※18000字近くあります。やっぱり永井先生すごいなあ、という文章です。

1 新たな付け加え

永井均の『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探求3』(以下、「この本」)を読んだ。

永井は昔から〈私〉の独在性という同じことを繰り返し論じているようにも思われがちで、僕も半分そう思っていたけれど、そうではなかった。この本において永井は非常に重要で新しいことを付け加えている。

(僕は永井の研究者ではないし、それほど熱心な読者ではないので、永井のすべての本は読んでいないし、読み落としもあると思う。だから、この本での新しさではないかもしれないことはご了承ください。)

これまで僕が理解していた永井哲学とは、世の中に数多くの人間がいる中で、この人間だけが私であるという問題を論じ続けているなあ、というものだった。時空が広がり、そこに複数の人間がいるという常識的な世界を前提として、その世界内における私の特別さを論じるという議論構造である。なお、永井は、「私」だけではなく、「今」や(可能世界に対する)「現実世界」の独在性も問題とするけれど、これらは、いわば「私」の独在性を移植するような議論であり、そこに新しく付け加わる問題はほとんどない。僕はそのように思い、不満を感じていた。

なぜ不満かというと、懐疑論者である僕には、永井が前提とする、常識的世界こそが問題だったからだ。永井の問題とは、常識的世界という前提を不用意に設定したために生じてしまう疑似問題なのではないか、僕はそう考えていた。

 だが、この本を読み進め、特に終章に至り、間違いに気づいた。僕の理解はとんでもなく浅いものだったのだ。永井の独在論には更にその先がある。僕は、永井が独在性の問題にこだわり続け、これほどの地点を指し示すことに成功したことに感嘆している。

ここからは、この本の新しさについて永井の述べ方とは違うかたちで書き残しておきたい。

2 超越的・超越論的

まず、結論だけ示しておくと、この本の新しさとは、ざっくり言うならば、タイトルのとおり、超越的な独在性に対する、超越論的構成の重要性の強調である。永井は従来から、カント的な超越論的構成の重要さを無視はしていなかったけれど、この本で初めて、その重要さを僕にもわかるように強調してくれたのである。

ということで、この本の主役となるキーワードは、「超越論的」である。そして、それに対する敵役が「超越的」である。従来、永井は「超越的」を主役に据え、その説明の道具として「超越論的」を用いてきた。だが、この本では、その関係が逆になっている。この本の大半を使って、従来の永井の議論を延長し「超越的」議論を迫り上げ、「超越的」の力を十分に高めたうえで、ようやく終章において、その力を「超越論的」のほうにぶつける。そうすることで、「超越論的」が持つ真の力が引き出される。この本はそういうことをやっている。

そのような対比をしたうえで、「超越的」や「超越論的」という言葉は形容詞(形容動詞?)であり、それだけでは完結しないので、何について形容しているのか、という問題に移っていきたい。「超越的」な〇〇や、「超越論的」な〇〇、の〇〇に入るのは「何」なのか、という問題である。

3 超越的・超越論的な私

これに対しては二通りの答え方があるだろう。

まずわかりやすいのは、〇〇には私(や今)が入るという捉え方だ。「超越的」な私と「超越論的」な私の対比である、永井は前者を〈私〉と表記し、後者を《私》と表記するから、「超越的」な私と「超越論的」な私の違いは、〈私〉と《私》の違いであると言ってもいい。

なお「超越的」な〈私〉とは、決して他者には理解されることのない(理解されてはいけない)私の独在性であり、「超越論的」な《私》とは、それでも理解されてしまう私の独在性のことである。

ここで重要となるのは、「超越的」な〈私〉も、「超越論的」な《私》も、いずれもが独在性であることは確かであり、言うなれば優劣はつけられないという点である。(後述するが、両者は依存しあってすらいる。)その点で、独在性を有しない「私」とは大きく異なる。この独在性を有しない「私」については、「超越的」な〈私〉、「超越論的」な《私》と対比して、「言語的」な「私」と呼んでもいいだろう。つまり、永井の議論とは、「超越的」と「超越論的」と「言語的」の絡み合いについての議論なのである。

なお、なぜ「私」が独在性を有しないかというと、言語的な「私」は、この世界に複数いるからである。この世界に複数の「私」がいて、「私」はその一般的な「私」の一例だから、「私」というものを他者との間で言語で伝達し、理解しあうことが可能なのである。これを永井は、「ものごとの理解の基本形式」(p.25、哲学探究2 p.107)に沿っていると表現する。ものごとを理解するためには、そのもの自身が一般的な何かの一例であるという形式を備えている必要があり、それが理解の基本形式なのである。

ただ、理解可能なのは、言語的な「私」だけではない。「超越論的」な《私》も理解可能であり、その点で《私》と「私」は似ている。(「超越的」な〈私〉については、他者は理解できない。)だが、《私》と「私」とでは、その理解の仕方は大きく異なる。

