※入不二ファンとして新刊について考えたことを書きました。28000字以上あります。

僕は入不二基義ファンなので、最近出た『問いを問う 哲学入門講義』(以下『問う』)も早速、読んだ。だが、早速と言いつつ、9月上旬に出た新書を10月下旬に読み終わったというのは、少々遅いかもしれない。正直言うと『問う』を読むのは後回しにして、自分の哲学的問題についてあれこれ考えるのを優先してしまったのだ。入不二の本は刺激が強すぎるから、僕の中の哲学的思考が影響され、変容してしまうのを避けたかったのだ。(更に、読んでから、この文章を書き終わるのに2~3週間かかってます。)

そうこうして、まあ、自分のことにも区切りがついたので、ようやく読んでみたら、やはり色々と考えてしまった。この文章では、その僕が考えたことを中心に書き残しておきたい。

前半は、この『問う』という本の位置づけについて、後半は、この本の具体的な内容について、である。

1 『問う』という本の位置づけ

(1)入門書ということ

ア 『問う』の先にあるもの

この『問う』という本の位置づけは、そのサブタイトルが「哲学入門講義」であるとおり、入門書だ。そのうえで入不二は冒頭で、「「入門からその先まで」を幅広くカバーしている。」(p.9)としている。

なぜ入門書なのかといえば、哲学初学者向けに入不二が行っている授業をベースにしているからであり、そして、ネーゲルの『哲学ってどんなこと? -とっても短い哲学入門-』(以下、『どんなこと?』)という入門書に沿った内容となっているからである。実際、読み進めてみても、哲学者の名前は登場せず、また、説明抜きで難しい哲学用語が用いられることもないという点で、入門書であるのは確かだろう。

ただ、入不二が「入門からその先まで」カバーしていると述べているとおり、単なる入門書に留まらない手応えがある。では、どの程度、その先までカバーしているのだろうか。そんなことが気になりつつ、僕は読み進めた。

僕は若い頃、スキーやスノーボードが好きだったので、難易度について考えるとき、スキー場のことを思い出してしまう。なだらかに広がる平地のような初級者コース、斜度があってスピードが出る中級者コース、斜度だけではなくコブだらけの上級者コース、といったように。(今もそうかわからないけど、スキー場の地図は、初級者コースは緑、中級者コースは赤、上級者コースは黒に色分けされていた。)

この『問う』は、緑で塗られた初心者・初級者コースであることは確かだけど、中級者や上級者でも楽しめる。きっと、入不二はそう考えて「入門からその先まで」としているのだろう。実際、この本には、上級者であっても、楽しめそうな記述が散りばめられている。スキー場のなだらかな初級者コースであっても、ところどころにジャンプ台が設置されていて、上級者でもジャンプをして楽しめるようになっているようなものだろう。

ただし、『問う』があくまで初級者向けであるならば、一方で初級者お断りのコブ斜面のような、マップ上は黒く塗られた上級者コースがあるはずだ。入不二は、何が上級者コースであると考えたのだろう。そんなことが気になりつつ、僕は読み進めたのである。

その答えはこの本の最後にあった。入不二はこう言っている。「時間についての問いが、問われねばならない。」(p.289)

つまり、『問う』は、時間論という上級者コースに対比する意味での初級者コースなのである。初級者コースで一通りの滑り方を覚えたら、次は、時間論という上級者コースが待っているよ、ということだったのである。これまで入不二は『時間は実在するか』、『時間と絶対と相対と』といった時間論についての本を書いており、また、運命論も時間論の発展形だとしていいならば、『あるようにあり、なるようになる -運命論の運命』という本もある。単著としては最新刊となる『現実性の問題』はタイトルのとおり現実性を取り扱った本だが、これは時間論を正面から書かないことで、あえて時間の問題を浮かび上がらせているとも言える。それは、共著としての最新刊である『〈私〉の哲学をアップデートする』における、潜在性に特有の時間性(p.235以降)の議論を読めば明らかだろう。

入不二は、入門書である『問う』を読了した者に対して、上級者コースである、自らの時間論の世界に進んでいくことをいざなっているのである。

イ 非線状的な時間

 『問う』とは、時間論以前の基礎技術をひととおり身につけるための入門書である、と規定するならば、『問う』において、最も時間論に接近し、コブ斜面一歩手前まで近づいているのは、死後の無について論じるなかで「非リニアな時間」(p.262)が持ち出される箇所だろう。入不二は、死後に無に「なる」ことと、死後は無で「ある」ことを対比し、「なる」とは死ぬ前と死んだ後とを関係づけることであり、そして、「ある」とは死ぬ前と無関係な死後を描写することであるとする。そのうえで、「なる」と「ある」とを両立させるような時間描写を、「関係と無関係の捻じれを含んだ時間」(p.262)であるとする。これが非リニアな時間、つまり、非線状的な時間である。

上級者コースならば、この時間の捻じれの問題を更に掘り下げ、一冊の本を書くことになるのだろう。『あるようにあり、なるようになる -運命論の運命』という本は、実際、そのような本だろう。タイトルのとおり、「なる」ことと、「ある」ことを対比し、論じた本である。

だが、『問う』においては、入不二は、それ以上は掘り下げず、非線状的な時間という問題提起をするに留め、線状的な時間をベースとした議論に戻っている。『問う』は入門書だから、入不二はそのようにしたのである。

『問う』が入門書にしては歯ごたえがありすぎて、哲学には、その先にどんなにすごい世界が待っているのだろう、と怖気づいてしまった方は、待っているのは、非線状的な時間の問題だよ、と考えれば多少は安心するのではないだろうか。僕自身は、そう考えることで多少、安心した。

(2)越境する入不二

もうひとつ、『問う』という入門書にしては妙に歯ごたえがある本を理解するうえでの補助線となるものがある。それは入不二の「壁抜けしつつ留まる猪木」(以下、『猪木』)という文章である。

『猪木』は『問い』と同時期に刊行された『アントニオ猪木とは何だったのか』という様々な分野の猪木ファンの文章が集められた新書に入っている文章で、入不二もその一人として文章を寄せている。入不二はプロレスファンで、プロレスについての文章も書いているし、自らも中年になってからレスリングを始めている。そんな流れで書かれたであろう『猪木』では、アントニオ猪木という存在の凄さが一格闘技ファンの目線から活き活きと描かれている。

だから『猪木』は哲学濃度低めな文章なのだが、あえて哲学的な観点で読むならば、この文章のテーマは「越境」だと言っていいだろう。『問う』の付録として掲載された文章でも地平線が比喩として用いられているとおり、入不二哲学において「境界を越える」ことは重要なキーワードである。

アントニオ猪木の魅力は、プロレスとしてのルールや暗黙の了解を軽々と越境してしまうところにある。要するに「型破り」なのである。型を破ることは当然悪いことであり、非難されるべきことだ。だが、そんなこととは無関係に、ただ、現に、猪木は型に収まりきらなかった。そこには、ルール違反を非難するジャッジやプロレスファンの声を超越した、あっけらかんとした肯定性がある。こうして、ネガティブなものであるはずの「越境」を、ポジティブなものとして再発見したという点が、『猪木』のひとつの成果だろう。

そして、僕が指摘したいのは、入不二自身が、猪木的越境を『問う』において行っているということである。

まずもって、『問い』は、正直、その内容の濃さからして、全然、入門書ではないと思う。もし、『問う』のようなレベルで大学の一般教養の授業が行われているとしたら、その内容を全て理解できる学生は一握りではないだろうか。入不二は、入門書という枠や、初学者向けの講義という枠を軽々と越境してしまっているのである。

