先ほど書いた文章の続きです。

入不二と永井は哲学ゲームからの離脱を、極大化と極小化というべきやり方で行っていると述べた。入不二は遍在する現実性というかたちで、そして、永井は独在する独在性というかたちで認識と意味(言語)の領域から離脱しているからである。当然、遍在と極大化が重ね合わされ、そして、独在と極小化が重ね合わされる。いずれにせよ、現実性も独在性も認識と意味に満ちた自然という内容から離脱しているから、現実性も独在性も無内包であるとされる。

なお、極大化された入不二の現実性と、極小化された永井の独在性は、相互に行き来が可能である。少なくとも、入不二はそう考えている。なぜなら、入不二の現実性を、より大きな領域の一部と位置づけるならば、それは永井の独在性と見分けがつかなくなり、そして、永井の独在性をそれだけしかないと位置づけるならば、それは入不二の現実性と見分けがつかなくなるからである。これは、白地に赤い梅干しを描き、先日、日の丸構造と描写した構造を描くことである。https://dialogue.135.jp/2023/12/23/tinypride/

(そして、赤い梅干しが全面化し、白いご飯となり、またそこに赤い梅干しが置かれるという繰り返しである。)

当然、その出自からして、入不二の現実性と永井の独在性は全く異なる。だが、いずれも無内包であり、そこには形而上学としての領域の構造しかないから、その出自の違いは意味をなさず、ただ無内包の領域の描写として重ね合わされる。(さきほどの日の丸弁当には、白いご飯と赤い梅干しという内容の違いがあったけれど、より正確には、ご飯と梅干しという材料の違いも、赤と白という色の違いもない。)

この、入不二の現実性と永井の独在性との相互包含の構造、つまり、遍在と独在の往還構造は、この僕のブログのタイトルにもなっている「対話」と重なっている。つまり、これは対話構造である。僕はそのような予感から、このブログのタイトルをつけたのだと思う。つまり僕が重視する対話とは、存在論上の形而上的構造としての対話構造なのである。

なお、僕が対話という語を用いたくなるのは、哲学とは、言語を用いた言語ゲームとしての哲学ゲームである、という出発地点があるからだと思う。言語使用とは直線的に行われるものではなく、話し手と聞き手の間の往還運動とである。そのような形而下的な人間臭い事実を、うまく形而上学の中に読み込みたい。僕の中にはそんな野心がある。