※50000字以上あります。書いてみたら焦点がぼやけてる気がしたので、要約版をそのうち書きたいかも。多分、登場する哲学者は過去最多で入不二基義、永井均、青山拓央、谷口一平、飯盛元章、平井靖史(敬称略)です。群像劇みたいなのを狙ったけど、ちょっと欲張りすぎでした。これも2ヶ月以上かかって疲れた。

1 はじめに

(1)二つの本

この文章は、入不二基義が関わった二つの本、『〈私〉の哲学をアップデートする』(以下、『アップデート』)と『リアリティの哲学』(以下、『リアリティ』)に関する文章だ。

いずれの本も入不二の単著ではないし、特に前者は、永井均の独在論に関する本である。だが、僕は入不二ファンだから、特に入不二に注目して読み、そして考えた。だから、この文章は、これまで何度か書いてきた、入不二の現実論についてのものであり、この文章には、ほぼ主役級で永井が登場し、他にも何人かの哲学者が登場するけれど、主役はあくまで入不二である。

(僕が過去に書いたのは、例えば、https://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/ など。)

(2)桜super love

もし、この文章を読んでいただける方の中に、音楽をかけながら文章を読む習慣がある方がいたら、BGMには、サニーデイ・サービスというバンドの『桜super love』という曲がいいかもしれない。

(YouTubeに公式MVが上がってます。https://youtu.be/TyOVX8EMnwA

きみがいないことはきみがいることだなぁ

桜 花びら舞い散れ あのひとつれてこい

こんなふうに始まるこの曲ができた背景には、丸山くんというドラムのメンバーの存在がある。丸山くんは、この曲ができたときには体調を崩していてバンド活動から離れていて、ドラムの演奏は、ボーカル&ギターの曽我部恵一がやっている。だから「きみがいない」のであり、つまり、この「きみ」とは丸山くんのことなのだ。そして、それから数年経った今、丸山くんはこの世からもいなくなってしまった。そう思うと、なんだか切なくなる。

更に、そうしたファン目線から離れ、哲学者目線でも、この曲はいい曲だと思う。不在のなかにある存在を感じるなんて、入不二哲学っぽい。

ただし入不二は、こういうことを表現するとき、きっと、不在と存在とを突き詰め、現実なんていうものを見出したりするのだろう。そして、そこでは、曽我部が描き出したような情感はなく、あっけらかんとした哲学的事実だけを表現するのだろう。だけど、だからこそ、情感の不在の中に、情感の存在を感じ取ることもできたりするのだけど。

2 僕の理解

さて、まずは、この2冊の本について、極力、僕の私見は交えず、僕がどう理解したかを述べていきたい。

なぜ、そんなことをするかというと、僕自身、2冊の本を続けて読み、情報量が多くて混乱してしまい、整理が必要になったからだ。

これらの本には、入不二のほかに、永井均、青山拓央、谷口一平、飯盛元章といった哲学者が文章を寄せていて、彼らの議論は群像劇のように複雑に絡み合っている。(あと、勝手に平井靖史も登場させている。)当然、僕の力量で、彼らの議論をきれいに解きほぐすことなどできない。けれど、せめて僕なりの読解をまとめておくことで、それが理解の補助線となり、多少なりとも読者の助けになるのではないか。そんな思いから、僕なりの理解について書き残しておく。

また、2冊のうち、特に『アップデート』の主役は入不二ではなく永井だから、入不二の側に立った読解は、あまりなされないだろう。その点でも、入不二に着目した僕の読解は、多少は価値があるものになるかもしれない。

(1)無内包の現実の位置づけ

まず、僕が補助線として引きたいのは、『アップデート』での最重要概念である「無内包の現実」の位置づけである。

多分、ここが僕のこの文章のクライマックスであり、最初に出してしまうのはもったいないような気もするけれど、ものごとをわかりやすくするためには、大事なことから伝えたほうがいいから仕方ない。

『アップデート』では、十数年前に入不二が提案し、永井が受け入れた「無内包の現実」という概念が大きな役割を果たす。だが、その概念が指し示すものは、二人の間に大きな違いがある。それを簡単に記したのがこの図だ。

まず、この図に書き込んだ人称的世界という語だが、『アップデート』は『〈私〉の哲学をアップデートする』だから、私、つまり人称の問題が重要となる。だから、二人に共通の議論の土俵を人称的世界とした。永井においてもうひとつ重要となる〈今〉を念頭に置き、時間的世界としてもいいけれど、話を単純化するため、ここでは人称的世界としておく。

なお、人称的世界というのは僕の造語のつもりで、『アップデート』においてだけでなく、これまで、永井も入不二も使っていないと思う。

僕が「人称的世界」という言葉で指し示そうとしているのは、複数の私と呼ばれる主体がいるなかで、なぜかこの私だけが特殊なかたちで存在している世界のことである。また、一方で、それを言おうとしてもうまく伝わらず、結局、すべての主体が並列的に存在しているということになってしまうような、不思議なあり方をした世界のことである。つまり、永井が常に問題としてきた、この世界のことである。

そして永井は左の図のように、人称的世界のなかの、なぜか一人だけ特別なかたちで存在している〈私〉に無内包の現実を重ね合わせている。つまり、永井にとって、無内包の現実とは、〈私〉の別名でもある。

では、既に〈私〉という語があるのに、永井がなぜ「無内包の現実」という別名を用いるかといえば、無内包という言葉を用いることにより、〈私〉の独在性をより明確に捉えることができるからである。〈私〉の独在性は無内包であり、無内包なのに現に独在している。だから独在性は無内包の現実なのである。

一方で、入不二にとっての無内包の現実の位置づけは大きく異なる。入不二哲学における無内包の現実は「(純粋)現実性」とも呼ばれ、遍在する力として捉えられている。遍在するから、その力は人称的世界全体に及ぶ。だから、右の図のように、人称的世界全体と無内包の現実の力が及ぶ領域は重ね合わされる。(ただし、完全に重なるかどうかは微妙な問題であり、実はこの文章における僕の主たる問題のひとつである。けれど、とりあえず、重なることにする。)

つまり、永井にとっての無内包の現実とは、いわば点であり、一方で、入不二にとっての無内包の現実とは、全体なのである。

単なる思いつきだけど、この対比を示すのに、超偏在と超遍在という言葉を用いるのはどうだろうか。当然、超偏在が永井であり、超遍在が入不二である。同じ「ヘンザイ」という言葉が対極的な意味を持つように、同じ「無内包の現実」という言葉を使いながら二人は対極にあるのだ。

なお、入不二も永井の〈私〉の独在性を否定しない。入不二によれば永井の〈私〉とは現実性が特別なかたちで顕在化する特異点である。一方の永井においても、裏返された箱(p.93)という比喩のとおり、無内包の現実としての〈私〉は単なる点ではなく、全体に広がっていると解釈できる。ただし、まず全体があるとする入不二と、まず点があるとする永井とでは、議論の順序が大きく異なるのである。

このような図を描いておくことで、『アップデート』を読むうえでの見通しは多少はよくなると思う。なぜなら、入不二と永井は別として、青山と谷口の議論には揺らぎがあるように思えるからだ。僕の理解では、先ほどの二つの図を踏まえるならば、永井の弟子である青山と谷口は、当然、永井の左の図に乗っかって議論を展開する。だが一方で、二人は大幅に入不二哲学を受け入れているから、右の図のような捉え方をしているように見えるときもある。だから、二人の議論を理解するうえでは、今、どちらの構図に基づき、「無内包の現実」を論じているのかに注意を払う必要がある。

更に言うならば、僕には、青山と谷口が、あたかも独在性と現実性という二つの「無内包の現実」があるように論じているように見える。だが、永井も入不二もそんなことは言っていないし、青山と谷口も自ら論証していない。その点で青山と谷口の議論は不徹底だと、僕は感じる。

二つの図を並列的に描くことで僕が強調したいのは、少なくとも、議論を始める際には、どちらか一方の構図に乗っかるしかなく、いいとこ取りはできないということだ。永井の視点に立つならば、入不二の視点に立つことはできず、入不二の視点に立つなら永井の視点に立つことはできない。これは、人間の視点に立つなら、神の視点に立つことはできず、神の視点に立つなら、人間の視点に立つことはできない、と言ってもいいだろう。二人の議論は重なることなく、どこまでも交差していくのだ。

蛇足

このように考えるならば、僕は青山の「ミニマムな様相すら開かれていないという点に、入不二の言う「純粋現実性」の一つの重要な意義がある。」(p.261)という言葉は誤解を生むと思う。現実性は遍在するという点に着目するならば、入不二の現実性とは、様相が開かれていても、開かれていなくても、いずれにせよ、それが現実であるという現実性なのではないだろうか。確かに入不二の現実性の力は無様相だが、それは、様相が開かれていないから無様相なのではなく、様相と無関係に貫通する遍在的な力だから無様相なのである。

(1)-2 山括弧に入るもの

二つ図の違いが象徴的に現れるのが、山括弧に入るのは何か、という問題への答え方である。永井の場合には、山括弧に入るのは、当然、「私」であり、または、それに類似した「今」である。なお、永井は、可能世界と対比した場合の現実世界も山括弧に入ると考えるが、これには青山が疑問を示している。(p.267)いずれにせよ、永井によれば、山括弧に入るものは厳しく限定される。

一方で、入不二の場合には、山括弧に入るのは何でもよい。最も広く取るなら(人称的)世界そのものである。なお、この人称的世界という捉え方は、僕が問題をわかりやすく表現するため設定したものなので、そこに何か限定されたものを感じるならば、宇宙でも何でもいい。とにかく、なんでも山括弧に入れることができる、というのが、遍在性を強調する入不二の立場である。

だから、入不二は山括弧に入るのはコップだっていい(p.47)、とも述べるが、これは、他のモノは入れず、コップだけを入れることができる、という意味ではない。コップだって、ペットボトルだって、何でも山括弧に入れることができるし、入ってしまうしかないのだ。遍在する現実性の力を限定し、選択的に用いることはできない。現実性は、ただ遍在しているのである。だから、正確には、入不二の現実論によれば、山括弧に何でも入れていいのではなく、山括弧に入るものを限定してはいけないのである。

(入不二も「「任意のものの代入」っていう言い方が、あるいはペットボトルという例が~まずい」(p.182)と言っている。)

そして、入不二が『アップデート』第2部2の青山への応答において展開する、受肉されるのは何か、という考察は、一面では、山括弧に入るのは何か、という問題を巡る考察だとも言えるだろう。入不二は、山括弧に入れるべきものについて、コップのような個物を含む具体的な何かを出発地点としつつも、志向性をキーワードに、その解像度を調節しつつ、より妥当なかたちで捉え直していくのである。

(1)-3「無内包の現実」の外と内

そして、このように二つの図を並べることで、哲学者たちが抱える問題が明らかになる。僕が『アップデート』に登場する哲学者たちに疑問を投げかけるならば次のようになる。

永井:

・点である無内包の現実(=独在性)の外に、いかにして人称的世界が描かれるのか。

入不二:

・全てであり遍在する無内包の現実(=現実性)の内に、いかにして〈私〉という特異点が 描かれるのか。また、どうして、その描かれ方が、人称的世界という描かれ方となるのか。

青山・谷口:

・永井と入不二の議論をどのように整合的に受け入れるのか。

(永井に対する僕の疑問は、『アップデート』第1部1における入不二の「一方向性」の内に含まれる「断裂」と「循環」(p.61)の問題であり、独在性は世界構成できないという指摘であるとも言える。また、入不二に対する僕の疑問については、永井も「その中心性はどこから来るのか」(p.146)と疑問を投げかけている。)

永井は、『アップデート』第Ⅱ部1において、正面から、僕の疑問に答えることを試みている。つまり、人称的世界の描き方を示してみせてくれている。

永井によれば、「独在性と超越論的構成が結合する」(p.206)ことで人称的世界を構成することができるとする。独在性とは別に、もうひとつ、超越論的構成という働きを登場させることで、人称的世界を構築するのである。つまり、偶然にも、独在性とは別に、人称的世界を構成するような超越論的な働きがあり、その働きが、偶然にも、独在性と結合して、人称的世界を構成するということである。

と書くと、ご都合主義すぎるように思えるけれど、永井は都合よく概念を導入することには抑制的であり、私と他者と物(非他者)という三種類だけの道具立てを登場させることで、力強く論証してみせる。

なお、永井がやっていることは超越論的論証だから、何か根拠があって、その三種類の道具立てから人称的世界を構成できると演繹的に論じているのではない。あくまでも、人称的世界を構成するために最低限必要なものは何か、という問題を設定している。そのうえで、人称的世界を構成するためには、少なくとも、私と他者と物(非他者)という三種類の道具立てが必要であると結論づけている。

一方の入不二は、1つ目の「いかにして〈私〉という特異点が 描かれるのか。」という問題に対しては、「〈私〉の存立は絶対的に偶然であり「謎」である」(p.243)とする。つまり、入不二の現実論では、〈私〉という特異点が生じることについて、取り扱うことができないことを素直に認めるのである。

そして、僕の入不二に対するもう一つの疑問「どうして、人称的世界という描かれ方となるのか。」という問題については、『アップデート』第Ⅱ部2前半において、青山が提案した意識という道具立てについて検討することで答えようとする。ただ、ここでも、完全な解決は目指さず、そこで生じる問題を緩和する道筋を提案するに留めている。

僕は、この入不二の姿勢に、ある種の「そっけなさ」を感じる。思うに、入不二の問題の関心は、遍在する現実性のほうにあり、その中に特異点があり人称的であることには関心がないのではないか。いわば、神の視点に立つ入不二は、人間の視点に興味がわかないのではないか、そう思ってしまう。

そして、この「そっけなさ」を推し進め、過剰なかたちで導入しようとしているのが飯盛だとも言えるだろう。飯盛は破壊を論じるが、そこで破壊しようとしているもののなかには、僕の入不二に対する疑問も含まれるはずである。〈私〉という特異点も、人称的世界も、すべて破壊し尽くすことで、僕の疑問は、破壊というかたちで応答されてしまうのである。

(『リアリティ』において、飯盛は、入不二の現実論の破壊を試みるが、それはそれで面白いのだけど、永井の独在論の破壊も見てみたかった気がする。)

『アップデート』のほうに話を戻すと、青山は、「永井と入不二の議論をどのように整合的に受け入れるのか。」という僕の疑問に、「不純物」(p.161)という言葉を用いて答える。入不二の現実性の問題を認めたうえで、更に不純物としての永井の独在性の問題に向かうという、二兎を追う最も困難な道を選ぶのである。そこで青山が用いるのが「意識」である。人称的世界がなぜこのような不可思議なかたちで存在するのか、という大問題について、意識を用いて立ち向かっていく。ただし、青山自身が真摯に認める通り、意識を持ち込むことは、謎をひとつ追加しただけとも言え、青山の議論は今後の展望を示すに留まっている。

また、谷口は、後述する入不二の潜在性と、永井の独在性とを重ね合わせたものを無内包の現実とし「無寄与性の輝き」(p.280)と表現する。これは、ウィトゲンシュタインの紙の王冠(p.276)のクオリアバージョンと言っていいだろう。そのうえで、この輝きは、表現された途端に消えてしまうという点に注目する。つまり谷口は、僕が描いたような図の上に無内包の現実を描くこと自体を拒否していることになるだろう。だが一方で、谷口は、月と池からなる図(p.289)を描いており、この図が「無寄与性の輝き」を描けているのかについて、更に論じる必要があるように思える。