(あくまで想像だが)入不二に対して、これでは入門書ではないではないか、初学者向けの講義ではないではないか、と苦情を述べても、きっと、気にも留めず、軽くいなすだけだろう。それはまさに猪木的態度であり、入不二と猪木は重なっている。

※ 猪木的態度とは、無関心で不誠実な態度である。首尾一貫しておらず不整合だけど、そのことを気にも留めない。そのろくでもなさが魅力なのである。

だからといって、入不二の『問う』が、初学者にとって面白くない訳ではない。猪木のプロレスが、その全てを理解できなくても、ただ面白かったように、入不二の『問う』も、その全てを理解できなくても、ただ面白い。

きっと、それは、この越境性がプロレスと相性がいいように、哲学とも相性がいいからなのだろう。入不二があとがきで「門をくぐったら、すぐ核心!」という学生のコメントを取り上げている。きっと、哲学はそういうあり方しかできず、その前では、入門書、初学者向け、という、読者を守るための防御壁は役には立たず、軽々と越境されてしまうしかないのだ。

また、この入不二の越境については、別の角度からも捉えることもできる。それは学問としての哲学という枠組みからの越境である。入不二は『問う』において、学問としての哲学という枠組みも軽々と越境しているのだ。

入不二に怒られそうだけど、この『問う』という哲学入門書は、これまでの哲学者が考えたことについて学術的に勉強しようとする初学者にとっては、あまり役に立たない。確かに、『問う』では伝統的な様々な哲学的立場が取り上げられているし、その立場の違いが鮮やかに描き出され、理解の助けにはなる。だが、『問う』で描かれている哲学上の諸立場は、あくまで、入不二が自らの議論を掘り下げていくために用いている、入不二のための道具でしかない。そこで行われているのは、既存の哲学の勉強ではなく、入不二流の哲学の実践である。

更に言うと、入不二の哲学は、正直、既存の哲学の伝統から、かけ離れている。哲学研究者から見たら、入不二の哲学は、◯◯という哲学者が考えたことに近い、とか、◯◯という哲学者的に解釈することもできる、といった分析ができるかもしれないし、すでになされているのかもしれない。だけど、少なくとも、入不二自身はそのようなことは述べない。きっと、入不二は、哲学研究者として哲学業界に身を置きながら、既存の学問領域としての哲学には、とらわれていないのだろう。これは哲学という学問領域からの越境である。

僕には、この越境性こそが哲学だという思いがある。僕が入不二の哲学を好きだから、そう思う面もあるが、それだけではない。もし、入不二の哲学が僕に合わなくても、僕は入不二の越境性だけは評価しただろう。なぜなら既存の哲学の伝統にとらわれないことこそが哲学だと思うからである。哲学とは越境するものなのである。

『問う』という哲学入門書は、少なくとも、二回越境している。まず、入門書という枠組みからの越境であり、そして、既存の哲学という枠組みからの越境である。これらの越境が、『問う』が本物の哲学書であることを遂行的に示していると思う。

(3)入門書としての配慮

だが、入不二は、『問う』の主たる読者層であろう哲学初学者に配慮していないという訳ではない。逆に、かなり配慮している。

まず入不二は、哲学初学者が哲学をするにあたって重要なことを、いくつか述べている。

僕が重要だと思ったのは、まず、タイトルになっている「問いを問う」という姿勢であり、そして、第1章で高校の倫理の授業と比較するなかでの「思考の運動を自分で実際に体験することができなければ、それは「哲学」にならない。」、「いまも流れているのでなければ、それは(思想ではあっても)「哲学」ではない。」(p.18)という言葉である。

入不二は、「問いを問う」という言葉に、問いの遡及性(p.11で「遡り続ける」としているあたり)や、問いのレベル差(p.34)を読み込んでいる。(遡及性については、無理数の証明の話とコギトがともに「そこへと達せざるを得ない出発点」であるとしている箇所(p.317の注記)は読み飛ばしそうだけど、鮮やかな説明だと思う。)

それに加え、「問いを問う」という言葉には、どこかの見知らぬ哲学者が語った死んだ「問い」を自ら「問う」ことで再活性化させる、というような意味合いもあるように僕は思う。倫理の教科書に載っている名詞としての哲学者の「問い」を、外在的な知識として捉えて終わりにするのではなく、その「問い」の内部に入り込み、動詞として自ら「問う」ことで、哲学を遂行するのである。タイトルに言葉を補うならば「(外的な)問いを(内側から)問う」のである。それが、入不二が言う「思考の運動を自分で実際に体験する」ということだと思う。

入不二が考える、哲学を始めるにあたって必要な知識は、ここで僕が挙げたものが全てではないだろう。だが、それほど多くはないだろうとも思う。

例えば、『問う』では、第2章以降、クオリアといった哲学的概念や、物理主義といった哲学的立場など、様々な哲学用語が登場するが、これらは哲学を始めるにあたって必須のものではない。なぜなら、これらの哲学用語は、入不二が哲学初学者に向けて哲学を実演して見せる際に登場する材料・道具でしかないからである。『問う』で入不二が読者に伝えようとしているのは、哲学用語ではなく、哲学すること、そのものでなのである。

『問う』において入不二がしているのは、哲学の実演販売のようなものだと言ってもいいだろう。または、料理や伝統工芸の師匠が、弟子の前で黙々と作業を行い、弟子はそれを後ろから見て学んでいる状況にも似ている。僕たち読者は、入不二が哲学をする場面に接し、それを内側から追体験することで、哲学することを学んでいくのである。

そこで学ぶべきは、料理人の師匠が用いる魚や卵といった食材や、包丁や鍋といった道具ではなくて、師匠の手さばきである。同様に、入不二から学ぶべきは、クオリアのような概念や、物理主義のような哲学的立場ではなく、哲学者の手さばきである。哲学用語は、あくまで、哲学を学ぶための道具であり、哲学そのものではない。入不二が伝えることのできる哲学は入不二の手さばきの中にしかない。

(4)入不二の手筋

だが『問う』における入不二は背中を見て学ぶことを弟子に強いる古めかしい師匠ではない。哲学の名人が、ゆっくりと、そして大げさに、時には、自らの動きを解説しながら、サービスたっぷりに名人芸を実践して見せてくれるのである。「ほら、包丁はこうやって斜めに動かすんだよ。」なんて言いながら、普段より少し解像度を高めてくれているのだ。『問う』の前半は、特にその傾向が顕著だと思う。これも、『問う』が入門書である所以だろう。

具体的には、例えば、「内の外」「外の外」(p.45)といったように内・外という用語を繰り返し登場させ、また、「ある時には問う側の視点に立ち、またある時には答える側の視点に立って、何度もその役割を交代しながら議論が進んでいく」という「ジグザグ運動」(p.50)が何度か登場させている、といったことが挙げられるだろう。(その他にも「逆立ちの逆立ちとしての正立」なども繰り返し登場している。)

これらは、入不二の哲学では従来から多用されているし、多分、入不二の哲学に限らず、一般的に哲学をするうえで重要なものだろう。だが、普段の入不二の文章であれば、内と外をまた使ったよ、これもジグザク運動だよ、なんていちいち教えてはくれない。だが、この『問う』では初学者にもわかるように明示してくれている。

また、『問う』における独特の言葉遣いの多用も、これと関係しているだろう。「隙間(亀裂)」(p.43)、「ブレ(揺れ)」(p.50)、「侵食」(p.51)、「癒着」(p.53)、「架け橋」(p.53)、「退隠」(p.57)といった言葉たちである。これらは、入不二が述べたいことを表現するためには必要な言葉だが、正直、初学者には馴染みがなく、とっつきにくい言葉でもある。そのような言葉を、あえて多用することで、入不二は「概念の動き」という哲学に必要なことを伝えようとしている。ここで挙げたいずれの言葉も、動性に満ちた言葉であり、そのような言葉が抽象的な概念に対して用いられることによる違和感が、動性を際立たせる効果を生んでいるように感じられるだろう。だから、『問う』を読むことで「概念の動き」を体感できるのである。