言語的な「私」は「ものごとの理解の基本形式」に沿った理解が可能だが、「超越論的」な《私》は、この世界に複数いる、というあり方をしておらず、「ものごとの理解の基本形式」に沿っていないのに、なぜか理解できてしまう、という特殊なかたちで理解されてしまうのである。

この特殊さは説明が必要である。永井はその説明にこそ、とてつもない労力を割いてきたとも言えるので、僕ごときでうまくいくかわからないけれど、挑戦してみよう。

《私》は、この世界に複数いるのではないけれど、かと言って、「超越論的」な《私》とは、独在性を有さない「私」のなかに独在性を有する《私》がただ一人いる、という単純な描写ができるようなものでは決してない、という点が肝である。あえて「超越論的」な《私》を描写しようとするならば、例えば次のような、おかしな説明になってしまうだろう。

この世界には、決して並び立つことのないはずなのに、なぜか、独在性を有する《私》がなぜか何人もいて、だけど、そんな独在性を有する《私》のなかに、その他の独在性など圧倒してしまうようなかたちで、ただひとりだけ、特別な独在性を有する《私》がいる。

これでは、当初の独在性が独在ではなくなってしまい、独在性の上位に特別な独在性なんていうものすら登場してしまって訳がわからない。他にも述べ方はあるだろうが、いずれにせよ、「超越論的」な《私》は、矛盾し、ねじれたあり方をしているから、言葉でうまく説明することはできない。

その理由を、永井は累進構造という言葉を用いて説明する。「超越論的」な《私》には、すでに累進構造が組み込まれているから、平板な言語で捉えることができないのである。(〈私〉との差異を強調するなら、最上階層がない累進構造ではあるが。)

この言語による伝達の不可能さを、「超越論的」な《私》は、「ものごとの理解の基本形式」に沿っていない、と表現することもできる。

(もし、独在性を有さない「私」のなかに独在性を有する《私》がただ一人いる、というような描写が可能であれば、それは言語により伝達可能であり、「ものごとの理解の基本形式」に沿っていることになる。だから、そのような《私》は偶然にも一人だけだけど、何人いてもいい、とも言えることになる。だが、《私》はそのようなあり方はしていない。)

「超越論的」な《私》は言語による伝達は不可能だが、それでも、《私》は、不可解なことに、なぜか、他者に理解されてしまうのである。この事実は極めて大きな謎であり、まさに、それ以上の説明ができない「超越論的」事実である。言語的な「私」は、「ものごとの理解の基本形式」に沿って理解されるが、超越論的な《私》は「ものごとの理解の基本形式」に沿っていない。だが、なぜか理解されてしまう。これが《私》の特殊な理解のされ方である。

これは哲学上の大問題である。

だが、ここまでの話は、永井の独在性の問題の入口に過ぎない。確かに、ここまでの話も大きな謎だけど、それより先にもっと別の謎があることを指摘したのが永井の独在論であり、そのもうひとつの謎こそが《私》ではなく、〈私〉の独在性の問題なのである。だから、ここまでの話には、あえて超越的な〈私〉が登場する必要がないという点が永井にとっては最重要である。

(今回の主題とずれるけれど、この本を読んで、この点に気づけたのは僕にとっては大きな意味がある。ただ、僕が気づけなかっただけで、これまでも永井は別の本でも繰り返し述べていたと思う。)

ということで、ここから、更に、「超越論的」な《私》から、「超越的」な〈私〉に焦点を移して話を進めたいところだが、それは諦めざるを得ない。そこに〈私〉の問題の奥深さがある。このまま言葉を使って、「ものごとの理解の基本形式」に沿って話をするならば、それは、言語的な「私」になってしまうし、なぜか《私》は《私》として理解されてしまう、という「超越論的」事実を用いて(裏技的に)伝達しようとしても、それは、「超越論的」な《私》にしかならない。「超越的」な〈私〉は、そのような伝達・理解という営みから超越している。

4 超越的・超越論的な力

だから、この先を議論するためには、《私》や〈私〉を使った話とは別のアプローチが必要となる。それが、この文章の第2節の最後で提示した「超越的」「超越論的」な〇〇とは「何」なのか、という問題に対する、もうひとつの答え方である。

ここまで論じてきた《私》や〈私〉とは、いわば、「超越論的」事実、「超越的」事実と言っていいだろう。「超越論的」または「超越的」であった結果、生じる事実である。それならば、結果ではなく、その過程に着目することで、別の角度から「超越論的」や「超越的」を捉えることができるのではないか。この結果から過程への視点のずらしを、永井の言葉ではないけれど、事実から力へ、というずらしとして捉えたい。つまり、「超越的」「超越論的」な〇〇に、「力」を代入し、「超越論的」な力、「超越的」な力というように、力という比喩で表現してみるのである。「超越(論)的」な過程において、何かに「超越(論)的」な力が加わることにより、そこから「超越(論)的」な事実として《私》・〈私〉が生まれると考えてみるのである。そのうえで、過程としての力のほうに着目してみるのである。