(2)潜在性と現実性の重なり

先ほどの図で、問題提起しつつ、あえて踏み込まなかった問題がある。入不二の現実論における「無内包の現実」の領域は、人称的世界とぴったり重なるのか、という問題である。

僕はこの(人称的)世界という言葉に、指し示しうる最大限の領域という意味を持たせようとしている。だから、(人称的)世界という呼称がまずければ、時空的全宇宙でもなんでもいい。その指し示しうる最大の領域と、「無内包の現実」の領域は、完全に一致するのだろうか、というのが、この文章で僕が論じたい問題のひとつであり、そして、僕がこの2冊の本を読む上で重視した視点である。

だが、この問題の検討に進む前に、この僕の文章の主人公は入不二だから、この問題を、きちんと入不二の用語で捉え直したい。

入不二哲学の発見のひとつに、顕在せず、潜在していても、それを潜在性という言葉で指し示すことができる、というものがある。ただし、アリストテレスのデュナミスとエネルゲイアという言葉もあるように、入不二以前から既に「潜在」は発見されていた、とも言える。それを、やがて顕在するものとしての潜在ではなく、潜在、それ自体を潜在性として正面から捉えるという点が入不二の発見だと僕は考えている。

または、入不二は、既に発見されていた「潜在」を突き詰め、純粋潜在性を発見したと言ってもいい。デュナミスとエネルゲイアの関係で言えば、潜在した種は、木として顕在し、薄いガラスでできた割れやすさを潜在したグラスは、割れるというかたちで顕在することになるが、このような意味での「潜在」は、木や割れたグラスとしてしか顕在化できない。入不二は、そのような特定の顕在の仕方と結びついた潜在は浅い潜在であり、より深い潜在があると考える。そして最深の潜在性として、どのようなかたちにでも無限に顕在できる力を秘めた、純粋潜在性があるとする。だから、純粋潜在性は、無限の内包を秘めているという意味で、無限内包とも言われる。(これは、内包が無いという意味での無内包に対比した言葉である。)

そして入不二は、潜在性について、チャンクという言葉や、海の比喩を用いて、自然科学的な意味から離れた特殊な意味での、ある種の物質(マテリアル)として描写する。

なぜ、潜在性がマテリアルなのかといえば、入不二にとって、もう一つの重要概念である現実性が力だからである。入不二は、自らの現実論を、力としての現実性とマテリアルとしての潜在性の二元論であるとするが、この二元論とは、遍在する力と、その力の受け手としてのマテリアル、という関係性で成立している二元論であるとも言える。

さて、長々と入不二哲学を僕の言葉で説明してしまったが、なぜ、このような説明をしたかといえば、この文章で僕が問題にしている全体、つまり先ほどの図における人称的世界という領域とは、つまり潜在性の領域であると僕は考えるからである。

先ほど僕は、(人称的)世界という言葉を使ったけれど、本当に表現したかったのは、つまり指し示しうる最大の領域のことであり、人称的世界という言葉に限定性が感じられてしまうならば、時空的全宇宙でも何でもいいと言った。だが、入不二哲学を経由した今、世界や宇宙という言葉では、そこに含まれる、顕在している世界・宇宙というニュアンスが限定性を帯びてしまうだろう。顕在しているか潜在しているかに関わらないという意味での真の全体とは、潜在性の領域という言葉が相応しいのである。だから、この最大の領域は潜在性の領域なのである。

ようやく、僕の問題を提示する準備が整った。僕の問題とは、入不二の現実論における「無内包の現実」の領域は、この潜在性の領域とぴったり重なるのか、という問題である。繰り返しになるが、入不二哲学によれば、無内包の現実とは、光にも喩えられるような、遍在する力としての現実性のことである。この力としての現実性の領域と、マテリアルとしての潜在性の領域は完全に重なるのだろうか。もし完全に重ならないならば、潜在性の領域をはみ出した、現実性の力だけが及んでいる領域があるということになる。そのような事態がありうるのだろうか。これが僕の問題提起である。

以上を踏まえ、改めて問い直したい。力としての現実性が作用する領域は、マテリアルとしての潜在性の領域に限定されるのだろうか。

この問いに対する答えは二通りあるだろう。限定されるという答えと、限定されないという答えである。図に示すと以下のようになる。

なお、入不二は、この問題について、答えを保留しており、例えば「離存するとまでは思っていない」(p.47)という言い方をしている一方で、「離存・分離に含みを残す」(p.48)ともしている。離存しないならば現実論①となり、離存するならば現実論②である。

(2)-2 外部からの破壊

なぜ、この問題が重要なのかといえば、入不二の現実論に対する外部をどのように設定できるか、という問題につながるからである。その問題を検討しているのが、飯盛である。

『リアリティ』において、飯盛は破壊をキーワードとして議論を進めるなかで、入不二の現実論を破壊の俎上に乗せ、破壊を試みる。

飯盛の破壊論の僕なりの理解によるならば、飯盛の破壊が入不二への有効打となるためには、飯盛は、入不二の議論の外部を見出さなければならない。なぜなら、飯盛の破壊とは、外部からの問答無用の暴力的な力だからである。入不二を倒すためには、飯盛は、入不二のリーチの外から、現実論を殴らなければいけないのである。

飯盛は、入不二の(『現実と実在と潜在と』の)議論において最も興味深いのは、「海」モデルである、(p.55)としているが、これはつまり、飯盛は、入不二の現実論のうち、潜在性に着目した捉え方を選択したということである。そして「現実性と潜在性が一体となった海」(p.57)とも述べるとおり、海にも喩えられる潜在性の領域に限定される力として現実性を捉え、潜在性の領域と現実性の領域を重ね書きしている。つまり飯盛は、先ほどの図ならば、入不二の現実論①のような捉え方をしたうえで、その外部からの破壊を試みるのである。

その試みのなかで提示される破壊論には、入不二哲学的にも重要な指摘が含まれていると僕は思うけれど、その話は後でするとして、僕は、入不二の現実論②のような捉え方をしたうえで、別のかたちでの破壊を試みるアプローチも可能だと思う。つまり、入不二の現実論の全く外部ではなく、現実性の作用域内から、潜在性のみを破壊するというやり方である。

これは、破壊としての純度は下がるものの、入不二の現実性の力を破壊に用いることができるという点で破壊の難易度は下がるはずだ。そのような破壊の余地があるかどうかに大きく関わることから、現実論①のように、現実性と潜在性を完全に重ね書きするのか、それとも現実論②のように、現実性と潜在性とにずれがあると捉えるのかは大きな問題となるのである。

蛇足

入不二哲学において、潜在性には、ここで述べたようなマテリアルとしての潜在性とは別に、もうひとつ重要な側面がある。それは、「現実性の力は、隠れてはいないのに最も潜在的である」(アップデートp.24)と描写されるような、現実性の力の潜在性である。

マテリアルとしての潜在性と、力としての現実性が持つ潜在性という、入不二哲学に登場する二つの潜在性は、全く異なるけれど、全く関係がないとも思えない。

僕はこれ以上、この問題について議論を進められないけれど、ちょっと思いついたのは、この描写は、入不二の現実論①のように、現実性と潜在性とを完全に重ね合わせるような描写と相性が良さそうだ、ということである。もし、現実論②のように潜在性の領域の外に現実性の力が及んでいるとしたら、そのはみ出した力には、「現実性の力は、隠れてはいないのに最も潜在的である」という描写は成立しないように思えるからである。

(3)顕在に対する潜在の優位

前節において僕は、全体を描くために、とりあえず(人称的)世界と呼んだものを、潜在性の領域として捉え直した。そして、全体とは潜在性の領域であるとした。だが、この捉え直しの作業を行うためには、実は、入不二が明確に言っていないけれど、僕が入不二哲学のなかに勝手に読み込んでいることが前提となっている。それは、全体としての潜在性の領域には顕在も含まれており、顕在に対して潜在が優位しているということである。

普通に考えるならば、種や割れやすいグラスに含まれる潜在性と、木や割れたグラスに含まれる顕在性は同程度に重要である。あるいは、一般的には、種の潜在したデュナミスよりも木として顕在化したエネルゲイアのほうが優位であると考えるものかもしれない。

だが、入不二は、潜在性を無限内包のマテリアルである純粋潜在性として純化することで、その関係性を逆転させ、潜在は顕在より優位であることを発見した、と僕は考えている。

なぜなら、木や割れたグラスといった顕在したモノたちはマテリアルであるが、そのマテリアル性はマテリアルとしての純粋潜在性から供給されているからである。無限内包のマテリアルとしての純粋潜在性が、偶然にもある特定の内包で発現して顕在化したものが木や割れたグラスだと考えるならば、顕在化したモノたちは純粋潜在性の一形態にすぎないとさえ言えるのではないだろうか。

だから、僕が全体として捉えた潜在性の領域とは、つまり、顕在を包含した、マテリアルとしての純粋潜在性の領域なのである。

なお、一般的には潜在した種よりも顕在した木のほうが重要であるように思えるのは、潜在性のなかには顕在が欠けているからだろう。当然、純粋潜在性とは無限内包であり、あらゆる内包で顕在する能力を秘めてはいるけれど、その能力を現に発現し、顕在化する力を秘めてはいない。潜在性から発現し顕在化するためには、潜在性に加えて、そこには、プラスアルファで何かが必要であり、潜在性には何かが欠けているのである。その欠落があるから、一般的には、潜在した種よりも顕在した木のほうが重要であり、デュナミスよりエネルゲイアが優位と考えられているのであろう。

 

先ほど描いた永井の独在論と入不二の現実論の比較の図を眺め直すことで、純粋潜在性に欠けている何かを捉えることができる。

その欠けている何かとは、全体に付け加えて描かれているものであり、つまり、入不二の現実論によれば特異点であり、永井の独在論によれば、無内包の現実とも呼ばれる、〈私〉の独在性である。そして入不二は、特異点と独在性との接続を受け入れていることを踏まえるならば、純粋潜在性に欠けている何かとは、つまり特異点としての独在性なのである。そうだとするならば、純粋潜在性に特異点としての独在性が加わることで、木や割れたグラスが顕在化するということになる。

つまり正確には、この図に特異点を描き入れることも含めることで、ようやく、人称的世界の、(顕在も含めた)潜在性の領域としての捉え直しは、妥当なものとなるのである。

(3)-2 特異点

そして、どのようにして純粋潜在性に特異点としての独在性が付け加わるのかについても、既に入不二は論じていると解釈できる。論じているのは、入不二の主著と言ってもいいだろう『現実性の問題』の円環モデルにおいて、始発点にはギャップがあるとしている箇所である。(第1章)

円環モデルについては『現実性の問題』を読んでいただくとして、僕の解釈で表現するならば、このギャップとは、純粋潜在性から、何かが顕在化するという意味での始発点に至るプロセスにおける断絶と断絶の飛躍のことである。完全に凪ぎ、すべて潜在している状況では、何かが顕在化するきっかけはない。そこには純粋潜在性の側から見れば絶対的な断絶がある。それにも関わらず、その断絶はなぜか飛躍により乗り越えられ、何かが顕在化している。その顕在化するものが何か、その飛躍の仕組みがどうなっているかはともかくとして、この顕在した世界を見渡せば、純粋潜在性から顕在化が既に達成されていることは明らかだろう。

この飛躍の仕組みについて考えると、まず、純粋潜在性だけでは足りないことは明らかである。飛躍のためには、純粋潜在性に対して、何かを付け加えなければならない。そして、その何かとは特異点としての独在性である。

と言っても、入不二によれば独在性とは謎だから、そのような言葉を足しても、謎により謎に答えたことにしかならず、問題は解決しない。だが、問題の整理には意味があるだろう。

整理するならば、このギャップは、純粋潜在性に対して、全くの謎としての独在性を偶然的に付け加えることで乗り越えることができ、何かが顕在化する特異点としての始発点に至ることができるのである。

以上のような表現をすることで、特異点という言葉が、より、入不二哲学に似合うものとなるような気がする。入不二は、現実性は、私や今以外にも、コップのようなモノにも及んでいると主張する。そのうえで、私や今は、そのなかでも特異点であると主張する。

だが、僕の考えでは、コップも、木も、割れたグラスも、それがそのように顕在化しているという意味での特異点なのである。なぜなら、コップであれ何であれ、それが顕在化しているということは、円環モデルのギャップを奇跡的に乗り越え、顕在化したという意味での特異点に至っているはずだからである。

だから僕は、入不二は私が特異点であることを認めるけれど、だからといって、コップが特異点でないとは言っていないと解釈したい。入不二はきっと、私とコップでは、特異点としてのレベルが異なるというくらいに考えているのではないだろうか。(それでも、そのレベルの違いは何に由来するのか、という問題は生じるけれど。)そして、その特異点の顕在化は、それが私であれコップであれ、すべて、独在性の付加による円環モデルのギャップの乗り越えというかたちで説明できるということなのではないだろうか。

独在性というとどうしても永井哲学に引っ張られてしまうけれど、ここまでの議論を踏まえ、私とコップの差はないと考えるならば、独在性とは特異点性であり、特異点性とは顕在性である、と捉えてもよいと思う。

以上は、このように理解することで、永井哲学から入不二哲学を引き剥がし、入不二哲学の理解を促進できる、という僕からの提案である。

ここで重要なのは、入不二は、このようには言っていないということである。なぜ、入不二が言っていないかというと、きっと、入不二哲学において、僕が提示したこの解釈は最終的な到達点ではないからだろう。僕の提案に沿うことで、きっと入不二哲学の途中までは理解を進めることができる。だが、そこから先に進むためには、この理解のあり方を捨て去らなければならない。そのような意味で、ここで僕が述べたことは、あくまで理解の補助線なのである。

(3)-3 実在と潜在

僕が描いた補助線が入不二哲学の中途までのものだとするならば、その先で、入不二がどのように考えているかを垣間見てみたい。

そのためには、実在と潜在の関係を考えてみるのがいいだろう。入不二は『リアリティ』において、「実在と潜在」の重なりとずれについて読者自ら考察することを提案している。(p.25)それをやってみるのだ。

この視点から考えてみると、先ほど僕がやったことは、実在と潜在を、潜在を優位するかたちで重ね合わせるという作業であったとも言える。実在性に、潜在性を優位させるかたちで重ね合わせると、実在性のほとんどすべてが潜在性に取り込まれてしまい、そこには出がらしのような顕在性だけが残ることになる。前二節では、その出がらしについて考察したとも言える。

(出がらしとは、かっこいい言葉を使うならば、「減算」である。『アップデート』においては減算という言葉が人気を集めているが、この言葉には、なんとなく出がらし感がある。)

だが、入不二の提案に沿い、実在と潜在を並列的に捉えるならば、逆に、潜在性より実在性を優位させるかたちで重ね合わせることもできるはずだろう。そうすると、(そのプロセスは詳述しないけれど、)きっと、潜在性が持っていたマテリアル性は、実在性のほうから供給されることとなり、潜在性とは、マテリアル性を持たない影のような概念となるだろう。(きちんと考えきれていない、単なる思いつきだけど、それはきっと、可能性と呼ばれるような気がする。)