念のため、概念の動きとはどういうことか、『問う』における事例ではないが、「自由」という概念で説明しておこう。

常識的には「自由」という概念には動きがない。腕を縛られて監禁されたら自由がないし、休日に旅行に行けば、仕事を気にせず自由である。これは「自由」の静的な描写である。一方で、よく考えてみれば、実は、会社の枠組みの中でしか自由でなかったことに気づき、自由が「侵食」されることもあるだろう。または、僕の自由が誰かの自由と衝突したら、自由に「ブレ(揺れ)」が生じることもあるかもしれない。「自由」という、揺るぎなく、静的と思われた概念も、よく考えてみることで、侵食されたり、ブレたりと、概念は動き始めるのである。

この例は、『問う』と同じ言葉遣いなだけで、はるかに浅い話なのは確かだ。だが、「自由」という概念が動き始め、そこから哲学が始まろうとしているという点では、本質は外していないと思う。よく考えることで、概念が動き、そこから哲学が始まるのである。

入不二は、このことを体験してほしくて、動きに満ちた独特な言葉遣いを、あえて多用しているのだと思う。

入不二は、哲学とは、「内的な思考の運動」(p.21)であると明確に述べている。だが、単にそれを言葉として書き記すだけでなく、『問う』の全体を通じて、遂行的に教えてくれているのである。

(その他にも、『問う』において豊富な図を使っているという点も、入不二による初学者向けの配慮のひとつだろう。入不二の図には、たいてい矢印が書き入れられており、それが動性をわかりやすく示している。)

2 『問う』という本全体の内容

ここからは、『問う』の内容について、僕が考えたことを書いていくけれど、総論と各論の2章に分け、まずは、総論的にこの本の全体に及ぶことについて書くことにしたい。

(1)認識論・意味論・存在論

実は、僕は、『問う』を読むにあたって、途中まで、読書の方向性をうまく定められず、戸惑いがあった。『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』というタイトルであれば、運命論について書いているだろうし、『現実性の問題』であれば現実性についての本だろう。そのようにして、入不二の従来の本は、大まかな読書の方向性を事前に定めることができた。だが、『問う』はそのような事前の方向づけが難しかったのだ。

まず、『問う』は哲学全般についての入門書だから、そもそも、特定のテーマに絞り込むような本ではない。第2章から第5章では4つのテーマが取り上げられているが、外的な世界、他者、心、死、というように、関連はあるが独立した構成となっている。だから、本全体を通じたテーマ設定が明確にならないのは当然である。

また、『問う』とは、いわば、ネーゲルの『どんなこと?』を(超!)読解する本であり、『問う』の構成は『どんなこと?』の構成に沿ったものとなっているから、『問う』の構成を決めるのはネーゲルであり、入不二は構成をコントロールできない、という点も影響しているだろう。

以上を踏まえるならば、『問う』という本について、全体を通じた読書の方向性を定めるのが二重の意味で困難なのは当然だ。

だが、僕は、読み進めるうちに、その方向性を自分なりに定めることができた気がした。というか、『問う』という本のなかに、今回の読書で到達すべき目的地点を見つけたような気がしたのだ。

それは、認識論、意味論、存在論を曼荼羅のように描いた図(p.227)である。この『問う』という本が目指してきた地点はこの図だったのではないだろうか。そう思えるほどに、この図はインパクトがあったのである。(読んでいない方は、内容はともかく、見た目のインパクトだけでも見てみてください。)

『問う』は認識論、意味論、存在論の曼荼羅図を目指していた、という僕の読解が正しいかどうかはともかくとして、この『問う』に限らず、入不二の文章を読むうえで、認識論・意味論・存在論という着眼点は役に立つ。(そんな文章を以前書いたような気がする。)だから認識論・意味論・存在論の絡み合いが、このような図で理解できたという点は、僕にとっての大きな収穫だった。

『問う』という本は、全体を通じて、この曼荼羅図のいくつかの場面に焦点を合わせ、描写したものであるとも言えるのではないだろうか。あるときには、認識論優位の場面を背景にした局地的な存在論優位の場面を切り出し、そしてあるときには、意味論優位の場面を背景にした局地的な認識論優位の場面を切り出す、というように。

僕自身は、そのように捉えることで、『問う』が少し腑に落ちたような気がする。

(2)話の順序

読書方針以外に、もうひとつ、『問う』には、僕の中でなかなか整理がつけられなかった問題がある。それは、どうしてこのような話の順序なのだろうか、という問題である。

先ほど触れたとおり、『問う』の第2章から第5章では、外的な世界、他者、心、死という順序で4つのテーマが取り上げられているのだが、なぜ、このような順序なのだろうか。

大まかに言うと、『問う』は第2章から本題に入るが、第2章は、まず、疑うところから始まる。デカルトのように、心の外の世界のあり方を疑うのである。

そして、その疑いに決着をつけないまま、「棚上げ」(p.100)し、他者の身体やふるまいはとりあえず疑わないこととし、次章の他者の心の問題に移る。

更に、第3章では他者の心にはそう簡単に到達できないことを確認したうえで、やはり問題を棚上げし、次章で、他者にも自分にも心があることを前提に、心身問題に進んでいく。

第4章でも、心(魂)と脳(身体)の問題については複数の答え方がありうるとしたうえで、一つの答えに絞らないまま、第5章の、死後も心(魂)が残るのかどうかという、死の問題に向かっていく。

はっきり言って、『問う』は棚上げばかりである。それも、大きな包括的な問題を提起しておきながら、棚上げにして、より小さな個別の問題に向かっていく、ということの繰り返しである。

僕は、この態度がどこか不誠実なものに思えてしまった。この世界自体がそもそも疑わしいという大問題を棚上げにして、世界の中の他者という一存在についての各論を考えることに何の意味があるのだろう。問題だけ指摘して先に進むというのは、そもそもの大問題に真摯に向き合っていないということなのではないか。

これは、単なる怨恨からの言いがかりかもしれない。僕は子供の頃から懐疑論者で、この世界は本当に存在するのだろうか、といったようなことばかり気になっていた。この問題は依然として解決しておらず、アラフィフになった今も、人生のスタートラインに立てていないような気分が残っている。それでも僕は、多少無理をして、とりあえず「棚上げ」し、多数派の世界に付き合って、何の問題もないかのように生きてきた。僕がこの半生を通じて強いられてきた棚上げを、やはり『問う』も強いているように思えてしまったのだ。

だが、このような文句を入不二に言っても仕方ないだろう。入不二はネーゲルの『どんなこと?』を使って授業しただけであり、この棚上げを強いるような順序を定めたのはネーゲルなのだから。文句はネーゲルに言わなければならない。

(3)存在領域

だが、順序の話は、これで終わる話だろうか。『問う』を読み終えても心のどこかにひっかかっていたのは、この疑問である。そして、この疑問の僕なりの答えが見つかったから、僕はこの文章を書き始めたとも言える。

より正確には、その答えは、入不二自身が「はじめに」で書いているのだけど、それが何を意味しているのか、ようやく腑に落ちたのである。(書いているのはpp.12-13)

入不二まず、『問う』で取り上げる4つの問いを紹介している。

①どのようにして私たちは何かを知るのか?(第2章)