(この「超越(論)的」過程に巻き込まれる前の「何か」とは何か、ということが当然問題となるが、ここでは答えることはできない。なお、永井ならば「無」と答えそうな気がするし、入不二ならば「無限のマテリアル」と答えそうな気もする。だが、ここでは、力という比喩が不十分であるために、力を加える対象のようなものが誤解により措定されてしまうだけで、本当は「何か」など不要である、と考えたほうがいいと思う。)

それでは、「超越論的」な力、「超越的」な力とは何なのか。

まず、「超越論的」な力とは、タイトルにあるとおり、構成の力である。そして、「超越的」な力とは、開闢の力である。永井哲学に接していれば、開闢と構成という言葉のニュアンスはなんとなく伝わると思うが、例えば、この世界には宇宙が始まって以来、世界のどこにもそんな者はいなかったのに、たかだか100年くらいの間だけ、それも横浜近辺にだけ、現に殴られたら痛かったりする人がいるというのが開闢であり、そんな特別なことがなぜか理解可能なかたちで成立してしまうということが構成である。そういう開闢や構成を引き起こすものこそが、「力」なのである。

5 相互依存

ただし、「超越論的」な力だけでは「超越論的」な事実としての《私》は構成されない。なぜなら、そもそもの「超越的」な開闢により〈私〉が生じなければ、《私》が生じることはできないからである。あくまで、《私》は〈私〉から派生的に生じるものなのである。これを「超越論的」な構成の力は、「超越的」な開闢の力に依存していると言ってもいい。このことは、従来から永井が強調してきたことであり、わかりやすいと思う。

この本において新しくて重要なのは、永井が、その逆の依存関係を強調しているという点である。「超越的」な開闢の力だけでは〈私〉が開闢したことがわからない。〈私〉が開闢したとわかるためには、「超越論的」な構成の力が必要なのである。

開闢したとわかることを、開闢したことになる、と言い換えてもいいだろう。開闢を開闢として取り扱うためには、「とわかる」「ことになる」ことが必要であり、開闢を開闢として構成する力が必要なのである。

「超越論的」な構成の力だけでは《私》は構成されないし、「超越的」な開闢の力だけでは〈私〉は開闢したことにならない。「超越論的」な構成の力と「超越的」な開闢の力は相互に依存しており、両者が揃うことで初めて、一挙に、〈私〉が開闢したことになり、その開闢が《私》として構成されるのである。

これが、タイトルになっている「独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか」という問題に対する答えである。

6 永井の理路

だが、僕が感銘を受けたのは、この結論ではなく、その結論を導き出すにあたっての説得力がある理路である。

永井は、この本の終章において、非常に重要なことを述べている。

僕なりの言葉でまとめると次のようになる。

1 独在性があると思考(想定)するためには、経験主体が存在することが必要である。

2 1のように経験主体が成立するためには、諸々の場面ごとの独在性(世界=私で「しかなさ」)が主体(自己)として統合する必要がある。(ただし、今の独在性と過去のある時点での独在性とでは〈私〉と《私》という違いがある。)なお、この独在性を捉える手がかりとして、誤同定不可能性がある。(なお、僕が好きな『転校生とブラックジャック』に登場するような痛みの持続の思考実験では、誤同定不可能性は導けない。)

3 2の場面ごとの統合が想起(記憶)の本質である。つまり、1と2が成立するためには、諸々の場面が連続するという時間的連続性が必要である。

4 なお、3における時間的連続性における時間とは、想起(記憶)と結びついた過去的な時間である。(永井の「新しいしかなさの内で以前のすべてが生成する」(p.234)という言葉もあるとおり。)

5 1から4のような話は、全て、独在性があると思考(想定)するために構成されたお話である。だから、記憶も時間的連続性(持続的世界)も作られた概念であり、想起(記憶)とは認識論的な表象(意識現象)でしかない。(永井は「しかなさは本質的に持続しない」「時間の経過を含む認識は本当はしかなくはないものを(しかなさの内部に)取り込まざるを得ない。」(p.253)と言っている。」)

そして、このようなお話こそが、「それを頼りに進むしか一歩も進みようのないある根底」であり、1の思考の成立の場面そのものである。この第一歩がなければ、つまり、独在性を思考することができなければ、独在性の開闢は「起こっても起こらない」ことになってしまう。独在性の開闢を思考するためには、ただ超越的に開闢するだけではなく、超越論的に、このようなお話が構成される必要があるのである。

だが、繰り返しになるが、永井のこの本における最大の成果は、そのような結論にではなく、そのような結論に至るまでのお話を、僕が1から5までにまとめたような形で明確に論じたところにこそある。

7 人称に対する時間の優位

このお話の特徴のひとつは、2と3のとおり、時間が大きな役割を果たしているというところにあるだろう。永井は、想起(記憶)に重要な役割を担わせ、今の私と、過去の私とが想起(記憶)で繋がっているということを使って、このお話を組み立てている。