このような僕の考察が正しいかどうかはともかく、重要なのは、先ほど僕が描いた潜在性優位の描写と並列に、実在性優位の描写も可能であり、少なくとも入不二はそこを見据えているということである。入不二流に述べるならば、「潜在は実在し、実在は潜在している」とでも表現したくなる、ねじれた関係がそこにあるはずなのである。入不二哲学の射程にはまだまだ先があるのだ。

だが、あえて僕が潜在性優位の描写を重視したのは、そちらのほうが僕は好きだからである。そして、このことは、僕が永井哲学よりも入不二哲学のほうが好きだという好みの問題とつながっている気がする。つまり、僕には、潜在性優位の入不二哲学と、実在性優位の永井哲学という関係性があるように思えるのである。

蛇足

潜在性優位の入不二哲学と、実在性優位の永井哲学という関係性を更に広げると、

入不二哲学=潜在性優位=実在論

永井哲学=実在性優位=反実在論

という関係性があるように思える。

入不二は、『リアリティ』において「こちらからあちらへと向かう」ベクトルと、「そこからこちらへと働きかけてくる」ベクトルの対比というかたちで、「反実在論的な実在の捉え方」と「実在論的な実在の捉え方」の対比を行う。(pp.7-8)

こちらとは私の独在性であり、あちらとはモノ、つまりマテリアルの潜在性と捉えるならば、あちらの入不二哲学とこちらの永井哲学という対比は、実在論と反実在論という対比と親和性がありそうに思える。

(4)存在論と認識論と意味論

さて、新たな補助線を引くこととしよう。この2冊の本では明示的に示されていないものの、入不二と永井の間で、共通に用いられているだろう議論の枠組みがある。それは、存在論・認識論・意味論という議論の仕方の区分である。

例えば、入不二は『アップデート』の冒頭で実在の落差について論ずるなかで、「意味・存在・認識」(p.3)という区分を用いる。これらは、言葉の意味、対象の存在、知覚による認識といった常識的な意味で理解することができる。

だが、議論がせり上がるにつれ、この3つの議論領域は、そのうちの認識論の領域が拡大するかたちで変容していく。なぜなら、言葉の意味も、対象の存在も、それを具体例とするためには知覚による認識が必要だからである。

例えば、黄金の島という言葉が黄金の島を意味するのは、それが黄金の島であるという認識を伴ったものだからである。また、黄金の島の存在の仕方について、実はその一部が銅でできていたと気づくことができるのは、そのことを知覚で認識したからである。

こうして、「よく考えてみれば、たいていのことは認識論である」ことになるため、存在論・認識論・意味論の区分は、認識論が存在論・意味論の領域を侵食していくかたちで変容していくのである。

それでも意味論については、もともとの言葉の意味という素朴な理解から離れても、言語が使用できるということ自体を指す概念として固有の意義を保持できるだろう。つまり、意味論とは、個別具体的な認識から離れ、ただ言語使用が成立することだけを認めた場合、そこからどのような知見を引き出すことができるのか、という議論であると読み替えることができるのである。そのような言葉遣いは一般的ではないけれど、議論がせり上がったとき、意味論について、そのように読むと理解がしやすい場面もあると思う。

(例えば、後述する青山の意識と永井の言語の対立において、永井が行う主張を理解するときは、永井はこのような意味論を論じていると捉えれば理解しやすいと思う。また、青山が物理主義について述べる際の「どこから見たのでもない」(p.170)という言葉は、ここで僕が述べたいことを上手く掬い取っているように思う。認識論とこのような意味での意味論が強固に結合し、存在論を排したものが物理主義であるとも言えるからである。)

つまり、ある程度議論がせりあがったところにおける意味論とは、言語を使用する主体間における、間主観的で客観的な世界が前提となった議論のことなのである。

(あくまで素人のイメージだけど、言語哲学とは、このようなものとしての意味論のことを指すように思う。)

こうして意味論については何とか積極的な定義ができたが、存在論については、議論がある程度せり上がったところでは「存在論とは認識論でも意味論でもない領域についての議論である。」というような消極的な定義しかできなくなる。なぜなら、普通に考えたら、存在という概念自体、存在を認識するか、存在を意味するか、のいずれかによってしか迫ることができないからである。

そして、この2冊の本に登場するすべての哲学者たちが行っているのは、具体的な認識や、間主観的で客観的な捉え方では回収しきれないという意味で、広義の存在論だと言っていいだろう。

なお、永井ならば、自分がやっているのは存在論ではなく独在論だと言うだろうし、入不二ならば、存在論ではなく現実論だと言うかもしれない。だが、彼らがやっているのは、認識論でも意味論でもないという意味で、広義の存在論であるのは明らかだろう。ただ、日常的に用いられる存在という言葉が、すでに認識と意味を混入させてしまっているから、認識論でも意味論でも捉えられないものを捉えようとしている彼らにとって、存在論という言葉が不適切なだけである。

(4)-2 自然と形而上

存在論の話に関係して、僕が『アップデート』を読んで感銘を受けたのが、永井の筋の通し方だ。永井は、極めて自然学的なのである。『アップデート』の質疑応答において、永井は自分を唯物論に親和的(p.174)と言っていたけれど、これは、形而上学的なものを導入しないという意味であり、自然学的と解釈してもいいと思う。

(自然学という言葉は、入不二が、形而上学に対して「自然学」(リアリティp.23)という言葉を用いていることによる。青山の「経験主義」(p.80)、物理主義(p.84)も同様の方向性を持つ言葉であると思われる。)

なぜ、この話が存在論に関係するかというと、自然学的とは、つまり、観察できる認識を用いた認識論と、客観化された言語を用いた意味論とを超えたものを極力用いないことだからである。つまり永井は、一貫して、認識論でも意味論でもない、存在論に固有の議論を極力用いないという意味での自然学的立場を採用しているのである。そして、永井が慎重に避けている認識や言語から離れた存在論に固有の議論とは、形而上学のことである。

つまり、認識論、意味論、存在論という区分に加え、認識論と意味論が重要な役割を果たす自然学と、認識論と意味論が及ばない形而上学という区分があり、形而上学とはつまり議論がせり上がったところにおける広義の存在論のことでなのである。

そのうえで、永井は、自らを自然学者であり、かつ非形而上学者であると捉えていることになる。

実は僕は、『アップデート』を読むまで、永井のことを誤解していた。これまでの僕は、永井は、自然学的領域を経由し、積極的に形而上学的領域に向かおうとしていると思っていた。だけど今の僕には、永井は、気を抜けば形而上学的領域に逃げてしまう〈私〉の独在性を、なんとか自然学的領域で捉えようと、もがいて、楽しんでいるように見える。

一方の入不二は、積極的に形而上学的領域に足を踏み込む。形而上学的領域では、五感を通じた認識や、言語を通じて構築された客観的世界を用いることはできないから、そこで用いることができるのは、専ら概念操作となる。入不二は、当然、出発地点では、認識や言語から概念を作り上げるものの、その概念を他の概念と衝突させ、変化させ、純化させていくことで、形而上学的領域に踏み込んでいく。これが形而上学的な探求の態度であると言えるだろう。(このようなやり方を好むかどうかが入不二ファンになるかどうかの試金石だと思う。)

自然学者永井と形而上学者入不二の違いが大きく現れるのが、無内包の現実の捉え方である。永井は、私には無内包の現実があるが、他者には無内包の現実がないという、比較可能で明瞭に認識できる事実を通じて、無内包の現実を捉える。一方で入不二は、すべてに無内包の現実が及んでいるという、概念操作の美しさを通じて、無内包の現実を捉える。

永井の無内包の現実は、認識・言葉により把握できるが、概念としてはいびつで歪んでいる。入不二の無内包の現実は、概念としては美しいが、認識・言葉により把握できない。このように、認識論と意味論から離れた存在論固有の領域を最小限にとどめようとする永井と、それを形而上学的領域として積極的に引き受けようとする入不二という対比があるのである。

ヨコ問題の重要性・潜在性の否定

永井を自然学者と見做すことで、僕は、永井をよりクリアに捉えられるようになった気がする。

正直、これまで僕は、どうして永井がヨコ問題にこだわるのかがよくわからなかった。

永井は独在性に関するタテ問題とヨコ問題とを区別し、自分自身の内面で私の独在性を掘り下げていくような問題設定としてのタテ問題と、数多くの他者なかで自分だけが独在性を有する特殊な存在であるという問題設定としてのヨコ問題があるとする。そのうえで、永井はヨコ問題を重視する。

これまで僕はなんとなく、ヨコ問題というのは入り口であって、そこからタテに掘り下げていくことこそが哲学である、という感じがしていた。なぜなら、タテのほうが哲学的な深みがありそうだからである。(ヨコ問題の尊重されなさは、僕だけの傾向ではないと思う。『アップデート』でも永井が、誰もヨコ問題に触れていないと指摘している。(p.137))

だが、永井の考えはそうではない。永井は自然学者だから、認識と言葉により捉えることができる、自分と他者の違いこそが全てなのだ。他者のなかで、自分だけが明らかに全く異なるあり方で存在しているということは、明確に認識と言葉により十二分に把握できることであり、そこには、何ら形而上学的な含意はない。この認識と言葉により把握できることを問題とするヨコ問題こそが永井にとっての最重要課題なのである。当然、そこから、永井は、累進構造等によりタテに掘り下げ、タテ問題も取り扱うけれど、それは、ヨコ問題について考えるために必要な限りでの議論でしかない。

そして、そこから、永井が、入不二のマイナス内包、つまり潜在性を拒否する理由も明らかになる。潜在性というのは明らかに形而上学の領域に属する(少なくとも片足をつっこんでいる)問題であり、永井からすれば、自然学的な領域では使う必要がない概念装置である。だから、永井に関係ないところ、つまり形而上学的な領域で、入不二が勝手に潜在性を用いた議論をすることは一向に構わないけれど、永井の自然学的な独在論においては、潜在性は端的に不要なのである。だから正確には、永井は、マイナス内包、つまり潜在性を否定しているのではなく、ただ無視しているとも言える。

なお、この自然学と形而上学の領域の違いは、入不二の潜在性がマテリアルであるということとも関わっていると思う。入不二の現実論は、潜在性と力としての現実性の二元論であるが、それが形而上学的だからといっても、どこかで自然学との接点は必要である。その接点を持たせるために入不二は、潜在性に何らかのマテリアル性を持たせているとも言える。その意味では、潜在性がマテリアルであるということは、つまり、潜在性とは現実性の力の「担い手性」であるとも言えるのかもしれない。この潜在性の「担い手性」により、形而上学的な入不二の現実論は、かろうじて自然学と結びついているのである。

ちょっと脱線してしまったけれど、ここで重要なのは、形而上学者入不二、自然学者永井という立ち位置を確認することである。

もしかしたら、このことは、多くの永井ファンが当然のように知っていたことかもしれない。だけど、僕自身が形而上学的な傾向を持っているからから、僕は、永井が自然学へのこだわりがあることを、掴めていなかったのだ。だから、この節で僕が述べたことは、僕のように形而上学な傾向を持っている、少数の方にしか役に立たないかもしれない。

(4)-3 言語と意識

先ほど僕は、永井と入不二に共通の議論構造として、存在論・認識論・意味論があるとしたけれど、このうち、認識論と意味論に着目すると青山と永井の対比が見えてくる。

青山は、人称的世界の構築にあたっては、意識こそが重要な役割を果たしていると指摘する。意識には〈私〉の独在性を作り上げる力まではないが、〈私〉の独在性が、人称的世界に受肉し、位置づけられるためには、意識を介在させる必要があると考えるのである。つまり、青山によれば、人称的世界が成立するためには、独在性に加えて、意識という特別なものがもうひとつ必要なのである。

正直、僕は、青山が「意識」を持ち出すことに唐突さを感じたが、意識を認識と読み替えることで、その唐突さは多少和らぐように思える。意識というと、「生まれてから死ぬまでの人生を通じて体験する無数の認識を統合する装置」のような大げさな印象があるが、どうも青山が言う意識とはそのようなものではないように思えるからだ。青山における意識とは、ほぼ、個別の認識として理解可能であり、少なくとも、複数の認識の統合という側面は前面化していない。だから、青山が重視しているのは、意識というより、さきほどの、存在論・認識論・意味論という区分において登場した、認識のことであると考えてよさそうに思える。

そうだとするならば、青山の主張は、人称的世界について議論するうえでは認識論が重要となる、という極めて真っ当な主張として理解することができる。

そして、青山が意識の重要性を持ち出して批判しているのは、言語により人称的世界が構築できるとする永井の考えであり、つまり青山は、永井の議論が意味論的にすぎると批判していることになる。

こうして、存在論、認識論、意味論という区別に基づくならば、青山と永井の対立とは、認識論と意味論の対立であり、青山と永井は、自らの存在論をやっていくうえで、認識論と意味論のどちらを重視すべきかの論争を繰り広げている、ということになる。当然、そんなに事態は単純な話ではないけれど、このような描写は議論の方向性を掴むうえでのおおまかな補助線とはなるだろう。

なお、議論の中身に立ち入ると、永井が受け入れていないのは、青山が用いる、意識という装置のほうであり、認識そのものを重視するという青山の基本的な方向性との対立はないように思える。だから、違いはあっても、それは認識論と意味論のどちらを優位に置くかという違いであり、二つの議論を使って、無内包の現実についての存在論をやっていく、という大きな方向性は一致しているように思える。このような理解が正しければ、『アップデート』第二部で二人がやっているのは、師匠と弟子による幸せな共同作業であるように僕には思える。

永井のアイディア

意識(認識)VS言語の正面対決という点で、『アップデート』第二部における、二人の議論(そこに入不二も絡んだ三人の議論)は読んでいて楽しい。永井VS入不二のような、そもそもの議論の土俵の設定にずれがある異種格闘技も面白いのだけど、土俵を共有した永井VS青山の正面対決には、プロボクサー同士のボクシングを観戦するような、独特の楽しさがあるのだ。

青山は、「では、永井先生が言うとおり、言語だけでどこまでいけるかやってみましょう。」と言い、論じる。(言ってないけれど。)

それに対して永井は、「では、意識が必要だという青山くんの主張が、何を意味しているのかを考えてみましょう。」と言い、論じる。(言ってないけれど。)

どちらの議論も面白いのだけど、青山の議論については(僕の読解はかなり偏ったものなので)あとに回すことにして、まずは永井の議論を取り上げたい。

ここで展開される永井の発想は、柔軟で、斬新で、とても魅力的だ。永井は、青山が指摘するような問題が、問題として成立するためにどのような構造が必要なのかを超越論的に論じるのである。青山が提示した問題をそのまま掘り下げるのではなく、その手前を考えるという着眼点こそが、永井が一流の哲学者であることの証左なのだろう。

そして、永井は、私と他者と物(非他者)という三種類の道具立てだけで、青山が提示した問題を超越論的に構成できることを示す。(二種類でも四種類でもなく三種類であることの根拠までは永井は示していないけれど、三種類だけでここまで説得力がある説明ができる、という鮮やかさだけで、僕はこのまま受け入れたくなってしまう。)

