そばにいればいいのである。

これまで僕は、僕自身がそうだから、周囲の人も、僕に何かメリットがなければ、僕を友人としないだろうと思っていた。僕を友人として選ぶのは、話が面白かったり、趣味が合ったりという長所が僕にあるからなのだろうと思っていた。だから、なるべく、長所がある人間になろうと心がけてきた。そして、多分、ある程度までそういう人間になることができたと思う。

だけど、実はそういうことは、まあトッピング的にはあった方がいい程度のもので、本質的には、友人関係というのは、ただ「そばにいる」だけでいい関係なのだ。

「そばにいる」それだけで、友人は僕の力になるし、「そばにいる」それだけで、僕は友人の力になることができる。一緒にいれば、それだけで互いの力になり、僕はその力を借りて、僕自身の幸せを掴み、そして、僕自身が成長することもできる。それは友人のほうも同じことで、僕が具体的な役に立たなくても、僕がそばにいるだけで、友人の力になることができるのだ。

そう言い切ってしまうと、どこかきれいごとのように思えるけれど、少なくとも友人関係の一側面としては、確かにこのような面があるはずなのだ。

そして、この、ただ「そばにいる」という姿勢は、僕の対話の哲学とも大いに重なる。僕は以前、哲学カフェにおける言明の二つの特徴として、継続性と誠実性というものがあると論じた。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

そして、更には、哲学カフェの言明にはそれしか要らないとも論じている。(http://dialogue.135.jp/2021/05/16/hairyo/

この「そばにいる」という友人関係は、まさに友人関係には、継続性と誠実性しか要らないということを示しているのではないだろうか。

友人とそばにいるということは、友人であり続ける限り、継続的に寄り添い続けるということを含意しているだろう。友人が役に立つからではなく、また、友人が善良だからでもなく、友人であるということそれだけで、僕は寄り添い続けるのである。「君がどんな人でも、どんなことがあっても、友人でいる限り、無条件にずっと寄り添い続けるよ。」というのが、「そばにいる」ということだろう。そして、そう言ったからには、嘘はつかず、実際にそばにいるという誠実性も必要である。つまり、友人関係の成立のために必要な継続性と誠実性を示す言葉が「そばにいる」なのである。

「そばにいる」とは、当たり前すぎて内容がない空っぽの言葉である。友人であるなら、物理的にはともかく精神的に「そばにいる」ことは当たり前で、もしそばにいなかったら友人ではなくなってしまうだろう。もし、友人なのに、友人でない他人よりも精神的な距離が遠かったら、それは友人ではないように思える。精神的な距離の近さを誠実に継続することだけが、友情を友情として成立させるための最低条件なのである。

だから、「そばにいる」という言葉は何か新たに重要なことを言っている訳ではない。話は逆で、「そばにいる」という言葉が重要なのは、他に何も付け加わっていないからなのである。話題の面白さや趣味の一致はあくまでオプションであり、友情の一丁目一番地は、精神的な距離の近さであり、そして、その誠実な継続なのだということを、「そばにいる」という言葉は表しているのだ。

そして、哲学カフェにおける言明、つまり対話と友情には、継続性と誠実性という共通点がある。その共通点から類推して少々踏み込むならば、友情と対話は明らかに密接に関係している。対話の成立のために友情が必要かどうかはともかく、友情の成立のためには対話が大いに役立つことは確かだろう。

もう『氷の城壁』の話は出さないつもりだったけど、『氷の城壁の魅力』(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)のネタバレの魅力5-1として取り上げたとおり、このマンガでも対話を重視するセリフがある。(皆さんに読んでほしいから詳細は書きません。)これは文脈としては恋愛における対話の重要性についてのセリフだけど、このマンガにおける恋愛は、友情の発展形だと言っていいから、これは、友情における対話の重要性を示している一例であると言ってもいいだろう。

僕は、これまで友情については色々とこじらせてきたけれど、「そばにいる」だけでいいと思うと少し肩の荷が軽くなる。更に、僕がこれまで取り組んできた「対話」という得意分野を活用できそうだと考えると見通しも明るくなってくる。

僕は人並みのことに気づくのにかなりの時間をかけてしまったけれど、残りの人生でもう少し頑張ってみたいと思う。

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