②どのようにして私たちは他者の心を知るのか?(第3章)

③心と脳とはどのような問題か?(第4章)

④死んだら無になるのか、それとも何が残るのか?(第5章)

そのうえで、前半の①と②は認識論的問題であり、そして、後半の③と④は存在領域について扱う存在論的問題であり、それぞれ繋がった問いになっているとする。

読了したところ確かに繋がりはあった。でも、どうして、この順序なのだろうか。

もやもやと考えているうちに、存在論とは「存在領域」についての問題であることが重要なのではないか、と気がついた。この「問う」においては、存在領域という概念が重要な役割を果たしているからこそ、この順序だったのではないか。

以下、僕が思いついたことを書き残しておく。

第2章の「①どのようにして私たちは何かを知るのか?」という問いは、ざっくり述べると、認識は心の内側にまでしか届かず、心の外側のことはわからない、という話だと言えるだろう。当然、そう簡単にまとめられる話ではないけれど、そういう方向の話であることは確かだ。

これは、「存在領域」という言葉を使うならば、心の内側と心の外側という二つの存在領域があって、認識によっては、前者の領域までしか把握することができない、という話だと言い替えることができる。これはいわゆるデカルトの方法的懐疑である。

(なお、これは入不二の言葉遣いではない。『問う』の第2章では「存在領域」という言葉は登場せず、多分初登場は、第4章の、モノ(B)と心の内(M)という二つの存在領域がある、という話の場面である。(p.178))

きっと少なくない人にとって、この懐疑は衝撃的なものであり、根源的な問題提起だと感じられるだろう。僕自身もそうだったからこそ、第2章でデカルトの方法的懐疑という問題提起をしながら、それを棚上げして、いわば根源的な問題を無視したまま先に進むことにひっかかってしまったのである。

だが、「存在領域」というアイディアを導入することで見える情景が変わってくることに気づいた。僕のひっかかりは、あくまで認識論的な視点からのひっかかりであり、「存在領域」を論じる存在論的な視点から述べるならば、認識できても、できなくても、心の外という「存在領域」があるかないかは議論できるし、しなければならないのである。そのような意味で、認識できるかどうかと、存在するかどうかは別問題なのだ。存在論的に捉えるならば、デカルトの方法的懐疑は、認識できる存在領域と認識できない存在領域がありうることを指し示しているに過ぎず、そこから先に論ずべきことはまだまだある。

つまり、デカルトが疑ったように、いくら心の外側の認識が疑わしいものだとしても、そのような認識論とは距離を置き、存在論として、心の外側という存在領域について考察することは可能だということなのである。これは、存在論による認識論的問題の乗り越えであると言えるだろう。認識論によっては行き止まりに見えた心の外側という大問題は、存在論に土俵を移すことで、解決できないにしても、行き止まりの先に進む道筋を見出すことができるのである。

『問う』の4つの問いは、前半の二つの認識論の問いから、後半の二つの存在論の問いへ進んでいくとおり、認識論から存在論へ、という大きな流れがある。『問う』とは全体として、存在論による認識論的問題の乗り越えを描写した本なのである。

この大方針に沿って『問う』の4つの問いを捉え直してみよう。

まず、第2章の「①どのようにして私たちは何かを知るのか?」という問いから、第3章の「②どのようにして私たちは他者の心を知るのか?」という問いへ、という順序になっているのは、第2章だけでは、心の内側と外側という存在領域を描写するのに足りないからだろう。

足りないのは「私たち」という観点である。「①どのようにして私たちは何かを知るのか?」という問いの主語は「私たち」となっているが、実は、主語は「私たち」ではなくて「私」である。なぜなら、私には、私以外の他者の認識を認識できないのだから。だから、第二章では、心の内側と外側という存在領域を描写することはできない。ここで行っているのは、あくまで、「私の」心の内側と外側の議論である。

「私」から「私たち」に移行し、人類(この範囲も議論が必要だが)の全員が共有できるような「心の内側と外側」という捉え方ができるようにするためには、私の心と他者の心を同じように扱えるようにする必要がある。だから、第3章で「②どのようにして私たちは他者の心を知るのか?」という問いが持ち出され、他者の心が問題となるのである。

こうして第2章と第3章で、棚上げしつつも、なんとか「皆が共有できる心の内側と外側」という区分を成立させることで、ようやく、存在論による認識論的問題の乗り越えの準備が整う。そして、第4章以降の存在論の議論に入っていくことができるのである。(だから第4章で存在領域という言葉が初登場するのも当然である。)

だから、『問う』において最も重要な「棚上げ」は、第3章から第4章に移るための「棚上げ」であり、この棚上げにより、認識論から存在論へと議論を移行することができるのである。心の内側の認識の問題から、心の内側の存在の問題への移行である。(認識を通じた存在の把握の問題から、認識にとらわれない存在(領域)自体の問題への移行と言ったほうがいいかもしれない。第4章における「他者のクオリアの体験不可能性は、懐疑論のためにではなく、二元論の論拠として使われる。」(p.188)という方針の変化が第3章以前と第4章以降の違いを象徴している。)

なお、存在論について論じる第4章と第5章は、総論と各論の関係にあると言っていいだろう。第4章において「心の内側と外側」という存在領域についての存在論全体を素描し、第5章において、そのような存在論を死という限定された状況に適用してみせているということである。なお、第4章から第5章への移行にあたっても、棚上げの問題はつきまとっている。だが、これは、総論が不十分でも各論に移り、より具体的な議論を行うことで、総論のほうも理解が深まる、という比較的わかりやすい、テクニカルな棚上げだと言えるだろう。

当然、以上のような「存在論による認識論的問題の乗り越え」に着目した理解の仕方は『問う』を一面的にしか捉えられていない。入不二はこのような単純な論じ方はしておらず、認識論、意味論、存在論は絡み合い、互いに乗り越えあうような関係性があると言うだろう。その証拠に、明確に、認識論、意味論、存在論の曼荼羅図(p.227)も描いている。この曼荼羅図に即すならば、この節で僕がやったことは、存在論優位の場面を背景として、認識論と存在論の絡み合いを描写するという、曼荼羅図の一部を切り出すような作業であったと言えるだろう。あくまでこれは一面的な描写であり、その他にも様々な描写の仕方があることを忘れてはならない。(例えば、認識論優位の場面を設定し、私の認識から他者を含めた共通の認識に移行することを拒否するという道筋がありうる。)

だが、このように捉えることで、入不二とネーゲルが、このような順序で本を書いた動機を理解できたのは成果だと思う。きっと二人とも存在論が大好きだから、存在論優位の場面を背景として、認識論と存在論の絡み合いを描写したかったのである。

(4)存在領域その2

前節で述べたことを理解いただいたとしても、どうして僕が「存在領域」という言葉を重要視しているのか、イマイチわからない方もいるかもしれない。存在領域という言葉を使わなくても、認識論と存在論の絡み合いを描写することはできそうだし、単なる言葉の選び方の問題だと思うかもしれない。この節は、それ以上の問題を感じない方は読み飛ばしてもらっていいだろう。僕の個人的な事情から「存在領域」という言葉を重要視しているだけかもしれないので。

僕は、『問う』で存在領域という言葉に出会うまで、存在論というものを明瞭に捉えることができていなかった。例えば、以前、認識論・意味論・存在論の絡み合いについて書いたことがあるのだけど、そのときにも、存在論とは、認識論でも意味論でもないもの、というように消極的にしか規定できないとしていた。五感による知覚や、言葉の意味の問題ではないものすべてが存在論である、という捉え方である。