そして、永井は、私と他者と物(非他者)という三種類の道具立ては、規則によって作り上げられていると考える。(「外界のあり方と並んで、~他者のあり方をも、その規則によって~いっきに作り出している~」(p.196))

これは、つまり、永井は、もともと人称的世界があるのではなく、まず規則があり、規則によって私と他者と物(非他者)が作り上げられ、それが、人称的世界を構成していると考えている、ということである。

僕は、永井がここまで規則を重視していることに驚いた。永井は、規則を規約とも呼ぶけれど、規則(規約)により人称的世界を構成するということは、つまり、永井は人称的世界の非実在論を採っているということになる。そのことが僕には意外だったのだ。

てっきり僕は、永井は、この人称的世界が実在することに驚き、その驚きから彼の哲学を組み立てていると思っていた。だけど、どうも、そうではないようなのだ。確かにそう考えると、永井の最近の議論がわかりやすくなる。

例えば、永井は『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』において、個々のものは必ず多くの一般的な性質を持っており、そのもの自身も何かの一例である、という「ものごとの理解の基本形式」(p.107)を提示したうえで、「私」「今」はその例外であると論じる。これは僕が好きな部分なのだけど、今回、更に理解が深まった。永井にとって重要なのは、「私」や「今」は「ものごとの理解の基本形式」に「乗っかっていない」という点にあるのではなく、「乗っかっていないのに、極めて容易に(認識論的に)理解できてしまう」という点にあるのだ。自然学者永井にとって、独在性とは、手が届かない謎ではなく、容易に手が届いてしまう謎なのである。そして、だからこそ重要な問題なのである。

また、永井は森岡との共著『〈私〉をめぐる対決』において、〈私〉への驚きを強調する森岡に批判的であり、独在性を「直接的・実質的に理解することも、形式的・概念的に理解することもでき」(p.272)るとも述べ、独在性を把握するうえでの二つの道筋に優劣をつけない。僕はてっきり、そうは言っても、直接的・実質的理解が優位のはずだと思い込んでいたけれど、永井の議論はどうしても、そうは読めない。その違和感がようやく解消した気がする。

ここでの形式的・概念的な理解とは、『アップデート』における、規則(規約)による人称的世界の構成のことであり、つまり、永井は、まず、規則(規約)つまり言語・概念があり、そこから、事後的に人称的世界が構成されても、一向に構わないと、比喩でもなんでもなく、本気で考えているのである。

つまり、永井にとって重要なのは、無内包の現実(独在性)と、規則(規約)=言語・概念(他に、カテゴリーや可能世界という別名も使っている)の二つだけであり、永井によれば、この二つが何故かあり、何故かこの二つが重なっていることに、すべての謎が集約されている、ということになる。

意識つまり認識論を重視する青山に対する、言語つまり意味論を重視する永井の反論はこうして完遂されたことになる。そのように考えると、永井と青山の対立は、意味論と認識論の対立であると同時に、非実在論と実在論の対立とも読めるように思う。

入不二のアイディア

ここまでの議論に、入不二の『アップデート』第Ⅰ部1の議論を絡ませることもできるだろう。永井は〈私〉から実在世界へと向かう道筋には、行くことはできても戻ることはできないという意味での「一方向性」があると指摘した。しかし入不二は、〈私〉から実在世界へと向かう道筋には、断裂と循環があり、行くことすら完遂できないと指摘する。

この実在世界とは、つまり僕が、人称的世界と呼ぶもののことだと考えるならば、入不二は、永井の独在性だけでは、人称的世界を構成できないと論じたことになる。ここまでの議論を踏まえるならば、確かにそのとおりで、だからこそ、独在性とは別に、青山は意識を持ち出し、そして、永井は規則、つまり言語を持ち出したのである。そのようなかたちで、三人の議論は整合している。(例えば、永井は「なぜ構成できる力があるかといえば、「人称」というカテゴリーがその力を持つのだ」(p.144)、「独在的自己、すなわち〈私〉は、ただそれだけで存在していても-存在しうるではあろうが-存在していることがわからないであろう。」(p.206)と述べている。)

また、入不二は、『アップデート』第Ⅱ部2において、「再帰的な意識」に着目する。この議論自体がとても面白いので是非読んでいただきたいが、ここでの議論を踏まえるならば、入不二は「再帰的な意識」を持ち出すことで、意識(つまり認識)を認識論的に突き詰めて捉えるという作業をしたとも言える。入不二はこの作業を通じて、認識を認識論的に突き詰め、その限界を探り、認識だけではやっていけない限界、つまり、言語の助けが必要になる臨界点があることを明らかにしたとも言えるのではないか。

そのことに対比するならば、『アップデート』第Ⅱ部3において青山がやったことも、言語について、意味論的に突き詰めることで、言語だけではやっていない限界、つまり、認識(意識)の助けが必要になる臨界点を明らかにしたとも言える。

青山のアイディア

なお、この青山の『アップデート』第Ⅱ部3の議論は、この文章の流れから外れてしまうけれど、僕自身の哲学的関心において、非常に興味深かった。

青山の議論とは、要は、意味論(言語)だけでは足りず、認識論(意識)の助けが必要だということを示そうとした議論だとも言えるけれど、その助けの要り方が面白かったのだ。

青山は、永井の累進構造を文の理解の場面に適用する。(p.257)『「S」は真である』という文を「S」は真であると理解するためには、階層のギャップがあり、そのギャップを補う何かが必要なのである。そして青山はそこには意識が必要であると考えている。

後ほど改めて論じるつもりだけど、僕は、階層構造をX1+α=X2という式で表現できると考えている。この式に代入するならば、青山の主張は、つまり、

X1(『「S」は真である』)+α(意識)=X2(「S」は真である)となる。『』がX1とX2の階層の違いを意味し、そのギャップを補うのが意識である、という描写である。

そして、ここで青山が用いる意識とは、僕の理解では、認識論と読み替えても支障がない。つまり『「S」は真である』という文から、「S」は真であるという事態が導かれるためには、そこに、知覚可能な認識が介在することが必要なのである。

僕は、以前、この介在する知覚可能な認識のことを「真の実感」と名付け、論じたことがある。

(『永井と入不二の相克』1(3)https://dialogue.135.jp/2022/07/18/sokoku/

ちょっとおこがましいけれど、僕には、この僕の議論と、青山の議論とは、とても似ているように思える。僕が考えていたことを、青山が高い解像度で捉え直してくれたことが、哲学的に興味深く、そして正直、孤独が癒やされたような気がして嬉しい。

ただし、青山の議論において忘れてはならない重要な点は、ギャップを補うのに「真の実感」だけでは足りないということである。当然、青山は「真の実感」などという言葉を使わないので、意識という言葉を使ったうえで「意識の現象的な内包が、能動的かつ構成的な仕方で独在性を作り出すことはない」(p.270)と言っている。「真の実感」や「意識」では足りないどころではない。もしかしたら、そのようなものとは全然関係ない独在性こそが「X1+α=X2」の階層のギャップを埋めるαかもしれず、独在性と「真の実感」や「意識」との関係は永遠の謎かもしれないのである。

あくまでも大問題は独在性であり、いわば副次的な議論領域においてのみ、独在性を離れた「真の実感」や「意識」の議論の面白さがあるという点については忘れてはならない。

蛇足

きっと、青山の「意識」と僕の「真の実感」は、同じものを指してはいない。青山の場合には、複数の認識が意識というかたちで統合される構造を無視できない一方で、僕の場合には、どこまでも一回限りの認識が持つ「真の実感」という内包に着目している。

そこには、複数性を認めるかどうかという、僕と青山の時間論上の問題意識の違いがあるように思う。僕は、複数性を導入することに対して拒否感があり、安易に複数の認識を俯瞰的に眺める視点を獲得してしまったら、本当に捉えたい哲学上の課題が未解決のまま飛び越えられてしまうという問題意識がある。僕は複数性の前を知りたいのだ。

なお、一回限りの認識がどのように意識が持つ二面性(p.94)を備えるかについては、「主体が客体を認識する」といういわば認識の文法があることが関わっていると思う。僕がネコを見るとき、僕はネコを認識するだけでなく、ネコを見る僕自身のことも認識している。僕は、僕自身を認識せず、ネコだけを認識することはできない。このように、認識とは、客体の認識であるとともに主体の認識なのである。この認識の二面性と青山の二面性の問題とは深く関わっていると思う。

僕は「主体が客体を認識する」ことに着目したが、永井は、「〈主-客〉以前に〈自-他〉という対比を度外視しては論ずることはできない。」(p.208)と注意を促す。それはそうなのだが、だからと言って主客が問題にならないということではないだろう。永井がここで述べたかったのは、〈自-他〉で捉えられる独在性の問題が、なぜか偶然的に、〈主-客〉で捉えられる言語(カテゴリー)の問題と結びつき、〈私〉の問題を作り上げているということなのではないだろうか。そして、同じことが、〈主-客〉で捉えられる認識(意識)についても言えるのではないだろうか。

(5)累進構造

永井の独在論において重要な役割を果たすのが累進構造である。これまで、永井は「私」と「今」を用いて累進構造を描いてきたから、何となく僕は、累進構造とは、「私」と「今」に特有のものだろうと思っていた。だけど、『アップデート』第Ⅱ部3において、青山が、文を理解する場面においても累進構造を見出した(p.257)ことから、累進構造が持つ意味がより明瞭になったように思える。

永井の独在性の問題設定を離れるならば、累進構造とは、先ほどの X1+α=X2 という式で表すことができるだろう。Xが「私」であれば、X1という私とX2という上位の私の間には、αという独在性に由来する差がある、ということを意味する。

そして、永井は、累進構造を昇る動作を無限に繰り返すことで、上昇そのものを純化して捉えようとした。こうして、永井はα、つまり独在性を純化して取り出そうとしたのである。

(と書いたけれど、これは実は入不二流の永井解釈だろう。入不二は、かつて永井自身がそう述べたことを根拠に「〈私〉へと至らんとするルートは「無限の否定性」を特徴として持ちます」(p.67)と指摘する。この無限とは、つまり累進構造の無限である。だが、永井はそれを否定する。(pp.144-145)これはつまり、累進構造はどこかで現に私であるという無内包の現実性により打ち止めになるということである。よって、最上位のX2つまり〈私〉とαつまり独在性を明確に捉えられるということである。この累進構造の無限の駆動を打ち止められるということは、永井が自然学者であるということと深く関わっている。)

そして、これは僕の勝手な発見だけど、入不二の現実論も累進構造に位置づけることができると思う。

永井は、累進構造を昇る動作を繰り返すことで、差そのものを純化して取り出そうとしたけれど、逆に、累進構造を降りる動作を繰り返すこともできるはずだ。そして、入不二は形而上学者だから、制約なく無限にこの動作を繰り返すはずだ。そうすることで、差分を無化し、結局は、X1とX2はイコールで結ぶことができる、という等式の成立の基盤を取り出すこともできるのではないか。X1+α=X2 から、永井が「α」を取り出したとするならば、これは、「=」を取り出す作業である。

もう少し細かく書くならば、X1+α=X2から、差分のαを無化するとは、つまり、X1=X2ということである。そして、X1=X2とは、Xに含まれる1と2という階層の違いは無化され、結局はXであるということを意味する。更に、X=Xに含まれるXという記号は、「私」であれ「今」であれ「文」であれ、任意の何かの代入可能性を意味しているが、何かが代入されなくても成立するトートロジーであることを強調するならば、代入可能性としてのXも消去することができる。そして最終的に「=」だけが残る。

この過程を、X1とX2という顕在的な違いが潜在してXとなり、そして、任意の代入可能性として顕在したXも潜在したと捉えるならば、入不二の潜在性の議論そのものではないか。つまり、X1+α=X2という累進構造を降りることで取り出される「=」とは、入不二の潜在性なのである。最後に残る「=」とは純粋潜在性が持つマテリアル性であると言ってもいい。

以上の書き方は不正確で言葉足らずかもしれないけれど、永井哲学において重要な役割を果たしている累進構造が、入不二哲学においても、潜在性について描写するうえで役立ちうるという提案は、それほど違和感なく受け入れてもらえるのではないだろうか。(だから、次章で行う僕の独自考察ではなく、この章に書いている。)

こんなふうにして、累進構造を用いて、永井の独在性の対極に、入不二の潜在性を対置するというのは、あくまで理解の補助線としてではあるが、悪くない提案だと僕は思う。(少なくとも、永井の独在論を形而上学的に捉え直し、累進構造の階段を昇り無限に独在していく永井と、累進構造の階段を下り無限に潜在していく入不二という対比を行うことは、形而上学的に美しいイメージ喚起だと思う。)

なお、ここで重要な点として、永井の独在性の対極にあるのは、入不二の現実性ではなく、入不二の潜在性である、ということも忘れてはならない。

(6)破壊の魅力

この2冊の本には何人かの哲学者たちが登場するけれど、そのなかで、飯盛の破壊論は、最も異質で、わかりにくいと思う。と言っても、議論がわかりにくいのではなく、なぜこんなにも飯盛が破壊にこだわるのかが、わかりにくいのだ。

当然、飯盛も破壊を追求する意義について説明はしている。(pp.32-36)説明によれば、飯盛は、新しさを重視し、退屈からの解放につながるから破壊を追求する意義がある、と考えていることになる。(なお、飯盛がやろうとしているのは、破壊を意図的に作り出すことではない。そもそも世界そのものが破壊的なあり方をしていることを突き止める、というのが飯盛が目指すところである。)

退屈からの解放という飯盛の説明に完全に乗れる方なら、この節については読み飛ばしていただいてもいい。だけど、僕は乗り切れなかったから、飯盛の興味と、僕の興味をどうやったら架橋できるかどうか、考えてみた。

飯盛の破壊とは、先ほど少し触れたが、外部からの問答無用の暴力的な力であると捉えていいだろう。僕は、この破壊の「外部性」に着目したい。(飯盛の文章にも「外部から破壊しにやってくる。」(p.27)という記載がある。)つまり、飯盛の破壊論を、外部性の探求として読むのである。

当然、外部性が高ければ高いほど破壊の強度は増す。飯盛は検討の過程で何人かの哲学者の議論が持つ破壊の強度を検討するが、飯盛が破壊が不徹底と判断するのは、外部性が低いか、せっかくの外部性を内部性に回収しようとしてしまうからである。そのような意味で、飯盛がやっていることは外部性の探求としての側面があるのは確かだろう。

そして僕は、それを破壊と呼ぶかどうかはともかく、「外部性」を探求することは、形而上学的に極めて重要なことだと考える。なぜなら、認識論も意味論も届かない形而上学的領域においては、概念操作が頼りであり、そのなかでも特に、概念をひっくり返して概念の外を概念化することは形而上学上、極めて重要な作業となるからだ。だから、飯盛がやろうとしていることは、それを破壊という言葉で表現することの好き嫌いはあっても、形而上学上、重要で価値がある考察となっていると思う。