そこで僕はこんな疑問を持った。永井は、独在性を論じる際に、私という人称と、今という時制とほぼ並列的に用いるから、同じようなお話を、時間(時制)ではなく、人称を用いて組み立てることもできるのではないか。つまり、私の今と、他者の今とが、今という独在性で繋がっているということを用いて、なんらかのお話を作り上げることもできるのではないか。つまり、終章における永井の議論は、時間と人称という二つの理路のうち、時間のほうを使った理路しか描写していないのではないか。

そう思って考えてみたけれど、どうも私と他者という人称を用いた議論はうまくいかない。なぜなら、私と他者が共有する「今」はどこにもないからである。今、私が語り掛ける他者とは、彼我の間にある距離を音波が通過するのに要する時間の分だけ未来の他者であるはずである。今、私が見ている他者とは、彼我の間にある距離を光が通過するのに要する時間の分だけ過去の他者であるはずである。私が触れている他者とは、その触覚が神経回路を伝わり、脳で処理するのに要する時間の分だけ過去の他者であるはずである。私と他者が共有する「今」はどこにもない。

逆に、科学的、客観的な時空を設定し、私と他者の同時性を想定することによって、私と他者が今を共有すると言ってもいいけれど、そうすると、今度は、独在性がすっぽりと抜け落ちてしまう。

つまり、永井が時間を使って終章でしたような話を、人称を使って作り上げることはできないのである。ここには人称に対する時間の優位性がある。独在性を帯びた経験主体を立ち上げるためには、想起(記憶)を用いた時間的連続性が決定的な役割を果たすのだ。

脱線:同時性

永井の議論からは脱線してしまうが、前節で挫折した、人称に着目した議論、つまり、私の今と、他者の今とが、今という独在性で繋がっているというお話は、独在性とは別のことに繋がってるのではないだろうか。

その別のことについて考えるために、僕が目の前のパソコンのモニターを見ている、という場面を持ち出してみよう。僕とモニターの間には、(測ってみると)およそ50cmの距離がある。その距離を光が通過するためには、僅かな時間を要するだろう。(秒速30万キロメートルとすると、計算違いがなければ、6億分の1秒かかっている。)更に、視覚情報を脳で処理するのにも、それより長い時間を要しているだろう。だから、このモニターは、わずかながら過去のモニターである。

だが、僕は、その事態を、「今、私はモニターを見ている。」と表現したくなる。つまり、私とモニターとの間の時間差はなく、同時とされることになる。

更には、僕の目の前にはモニターだけではなく、更に、その30cmくらい奥に絵葉書がある。僕は、目の前のモニターと絵葉書がともにある風景を見て、その事態を「今、私はモニターと絵葉書を見ている。」と表現したくなる。そこでは、モニターと絵葉書との間にある時間差さえも無いものとされ、私とモニターと絵葉書は同時に存在することになる。

つまり、ある場面の認識と、その言語表現においては、同時性が大きな役割を果たしているのである。

僕は、この同時性を、私の今と、他者の今との、今という独在性を用いた繋がりであると考えたい。僕は、永井に反して、人間だけではなく、モニターや絵葉書のようなモノも独在性を有していると考えている。(ここでの独在性=現実性とするならば、入不二的な捉え方)

そうだとするならば、私の今と、モニターや絵葉書の今が、今という独在性を使って繋がっていると考えることができるのではないだろうか。

永井はこの本の終章において、私という独在性を使って時間的連続性を構成しなければ、そもそも思考というものが成立できないと論じた。同様に、今という独在性を使って空間的連続性(同時性が成立する空間)を構成しなければ、そもそも思考というものが成立できないとも言えるのではないか。

8 時間の過去性

さて、第7節で僕は、永井のお話では時間が重要な役割を果たしているということを指摘した。つまり、永井は、想起(記憶)に重要な役割を担わせ、今の私と、過去の私とが想起(記憶)で繋がっているということを使って、このお話を組み立てているのである。

そして、更に、ここにはもう一つの特徴を見出せることを指摘しておきたい。永井は、人称に比べて時間を重視しているだけでなく、お話の4のとおり、時間のなかでも、未来ではなく過去の時間を重視しているという点である。

当然、永井は未来を全く無視はしていない。未来の〈私〉についてもきちんと考え、「未来の〈私〉とは現在の〈私〉のことを過去の〈私〉として記憶しており、それを思い出すことのできる人のことである」(pp.264-265)としている。だが、この未来の〈私〉がいる未来とは、現在を未来にずらしたうえで、その未来における現在において、過去を想起している〈私〉がいる未来である。よって、この未来の〈私〉においても、重要な役割を果たしているのは想起であり、未来の〈私〉は過去性を色濃く帯びている。

更なる問題は、このような過去性を帯びた未来の〈私〉への視点移動、つまり現在から未来への「ずらし」がいかにして可能なのか、という問題である。現在と過去の関係であれば、それは想起(記憶)によって可能である。現在において過去を想起し、その想起された過去に身を置くことによって、現在から過去への視点移動が成し遂げられる。だが、永井からは、現在から未来への視点移動がいかに成し遂げられるのかについての説明はない。永井はただ、現在から未来への視点移動が何故か成し遂げられたうえで、その未来から現在を想起することで関係づけるだけである。