このような捉え方は、何も漏らさないという意味ではよいものだと思うけれど、3つの論の絡み合いを描写するためには好ましくない。どうしても、「その他全て」と結びついている存在論が優位に立ってしまい、あの曼荼羅図のような対等の絡み合いが描けないのである。

僕は存在論が好きだから、まあ、存在論が最終的に優位に立つのはいいのだけど、もしそうだとしても、ある限定的な場面では、認識論や意味論と存在論を絡み合わせ、認識論や意味論が存在論より優位に立つような場面を描けるのでなければならない。だが、もし存在論を消極的にしか規定できないとしたら、認識論や意味論は何に対して優位に立ったと言えるのだろうか。

そんな問題を抱えたままでいたところ、『問う』で「存在領域」という言葉に出会い、そうか、これか、と思ったのである。

存在論とは、存在領域についての議論なのである。「どこ(Where)」の議論であると言ってもいい。てっきり僕は、存在論は「何が(What)」の議論だと思っていた。だが、認識論だって「何が見えるか。」を問題とするし、意味論だって「何を意味するか。」を問題とするので、そこに違いを見出すことはできない。しかし、存在論とは、存在領域を扱い、「どこ(Where)」について議論するものであると捉えることで見通しがよくなる。(多分、認識論は「どのように(How)」で、意味論は「何が(What)」の問題を扱っている。)

例えば、「(眼の前にあるリンゴを指して)これは何なのか?」という問いは、それだけでは何を問題としているのかわからず、答えようがないが、「これは、どこ(どの存在領域)に存在するのだろうか?」という「どこ(Where)」の存在論の問いとして解釈するならば、心の外の物質的な領域にある、心の中の心的な領域にある、イデア界にある、といった答えが可能になるのである。

同様に、「これは、どのようなものなのか?」という「どのように(How)」の認識論の問いであるとすれば、「赤くて丸いものである」といった答えが可能になる。 また、「これは何と呼ばれるものなのか?」という「何が(What)」の意味論の問いであるとすれば、「リンゴと呼ばれるものである」といった答えが可能になる。

このように捉えることで、存在論を、認識論や意味論から明確に区分することができるようになる。そして、存在論が認識論や意味論と絡み合う姿を明瞭に描くことができるようになる。

(この例が若干不自然なものになってしまうのは、曼荼羅図のように、認識論・意味論・存在論は複雑に絡み合っており、そのうちの一つの論を純粋なかたちで取り出すのが難しいからだろう。また、「これは何なのか?」が読みようによっては意味論的な問い(の省略形)として成立してしまい、「リンゴである」という意味論的な答え(の省略形)が可能となってしまうのは、この僕の文章が言葉で書かれたものであることから、どうしても意味論優位になりがちだからなのだろう。)

とにかく、存在論という言葉が登場したとき、あ、これは存在領域の問題であり、「どこ(Where)」の問題なのだな、と思い出すことで、少なくとも僕は、認識論・意味論・存在論にまつわる議論の輪郭を鮮明に捉えられるようになったように思う。

(正確には、後述する、入不二の現実性や潜在性、そして永井の独在性といったものを存在論に含めない限り、かなり存在論の輪郭は鮮明になったと思う。特に、現実性は「現に存在している」というかたちで混入しやすいので注意が必要。)

(5)独我論

存在領域の話から派生するけれど、『問う』を通じて存在領域という捉え方を学ぶことで、僕の独我論についての理解も深まった。独我論についての入不二によるわかりやすい説明は第2章(pp.67-68)にあるので、それに付け加えるかたちで述べておきたい。

僕は懐疑論者だから、第2章で論じられるように、「僕の認識は、僕の心の外側には届かない」というところから、心の外に対する懐疑論に進むことは僕はよく理解できる。認識により確かめようがないものを懐疑するのは当たり前である。以上。だが、独我論は更にその先に進む。心の外はわからないのではなくて、無いんだと独我論者は主張する。これは無根拠な主張であり、異様な主張である。懐疑論者である僕は、これまで、独我論者がどうしてそんなふうに考えるのかがわからなかった。

だが、存在領域を問題とする存在論の土俵で捉えるならば、どう認識するかどうかに関わらず、心の外という存在領域は、成立しているか、成立していないかのどちらかでしかない。

それならば、大多数の常識的な人たちが、全く無根拠に心の外という存在領域が成立していると考えているのと同様に、独我論者が、全く無根拠に心の外という存在領域が成立していないと考えても全く問題はない。存在論では認識という材料を使えないのだから、常識人も独我論者も、どちらも無根拠で引き分けである。

僕は、そのどちらでもなくて懐疑論者だったけれど、それはつまり、存在論にコミットしないという立場である。懐疑論者には存在論を論じる資格がないと言ってもいい。僕が存在論にコミットし、存在論を論じるためには、常識的な立場か独我論のどちらかに立たなければならないのである。(または、存在領域にコミットしたものならば、それ以外の第三の立場でもいいだろう。)

そのように考えるならば、独我論者は、僕のような懐疑論者に比べ、存在論に真摯に向き合っていたとも言えるのである。

そして、『問う』では、更に、死後の魂を論ずるなかで「不合理ゆえに我信ず」(p.265)という言葉も登場させている。死後も魂が存在する証拠がないからこそ、それを信じるという不合理な態度である。同様に、心の外の領域が存在するという認識論的な証拠がこれほど揃っているからこそ、独我論を信じ、心の外という存在領域の成立を否定するという不合理な態度を選択することもできそうだ。

ネットで簡単に調べてみた限り「不合理ゆえに我信ず」とは、神の信仰についての議論で用いられるものであるようだ。神を信じる信仰の態度と合理性とは相性が悪い。なぜなら、もし合理的な理由に基づいて神を信じるとしたら、それは信仰ではなく、当たり前の日常の判断でしかないからである。神への信仰が特別なものとするためには、合理性から離れなければならない。だから「不合理ゆえに我信ず」となる、ということのようだ。

同様に、心の外の存在については、認識論的には肯定的な材料が揃っている。だから、合理的に考えるならば、認識論に基づいて心の外は存在すると考えるのが普通だろう。だが、認識にとらわれない本当の根源的な存在を捉えるためには、特別なやり方が相応しい。そして、その特別なやり方には、合理性ではなく不合理性が相応しい。そのような考え方から、「不合理ゆえに独我論こそが正しい」という結論を導くことができるのである。

とりあえず今のところ僕は独我論者ではないけれど、『問う』のおかげで独我論者のことが少しわかったように思う。

(6)『どんなこと?』との違い 倫理・価値の扱い

『問う』を全体的に論じるこの章の最後に、ネーゲルの『どんなこと?』と入不二の『問う』との関係について述べておきたい。

手元の『どんなこと?』を開くと、この本が扱っている九つの問題が書かれている。(p.7)

1 私たちの心を超えた世界を知ることができるのか。

2 他人の心を知ることができるのか。

3 心と脳の関係はどのようなものか。

4 いかにして言語は可能になるのか。

5 私たちは自由意志をもっているのか。

6 道徳の基礎はどのようなものか。

7 どのような不平等は正しくないのか。

8 死とはどのようなものか。

9 人生には意味があるのか。

入不二は、「はじめに」で述べているとおり、「十分に紙幅を割いて詳述できるよう」(p.12)このうち、1から3までと8を選び、『問う』で論じている。

では、入不二は何を論じなかったのかというと、明らかに、自由意志、道徳、不平等、人生の意味といった価値や倫理の問題である。つまり、入不二は単に紙幅の都合から絞ったのではなく、意図的に価値や倫理の問題を除外している。入不二は、価値や倫理の問題を論じないことで、入不二の、価値や倫理に対する態度を明確にしたとも言える。