ところで僕は、飯盛のスタンスが大好きである。破壊という言葉にはどこか非倫理的な香りがあるけれど、その香りも込みで、飯盛の議論はかっこいいと思う。なぜ破壊が非倫理的かといえば、きっと、そもそも倫理というものが内部性を有していて、外部性を求めること自体が非倫理的だからなのだろう。だから、飯盛の破壊が実は創造も含むものだったとしても、その非倫理性に変わりはない。

そして僕には、飯盛の破壊論とは、ところ構わず、ただ破壊したいという欲求から発したものではなく、ある特定のもの、きっと既存の哲学を破壊したい、という欲求によるものであるように思える。

「既存の」哲学という言葉には、「既存の哲学業界の内輪の」というようなニュアンスでの内部性が含まれているように僕は感じる。この内部性とは、つまり哲学の倫理性であり、破壊すべきは哲学の倫理性なのである。

もしそういうことだとしたら、僕は飯盛に賛同したい。これは極めて哲学において重要なことだからだ。既存の哲学が踏み入れていない、既存の領域の外部を探し求めるからこそ、新しい哲学がありうるのであり、そうでなければ哲学をやる意義などないとさえ言えるのではないか。だから、飯盛の破壊論とは、哲学そのものであるとさえ言ってもいいと思う。

だから、この線で理解するならば、飯盛が提案する破壊的読解とは、つまり、既存の哲学を既存の哲学として読まないということであり、哲学の内部性(倫理性)の外部からの破壊の作業のことなのである。

だけど、そんなふうに明示的なかたちで語り尽くしてしまったら、飯盛の破壊論も哲学の内部にとりこまれてしまう。だから、こんな言説さえも破壊しなければならない。飯盛は唐突に「破壊性そのものは破壊可能か」(p.53)という問いを立てるが、そのような意味で、これは破壊論において必須の問いなのかもしれない。

最後に、自説の展開となってしまうが、飯盛は、主に、未来における破壊可能性に目を向けるが、僕は、過去に目を向け、実はこの世界は既に破壊だらけである、という捉え方をすることも可能だと思う。僕が思いついたのは、世界5分前創造説の思考実験を経て、思考実験ではなく、現に、この世界はそうなっていると考えるようなことである。それも、一度限りではなく瞬間ごとに創造と破壊が繰り返されていると想定するようなことである。ちょっとラフな想定かもしれないけれど、全く気づかれない最深のところで行われている根源的破壊と創造というイメージは、破壊への気づきさえも破壊されているという点で、かなり強度のある破壊だと思う。

次章から僕は自説を論じることになるが、その背景には、このような創造と破壊のイメージが貼り付いている。

蛇足

飯盛は、破壊を論じるうえで「スイングバイ的読解」を行うが、そもそも、この読解の方針自体が外部を重視するという点で、破壊的な姿勢と重なるように思える。

僕が思うに、飯盛は、当初からスイングバイを意図してはしていない。飯盛が例えばホワイトヘッドを初めて読んだとき、読者飯盛はきっと、ホワイトヘッドの哲学に含まれる新しさ、つまり、かつての自分にはなかった外部的な魅力に魅せられ、ホワイトヘッドに取り込まれてよいとさえ思っただろう。そして、ホワイトヘッドの重力に引き寄せられるがままに読み進めただろう。だが、どこかで飯盛はホワイトヘッドに満足できないことに気付き、ホワイトヘッドの外部へと離脱しようと決心したのである。そして、ホワイトヘッドの圏域を離脱したとき、飯盛は、自らが加速していることに気づいたのである。きっと、スイングバイ的読解とは、このような飯盛の実体験に基づくものだったはずである。

つまり、スイングバイ的読解とは、当初からスイングバイを意図したものではなく、結果的にスイングバイになってしまったのである。

そして重要なのは、この結果的スイングバイのプロセスにおいて、読者飯盛はどこまでも外部性に向かって飛んでいるという点である。飯盛がホワイトヘッドに新しさを認め、わくわくして引き寄せられていくとき、そこにあるのはホワイトヘッドという外部であり、そして、ホワイトヘッドでは満足できないと気づき、ホワイトヘッドから離れるときも、やはり、そこにあるのはホワイトヘッドの外部である。

こうして、スイングバイ的読解と、破壊という外部的な力を追求する姿勢とはきれいに重なるのである。

3 僕の考え

ここまでは、2冊の本に対する僕の理解を補助線として描いてきた。なるべく私見を交えないと言いつつ、結局は私見だらけにはなってしまったけれど、僕が理解する限りでの、筆者の思考の流れに沿ったことを書いてきたつもりであり、その点で、僕が書いたことは、この2冊の本を理解するのに多少は役立つと思う。

だが、ここからは、筆者、特に入不二の議論に疑問を示しつつ、自論を展開したい。だから、ここからは、2冊の本を読む上での役に立たないという意味で、文章としての価値が少し下がることになる。

(1)私の特異点性

 僕の入不二に対する疑問を再掲しておこう。

 全てであり遍在する無内包の現実(=現実性)の内に、いかにして〈私〉という特異点が 描かれるのか。また、どうして、その描かれ方が、人称的世界という描かれ方となるのか。

入不二の現実論は、力としての現実性とマテリアルの潜在性の二元論である。どうやってそこから特異点が描くことができるだろうか。

これに対する入不二の答えは、「〈私〉の存立は絶対的に偶然であり「謎」である」(p.243)というものであり、つまり、特異点は独在性によって描かれるが、その独在性は謎であるとするのである。

だが僕は謎を謎のままとすることはできない。

あくまでも勝手な僕の解釈だが、入不二にとって、この言葉の要点は、「〈私〉の存立は絶対的に偶然であり「謎」である」の「絶対的に偶然」のところにあるように思える。入不二は、独在性は偶然的なもので、現実論にとっての独在性とは、あってもなくてもいい不純物だから、現実論を考えるうえでそれほど重視しなくてよい、と考えているように思える。

だが、僕にはそうは思えないから、この謎をなんとか解き明かしたいのだ。

僕は、入不二の現実論が好きだから、力としての現実性とマテリアルの潜在性の二元論だけから、独在性も含めた全てを説明し尽くすことができる、という方向で考えてみたいと思っている。当然、これからの文章でそれを成し遂げることなどできないけれど、その方向で少しでも前進できるよう試みてみたい。

(2)具体例が必要

話を始めるにあたって、前半での話に立ち返りたい。僕は、山括弧に入るものについて、永井は私や今に限定している一方で、入不二はコップでもなんでも入る、という捉え方の違いがあることを指摘した。そして、より正確には、入不二の山括弧、つまり現実性は、ただ遍在しているから、正確には、山括弧には、コップでもなんでも入れていいのではなく、山括弧に入るものを限定してはいけない、という点が肝心であるということを指摘した。

つまり、入不二が山括弧にコップを入れることができる、と主張したのは、積極的に〈コップ〉という表記をしたい訳ではなく、〈私〉や〈今〉に限定されない山括弧の使い方がある、と言いたかったからなのである。

だから、入不二にとって、〈私〉・〈今〉・〈コップ〉というのは、あくまで、現実性を説明するうえでの橋渡しとしての暫定的な使用法に過ぎない。とりあえず〈私〉・〈今〉・〈コップ〉というように何かを代入して山括弧を理解したうえで、その何かは消去すべきなのである。私・今・コップは投げ捨てられるべき梯子である。

蛇足

『リアリティ』において飯盛が「標的の透明化を解除する方向性」(p.58)と呼んでいる議論は、僕のこの指摘に類似したものであるとも読める。ただし、飯盛は「入不二の議論において、現実性はある特定の内容をもたされてしまっている」(p.58)とし、〈円環モデルを回す力〉というように、入不二の議論構造自体を代入することが可能、という方向で議論をしている。一方で僕は、あくまで、〈私〉でも〈今〉でも〈コップ〉でもいいので、とりあえずにせよ、具体的な何かが必要、という方向で考えているという違いがある。

なお、入不二も、何も代入しない〈 〉があるとまでは言っていない。この代入は、受肉とも言い表せるが、入不二は「受肉の全否定」まではせず「受肉以前性」(p.70、215)を認め、受肉するものが「不定」(p.217)であると捉えることは可能だと論じる。

そして、この「不定」とは、入不二の潜在性のことである。つまり、〈潜在性〉と表記することが、入不二にとって、最も適当な、山括弧の使い方なのである。

〈潜在性〉という表記は、入不二の現実論の最小表記であるとも言えるだろう。入不二の現実論とは、力としての無内包の現実性と、マテリアルとしての無限内包の潜在性の二元論であるが、このうち力としての現実性のほうは〈 〉で表される。そして、もう一方の潜在性がそこに代入される。

そして、〈潜在性〉と表記せざるを得ないことと、潜在性がマテリアルであることは、関係しているだろう。潜在性が、海の比喩のようなマテリアル性を帯びているのは、潜在性が、〈潜在性〉というかたちに代入操作するための最小限の操作可能性を有さなければならない。この操作可能性を担保しているのが、潜在性が有するマテリアル性なのである。マテリアル性を有するから、潜在性は可視化され、操作され、〈潜在性〉という表記がなされるのである。

だから、逆に言うならば、潜在性が持つマテリアル性を表現するためには、〈潜在性〉というようにして代入し、顕在化させた表記が必要である、ということでもある。

以上のことを示しているのが、前半でも示した以下の図であるとも言えるだろう。

〈潜在性〉という表記は、このうち、潜在性と現実性が完全に重なった、入不二の現実論①を表現していることになる。

だから、もし、何も代入されない山括弧のみの〈 〉を認めるとするならば、それは、入不二の現実論を現実論②のように捉え、潜在性の領域をはみ出した現実性を捉えたものとして理解することができるだろう。それは、入不二の現実性と潜在性の二元論の崩れの場面の描写である。

(3)無限内包の潜在性の限界

ただし、山括弧には具体的な何かが必要ではないか、という僕の問題提起は、入不二が〈潜在性〉という表記を認め、無限内包の純粋潜在性を代入する必要を認めたとしても解消はしない。

確かに、無限内包の純粋潜在性は、無限に内包を生み出す力を秘めている。その意味で、〈潜在性〉とは、すべてを表現するにふさわしい。谷口は、「山括弧の中に入るべきは「世界」-つまり実質-」(p.164)と表現しているが、谷口の「実質」という言葉は、潜在性が持つマテリアル性を表現したものだと理解できそうだし、また、僕が「人称的世界」という言葉の言い換えとして潜在性を使ったとおり、谷口の「世界」という言葉は、全てとしての潜在性を表現するのにふさわしい。(入不二も谷口の「実質」とマイナス内包、つまり潜在性を同一視している。(p.167))

だが、そのような純粋潜在性は、具体的な何かから、その具体性を潜在させるようにしてしか理解することはできない。それは、谷口のように、世界や実質という言葉を使ったとしても同じことであり、世界・実質を潜在化するためには、ある特定の世界・実質を具体的に思い浮かべたうえで、それを潜在化する必要がある。

そのひとつの手法が、入不二が「志向性の不全」(p.218)と呼ぶようなやり方なのだろう。僕が目の前のネコをネコとして眺め、掃除機を掃除機として眺めるとき、志向性は有効に働いている。しかし、その輪郭がぼやけ、掃除機に乗ったネコが、クリーニャー(@野矢茂樹)という別の物として捉えられたとき志向性は不全となる。例えば、そのような事態である。(入不二の説明を読んでもらえればいいのだけど、ただ、僕が好きなクリーニャーを登場させたかっただけです。)

こうして潜在化を進めることにより、純粋潜在性が見出されるのだが、重要なのは、あくまで、顕在したネコから純粋潜在性に至るのであり、その逆に、純粋潜在性だけから、何かの拍子にネコが顕在化することはない、という一方向性があるという点にある。

だから、まずは〈ネコ〉が成立し、そこから〈潜在性〉へと移行するのでなければならない。

以上のような意味で、〈潜在性〉という表記は、不十分である。〈 〉を適切なかたちで成立させるためには、一旦は〈ネコ〉・〈コップ〉・〈私〉・〈今〉という具体的な代入が必要なのである。

なお、ここで僕が指摘した問題と類似した問題を指摘しているのが青山であるとも言えそうに思う。青山は、「「端的に」という未定義語に、言語と世界を結びつける魔術的な役割を担わせる」(p.260)と、未定義語を導入することの問題を指摘する。

この未定義語という言葉に含まれる「定義」という言葉を、僕は具体的な描写として理解したい。つまり、僕は、入不二の現実性や潜在性は、そのままでは未定義語になってしまうから、そこに具体的な描写を欠くことはできない、という主張をしていることになる。

蛇足

先ほど述べたとおり、ここで僕が問題とした具体例の問題は、『アップデート』での頻出概念を用いるならば、「受肉」の問題である。入不二は、「受肉の必然性」「受肉の全否定」「受肉以前性」という3つのあり方を提案し、自分は、中間的で、隙間としての「受肉以前性」の立場をとるとしている。(p.70)「受肉の必然性」とは、僕がここで主張しているような、具体例が必要とする立場で、つまり、〈ネコ〉のような表記が必要と考える立場である。また、「受肉の全否定」とは、入不二の現実論②のように、全く受肉と関係ない現実性の力のみが働いている領域を認める立場で、つまり、〈 〉という表記を認める立場である。そして、「受肉以前性」とは、やがて受肉するという意味での純粋潜在性の領域を認める立場であり、〈潜在性〉という表記を採用する立場であると言えるだろう。

(4)入不二の大逆転

 僕のここまでの議論は一定の説得力があると思う。きっと永井とも「受肉の必然性」を認めるという結論だけは共有していると思う。ただし、きっと永井ならば、〈ネコ〉や〈コップ〉は、あくまで〈私〉や〈今〉におけるネコやコップでしかないから、そこに独自の意味を持たせることは、独在性の理解における邪魔にしかならない、と考えるだろうが。

 だけど、僕は入不二ファンだから、入不二の現実論は、このままでは終わらないと考えている。確かに、入不二の現実性も潜在性も未定義語だが、二つの未定義語を現実論という一つの議論の枠組みのなかに投げ入れることで、互いが互いを定義し、現実性も潜在性も確かに有意味に成立しているとも考えられるからである。

 例えば、神はそれ単独では未定義語であろう。だが、神と人という対比をすることで、神は、人ではないモノというかたちで定義される。それと似たことが、現実性と潜在性においても起きているのではないか。

 きっと、このような作業に意義を見出すかどうかが、自然学と形而上学の分かれ目なのだろう。入不二はこのような概念操作により、形而上学に突き進むことができると考えている。一方の永井は、そのような作業に哲学的な興味を持てない。

 きっと、僕が具体例にこだわり、そして、「受肉」が『アップデート』での大問題になっているのは、これが、自然学と形而上学の分かれ目だからなのだろう。受肉した具体例とは、つまり認識により捉えられるモノということであり、つまり、認識論・意味論・存在論の区分に即するならば、認識論の領域に属することになる。認識論と意味論を正面からやるのが自然学的な態度だとするならば、具体例へのこだわりとは、つまり、自然学宣言である。一方の入不二は形而上学を宣言し、具体例から距離を置こうとしている。

 僕たちは、どちらの道を進むかを決めなければならない。

(5)始発点の一挙性

とりあえず、僕は入不二ファンだから、とりあえず入不二に従って形而上学の道を進み、入不二に沿って山括弧を〈潜在性〉として理解し、潜在性が有する具体化以前性、つまり受肉以前性を受け入れることとしよう。