なお、永井の論じ方とは違うが、現在と未来を予期(予想)によって関係づけるというアイディアはありうるだろう。例えば、現在の僕は、明日の朝、出勤のために起きることをありありと予期できる。

当然、もしかしたら、その予期は外れて、例えば大地震が起きて、出勤どころではない状況になっているかもしれないし、僕は死んでしまっているかもしれない。それでも、この世界は、たとえ私ではない誰かのものであっても、なぜか世界がそこから開かれる唯一の原点から開かれるようなあり方をしているだろうし、そうでなければならない。なぜなら、世界とはそういうあり方をしているほかはないからである。

そういったことも含めて、僕は、未来を予期している。よって、現在と未来は予期によって関係づけられている。

だが、永井はこのような僕の説明には同意しないはずである。なぜなら、そのような未来には認識がないからである。現在見ている、机の上の赤いコップには赤のクオリアがあり、そして、想起された、数分前の過去において机の上にある赤いコップにも赤のクオリアがある。だが、予期された数分後の未来の机の上のコップには、赤のクオリアはない。当然、きっと数分後のコップは赤いだろうという確信はあるし、目を閉じて、ありありと数分後の赤いコップを思い描くことさえできる。だが、そのコップは未来のコップではなく、現在か過去におけるコップであり、それを未来においても同一であると想定したに過ぎない。そのような意味で、未来の予期にはクオリアを伴う認識がない。

永井は、認識を重視するから、この本の終章におけるお話には、直接的には現在と過去しか登場せず、未来は、未来から見た現在を過去化するようにしか登場しないのである。

9 認識の重視

永井が認識を重視するということは、僕が入不二から学んだ、認識論・意味論・存在論という分け方に従うなら、永井は認識論を重視しているということである。

永井が認識論を重視するのは、きっと、超越論的な《私》ではない、超越的な〈私〉を指し示すためには、意味論や存在論では不十分だからであろう。

まず、意味論は言語を前提とせざるを得ず、そこから到達できるのは、言語的な「私」までである。公共的な言語により、誰もが、ともに指し占めることができる「私」、つまり、主体としての私、人間としての私である。そこから、私的言語という裏技を使って、なんとか超越論的な《私》に到達することも可能ではあるが、せいぜいそこまでである。言語からは、決して超越的な〈私〉に到達することはできない。

また、存在論でも同様である。存在論とは、どのような領域に存在するのか、という議論であると言える。だから、存在論においては、私は、物質の領域に身体として存在するのか、とか、私は、非物質の領域に魂として存在するのか、といったことが論じられる。そして、その存在の領域は、たいてい、ベン図のようにして図に示すことが可能である。図に示すということは、言語と同様に、他者と共有が可能であるということである。だから、存在論も、意味論と同様に決して超越的な〈私〉に到達することはできない。

だが、認識論だけは、超越的な〈私〉に到達することができる。当然、認識論だって、言語や図を用いて伝達するしかないから、実は、超越的な〈私〉に到達することはできない。だが、認識論だけは、永井がやってみせたように、その伝達の失敗を通じて、超越的な〈私〉に到達することができるのである。

僕たち読者は、永井の認識論としての独在論を読むことを通じて、永井が、超越的な〈私〉の伝達に失敗していることに気づくことができる。そのうえで、永井は何に失敗しているのかに思いを巡らすことで、読者は、超越的な〈私〉を理解することができる。いや、失敗に思いを巡らすことによって到達できるのは、あくまで超越論的な《私》であり、そこでの更なる失敗によってこそ、超越的な〈私〉に到達するとも言える。(または、この失敗の失敗でさえも言語的な営みであると考えるならば、この失敗の失敗による伝達さえも失敗しており、その失敗の失敗の失敗こそが・・・(以下同様)とも言えるかもしれない。)

認識論によって、いかにして超越的な〈私〉が伝達できるかはともかく、意味論や存在論に比べて認識論が、永井の独在論において有利な位置を占めているのは確かだろう。永井の独在論に認識論は不可欠なのである。

脱線:梯子を投げ棄てる

だが、(いかにしてかはともかく)認識論的に捉えられた超越的な〈私〉を、独在論というひとつの理論として位置づけるためには、超越的な〈私〉という言葉や図が超越的な〈私〉を示している、ということにならなければならないだろう。つまり、決して言葉や図では示すことができないものを、言葉や図で扱うことができるようにするのである。

これは、つまり、超越的な〈私〉を捉えるまでの認識論的な議論をなかったものとして打ち捨てるということであり、いわば、梯子を投げ棄てるということであるはずである。

その、梯子を投げ棄てた後のことをやっているのが、僕は入不二基義であると考えている。入不二は、永井のように認識論的な理路を通じて〈私〉を導くようなことはしない。しかし、例えば、入不二の現実論において登場する「主体」は、それが超越的な〈私〉を示すとは書いていなくても、それは超越的な〈私〉も含んだ「主体」であると読むことが可能である。そのような読み方を許容するような懐の深さが入不二の現実論にはある。そして、そのような読み方が可能だと考えなければ、入不二の現実論はつまらない。

