※5000字くらいです。新年初の文章ですね。

1 言語ゲーム

有名な哲学者ヴィトゲンシュタインの、これまた有名な哲学的アイディアとして、言語ゲームというものがある。

有名だけど、実は僕はぼんやりとしか知らないから、勝手に、僕なりの理解を書いておこう。

言語ゲームとは、言い換えれば、哲学ゲームである。モノポリーというゲームをいくらプレイしても、現金は儲からないように、哲学ゲームをいくらプレイしても真実は手に入らない。そういうことをヴィトゲンシュタインは言っているのだと思う。

少し説明するならば、哲学とはつまり、言葉を使って思考する営みである。だが、言葉を使う限り、言葉で語ることができる領域内のことしか、哲学は取り扱うことはできない。だから、哲学とは、言葉を使用するというルールに従ったゲームなのである。だから、言語ゲームとは哲学ゲームなのである。

僕は、入不二基義に従い、認識論・意味論・存在論という区分を重視しているけれど、そのような観点に拠るならば、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、主に意味論の話であり、意味論の極限に近いところを捉えたものだと思う。

2 認識ゲーム

そのうえで、僕は、もうひとつの極限的な議論を持ち出したい。それは、認識ゲームとでも呼ぶべきものである。実は、哲学ゲームが従っているルールは、言葉の使用というルールに加えてもうひとつある。それは、認識を使用するというルールである。認識を使用するというルールに基づいているから、認識ゲームである。哲学ゲームとは、言語ゲームであり、かつ、認識ゲームであるとも言える。

認識ゲームについて論じた哲学者は、デカルトである。デカルトは夢の懐疑や全能の悪霊の懐疑を持ち出し、すべてを徹底的に疑ったうえで、それでも残るものとして、疑う我を見出す。だが、この疑いとはつまり認識に関する疑いであり、つまりデカルトの懐疑においては、認識は有効に機能しているという前提が疑われないまま用いられている。

この目の前のコップは、実は夢かもしれず、実際は無いかもしれない。これはかなり徹底的な懐疑だけど、それでも、とりあえずコップが認識できていることは疑われていない。また、夢から覚めたなら、そのコップが実は無いことが認識できるかもしれない、という認識可能性も疑われていない。この認識可能性があるからこそ、懐疑は有効に成立している。

だから、デカルトの方法的懐疑とは、認識は有効に機能しているという、認識ゲームのルールに基づき、認識ゲームを極限までプレイしたものだとも言える。デカルトの方法的懐疑を哲学と呼ぶならば、そのような意味で、認識ゲームとは哲学ゲームなのである。

3 哲学ゲーム

なお、言語ゲームと認識ゲームは、それぞれ完全に単独で成立することはできず、いわば、互いに互いを支え合っている関係にあるだろう。

そのことをうまく示しているのは、永井均の『転校生とブラックジャック』において、登場人物の一人のFさんが、デカルトの懐疑を意味論的に推し進める場面だ。

Fさんは、「悪霊が全能なら「私」という概念そのものについても、「存在」という概念そのものについても、私をだますことができるんじゃないか」(単行本のほうのp.14)と述べる。それに対して、先生は、懐疑の対象となる概念は、「ライオン」でもよいとする。つまり、「私」であれ「ライオン」であれ、すべての概念は懐疑の対象となり、意味の成立自体が懐疑に晒されるのである。

このことを逆に捉えるならば、デカルトの懐疑が有効に成立するためには、認識ゲームのみならず、言語ゲームの成立が必要である、ということになる。

以上は認識ゲームと言語ゲームの相互作用についての、認識論優位のデカルトの立場からの描写であったが、もうひとつ、意味論優位のヴィトゲンシュタインの立場による描写もできるだろう。

ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを言語ゲームとして描写するためには、単に、言語のルールだけではなく、そこに当てはめられる、言語使用の具体例が必要だ。つまり、「SはVをした」というような抽象的な言語の型だけでは言語ゲームを始動することはできず、そこに、ネコや昼寝といった具体例を入れ込み、「ネコは昼寝をした」というような文を成立させる必要がある。