ここで僕が取り上げたいのは、では、どのように受肉以前性としての〈潜在性〉が受肉するのか、という問題である。

入不二は潜在性を海に喩え、その受肉の場面について「海面から顔を出して浮かぶ物や心」(p.234)という表現をしている。潜在性の海から顔を出している岩礁や群島のように、様々なモノたちが受肉しているというイメージである。このようなイメージは、これまで、ネコやコップといった具体的なモノとして受肉するという僕が描いてきたイメージとも合致している。このイメージによれば目の前にある個物たちは、そのようなものとしてそれぞれ受肉しているのである。

だが、形而上学の領域に踏み込んだ今、このようなイメージは誤解を生んでしまうだろう。僕たちは今、形而上学の領域にいるのだから、そのような具体的なイメージは捨て去らなければならない。

あくまで概念操作でのみ議論を前進できる形而上学の領域において、具体例に頼らず、〈潜在性〉が受肉した結果生じるものの描写として適切なのは、〈独在性〉でしかないだろう。ここまでの議論で手に入れた手駒を用いる限り、それ以外にはありえない。

つまり、形而上学的領域における受肉とは、〈潜在性〉から〈独在性〉への移行のことなのである。

そして、念押ししておきたいのは、この〈独在性〉とは、〈私〉や〈今〉ですらない、ということである。〈私〉や〈今〉と表記すると、そこに限定性が生まれ、具体性を帯びてしまい、形而上学から自然学の領域へと移行してしまう。あくまで形而上学の領域に踏みとどまり、受肉を描写するならば、それは、〈潜在性〉から〈独在性〉への移行でなければならないのである。

ただし、当然、受肉とは、具体的な何かへの受肉を含意し、形而上学から自然学への移行を含んでいるから、一旦は〈独在性〉として捉えられた受肉も、受肉のプロセスが進むにつれ、〈私〉や〈今〉となり、そして、私が見る〈ネコ〉、私が掴む〈コップ〉というように更に具体性を帯びてしまうのは確かだろう。

だが、重要なのは、受肉の一瞬においてだけであっても、そこには〈潜在性〉から〈独在性〉への移行があるはずであることを見逃さないということであり、そして、その瞬間は、形而上学の領域でのみ掴み取れるということである。

この問題は、僕が好きな『現実性の問題』における円環モデルに立ち返るならば、始発点にまつわる問題である。僕は始発点において、純粋潜在性から具体的な何かが生じるのではなく、純粋潜在性が一挙にすべて独在すると捉えたいのである。

だから、純粋潜在性は、様々な内包を生み出す力を秘めているという意味での無限内包など持っていないとも言える。純粋潜在性は、すべてを生み出すことしかできないという意味で全くの無内包なのである。そして、その生み出される全てとは、つまり、永井が無内包の現実と呼ぶ、独在性のことなのである。

こうして、「無内包」の潜在性と、無内包の独在性は、形而上学の領域においてのみ、無内包によって接続される。これが形而上学的受肉である。

そのような理解を阻害していたのは、自然学が有する具体例へのこだわりであり、形而上学的受肉と、その直後に訪れる自然学的受肉による具体化との混同なのである。

(6)時間経過の否定(MTS)

僕のこのような捉え方は普通の意味での時間の流れの否定につながるだろう。

なぜなら、時間は経過するのではなく、非連続的に、〈潜在性〉から〈独在性〉への移行というかたちで、ゼロから全てが生成されるからである。

僕の考えをイメージとして伝えるためには、世界5分前生成説を思い浮かべてもらえればいいだろう。世界は5分前に、恐竜の化石のような遠い過去の証拠とともに、一挙に生成されたと考えても何ら不自然なところはないという思考実験である。僕はこれを思考実験ではないと考えていることになり、更に、5分前どころか瞬間ごとに世界は生成を繰り返していることになる。僕が主張しているのはそういう類のことである。

もし、この考えが正しいとしたら、『アップデート』における谷口のA変容というアイディアは大きな影響を受けるだろう。

谷口はコンロの上でお湯がぽこぽこしている感じや、ヒバリが飛んでいく感じをA変容と名付ける。(p.120)これは時間クオリアとでも呼ぶべきもので、谷口はそれを「時間において受肉した物自体」(p.281)とも呼び、独在性そのものと結びつけようとしている。

僕もこの世界が静的なものとは捉えないから、何らかの動性を取り入れるというアイディア自体は賛成なのだけど、残念ながら、僕の考えでは、その動性とは時間が経過するという意味での動性ではなく、瞬間が生成されるという意味での動性である。

だから、谷口のアイディアをそのまま採用することはできない。

では、谷口のA変容の扱いが問題となるが、時間の流れを否定しても谷口のA変容を肯定できることは、平井靖史の『世界は時間でできている』のMTSというアイディアから導くことができる。

僕は、このMTSというアイディアに感動して『MTS(マルチ時間スケール)の素晴らしさを語る』(https://dialogue.135.jp/2023/01/15/mts1/)という文章も書いているから詳述はしないけれど、平井は、MTSの構造を用いて、まさに谷口がA変容と呼んだ時間クオリアを時間の流れによらずに説明することに成功したのだ。

まず、平井は、物質があり、そこに(生物学的な)生命がある、という常識的な自然科学的世界観から出発する。そして、生命と物質が出会い、生命が物質を知覚し、物質からもたらされる大量の情報を処理する際に、大量の情報を処理できる程度に凝縮する必要が生じることを指摘する。1秒間に何兆周期という電磁波の波を、赤い光として捉え、またその光の束を赤信号として捉えるという凝縮である。そして、一連の凝縮の過程において、情報は失われて減るのではなく、量から質に変換されると考える。この変換により生じる質こそが谷口がA変容と呼ぶ、あの動的なクオリアのことなのである。

僕はこれは画期的なアイディアだと思う。そして、この成果を受けて、僕は、MTSに基づくならば、時間は流れない、と主張している。これは平井自身の主張ではないけれど、MTSをそのように解釈することは必然であるように僕には思える。

当然、自然科学的な意味での時間経過、つまりB系列としての時間はあってもいい。だけど、未来が現在になり、現在が過去になる、という僕たちの実感を伴う、あの時間経過、つまりA系列は幻なのである。

これは、自然科学的な枠組みにおいて論じられているMTSの当然の帰結であり、自然科学的には特権的な現在など存在しない、という当たり前の事実を指摘しているに過ぎないとも言える。

端折ってしまったのでわかりにくいかもしれないが、ここで重要なのは、MTSが、特権的な現在などなく、未来が現在になり、現在が過去になるという時間経過も幻であることを出発地点としながら、谷口がA変容と呼ぶ、時間クオリアの居場所を確保することに成功したしたという点にある。

(7)縦の時間

さて、僕は谷口のA変容を否定したけれど、『アップデート』では、もうひとつ入不二が提案したB変容が登場する。

B変容とは、「潜在性から顕在性への変態(metamorphosis)」(p.240)のことであるとされる。これは、〈潜在性〉から〈独在性〉への移行と僕が表現した、円環モデルの始発点に特有の変容と、同じものを指していると言えるだろう。つまり、入不二のB変容と、僕のこれまでの議論とは極めて相性がいい。(それは当たり前で、僕の議論は入不二のB変容から思いついたものだ。)

なお、入不二が、この変容をB変容と名付けるのは、谷口のA変容がA系列と関係が深いのと同様に、B変容がB系列と関係が深いからだとする。入不二はその関係性について、B系列の継起性に着目したとだけしか言っていないけれど、僕は、各時点間の非連続性もB変容とB系列を結びつける重要な特徴だと思う。B系列上に位置づけられる2023年5月28日と5月29日はそれぞれ独立した時点であり、その間には連続性がない。それは、5月28日23:59と5月29日24:00というように細分化しても同じことであり、自然科学的に観測できるある時点と、極めて近接した次の時点とは非連続であり、2時点を架橋する仕組みはB系列にはないのである。(時点間を架橋するのはA系列だけど、僕はMTSを使ってそれを否定してしまった。)そのようなB系列性を受け継ぐB変容も、非連続性という特徴を色濃く持っている。そう考えることは、僕の議論と整合している。

つまり、僕が、非連続的に、〈潜在性〉から〈独在性〉への移行というかたちで、ゼロから全てが生成され、いわば、超・5分前世界創造説のような状況となる、と主張したのは、要は、谷口のA変容は否定するが、入不二のB変容は受け入れる、ということなのである。

図にしてみよう。入不二の二つの図(p.237、242)を念頭に、常識的な時間推移を横の動性とし、潜在性を底とした入不二がB変容と呼ぶものを縦の動性としよう。そのうえで僕は、時間の流れと呼ばれる横の動性を拒否し、そして、縦の動性のみを受け入れ、非連続的な縦の動性によって作り上げられているという、時間が流れない、動性のみの世界観を受け入れるのである。

なお、谷口がA変容という言葉で捉えたかったのは、実は、僕がこの図でA変容として描いたようなものではなく、実は、B変容なのではないか、とも考えている。なぜなら、谷口は「〈A変容〉の真の意味とは、そこに並び立つ時間的他者などありえないような仕方で実質が孤絶しているということ、他時点など単にないということである。」(pp.287-288)と述べているからである。この表現は、僕が考える非連続性と相性がいいし、それでも変容という動性を確保しようとするならば、それは横の動性ではなく、縦の動性でなければならないからである。

だから、入不二のB変容の提案は、谷口のA変容に対して別のものを付け加えたのではなく、同じものについて詳述したのだと捉えたほうがよいように思う。

そして、更に谷口について触れるならば、谷口は、『アップデート』第1章の最後(p.124あたり)においてA変容について、時間的な動性を超え、人称の問題も含めた永井の独在性そのものにも適用していると読むことができる。

このような理解は、〈潜在性〉から〈独在性〉への一挙の移行という、僕の捉え方とも整合している。潜在性から独在性への移行の際に、時間も人称も含めたすべてが一挙に顕在化する、というのが僕のアイディアだからである。これこそが谷口のA変容であり、入不二のB変容である、と言いたい。

そのように理解するならば、A変容こそが山括弧に入るという谷口の指摘(p.163)はそのとおりだと思う。

蛇足

また、A変容の関係では、谷口は、独在から世界の側へという一方向性を持つA変容言語(p.122)を提案する。例えば「これは赤い」という言葉は、私にとってはクオリアの輝きを持つ独在的な言葉だが、その言葉が理解された途端、、全く言葉の意味に影響はないのに、そのクオリアの輝きだけ失われてしまう。ここにあるのはそのような意味での一方向性である。

谷口は、ある特定の言葉だけがA変容言語だと考えているが、僕は、実はすべての言葉がA変容言語なのではないか、と考えたい。なぜなら、すべて私の言葉だからである。多分これは、永井の私的言語の問題である。僕は、全てが私的言語であり、すべてがA変容言語であると捉えることができると考えている。

そのように考えるなら、言葉というものも込みで、〈潜在性〉から〈独在性〉への一挙の移行が起きていると言えるだろう。A変容言語の一方向性は、円環モデルの始発点におけるギャップの飛躍の一方向性と関わっているのではないだろうか。

(谷口が第三次判断「端的に〈私〉がある」については一方向性は成立せず、世界の側から到達可能(pp.123-124)と言っているのは、その私とは無内包であり、既に形而上学的構造として描かれてしまっているから、形而上学的な遡及が可能となっているということなのではないか。これは一旦描かれた円環モデルの遡及が可能であるのと同じことである。)

(8)視点と支点

ところで、先ほど僕が取り上げた平井のMTSについては、入不二も、5ページにわたる長い注記で取り上げている。(pp.244-249)

そこで入不二は「(MTSが)時間の在り方を一次元的な制約から解き放ち垂直方向を加える」(p.244)点を評価しており、MTSと入不二のB変容はとても相性がよいのは確かだろう。

だが、入不二は、この注記において、MTSに足りないものとして、どこまでも背景化し、外へ外へと潜在しようとする「潜在的な運動」(p.246)があると指摘する。これは入不二の図(p.237)によれば、上から下に最深の潜在性の場へと向かうベクトルの動性のことだろう。僕の図によれば、B変容と逆向きの潜在性に向かう上から下への動性である。

この動性をもうひとつのC変容とするならば、僕のB変容は、このC変容を捉えられていない。または、僕のB変容は入不二のアイディアを正確に捉えられておらず、入不二のB変容とは、このC変容も含めた垂直方向の双方向の動性を指す言葉であると訂正するべきなのだろう。(僕のB変容の捉え方は、C変容を省略し、簡素化した表現であるとも言える。)

そのうえで入不二は、垂直方向の双方向の動性を可能とするためには、「外↔内」の視点の転換が必要であると指摘する。

まずは、常識的に成立している内的な視点から出発し、そこから外へ外へと逸脱していこうとする運動が行われるだろう。MTSならば、この目に見える赤信号の光は、実は電磁波である、というように自然科学的な新たな捉え方がされていく、といった思考の運動である。

そして、外方向への運動が尽きたところで、そこで獲得した外的な視点を支点として、今度は逆に、内へ内へと内的な視点を説明しようとする。MTSならば、電磁波やクォークといった極限的な科学的な物質のあり方を揺るぎないものとして、そこから、赤信号が見えるという現象を説明していくような思考の運動である。

更に、内方向への運動が行き止まりまで行き着いたところで、そこで獲得した内的な視点を支点として、再び、その内的な視点から、外へと外へと視点が逸脱していく。MTSならば、赤信号が見えるという現象は、生物だけに特有の現象である、というところで思考を折り返し、生物だけが持つ赤信号のクオリアを自然科学的に説明していくという思考の運動である。

入不二が指摘するとおり、双方向の動性が成立するためには、このような、外から内へ、そして、内から外へという転換点があるはずなのである。

そして、ここでの転換点は、議論の拠り所、つまり支点となるという点で重要である。

僕の理解では、MTSにおける転換点(支点)は、物質と(生物学的な)生命である。自然学的なMTSにおいては、物質と生命という揺るぎない支点があるから、堅固で説得力のある構造を構築することができるのである。(入不二が、「いっさいを「自然」として位置づけようとする」(p.247)、「絶対的な領域(eg.自然)」(p.248)と指摘しているのは、このことだろう。)

そして、僕が、物質と生命と名指ししたMTSの二つの支点を、入不二は、「「物と心」の二分法の残滓」(p.248)と呼んでいるように僕には思える。つまり、入不二は、MTSが物質と生命を支点とすることに不満足であり、より外に、そしてより内に、より強固な支点があるはずだと指摘している、ということになる。そして、入不二によれば、きっとその支点とは、永井の独在性と入不二の潜在性なのである。

(9)外から内へ

さて、時間の話に戻ると、ここまで僕はA系列を否定し、B系列を認めたが、せっかく認めたB系列にも〈潜在性〉から〈独在性〉への一挙の移行というだけでは説明がつかない問題が残っている。ひとつは、どうしてB系列には複数の時点があるのか、という問題であり、もうひとつが、B系列に複数の時点があるとして、どうやって、過去から未来へ、ではなく、未来から過去へ、という順序で並べるのか、という問題である。