または、超越的な〈私〉を導くまでの認識論的な議論という梯子を投げ棄て、そこから意味論を行うことも可能であるはずである。超越的な〈私〉を道具として使い、そこから、意味論を組み立てるのである。

僕は、このブログのタイトルにしている、「対話」というアイディアは、そのようなものであると考えている。超越的な〈私〉が、いかに他者と対話を行うのかを描写することで、そこから新たな意味論を導くことができると考えている。続きの話をここですることはできないが、永井の独在論を完全に受け入れたうえで、梯子を投げ棄てることで、その先に論ずることがまだまだある、ということだけを指摘しておきたい。

10 一挙の成立

脱線から戻り、この本における永井の成果の話に戻ることにしたい。

先ほど、1から5のステップとしてまとめたように、この本の終章の議論では時間が大きな役割を果たしている。

そして、その時間とは、現在において、全ての過去を想起することで、この現在が全ての過去とつながっている、というようなあり方をしている。そして、時間の流れを、年表の上を今が動くと表象するならば、永井がいうとおり「年表の上を今が動くとは言っても、~年表それ自体でさえもまたその都度新たに生まれるのでなければならない」(p.233)としか表現できないようなあり方をしている。これはとても奇妙なあり方である。

ここで、懐疑論的な僕としては、新たな懐疑論を持ち出したくなる。さきほどの1から5のお話の中には次のようなお話があった。「5 1から4のような話は、全て、独在性があると思考(想定)するために構成されたお話である。」ここから、実は時間的連続性などなく、〈今〉しか存在しないのではないか、という過去に対する懐疑論を導きたくなるのである。

だが、そもそも、時間的連続性がなければ、通常の意味での時制自体が成立しないのだから、今と過去を対比するという視点すら成立しない。よって、過去に対する懐疑論は成立しない。

ここから導くことができるのは、新たな懐疑論ではなく、いわば新たな実在論である。

年表にイベントが並んでいるような時間を横の時間とするならば、そのような年表自体が生成されるような時間として、縦の時間が実在するのではないか。そのように考えたいのである。

横の時間としての年表には、例えば、ビッグバン、恐竜の繁栄、フランス革命、ロシアのウクライナ侵略、昨日の我が家での晩御飯といった様々なイベントが並んでいる。つまり太古から現代までの、大小を問わず、歴史上のイベント全てが並んでいる。永井は、その年表それ自体が、今において一挙にすべて生成されると言っているのである。そして、それだけではなく、今が動くたびに、都度、すべての年表が一挙にすべて生成されると言っているのである。これは全くもって驚愕するしかない話であり、この本の終章における、もうひとつの重要な指摘である。

そのような事態を表現するためには、年表上の今の推移という時間推移とはまったく別個に、年表自体の生成に対応するような、直交する縦の時間推移を措定することが必要であろう。(そのような縦の時間推移こそが、『〈私〉の哲学をアップデートする』における入不二のB推移なのではないか。)この縦の時間推移において、横の時間は一挙に生成されるのである。

脱線:横の時間推移の必要性

僕は、年表上の今の推移という横の時間推移と、年表自体の生成という縦の時間推移の両方が必要であるとした。

このうち、横の時間推移だけでは足りないということは、さんざん永井が論じているが、もし、横の時間推移抜きに、縦の時間推移だけだとどうなってしまうのだろう。つまり、年表上の今の推移などなく、ただ年表は1度だけ一挙に生成したと考えてみるのである。

その場合でも、独今論に立つならば、それで構わないということになるだろう。今とは、この今しかなく、他時点が今であったことなどないと考えてみるのである。その場合でも、他時点が今であったという捏造された記憶ならいくらあってもよい。昨日が今であったときに晩御飯としてオムライスを食べたという捏造された記憶や、フランス革命が今であったということを書物で理解しているという捏造された記憶がいくらあっても、独今論が揺らぐことはない。

当然、このような偏った議論に対しては、すべてが捏造された記憶だとしたら、捏造という言葉も、記憶という言葉も意味をなさなくなる、という反論もできるだろう。それはそれで有効な反論なのだけど、その反論をもっと精度が高いかたちで行ったのが、この本の終章の永井のお話であるともいえる。他時点が今であったということは超越論的な要請であり、横の時間推移は超越論的に必要なのである。

11 無限を「一」にする

年表自体が今において一挙に生成するというアイディアは、とてつもないものだと思う。永井が述べていることは、いわば、都度、世界の全てが生成されるという驚愕するようなことを述べているからである。だが、永井のすごさは、そのような捉え方をしないというところにある。永井は、その生成される世界に着目するのではなく、あくまで、世界の全てが、この私において生成されるというところに着目するのである。

言うなれば、永井は、生成されるものの内容(内包)ではなく、その生成は必ず、現に、この私において生成されるという生成の形式に着目する。だから、永井は、私を無内包の現実と呼んでおり、永井がやっている独在論は存在論なのである。