いや、入不二は第5章で死を論ずるなかで価値の問題を取り上げているとは言えるだろう。だが、読み比べてみると、この章は、ネーゲルと入不二の違いが顕著に出ている。ネーゲルは、死を論ずるうえで前提となるだろう死後の魂の存在の問題を比較的あっさりとやりすごす一方で、入不二は、そこにこだわっている。一方で、ネーゲルは、『問う』よりも短い紙幅のなかで「死は、積極的であれ、消極的であれ、どんな価値を持つこともできない」(p.127)と、死の価値の問題の広がりについて言及している。一方で、入不二は、「価値評価」を苦痛と快楽の問題と直結させ、極めて限定的なかたちでしか取り上げていない。(pp.271-272)やはり、入不二の描写は価値や倫理の問題に対して淡白なのである。

多分、入不二は、価値や倫理の問題に興味がなく、意識的に距離を置こうとしている。エピクロスの「死は悪いものではない」という、明らかに価値に関する主張を「教訓(?)」としているのは、その最たるものだろう。(p.241)

だが、従来の著書では全く価値や倫理の問題について述べてこなかった入不二が、ネーゲルにひきずられてであっても、価値や倫理について言及したことは、入不二ファンにとっては重要だ。

それは、端的な無としての死は、訳もわからず、なぜだか恐ろしい、としている箇所(p.280)であり、そして、存在すること(生)は、とにかく端的によいことである、としている箇所(p.287)である。これは、死には端的なマイナスの価値があり、生には端的なプラスの価値があるという指摘である。

だが、入不二は、この端的なマイナスやプラスの価値の存在を積極的に主張しているのではないだろう。これは、価値論を論ずるためには、死の端的なマイナスと、生の端的なプラスが成立していなければならない、という、価値論が成立するための条件について述べていると僕は理解した。価値論とはすべて、この生と死の端的な価値の成立を前提としており、すべての価値は、この端的な生と死の価値を源泉にしているということなのかもしれない。

だが、重要なのは、これらはあくまで、価値論を成立するための条件の話なので、生と死の端的な価値さえも成立しておらず、価値論がすべて成立しなくても、それで一向にかまわないということである。僕が読み取ったのは、入不二のそういう無関心である。

なぜそのように考えたのかというと、入不二は、価値や倫理が生じる手前だけに強い関心があるように見えるからである。

価値を論ずるためには、まずは、心の外の世界が成立していて、そこに心を持った他者がいて、心(魂)の在り処が明確になっている必要がある。更には、『問う』ではあまり取り上げられなかったけれど、リニアな時間が流れている必要がある。それらの舞台設定がすべて整えられ、常識的な世界観についての共通認識が形成される必要がある。

こうして議論の土俵が設定されてから、ようやく価値を論じることができるようになるのである。入不二の関心はあきらかに土俵設定の手前にあり、つまり、入不二の主戦場は形而上学なのである。

まあ、言ってみれば、入不二は倫理学者ではなく形而上学者である、というだけの話なのだが、初学者向けの入門書でも、そのポジションを崩していないのは面白いなあ、と思う。入不二は大学の講義で『どんなこと?』を使っているそうだけど、価値や倫理を取り上げた章について、どう話しているのか見てみたい。

(入不二が『問う』で扱わなかった『どんなこと?』の4つめの問いは、「いかにして言語は可能になるのか。」であり、価値や倫理の話ではない。だが、読んでみると、常識的な世界観を前提とした、他者とのコミュニケーションの話であり、舞台設定という点では、僕が価値や倫理について指摘したことがほぼ当てはまる。)

3 『問う』という本の個別の内容

この章では、『問う』の個別の内容について考察する。これまでより、入不二自身の思考をたどると言うより、僕がそこから勝手に思いついたことを書いていく傾向が強まっているだろう。

取り上げるのは、第2章で登場する自然的態度と、第4章で登場する中立一元論である。

(1)自然的態度

「自然的態度」とは、「哲学的議論」に対になる概念で、「「哲学的議論」などとは無縁なまま営み続けられる」(p.91)、日々の日常のことである。「本能・実践・行為・実際の生活といった次元を重視する」(p.144)という説明もある。

だから、「自然的態度」の「自然」とは、自然科学の自然よりは、自然体の自然をイメージしたほうがいいだろう。「哲学的議論」は意識的に、肩に力を入れて行うものだけど、「自然的態度」は肩の力を抜いてとられる無意識の態度である、というイメージだ。

「自然的態度」は、第2章において、心の外の懐疑論に対比するようにして用いられている。懐疑論者は、哲学的議論をやっているときには、肩肘張って、心の外の世界がわからないなどと主張するけれど、議論を終え、日常生活に戻ったら、結局は自然体で、心の外に世界があるという常識的な態度で日常生活を送っているではないか、という指摘である。

僕は、この「自然的態度」はかなり重要だと思う。入不二も重視しており、「哲学的議論」と「自然的態度」とは対になっていて、それは「知」と「信」(p.94)の対ともなっている。(入不二が「哲学者の中にも、この水準・次元をデッドエンドにすることによって、懐疑論への応答は終わると考える人々もいる。」(p.144)としているから、自然的態度は、広く哲学において重要なのだろう。)

この両者の関係は、全くの対等であり、入不二がよく用いる比喩によるなら、互いに互いを包含し合おうとするようなシーソー関係にあると言えるだろう。

だから、「哲学的議論」が「自然的態度」を捉え、包含し尽くそうとしても、捉えられた自然的態度は「そのように捉えられた自然的態度」となってしまい、その外には、「哲学的議論」では捉えられない「端的な自然的態度」が残ってしまう。入不二はこれを「自然的態度は、哲学的考察の外と内に二重に現れている」(p.95)と表現している。

これは「自然的態度」の二重性であるが、もう一方の「哲学的議論」の二重性について、入不二は説明していないので補足してみよう。

「自然的態度」を重視する立場からすれば、「哲学的議論」は、あくまで、日常における一つの営みであり、日常生活と地続きに、「自然的態度」として営まれるものでしかないという側面がある。なぜなら、僕も入不二もプラトンもカントも、食事をしたり、寝たりするのと同じように、机に向かい、ペンを走らせたり、パソコンのキーボードを叩いたりしているはずだからである。つまり、僕たちは「自然的態度」により食事をしたり「哲学的議論」をしたりしている。こうして、「自然的態度」は「哲学的議論」を包含しようとする。

だが、「哲学的議論」を重視する立場からすれば、今ここで僕が行った「自然的態度」により「哲学的議論」を包含しようとする主張でさえ、「哲学的議論」として行われたではないか、という反論ができる。「自然的態度のなかで哲学的議論は行われる」という主張が捉えた「哲学的議論」とは別に、そのような主張では捉えられない「哲学的議論」が外に立ち上がるのである。これは「哲学的議論」について、「自然的態度として行われるとされる哲学的議論」と、「自然的態度の優位性さえも俯瞰的に論ずる哲学的議論」という二重性が立ち上がるということである。

このように、「自然的態度」の二重性と「哲学的議論」の二重性が絡み合っている状況は、まさにシーソー関係だと言えるだろう。

(「自然的態度」と「信」を結びつけるならば、「信」を「意味(概念)に依拠して成立する態度」(p.147)とするのは「信」の過小評価だと思う。確かに「キリストを信じる」のように特定のものに対する「信」ならばそのとおり意味に依拠しているけれど、「全てを信じる」のように限定を外すことで「信」は「自然的態度」に近づく。更に「信」という概念による限定からも解き放たれた無限定の「信」こそが「自然的態度」ではないだろうか。)