B系列の複数性の問題はより難しそうなので、まずは順序の問題のほうを考えてみたい。

結論から述べるならば、僕はここで、入不二がMTSに対して指摘した、内的な視点と外的な視点の問題が関わってくるように思う。

内的な視点に立つとは、つまり、このありありとしたクオリアに満ちた、この揺るぎない世界把握の仕方に従うということであり、MTS的に述べるならば、生命特有の認識機能を揺るぎない支点として世界把握をする、ということである。

だが、そのような内的な視点からの世界把握から離れ、実は認識したとおりのあり方をしていないのではないか、などと考えることもできる。このクオリアに基づく世界把握の仕方は間違いで、例えば、ロープのように見えたものはヘビかもしれないと考えることもできるからである。これは内的な視点からの逸脱である。それはつまり、内的な視点から遠く離れた外部に視点を置き、そこを起点として世界把握を行うことだとも言える。これが外的な視点に立つということであり、MTS的に述べるならば、どこまでも物理的な存在としての物質を支点としていわゆる自然科学的な世界把握を行うということである。

この二つの視点を時間と結びつけるならば、内的な視点と、過去・現在とを結びつけられるように思える。なぜなら、過去と現在はクオリアを伴っているからである。今、目の前にあるコップは、ありありとしたクオリアに満ちている。また、一昨日食べた牛丼も、若干記憶が薄れてはいるけれど、クオリアをまとっている。現在起こっていることや、過去に体験したことは、明らかに内的に把握されている。

一方で、これから起こる未来のことは、それがどれほど確信に満ちたものでもクオリアを伴っていない。ヤカンをコンロに載せたとき、僕は、数分後にヤカンの口からに湯気が出ている状況をありありと思い浮かべることができる。だが、その未来の湯気はクオリアを伴っていない。あえて言うならば、過去に眺めた湯気の記憶としてのクオリアが未来の湯気に貼り付けられて合成されているだけである。そのような意味で、クオリアに満ちた内的な視点は過去・現在とは結びつくが、未来とは結びつかない。

クオリアを持たない未来は、もう一方の外的な視点と結びつけることができる。なぜなら、未来があるということは、つまり、僕がどう思うかに関わらず、未来があるということだからである。数分後にヤカンの水が沸騰するという未来は、僕がそのようなことに思いを巡らせていなくても、ヤカンに水が入っていて、それが熱せられているという事実から客観的に導くことができる。未来には僕の内的なクオリアが関与していないという意味で、未来は、外的な視点から把握される。

当然、このように単純に区分することはできない。述べたとおり、未来が具体的な出来事として成立するためには、過去の記憶から供給されたクオリアと合成される必要がある。また、過去が記憶の中だけではない客観的な出来事として成立するためには、その過去は、クオリアから離れ、客観的で外的な世界に位置づけなければならない。そのような意味で、内的視点と外的視点とが、複雑に絡み合って未来と過去は構成されている。

しかし、クオリアの有無という点だけに着目するならば、内的な視点と過去・現在を結びつけ、そして、外的な視点を未来と結びつけることができることは明らかだろう。この内と外の対比が、B系列上の各時点の順序を決定しているのではないか、というのが僕のアイディアである。

試しに2時点間の比較をしてみよう。時点1においては、一昨日の牛丼と、目の前のコップが内的な視点において存在しており、火にかけたばかりのヤカンの5分後の湯気は外的な視点において存在している。そして、時点2においては、牛丼とコップとヤカンの湯気がすべて内的な視点において存在している。この二つの時点を整列させようとした場合、ヤカンの湯気が内的な視点になっているかどうかに着眼し、順序を決定することができる。

このようにして、時間の流れという動性を用いなくても、B系列上の各時点を整列させることは可能なのである。

では、なぜ、ヤカンの湯気が内的な視点である時点2からヤカンの湯気が外的な視点である時点1へ、ではなく、その逆の外から内という順序で並べるのだろうか。

僕はそこに、飯盛が破壊と呼ぶものが関係していると考えている。飯盛の破壊とは、外部からの力による内部構造の破壊である。外部から内部へという破壊の力の及び方と、外的な視点から内的な視点へ、という順序とは深く関係している。外部から内部へとという破壊の力の働き方こそが、未来から現在・過去へ、という時間の向きを決定していると言ってもいいかもしれない。飯盛は新しさを重視する観点から破壊を論じるが、これは、新しさをもたらす破壊と、外としての未来を結びつけることだと言ってもいいだろう。その点で、僕は、破壊論とは時間論であると言ってもいいと思う。

構造の外部から内部構造への破壊、外的な視点としての未来から内的な視点としての現在・過去への(見かけ上の)時間経過、というように、一貫した外から内への動性があるのである。

もし逆に、内から外へ、という動性だったらどうなるだろうか。それはつまり、時間経過により、ありありとしたクオリアに満ちた世界が客観的にしか把握できない世界になるということであり、内部構造から構造の外部に対して破壊の力が及ぶということである。

もしそんなことがあったとしても、それを完遂することはできないだろう。

クオリアに満ちた世界が客観的にしか把握できない世界になるということは、つまり、クオリアに満ちていたことを忘れてしまったに過ぎない。忘れてしまったことは思い出すこともありえるから、忘却だけで純粋な客観的な科学的世界に至ることはありえない。

また、内部構造から構造の外部に力が及ぶということは、つまり、内部と外部の関係性を認めるということだから、外部も実は内部構造の延長に過ぎなかったということが判明するに過ぎない。

だから、僕が考えつく限り、内から外へ、という動性は成立しない。

蛇足

破壊は時間と同様に矛盾したあり方をしているように思える。破壊とは、外部からの力による内部構造の変容であるとしよう。そうだとするならば、破壊が成功したとき、その状況は内部構造の変容として描写できることとなる。これはちっとも破壊的ではない。一方で、破壊が成功せず、内部構造の変容をもたらすことができなかったとき、その破壊の力は跡形もなく破壊されてしまったという意味で、極めて破壊的であるとも言える。

このような矛盾を踏まえ、時間は流れないと述べるのと同様に、破壊は成功しないと主張することは可能である。そして、それでもなぜか時間は流れてしまうのと同様に、それでもなぜか破壊は成功してしまうとも言いたくなる。

(ぼくは、時間は流れないし、破壊も成功しないと考えているけれど、それでも時間は流れ、破壊は成功すると考えたほうが楽しいと考えている。)

(10)人称の場合

外と内の対比を、未来と現在・過去という時制の対比と結びつけたが、更に、外と内の対比を人称的な対比と結びつけることもできるように思う。永井は、私と他者と物(非他者)という三種類の道具立てだけから、鮮やかに人称的世界を構築してみせたが、このうち、他者と物(非他者)の対比と、外と内の対比とを結びつけることができるのではないだろうか。

MTSを用いるならば、手がかりは先ほどの時制と同様にクオリアの有無である。他者にはクオリアがあるが、物(非他者)にはクオリアがないという点に着目すると、クオリアがある 他者=過去=内 とし、クオリアがない 物(非他者)=未来=外 とする接続が可能となる。だから、外から内へという動性は、人称においては、物から他者へ、というかたちで現れる。

この物から他者への動性とはどのようなことか、オメガを例に考えてみよう。

青山がオメガという超高性能なパソコンを思考実験として持ち出したが、このオメガは物(非他者)の代表例である。情報処理能力ははるかに人間を凌駕し、人間よりも人間的と言ってもいい存在だけど、唯一、オメガには意識がない。意識がないとは、ここでの問題設定を踏まえるならば、クオリアがない、と言ってもいいだろう。(なお、意識とクオリアを同一視できるのは、青山が問題とする「重ね合わせ」(p.91)の問題は、クオリアを伴う意識でなければ解決できない(または解決に多少なりとも役立たない)からである。)だから、オメガは他者ではなく物である。

このオメガについて、当初はクオリアを伴う意識がない物だと思っていたけれど、実は、意識があり、他者であると言ってもいいのではないかと思い直すことはありえる話である。この思い直しこそが、物から他者への動きであると僕は考える。

なぜなら、ある物に他者性を認めるとき、その思い直し以外には何も変わっていないという点で、それは、未来から過去への時間経過の動性と似ているからである。そして、その動きを完遂したとき、未来が過去になるのと同様に、オメガは物から他者となるのである。

同様のことは思考実験ではなく、日常的に起こっているだろう。世界に存在する様々な物のうち、ある特定の物、つまり人間のみを、僕たちは他者とする。これは物から他者への移行である。決して、その逆の他者から物への移行は起こらない。人間性を否定することはあっても、それは比喩表現であり、その人間がクオリアを伴う意識を持っていることを否定するものではない。動性の向きは外から内だと決定しているのである。

または、そのような動的な移行によらず、アプリオリに静的に区分された物と他者という二種類の存在があると考えることもできない。もしアプリオリな区分があったら、脳死状態の人間や知能が高いイルカなどの動物を他者と捉えるか、といったような物と他者の境界づけの問題は起こらないはずである。物と他者の区別は所与のものではなく、僕たちが、様々な物のうちのある一部の物を、クオリアを伴う意識を有する他者へと動的に移行させるからこそ、こういった問題で悩むのである。

そして、重要なのは、ここまで、あたかも移行ができるように述べてしまったが、実は、人称における物から他者への移行も、時間や破壊と同様に、決して成功しない。なぜなら、オメガを他者と認めるということは、つまり、新たな機能を実装するか何かしたことをきっかけに、新たなオメガを新たな他者として認めるということだからである。または、奴隷のように扱っていた人間が実は人間だったという過去の誤りを認めるようにしてしか、物の他者性を認めることしかできないからである。

人称の物から他者へという向きは、順序を決定する機能はあっても、その向きでの移行を成し遂げる力はないのである。

ちょっと議論に怪しいところもありそうだが、まとめるならば、外から内へという動性の向きこそが、未来から過去へという時間の向きを決定し、そして、物から他者へという人称の向きを決定している。そして、この動性の向きが内包であるとするならば、この動性の向きこそが、単なる複数の時点に、未来と過去という内包を与え、そして、単なる個物に、(非他者としての)物と他者という内包を与えているのである。

(11)特異点

そして、外から内へという対比が、未来と過去、そして、物と他者という対比を生み出しているとするならば、そこから、外と内が接するところが特異点であり、つまり、現在と私という特異点を生み出している、という話に繋げることは容易だろう。(正確には、ここまでの話を踏まえると、時間における特異点は、クオリアを伴う現在と、クオリアを伴わない未来の境目にある。)

ただし、そのことが何を意味しているのかを述べることは難しい。なぜならば、それは、外から内への移行という絶対的に不可能なことが何故か成し遂げられてしまうという矛盾であり、または、外から内への移行が成し遂げられなければ全てが始まらないのに、それは絶対的に不可能であるという矛盾についての描写だからである。

そのような矛盾が、未来と過去を繋ぐ現在、そして、物と他者を繋ぐ私において生じているというのは、まさに永井の独在論の謎だと言えるだろう。

だが、永井はそれを謎のままとせず、様々な魅力的なアプローチでその謎の輪郭を明確なものとしようとする。そのひとつが、タテ問題とヨコ問題という区別である。

ここまで僕は、いわば、この謎をタテ問題として扱い、謎を謎として深めてきた。だが、永井によれば、この謎はヨコ問題として扱うことによってこそ、この謎がどのような謎かを明らかにし、謎を謎として明確に捉えることができるのである。

永井によれば、この問題は、数多くの他者、つまり人間のうち、なぜ、この一人だけが特殊な私という存在なのか、というかたちで問うことによってこそ、明瞭な問題として捉えることができる。複数の人間がヨコに並んでいるという視点を重視するからヨコ問題である。

この問題をタテに論じようとしてもなかなかうまくいかない。なぜなら、私の特殊性は無内包であるため、他者とのヨコの比較によってでなければ、明瞭に捉えることができないからである。

こうして、特異点の問題はヨコ問題、つまり、複数の人間のうちの私、または、複数の時点のうちの現在という、複数性に関わる問題へとつながっていく。

蛇足

未来と過去を繋ぐ現在が特異点であるというのはわかりやすいだろう。(正確にはクオリアがない未来と、クオリアがある現在・過去の境目が特異点だけど。)

だが、物と他者を繋ぐのが私という特異点であることには説明を要するだろう。

その説明の仕方は色々ありそうだが、とりあえず僕が思いついたのは、非他者としての物を、クオリアを伴う意識を持った他者と見做すのは「私」である、というかたちで、物と他者への移行に「私」が関与しているということである。

誰かに、あれは他者だよ、と様々な理由を並べて説得されても、それを私が自ら、そう思わなければ、その物は他者とはならない。例えば、あの人は柱の角に足の小指をぶつけて痛がっているから、痛みのクオリアがあるんだよ、と言われても、ただ痛みがあるような振る舞いをしているだけで、彼はゾンビだと私が思ったら、それでおしまいである。また、その説得に納得したとしても、彼が持っているクオリアは、実は私が持っているクオリアと同列のものではない、と考えたら、彼は他者となることができない。きっとそのような思考回路に名前をつけるならば、サイコパスと呼ぶのだろう。

私がその人をゾンビと思わず、そして私がサイコパスではないとき、ようやく、物は他者となることができる。このように、「私」が物から他者への移行に関わっているから、「私」は特異点なのである。(正確には移行するのではなく、間違いが正され、最初から他者だったことになるのだが。)

「私」の特異点性については、もっと別の述べ方もありそうだけど、とりあえず、この文章での考察を進めるうえでは、このくらいにしておく。

(12)ヨコ問題の難しさ

いよいよ、残るは複数性の問題である。この問題は、先ほど述べたとおり、時間論におけるB系列を認めるとして、そこになぜ複数の時点が見いだせるのか、という問題である。更に、ここに人称の問題を含めるならば、人称的世界を認めるとして、そこになぜ、物にせよ他者にせよ、複数の個物が存在するのか、という問題だとも言える。

もし、時間的世界や人称的世界に複数の時点、複数の個物が存在することを明らかにできたならば、すべての問題は解決できていないにせよ、およそ、ここまで述べたようなやり方で、過去・未来、他者・物を構成することはできそうだ。だから、この文章における最後の問題は、この複数性の問題なのである。

そして、永井哲学の用語を用いるならば、この問題は、先ほど触れたヨコ問題をどうして論じることができるのか、という問題であるとも言える。

実は、僕の、永井哲学に対する最大の不満はここにある。僕は、この問題こそ知りたいのに、ちっとも永井はこの問題に答えてくれない。永井の議論は、ヨコ問題が存在することを前提にどんどん進んでしまうのだ。当然、それは永井の不備でもなんでもない。僕の哲学の問題と永井の哲学の問題の違いに過ぎない。それでも僕は、ここで永井哲学に学び、タダ乗りすることを諦めなければならない。

そして、僕が入不二哲学を好きな理由もそこにある。入不二の現実性にせよ、潜在性にせよ、それは、ヨコ問題との関係性で言うならば、ヨコ問題が成立するまでの背景についての議論であると言ってもいい。入不二は、ヨコ問題が問題となる手前について論じ、準備作業をしてくれているとも言えるのである。