永井が行う、世界の生成の内容から世界の生成の形式へ、という視点移動は、無限から「一」への移行であると言ってもいいだろう。無限の世界の内包を、この私という「一」に収斂させてしまうのである。

この収斂的な移行を認識論的に述べるならば、認識される世界という客体から、認識する私という主体への移行として捉えることができる。また、存在論的に述べるならば、この世界に存在する無限の事物から、この世界が存在する世界=私という場への視点移動として捉えることができる。(これが『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』において入不二が行った、論理哲学論考の独我論的解釈である。)さらに、意味論的に述べるならば、話し手による、この世界についての無限の語りが、聞き手にとっては、ある一人の人間による一つの語りに変質する、という事態として捉えることができる。(きちんと論じていないけれど、これが僕の対話というアイディアである。)

僕は、無限と「一」という哲学上の大きな問題は、このあたりに起源があるのではないかと考えている。永井は、これまでの哲学史上、独在性の問題が巧みに迂回されてきたことの不思議さについて指摘している。無限と「一」の問題もその一例であり、永井の独在論を考慮に入れることで初めて、議論の出発地点に立つことができるのではないだろうか。

脱線:入不二の始発点

なお、永井が年表自体としているものは、入不二の潜在性に対応するだろう。なぜなら、永井の年表とは、この世界の全てであり、そこには漏れがないからである。この年表には、過去に実際に起こった出来事だけではなく、未来において起こるだろうと現に今予期する出来事や、起きた/起きるかもしれないという可能性を、現に今、想像した出来事や、想像すらもしない(と現に今、想像した)出来事など、とにかく全ての出来事が含まれるはずである。もし、潜在し、決して顕在化しない出来事があったとしても、それは、現に今、潜在し、決して顕在化しない出来事として顕在化し、年表に書き入れられるのである。

だから、縦の時間推移により、世界のすべてが生成されるプロセスとは、つまり、潜在していた全てが、全てとして顕在化するということなのである。これは、潜在し、決して名指しされることがない潜在性が、潜在性として名指しされることと全くの等価である。そのような意味で、永井の年表とは、入不二の(絶対)潜在性のことなのである。

そして、永井の独在論から、入不二の現実論に議論の軸足を移すならば、絶対潜在性が、この世界の全てとして顕在化するプロセスは、入不二の円環モデルにおける12時から0時の始発点への移行に相当する。

入不二の考えとは違うけれど、僕は、これこそが、入不二の潜在性というマテリアルから、何かが生成する唯一の道筋であると考えている。絶対潜在性は、全ての年表として顕在化するほかには生成の道筋はないのである。

なお、入不二が僕のように考えない理由は明らかである。入不二は、私という独在性を必須のものと考えていないのである。独在的な〈私〉やそこから派生する実存的な《私》や主体・人間としての「私」といったものなどなくても、マテリアルとしての潜在性はただマテリアルとしてのモノを生成してさえいればいい。または何も生成せず、ただ潜在性のままでいてさえもいい。確かに、何かの拍子に独在性を帯びた私が生成してもいいけれど、別に生成しなくてもいい。入不二はそんなマテリアル優位の世界を描写しようとしているのである。

このような入不二の態度は、年表の上を動く〈私〉、つまり横の時間推移を不要なものとし、ただ一挙の年表の生成という縦の時間推移のみを認めることに似ている。つまり、この入不二の態度は、ここまで僕が重要視してきたこの本の終章のお話の成果、つまり時間連続性を有する認識主体のような道具立ての必要性を全否定するということである。

そんな入不二の態度には、もうひとつの真理が含まれているように思える。

12 思考へのこだわり

三たび、脱線から戻ると、永井は、この本において、独在性が開闢するだけでなく、独在性が構成され、思考の対象となることにこだわり抜いている。

その動機はどこにあるのかというと、哲学とは、再現可能な理路であるというところにあるのではないだろうか。

独在性は、きっと、構成されようがされなかろうが、思考できようができなかろうが、ただ開闢している。だが構成され、思考できなければ、開闢しているとは言えない。開闢しているものを開闢していると言うためには独在性は独在性として構成されていなければならない。そこから哲学は始まる。そして、いったん、そのようにして哲学が始まってしまえば、独在性の開闢は構成され、哲学的議論のなかで、何度でも再現され、何度でも使用することができる。

それはつまり、開闢が標本として保存されるということである。標本の昆虫には生命という最も重要なものが失われているけれど、それでも生物学的な研究には十分に役立つ。同様に、標本化された開闢からは、山形括弧〈〉という最も重要なものが失われるけれど、哲学的な議論には十分役立つ。生きた昆虫はどこかに飛んで行ってしまうが、死んだ昆虫は、死んで動かないからこそ、皆で眺めて、これは新種だな、などと生物学上の分析を行うことができる。哲学という学問において独在性を分析するためには、開闢は死に、構成されて保存される必要があるのだ。それが、超越的な〈私〉を標本化し、超越論的な《私》として保存することの意義である。