(明らかに蛇足だけど、僕自身の懐疑は根深くて、この、「自然的態度」と「哲学的議論」の絡み合い全体が疑わしいと考えている。この疑いも含め、何も成立していないのではないか、という疑いである。だから僕は入不二ファンだけど、僕の考え=入不二の考えではない。)

(2)現実性

自然的態度について、もう少し考えてみよう。

前節で自然的態度について説明する際に、食事をしたり、寝たりするような日常生活を送るような態度が、自然的態度であるとした。なぜそれを自然的態度と呼ぶかといえば、そのような日常生活を、僕たちは自然体で送っているからである。

だが、食事をしたり、寝たりするような日常生活が、自然体とはかけ離れてしまうこともありうる。例えば、ボクサーが減量のためにトマト一個をかじるだけで済ませたり、砲弾が飛び交う塹壕の中で眠りについたり、といった状況である。

また、自然的態度の中には、例えば、公園に散歩に行く、というようなレジャーも含まれるだろうが、スカイダイビングやソユーズでの宇宙ステーション滞在といったレジャーは、日常ではなく非日常である。

では、それらを自然的態度と呼ばないかといえばそんなことはないだろう。「自然的態度」とは、あくまで「哲学的議論」と対比されるべき言葉であり、その意味では、塹壕での眠りもスカイダイビングも自然的態度なのである。

では、自然体や日常生活といった言葉を使わずに、どのように自然的態度を描写すればいいのだろうか。

僕は、ここで入不二の現実性という概念が役に立つと思う。

現実性は、今のところの入不二の主著と言っていいだろう『現実性の問題』で主に扱われており、『問う』ではあまり登場しないけれど、例えば、現実性と可能性の対比というかたちで登場する。(p.68)

ここでの現実性とは、「ほんとうに存在するのは現に私だけである。」(p.67)というときの「現に」のことであり、「現実性の閉じ」(p.68)とも表現されている。なぜ「現実性の閉じ」なのかといえば、現に、それ以外の有り様が閉じてしまっているからである。

なお、この「現実性の閉じ」は、私や今といった特別なものについてだけ生じるものではない。僕は現に、2時間前に納豆を食べたし、今パソコンで文章を書いている。ここには現実性が働いていて、2時間前にキャビアを食べたという余地や、今スマホでゲームをしているという余地はなく、現実は確定している。これも「現実性の閉じ」である。

なお、「現実性の閉じ」に対比されるのは「可能性の開かれ」であるが、これは、2時間前にキャビアを食べていた可能性もある、今スマホでゲームをしている可能性だってある、というときの可能性であり、そして、「私だけではなく、他者も存在している可能性がある。」というときの可能性である。可能性により、それ以外の有り様が開かれているのである。

入不二は、「可能性の開かれ」に対比されるものとしての「現実性の閉じ」から、更に、現実性を煮詰め、純化していくのだけど、ここでは、「可能性の開かれ」に対比される「現実性の閉じ」を現実性としておこう。そのうえで、僕は、この現実性と自然的態度は重なると考えるのである。

食事をしたり、寝たりするような日常生活が自然的態度であるのは、それが自然体で行われるからではなく、それが現に行われたという点で、現実性を帯びているからなのである。だから、減量のためにトマト一個で過ごすことも、砲弾が飛び交う塹壕の中で眠りにつくことも、スカイダイビングをすることも、宇宙ステーションに滞在することも、それが現に行われたものであれば、現実性を帯び、自然的態度となるのである。現に行われたことであれば、それが現実性を帯び、自然的態度となるのである。

では、なぜ現実性を帯びたことを自然的態度と呼ぶのかといえば、現実性が閉じ、現にそれ以外の有り様がないからであろう。それ以外の有り様がありえず、あたかも自ずから食事や睡眠という行為がなされているように見えるから、自然という言葉が用いられるのではないだろうか。

イメージによる比喩を用いるならば、現実性という力により大地に深い渓谷ができ、そこに自ずから水が集まっていく状況を自然的態度と描写している、ということである。

(3)中立一元論

ここまで、現実性の話とも絡めて自然的態度の重要性について述べてきたが、この節からは、「中立一元論」(p.214)の話に移ることにしよう。

「中立一元論」は「二重様相説」とも呼ばれ、物理的な「もの」と心的な魂の一見矛盾したあり方をうまく統一的な構造で捉えようとするアイディアのひとつである。『問う』の議論の流れとしては、物理的な「もの」と心的な魂という二つの存在領域の捉え方について、二元論と物理主義(機能主義)という二つの考えが対立するなかで、第三(機能主義を物理主義と分けるなら第四)の考え方として登場する。

二元論は、物理的な存在領域と心的な存在領域という二つの存在領域があるとする考え方である。一方で、物理主義は、実は、物理的な存在領域しかないとする一元論的な考え方である。「中立一元論」は、物理的な存在領域と心的な存在領域の上位にもうひとつの存在領域があると考え、そこから、物理的な存在領域と心的な存在領域が現れとして派生的に生じていると考える。最上位の中立的な「究極の存在領域X」(p.217)から全てが説明できるから中立一元論である。

僕はこの中立一元論というアイディアはとても斬新で魅力的なものだと感じた。

だが、僕は『問う』を読む前に『どんなこと?』も読んでいる。『問う』は『どんなこと?』の解説本だとも言えるから、僕はすでにネーゲル・バージョンの中立一元論には接していたはずである。なぜ、その時に中立一元論の魅力に気づかなかったのだろうか。

そう考えて『どんなこと?』を開いてみると、かなり違う。

『どんなこと?』では中立一元論は二重様相説として取り上げられているが、「脳は意識が存在する場所ではあるが、しかし脳の意識的な状態は単なる物理的状態ではない、という見解」(p.47)として説明されている。そのうえで、「脳は物理的様相と心的様相の両方を持つ物体なのです。」(p.48)と述べられている。つまり、あくまで物体としての脳が物理的様相が心的様相を持つという、脳という物体についての二重様相説なのである。これは、物体という言葉が用いられているとおり、かなり物理主義寄りの見解であると言える。物理的な存在領域に位置づけられる脳が、心的様相を持つ機能を有しているという考え方だと言えるだろう。

一方の入不二バージョンの中立一元論(二重様相説)は、脳というパーツの捉え方についての議論ではなく「究極の存在領域X」という存在領域自体についての議論であり、そして、「究極の存在領域X」と物理的な存在領域との間には境界があるという点が重要である。僕は、ネーゲルバージョンの二重様相説ではなく、あくまで入不二バージョンの中立一元論に魅力を感じたのである。

この中立一元論が、なぜ入不二ファンにとって重要なのかといえば、第4章の最後において、「力の多重様相説」、「メタ化した中立一元論」へと読み替えられていくからである。ここで入不二は、認識論・意味論・存在論という3つの論の優位性をめぐる議論が「終わらないことを駆動し続けている力」(p.233)こそが「究極の存在領域X」のXに代入されるとする。認識論・意味論・存在論の曼荼羅図をイメージするならば、この図を描き続ける力こそがすべての根源にあると考えるのである。

入不二哲学において、力の重要性が強調されるのはここが初めてではない。『現実性の問題』において、入不二は力としての現実性を最重要概念として位置づけ、全てを貫き、現実のものとする「力としての現実性」を描写している。『問う』における入不二は、中立一元論の議論を通じて、『現実性の問題』とは別のやり方で、「力としての現実性」に迫ったのだとも言えるだろう。

あくまで『どんなこと?』の議論の枠組みに従いながら、ここまで入不二哲学をやってみせるなんて、なんて鮮やかなんだろう、と感心するしかない。同時に、そのような読みを許す『どんなこと?』の素材としての素晴らしさも感じる。「-とっても短い哲学入門-」という副題がついているとおり、とてもコンパクトで平易な本なのに。