この具体例を成立させるのは、「ネコ」や「昼寝」についての認識であり、つまり認識ゲームである。つまり、言語ゲームを始動させるためには認識ゲームが必要なのである。

このように、言語ゲームと認識ゲームのいずれの側から捉えるにせよ、言語ゲームと認識ゲームが互いに互いを支え合うかたちで行われるものこそが、哲学ゲームである、ということになる。

4 哲学

当然、哲学者としては、哲学ゲームと貶められるのは不愉快だろう。哲学ゲームとは、哲学なんてゲームであり、言語や認識といったルールの外にある「何か」を捉えることなどできない、という罵りの言葉でもあるからだ。

いや、ゲームとしての限界を真摯に認めることこそが哲学者の立場である、という態度をとったのが、ヴィトゲンシュタインであり、デカルトであるとも言えるだろう。だからこそ、ヴィトゲンシュタインは、意味論の限界としての言語ゲーム論を提示し、デカルトは、認識論の限界としてのコギトを提示したのである。そして、その後継者である大多数の哲学者たちは、ヴィトゲンシュタインとデカルトが設定した限界に沿って、哲学ゲームをプレイしている。僕にはそのように僕には見える。

僕は、哲学ゲームには興味がないから、そのような営みにはあまり興味がわかない。僕は哲学をして、言語や認識の限界に囚われずに、真理をつかみ取りたい。

僕はそのようなモチベーションで哲学をやっているのだけど、そんな僕が好きな哲学者は二通りいる。まずは、あくまで哲学ゲームをやっているように見えるけれど、その議論の内容には哲学ゲームを超えたポテンシャルがあるように感じられるような哲学者たちである。そして、明らかに、哲学ゲームではなく哲学をやっているごく少数の哲学者である。

前者の哲学者たちについては、これからもっと勉強して、自分の哲学の参考にしたいけれど、後者の哲学者については、だいたい把握できてしまったような気がする。哲学ゲームではなく哲学をやっているごく少数の哲学者とは、つまり、入不二基義と永井均である。

5 哲学ゲームからの離脱

では、入不二基義と永井均は、どのようにして、哲学ゲームではなく、哲学をやっているのだろうか。ヴィトゲンシュタイン的な言語の限界と、デカルト的な認識の限界は、かなり強固なものであるはずだ。その限界を超えて、入不二と永井はいかにして哲学をやっているのだろうか。

僕の理解では、二人は、認識論と意味論から離脱することによって、認識と言語の先にあるもの、つまり存在論をやろうとしている。その証拠に、二人が共通して重視する言葉として「無内包」という言葉がある。これは、内包、つまり、認識や言語を通じて把握される、「ライオン」や「昼寝」といった具体的な内容から離れたところで哲学をやろうとしている、という共通点があるということである。

当然、具体的な内容、つまり哲学ゲームから完全に離れることはできない。だから、二人は、具体例を通じて描写したうえで、実は、その具体例に囚われる必要はない、ということを後出しで示さざるを得ない。そのような不十分なかたちではあるが、二人は、哲学ゲームからの離脱を試みているのである。

6 極大化と極小化

だが、二人の離脱のやり方は大きく異なる。言うなれば、入不二の離脱は極大化による離脱であり、永井の離脱は極小化による離脱である。

入不二は、現実性というアイディアにより離脱を図る。(現実性については僕の他の文章でも触れているので、ここでは簡単に述べる。)現実性とは、つまり、「(現に)ソクラテスは哲学者である」「(現に)ネコが昼寝している」というように、どんな文にでも付与できる「現に」という言葉のことである。この「現に」が単なる言葉ではないことは、この「現に」をすべて消去しても全く意味が変わらないというところに示されている。だから「現に」とは、言語や認識を超えて遍在する現実性なのである。