13 哲学者の倫理

どうも超越論的な構成についてネガティブな響きのある表現をしてしまったが、そうではない。標本化するということは、他の哲学者と開闢を分かち合うということである。そこには他者との関わり合いという倫理の原初的な姿がある。つまり、超越論的な構成により、倫理が生まれるのである。

より精緻に述べるならば、超越論的な構成とは、つまり、想起された過去の私というかたちで他時点の私を認め、時間的連続体としての私を立ち上げるということである。

このような構成がなければ、他時点の私への配慮という最低限の独我論的な倫理さえ生じない。もし、現在の私のみを配慮し、過去や未来の私のことを配慮しないのならば、「これまで頑張ってきたのだからもう少し頑張ろう」とか「将来困らないように気を付けよう。」といった、計画的な人生像といったものさえ成立しないことになる。

それどころか、コップに水を汲んだからと言って、その水を飲むべきですらないし、数秒後の将来において喉の渇きが癒されるからと言って、手元の水を飲むべきですらない。熱い鍋から何も考えずに手を離すといった反射的な行為以外には何も意味のある行為を為すことができなくなる。意味のある人生という倫理の基礎を築くためには、時間的連続体としての私が必須なのである。

この点については、きっと永井も同意するだろう。だからこそ、この本において、超越論的な私を構成することにこだわったとも言えるだろう。

また、永井の主張ではないが、まず、時間的連続体としての超越論的な私を独在論的に構成したうえで、更に、その独在論を伝達し、なぜか理解してしまう者を、《私》という他者して構成することで、いわゆる倫理に更に近づく。なぜなら、この段階では、この私も他者も同じ《私》として構成され、同種の存在であるとされるからである。(いや、正確には、そこには強く実在性が働いているから、実は全くもって同種ではなく、この私こそが特別な存在なのだが、その特別さを同様に分かち合っているとしか考えられないという矛盾した形で同種の存在なのである。)

しかし、ここでの他者とは人間一般ではないことには留意すべきだろう。この他者とは独在論を伝達し、理解してくれる他者であり、つまり、哲学者としての他者である。だから、ここでの倫理とは、永井の独在論を理解することができる、哲学者相互での内輪の尊重の倫理である。よって、ここでの倫理とは、せいぜい、「話し手は、嘘は言わずに、できる限り理解してもらえるように話す。」「聞き手は、話をとりあえずは嘘ではないと信頼し、耳を傾け、理解に努める」「第三者は、話し手や聞き手のことを妨害しない」といった程度のものであろう。これは哲学者の倫理である。(僕は、哲学対話において、話し手の誠実さと、聞き手の信頼とが重要であると考えているけれど、その起源はこのあたりにあると考えている。)

14 言語的な「私」との断絶

そこから、超越的にせよ超越論的にせよ独在性が奪われ、平板な、言語的「私」に至る。これは、(イルカは含まれるかといった議論はありえるけれど)とりあえずは知的生命体としての人間一般と等しいものとして扱われることになる。この段階では、他者としての「私」は、哲学者に限定されないから、哲学者の倫理とは異なる全く別の倫理が立ち上がる。これが、いわゆる倫理学が取り扱う人間の倫理である。つまり、人間一般を平板な同等の主体として認め、そこを出発地点として、義務論や功利主義や徳倫理学といった様々な議論を立ち上げるのである。

だが、そもそも僕は、どうやって、超越的な〈私〉や超越論的な《私》から、言語的な「私」に移行できるのかがよくわからない。(この文章の冒頭の伏線回収をしていなかったように思うので、ここで書いておくと、この本を読む前であれば、僕は永井の場合は、現に、言語的な「私」が多数居る中に、ただ一人超越的な〈私〉がいる、という舞台設定から議論が始まるから、移行という疑問すら生じないと考えていた。だが、この本を読んで理解したが、実は、永井の独在論とは、どこまでも、超越的な〈私〉と超越論的な《私》の絡み合いの物語であり、どこにも言語的な「私」は登場しないし、登場しようがない。)実は、〈私〉や《私》から「私」に飛躍するためには深い断絶がある。

この断絶への僕のこだわりは、無意味なものではないだろう。なぜなら、このこだわりは、超越論的な《私》の段階で見出された「哲学者の倫理」と、言語的な「私」の段階で見出される「人間の倫理」との間にある断絶に目を向けることでもあるからだ。

僕は、哲学者の倫理として、話し手と聞き手の間に、尊重や誠実さや信頼といった特定の配慮が生じることは理解できる。そうでなければ哲学ができないからだ。

だが、そこから、どのような飛躍により、義務論や功利主義や徳倫理学のような、何らかの人間の倫理が立ち上がるのかが、僕にはよくわからない。

僕は、より哲学者の倫理と親和性の高い、新たな倫理的な理論を立ち上げ、哲学者の倫理と人間の倫理とを連続的に捉えることが可能なのではないか、と考えているが、そういうところにまで僕の思考をいざなう素晴らしさが、この本にはあったと思う。やっぱり僕は、永井哲学が好きなのだなあ、と再確認した。