だが、こうして『アップデート』を読んでみると、確かに入不二は、ヨコ問題の手前については美しい構造を描き出して見せたが、そこから、どのようにヨコ問題が生まれるかという道筋は示してくれていないことに気づいた。入不二の現実論はどこまでも無内包・無限内包であり、かつ遍在しているから、そこには複数性を入れ込むことができないのである。入不二の構造はどこまでもベタであり、まるで、平らなコンクリートを手がかりなしでボルダリングするようなもので、そこにヨコ問題を位置づける手がかりすらないのである。

なお、入不二は、ヨコ問題を経た後については、美しい構造を描き出して見せてくれる。それは『アップデート』での落差・高低差としての実在の描写の箇所である。入不二は「実在性とは独特の関係性である」(p.13)とする。関係性が生じるためには、少なくとも二項関係が必要だから、つまり、実在性には複数性を見出すことができる。だから、永井がヨコ関係として論じていることは、入不二によれば、それは実在性における落差の問題であるということになるのだろう。

こうして入不二は、複数性・ヨコ問題が成立する手前までを論じ、そして、複数性・ヨコ問題が成立してからについても論じてくれる。それを手がかりに、その隙間は僕自身で埋めるしかない。

(13)潜在性の外

さて、この難解な複数性の問題を捉えるため、前半で問題とした、入不二の現実論の二つの捉え方に再び着目したい。

このうち、現実論②を採用するならば、入不二の現実論において、複数性を入れ込むことが可能であるように思える。どこに入れ込むのかといえば、潜在性の領域の外に広がる現実性の力だけが働く領域においてである。

この力だけの領域がどうなっているかなど、僕にはさっぱりわからないし、わからないのだからどうなっていてもかまわない。なぜなら、潜在性の領域の限界とは、つまり、認識論的把握や、意味論的把握の限界であり、私の認識や言語の限界でもあるからである。もしそうならば、そのような認識や言語の限界より外がどうなっていても、私には関係がないという意味で、一向にかまわない。

それならば、そこには別の潜在性の領域があってもよく、それも多数の潜在性の領域があってもよいと考えてもいいのではないだろうか。こうして、現実論②によるならば、現実性の力のなかに、複数の潜在性がある、というかたちで複数性が確保されるのである。

そして、もし僕の提案どおりならば、複数の潜在性の領域が併存し、そこに現実性の力が貫いているという状況こそが、入不二の現実論であるということになる。潜在性の領域を海に喩えるならば、宇宙空間に無数(複数であればいくつでもいいが)の水の惑星が浮かんでいるイメージである。

だが、このときの潜在性とは、入不二が言うような無限内包の潜在性ではないだろう。なぜなら、他の潜在性ではなくてこの潜在性であるという意味での内包の限定があるからである。水の惑星において潜在性が発現するとき、それは、他の惑星ではなく、この惑星において発現しなければならない。他の星を他者と名付け、この星を私と名付けることが許されるならば、この潜在性は私としてしか顕在化しないという限定があるのだ。

なお、永井ならば、このような想定は無意味と断じ、拒否するだろう。なぜなら、永井は自然学者だからである。永井の議論領域で扱うことができないことを語ることは自然学者永井にとっては端的に無意味なのである。

だからこそ、あえて形而上学に踏み込むならば、永井の議論を根底から組み替えてしまうことができる。形而上学的には、永井の独在性が複数あっても一向にかまわない。

僕は、先ほど述べたとおり、純粋潜在性は一挙に独在性に変容すると考えている。だから、現実性の力に満ちた宇宙空間には、潜在性としての水の惑星が無数に浮かんでいるが、そのひとつひとつが独在性に変容するのである。だから、僕がここでやったことは、独在性の複数化であるとも言える。

(14)Actu:Re:Actu-Re-ality

この複数化の作業と似たようなことを、飯盛の「Re:Actu-Re-ality」(p.59)という言葉を用いて表すこともできるだろう。

飯盛は、「Actu-Re-ality」(入不二自身の説明はp.6)という言葉を取り上げる。これは、入不二の現実論における現実性と実在性の関係性をコンパクトに表す入不二の造語であり、「Re」が象徴する実在性の高低差の反復を、「Actu」が象徴する現実性の力が貫いていることを表すものである。(正確には「Re」はモノ性、つまりマテリアルとしての潜在性も意味している。だから、これは〈潜在性〉と同じ表現であるとも言える。)

飯盛は、この言葉に、「Re:」を付け加えることで、「破壊的・転覆的な高低差の反復のなかに、現実性の力そのものを投げ入れる」(p.59)という事態を表現しようとする。つまり、「現に」の現実性に対する「実は」の実在性の逆襲である。

だが、僕はその逆襲は、一時的には飯盛が論じるようなかたちで成功しても、完遂はできないように思える。なぜなら、そのような逆襲も、「現に」逆襲だからである。または、飯盛の逆襲が成功したとたんに、その状況が「現に」そのような状況である、となってしまう。だから、更に「Actu:」を加え、「Actu:Re:Actu-Re-ality」となる。

当然、飯盛は、それに対しても破壊を試み、きっと、その破壊は一時的には成功するだろう。だが、すぐにも現実性の力は及んでしまう。だから、この「Actu:」と「Re:」の反復は無限に繰り返される。

重要なのは、この反復は対等ではなく、形而上学的構造として論ずる限り、最終的には「Actu:」が最も外側に書かれなければならない、という点である。なぜなら、このような反復を駆動するのは、現実性の力だからである。だから「Actu:Re:Actu-Re-ality」なのである。

では、最終的に「Actu」が勝ってしまうなら、飯盛と僕が行った「Actu-Re-ality」から「Actu:Re:Actu-Re-ality」への拡張は全く無意味だったかといえば、そんなことはない。入不二の「Actu-Re-ality」における「Re」の反復とは、具体例を伴う自然学的反復である一方で、「Actu:Re:Actu-Re-ality」における「Actu:Re:」の反復は、具体例を伴わない、抽象的な形而上学的反復だからである。

飯盛と僕は、新たに形而上学的反復を見出し、形而上学的領域において、反復というかたちでの複数性を確保することができたのである。

僕は、ここまで、入不二の現実論において、いかにして複数性を確保するかに腐心してきた。

入不二の現実論とは、つまり、無内包の現実性と無限内包の潜在性だから、どこにも具体的な内包が登場する余地がない。複数性が確保されるためには、二つの要素を区別できなければならないが、その手がかりとなる内包がどこにもない。それにも関わらず、入不二は実在性などというものを登場させ、二項間の落差などというものについて語り始めてしまう。僕はその隙間を埋めようと色々と考え、ようやくここで、形而上学的反復というかたちで複数性を見出すことができたのである。

なお、ここまで色々粘ってきたけれど、当然、すべての問題を解決することはできなかった。考えれば考えるほど、形而上学者入不二と、自然学者永井の断絶は大きい。僕は入不二に形而下の自然学の領域に降りてもらおうと色々努力したのだけど、どうもそれは道半ばになってしまった。

4 おまけ

(1)入不二の分有型〈私〉の問題

ここまでで、ほぼ僕の問題と僕の提案については語り尽くしたのだけど、ちょっと気になったので『アップデート』で入不二が提案した「分有型〈私〉」の問題について考えてみたい。

『アップデート』は永井の〈私〉の独在論についての本だから、ワークショップの質疑応答でも、入不二が提案した、この新しい〈私〉には大きな関心が向けられている。

だが、この関心の高さに比べ、この提案の哲学的含意はそれほど大きなものではないと思う。なぜならこれは、あくまで「虚焦点」(p.74)だからである。

僕の印象に過ぎないけれど、入不二にとっては、力としての現実性とマテリアルとしての潜在性の二元論がすべてであり、その他のものは、それが永井の〈私〉であれ、〈現在〉であれ、すべてが虚焦点であると考えているように思える。まるで、ある瞬間、幻として立ち上がる蜃気楼のように。そして、「分有型〈私〉」も、このような虚焦点のひとつに過ぎないのである。

だが、僕には、「分有型〈私〉」が虚焦点であるということには、入不二が込めている以上の意味があるように思える。

なぜなら、分有型〈私〉は、その他の永井の〈私〉や〈現在〉といった虚焦点と異なり、一時の幻としてさえ立ち上がることがないからである。その意味で、分有型〈私〉は、より虚性が高い虚焦点なのではないか。

永井の〈私〉や〈現在〉は、それが十分な捉え方かどうかはともかく、とにかく、幻であっても、そう捉えることは可能であるという感覚がある。だが、分有型〈私〉には、そのような感覚さえ抱くことができず、どうもピンとこないのである。

それはなぜかといえば、永井の〈私〉や〈現在〉は、自然学的な虚焦点であるのに対して、入不二の分有型〈私〉は形而上学的な虚焦点だからなのだろう。

認識や言語による把握ではなく入不二哲学の構造に基づく概念操作によってのみ導くことができる虚焦点だから、「確かに言われてみれば、そう言えそうだけど、どうもピンとこない。」という感想を抱くことになるのではないか。

入不二は、純粋現実性と永井の独在論的な〈私〉の間に分有型〈私〉という中間態を加えることができると言っている。(p.152)形而上学的には確かにそうであっても、自然学的には、純粋現実性(ここでは純粋潜在性と言った方がいいと思う。)から永井の独在性への移行は一挙であり、そこに中間態を挿入する余地はないと僕は考えている。

蛇足

この自然学と形而上学の対比は、入不二の円環モデルにおけるギャップの話にもつなげることができる。入不二によれば、潜在性の領域から、始発点において、何かが顕在化するためには、そこにはギャップがある。だが、そのギャップを飛び越えた後では、そのギャップは見えなくなってしまう。このギャップとは、自然学と形而上学の落差のことなのではないか。

つまり、自然学的には、認識と言語を用いて潜在性の領域から円環モデルの始発点に至る道を描くことはできないが、一旦、そのような概念構造を円環モデルとして描いてしまえば、形而上学的にその概念構造を自在に活用し、始発点から潜在性の領域にダイレクトに遡ることさえできるということである。

そして、入不二が見出した分有型〈私〉という虚焦点とは、円環モデルを一周描き、完成させたうえで、始発点から潜在性の領域に遡り、潜在性の領域から始発点を透かすように眺めたときに、初めて見出すことができる虚焦点なのである。

(2)谷口は哲学を語る

最初の方で述べたとおり、この文章での最も重要な点は、無内包の現実には二通りの捉え方がある、と指摘したことにある。

最後に、あまり登場しなかった谷口に登場してもらって、二つの「無内包の現実」の関係性について論じ、この文章を終わりにしようと思う。

僕は、『アップデート』第Ⅱ部4における谷口の議論には、この二つの無内包の現実を統合するためのヒントが含まれているように思える。どうやって統合するのかといえば、人生を生き、哲学を語ることによってである。

まず、谷口は「山括弧は人生全体を可能にするという仕方で、真に人生に相捗っている」(p.283)とする。この山括弧とは永井の独在性であり、僕の図で言えば、人称的世界のなかに点として存在する無内包の現実である。つまり、左の図に描いたような点としての無内包の現実は、人生を生きることで、人称的世界と関係づけられる。つまり、無内包の現実つまり独在性を人称的世界全体に及ぼすことができるのである。これはつまり、左の図を起点とし、そこから派生するようにして右の図を描くことであり、永井の無内包の現実から、入不二の無内包の現実へと接続することだと言っていいだろう。これが人生を生きるということであり、きっと、永井もこのような道筋は認めるだろう。

だが、永井はこの逆を認めない。これが、永井が一方向性として示した問題であり、『アップデート』でも取り上げられ、入不二が第Ⅰ部で論じている問題である。つまり永井は、右の図を起点とし、そこから派生するようにして左の図を描くことは不可能とし、それを認めないのである。

だが谷口はこれに対して、「哲学者もまた、語らねばならない。」(p.290)と述べる。詩人が無言のままではいられないように、哲学者も、たとえそれが語ることが不可能なことだとしても、それを語らずにいることはできないのである。なぜなら、語らなかったら哲学者ではないからである。哲学者が哲学者であるためには、不可能だからといって語ることを放棄することはできない。だから、哲学者は、右の図を起点とし、そこから左の図を描けるのでなければならない。

これは、哲学者の生き方についての主張であるという点で、極めて倫理的な主張だと言ってもいいだろう。哲学者ならば、そこに語るべきことがある限り、それがたとえ不可能なことであっても語らなければならない。それならば、永井の一方向性を打ち破り、右の図に示された入不二の無内包の現実から、左の図に示された永井の無内包の現実に至る道筋があると論ずることは、真ではなくても、善なのである。

僕は谷口の主張をそのようなものと解釈した。

蛇足の蛇足

最後と言いつつ、ちょっと蛇足。

僕は、自然学的には外から内へ、という向きしかありえず、内から外へという向きは形而上学的にしかありえないと述べた。そして、僕の谷口解釈によれば、形而上学的な正しさは、それが真だからではなく、それが哲学者にとって善であることで確保されていることになる。

この内から外へ、という形而上学的な思考の向きがよく現れているのが、(飯盛が述べ得る)メイヤスーの偶然性だろう。この偶然性とは、きっと、既知の内から未知の外への偶然的な飛躍のことである。

だから、メイヤスーを評価する飯盛の破壊論も、外から内への破壊という側面があると同時に、内から外への飛躍という側面がある。飯盛は、破壊を論じる文脈で可能世界論を用いる(p.51)けれど、現実世界の内側から可能世界の外側へと飛躍し、飛び出していくイメージを喚起することもできるだろう。

世界の中の主体の立場に立つなら、これは現実世界から可能世界への主体の飛躍、つまり内から外への飛躍である。そして、世界の立場に立つなら、これは可能世界の現実世界化であり、つまり外から内への破壊である。

このように、自然学と形而上学を対比し、破壊と飛躍を対比することで、内から外へ、外から内へという双方向の向きが、交差するようにして成立しそうである。

そして、この双方向性は、自然学と形而上学という議論領域、過去・未来という時制、物(非他者)・他者という人称、更には真と善という価値など、様々なかたちで広げていけそうである。重要なのは、完全には重ならず、あくまで交差するというイメージである。

だが、これ以上語るのは、さすがに蛇足すぎるだろう。

5 最後に

冒頭で僕は、サニーデイ・サービスの桜super loveという曲を紹介した。

きみがいないことはきみがいることだなぁ

桜 花びら舞い散れ あのひとつれてこい

哲学的にこの歌詞で重要なのは、「きみがいることはきみがいないことだなぁ」ではなくて「きみがいないことはきみがいることだなぁ」であり、つまり「いる」が優位にあるという点にあると思う。目に見えなくても、それが君じゃなくても、とにかく何かがある。そのような根源的な肯定性を見出すことができるように思えるのだ。

そして、永井の独在論も、入不二の現実論も、とにかく何かがあるという根源的な肯定性について論じているという共通性があるように思える。

だが、飯盛の破壊論が示しているとおり、それが論じられてきって完遂してしまったら、それは古びてしまい、根源的な肯定性は失われてしまう。

だから、「きみがいないことはきみがいることだなぁ」と歌われてしまったら、それは、きっと正しくない。この言葉が正しくあるためには、新たな歌として歌われなければならない。

だから、僕も新しい歌を歌おう。