入不二は、この遍在する現実性を用いることで、入不二がプレイせざるを得ない哲学ゲームを極限まで押し広げ、哲学と一致させようとする。

なぜ入不二が哲学ゲームをプレイせざるを得ないかというと、入不二の現実論だって、『現実性の問題』という本として、具体的な言語で語られているし、「ソクラテスは哲学者である」のような認識を伴う具体例を用いた描写によって、有効に成立しているからである。その意味で、入不二は哲学ゲームの領域内に囚えられている。

だが、入不二の現実論は、その語られた内容として、言語や認識といった限界を超え、遍在する現実性というものを捉えきっている。だから、入不二は、哲学ゲームに従いながらも、哲学ゲームを超えた哲学をやっていると言える。これが、入不二流の、極大化とも言うべき哲学ゲームからの離脱の仕方である。

一方の永井は、独在性というアイディアにより哲学ゲームからの離脱を図る。永井の「私」や「今」の独在性についての議論は有名だろうから説明を省くけれど、「私」や「今」の独在性は、言語や意味により捉えきれないという特徴がある。つまり「私」や「今」の独在性は言語や認識といった限界を超えている。

当然、永井も、具体的な言語を用い、認識を伴う具体的な描写を行いつつ、自らの独在論に関する文章を書かざるを得ないから、哲学者の営みとしては、哲学ゲームの領域内に囚えられざるを得ない。

だが、永井の独在論もその内容としては、明らかに、哲学ゲームを超えた哲学である。永井も、入不二とは別のやり方で、哲学ゲームに従いながらも、哲学ゲームを超えた哲学をやってのけているのである。

なお、永井の独在論では、二段階の極小化とも呼ぶべき作業が行われる。第一段階が、平等で同等な人称・時点に対する、「私・今」という極小化された点の特権化である。そして第二段階が、人称・時点の数だけある「私・今」に対する(言語・認識が働かない)特殊な「私・今」の特権化である。厳密には、第二段階の特権化は極小化ではないのだけど、1つ目の極小化とも呼ぶべき特権化の流れをくんでいるという点で、この永井の作業を総体として極小化と呼ぶことは間違いではないだろう。

このようにして、入不二は、極大化によって、そして、永井は、極小化によって、それぞれ哲学ゲームからの離脱を図っているのである。

7 存在論・形而上学

では、言語ゲームと認識ゲームが複合されたものとしての哲学ゲームを離れ、哲学者が何をできるのかといえば、それは、存在論であろう。

僕は、哲学には、認識論・意味論・存在論があると考えている。そのうえで、言語ゲームとは、つまり意味論の究極の形態(のひとつ)であり、そして、認識ゲームとは、つまり認識論の究極の形態(のひとつ)であるならば、認識論・意味論から離れた哲学者に残されているのは存在論しかない。

僕は以前、存在論とは、どこに存在するのか、という存在の領域についての議論だということを書いたことがある。

この認識論・意味論から離れた、存在論固有の領域とは、つまり、言語や認識の領域とは異なる別の領域のことである。この領域を形而上的領域と言ってもいい。つまり、哲学ゲームを離れ、存在論がやるべきは、形而上学的領域の描写なのである。

一方の形而下的領域とは、言語や認識を通じて把握され、描写される具体例に満ちた領域のことで、自然学の領域である。つまり、僕が哲学ゲームと呼んだものとは、自然学のことなのである。

そうだとするならば、入不二や永井に限らず、存在論をやっている世の形而上学者達は、哲学ゲームではなく、哲学をやっていると言うべきなのかもしれない。それでも、どうしてもそのような哲学者達を認めたくないのは、意識的に哲学ゲームを離脱せず、無意識に哲学ゲームを逸脱しているだけのように見えるからである。彼らは、言語と認識により捉えることができる具体例に囚われすぎている。

僕は、意識的に哲学ゲームを離れ、その先にある真実を捉えたい。できるならば、入不二や永井よりも、もっと根源的なかたちで哲学ゲームを離れ、哲学をやりたい。