※3000字ちょっとあります。あんまり哲学的じゃないかも。

最近、気功に興味を持ち、本を読んだり、教室のようなところに顔を出したりしている。そうこうしながら色々考えたので、気とは何か、について、現時点での僕なりの理解を書き残しておく。

まずは、気というものを、自然科学により把握可能なエネルギーの流れのようなものとして捉えることは、現代人の僕としてはさすがにできないことを明らかにしておいたほうがいいだろう。僕は、占いとかも結構好きだし、現在の科学水準では捉えられない何かが実在するというアイディアには憧れがある。だけど、改めて、こうやって本気で文章に書くならば、気が、自然科学上の物理的な何かとして存在する、ということは否定しなければならないことくらいはわかっている。
では、気が存在すると感じるのは、まさに単なる気のせいで、気などというものは全否定すべきものなのかといえば、そうではないだろう。便宜上、気と呼ばれる独立した何かがあるというのは誤りであっても、気とは、実は、別の何かのことを指し示しているのではないだろうか。僕はそんな風に予想を立てている。
そんなふうに思いながら、気のことを少し勉強していたら、ふと思いついたことがあるので、そのことを書き残しておきたい。最終的な答えではないけれど、気という概念が、実は何を指し示しているのか、答えに近づきそうなことを思いついたのだ。

気とは、身体の外側から内側への視点移動のことなのではないだろうか。
普段の僕は、身体を外側から捉えているように思う。例えば、僕が部屋の電気をつけようとするとき、僕は、まず、スイッチを押そうと決心し、その決心に従い、手をスイッチのほうに伸ばしていく。いや、手をスイッチのほうに伸ばすなんてことは意識せず、僕はスイッチを押そうと決心した後は、半ば無意識にスイッチは押されていると言ってもいいだろう。スイッチを押すという動作は、その押す主体が自分自身であっても他の誰かであっても変わらず同じ言葉で描写できるという意味で、公共空間における客観的な行為であり、いわば外側からの視点に基づく描写である。
一方で、部屋の電気のスイッチを押すという動作は、主観的に、私的に行われるものとして捉えることもできる。自らの身体の内側の、筋肉や関節の動きに着目し、その動きの様々な感覚を総合的に組み合わせた成果として、電気のスイッチを押すという動作を構成するのである。
このような主観的な内側からの身体把握に向けての視点移動こそが気の正体であるかどうかはともかく、気とは、普段はあまりしない、主観的な、内側からの身体の把握と密接に関わっているのは確かだと思う。それが気そのものかどうかはさておき、気をうまく使うためには、自らの感覚によって、内側から微細に身体を把握することが必要であるように。

だから、気功のモードに入り、気を感じるためには、普段やっているような、外側からの身体の使い方から離れるための手順が必要である。きっとそれが、深呼吸をすることだったり、腕を振るような単純な動作を繰り返すことだったり、座禅をして心を落ち着けることだったりするのだろう。そうした儀式を通して、身体の外側から内側へ視点を移動させるのである。

ただし、内側へ視点を移動させると言っても、それを宗教や形而上学ではなく、実践的な技術として表現する限り、公共的な客観的な空間のなかに視点の原点を設定する必要がある。だから、内側からの身体の把握にあたっては、まさに身体の物理的な中心点を原点とし、そこから身体を隅々まで把握するというイメージが必要となる。きっと、その中心点のことを丹田と呼ぶのだろう。臍の下あたりを便宜的な内側の視点の原点として設定するのである。
また、丹田は、重心というイメージで捉えることもあるけれど、丹田も重心も、いずれも身体の物理的な中心点であるという共通点があるから、このようなイメージは原点の設定に役立つ。

こうして、丹田を原点とし、そこから筋肉や関節といった身体のパーツを細やかに捉えていく。ときには、動作に伴う重心のわずかなずれも意識しながら、微細に、精巧に捉えていく。ここに気の重要な要素があるのは確かだろう。
だが、実践上、これだけでは問題が生じる。実際こんなことを続けていたら疲れて、集中力が途切れてしまう。プラモデルの部品をつけるような細かな作業をするときには息を止めて作業をするけれど、そういう息がつまる作業はそう長くは続けられない。
だから、時には身体の中心である丹田から身体全体に広がるように意識するのとは異なる、別の意識の持ち方が必要となる。それが、身体の外側から、気を取り込むような、全く逆の意識の持ち方である。気功においては、頭頂部や肛門のあたり、または手のひらや足の裏といったところから、丹田に向けて気を取り込むという考え方がある。丹田から気を出すだけではなく、丹田に向けて気を取り込むことにより、気の循環が生じるのである。これは、身体の中心から身体全体へという意識と、身体全体から身体の中心へという意識という二種類の意識の持ち方を交互に行うということである。こうして、丹田を始発点とし、次に、丹田を終着点とする、という異なる意識の仕方を繰り返すことにより、消耗せずに、丹田、つまり、内的把握の原点に意識を保つことを可能としているとも言える。

更に、気は、手の平から放射されて頭頂部から注ぎ込まれたり、右の足裏から流れ出て大地を経由して左の足裏から流れ込んだりもする。気は、皮膚という身体の領域の限界を超え、身体の外の世界把握にまで及ぶ。風水では、このような世界の気の流れが重視される。これは、つまり、主観的な意識のあり方が身体を超えて、世界把握にまで及ぶということである。
ここまで述べたことを踏まえるならば、このことが意味しているのは、気は、身体に限定されるものではなく、内的で、主観的な世界把握を徹底させようとしたときに、この世界全体において立ち現れる、ということである。
当然、この世界は、客観的な把握の仕方によるならば、自然科学的な描写がどこまでも成立するような、現代人が当然視するような常識的なあり方をしている。そこに無理やり、内的で主観的な世界把握を重ね合わせようとしたとき、気というものが立ち現れる。いうなれば、タンパク質の塊としての身体に、科学では説明がつかない不可思議なエネルギーが通っているようなイメージが立ち上がる。これは、客観と主観を無理やりつなぎ合わせ、客観のなかに主観を強引に描きこもうとしたために生じる幻想である。
なお、念押ししておくと、気は幻想ではない。自然科学に基づく客観的世界のなかに無理やり主観的な観点を描きこむことで幻想が生まれるのである。

ところで、客観と主観の重ね合わせにより生じるのは、気だけではない。僕の哲学的興味から述べるならば、クオリアもそうである。いずれも、客観と主観という矛盾したものが衝突するところに立ち現れるものである。だから、気とクオリアは密接に関わっているとも言え、例えば、気は、温かい感じ、というようなクオリアとして感取されるのもそういうことである。ついでに言うならば、クオリアの感取と密接につながりがあるヴィパッサナー瞑想と気功とも、きっと深いつながりがある。

以上が僕が思いついたことである。

最後に注意事項を一つだけ。僕は、気功の成果が自然科学により測定できないとは言っていない。明らかに、主観的な身体把握の仕方は、客観的に測定可能なかたちで身体に良い影響を与える。それは、気功の初心者であるけれど、すでに僕が実感していることだ。きっと、(少なくとも)現代日本人は、外的な身体把握ばかりしていてバランスが崩れている。気功を通じた内的な身体把握はそのバランスを整えるという点で明らかに有用である。だから、気功の成果が免疫力の向上などといったかたちで現れることは、ここまで僕が述べたことと全く矛盾しない。