(4)力とマテリアルの二元論

入不二は、「力の多重様相説」、「メタ化した中立一元論」という表現だけでなく、「力一元論」(p.233)という表現もする。僕はここに引っかかってしまった。

僕の理解では、入不二の現実論には、「力としての現実性」に加えて、もうひとつ「マテリアルとしての潜在性」という重要概念が登場する。だから、正確には、「力とマテリアルの二元論」とすべきであり、「力一元論」では片手落ちではないだろうか。

この文章では初登場となる「マテリアルとしての潜在性」について簡単に説明しておこう。

『問う』で登場した概念を用いるならば、潜在性とは情報主義における情報に近いものだと言えるだろう。情報主義は、突き詰めれば中立一元論的に解釈することができ、中立一元論における「究極の存在領域X」のXに情報を代入したものである。物理的でもなく、心的でもない情報という存在領域から全てを説明できるとする考え方である。

だが、情報というものの成り立ちからして、いくら抽象的に捉えようとしても物質的な残滓がそこにはある。その物質性の残滓を物理的な存在とは取り違えないようにマテリアルと呼ぶならば、情報主義とはマテリアル一元論と呼ぶこともできるだろう。

だが、情報主義におけるマテリアルとマテリアルとしての潜在性には違いもある。情報としてのマテリアルとはあくまで顕在化した情報である。だが認識も届かない「究極の存在領域X」としてのマテリアルとするためには、未だ顕在化しておらず認識できないマテリアルでなければならない。そこまで拡張するならば、マテリアルとしての潜在性と呼ぶにふさわしい。

このような「マテリアルとしての潜在性」が「力一元論」という描写からは抜け落ちているのである。

なぜ僕がこの点を問題とするのかというと、力は力だけでは存在できないからである。星という物体がなければ重力は働いていないように、または、投げる手や投げられるボールがなければ、ボール投げという運動の力が発揮されることはないように、力を力として捉えるためには何らかの媒体が必要である。

一方で、マテリアルとしての潜在性も、それだけでは何も発現せず、潜在しっぱなしである。潜在性が顕在化するためには、何らかの力が加わる必要がある。

つまり、力一元論でも、マテリアル一元論でも足りない。力とマテリアルの両方が揃わなければ、そこから何も始まらないのである。物質的であれ、心的であれ、そこに何らか認識できる現れが生じ、認識論を始めるためには、「力としての現実性」と「マテリアルとしての潜在性」の二元論が必要なのである。

僕はそのように考えたから、入不二の「力一元論」という記述に違和感があったのだ。

(5)抵抗

そんな疑問をいだきながら、『問う』を読み直していると、クオリア=マテリアルは、「〈抵抗〉〈ノイズ〉」(p.233)である、という記述が目に止まった。

話の流れとしては、この抵抗・ノイズとは、「概念把握を逸脱し続ける質的存在」(p.232)のことであり、機能主義や情報主義による全面的な説明の成功に抵抗するノイズである。なぜ抵抗・ノイズなのかといえば、機能や情報という一面的な概念による把握から、クオリアは逸脱し続けるからである。そのうえで、入不二は、そのクオリアの逸脱の先に「形相なき純粋質料(マテリアル)」(p.232)を見出す。このマテリアルが先ほどの潜在性を指しているのは明らかだろう。つまり、マテリアルとしての潜在性が有する、概念把握から逸脱し続けようとする潜在性という性質が、逸脱し続けるというクオリアの性質を生み、機能主義や情報主義からの把握に抵抗し続ける、という話である。

だが、この抵抗は、マテリアルとしての潜在性による抵抗ではなく、力としての現実性による抵抗であると捉えてみてはどうだろう。機能主義(や情報主義)の議論を駆動する現実性の力が、逆向きの現実性の力と出会い、そこに抵抗が生じていると考えてみるのである。ここでの逆向きの現実性の力とは、機能主義に対抗するマテリアル一元論を駆動する力である。要は、機能主義の議論が、それに反対するマテリアル一元論という別の議論と出会うことが抵抗であると考えてみるのである。

そのように抵抗という言葉を捉え直すならば、入不二の「力一元論」という言葉は復権するだろう。究極的には、マテリアルとしての潜在性がなくても、ある哲学的主張を駆動する現実性の力と、それに抗う別の哲学的主張を駆動する力がぶつかり合うような状況を想定することで、現実性の力だけですべてを説明できることになるからである。それならば「力一元論」であるのは確かだ。

きっと、マテリアルとしての潜在性を重要視するマテリアル一元論は、それ以外のどんな哲学的主張とも衝突し、抵抗を生じさせることができる、ジョーカーのような哲学的主張なのだろう。だからこそ重要なのだけど、その重要性は、その主張の内容がマテリアルについてのものであるからではなく、そこに哲学的主張を駆動する、力としての現実性が宿っているからなのである。

僕自身にとって重要な思いつきなのでまとめておこう。

マテリアルとしての潜在性からすべてが生じるという主張(とりあえずマテリアル一元論と呼ぶ)は、哲学的主張としては最強のものである。だから、機能主義や情報主義といった、それ以外の主張よりも常に優位に立つ。

だが、力としての現実性により駆動され、それが現に哲学的主張として語られなければ、それは主張とはならない。だから、マテリアル一元論が力としての現実性と出会うことは不可欠である。そして、その過程で、マテリアル一元論は、「力としての現実性とマテリアルとしての潜在性の二元論」へと変質する。なぜなら、マテリアル一元論が現に主張となる過程についても捉え、取り込まなければ、その主張は完璧なものとはならないからである。マテリアル一元論が主張として成立するためには、力としての現実性を認めなければならない。

だが、それだけでも足りない。なぜなら、機能主義や情報主義といった他の哲学的主張がまず行われなければ、あえて「力とマテリアルの二元論」を主張する必要がないからである。先行するなんらかの哲学的主張に対して「力とマテリアルの二元論」をぶつけることで、抵抗が生じ、そこに哲学的議論が生まれる。これは、現実性の力と現実性の力の衝突による哲学の誕生の場面である。

僕は、こういうことを思いついた。

(6)運動としてのクオリア

そのように考えることで、クオリアについての理解も深まった気がする。

入不二は、様々なクオリアの懐疑を持ち出し、クオリアは常に把握から取り逃されることを確認したうえで、クオリアとは「質的な経験の逸脱運動」(p.139)、「「確定が終わらない動き」それ自体」(p.140)であるとした。

このような定義は、通常は重要視されるだろう、あのありありと赤い感じ、といった感覚の質の内容が全く含まれていないという点で特異なものである。(正確には、ここで僕が指摘したものは、直接性と呼ばれ、「クオリアを構成するエレメント」(p.139)のひとつとされている。)

だが、クオリアをマテリアルと同一視し、「〈抵抗〉〈ノイズ〉」であると考えるならば、クオリアとは運動そのものであると捉えることは、よく理解できる。

きっと、クオリアとは、認識論的にものごとを捉えようとする主張と、存在論的にものごとを捉えようとする主張とがぶつかり合うときに生じる抵抗・ノイズなのだろう。つまり、存在論という哲学的主張を駆動する現実性の力と、認識論という哲学的主張を駆動する現実性の力がぶつかり合うとき、そこにクオリアが生じるのである。だから、力と力の衝突としてのクオリアが、運動性そのものとして定義されるのは当然だろう。なぜなら、そこには現実性の力しかないのだから。これが力一元論としてのクオリアの描写である。

4 最後に

ここまで、僕が『問う』を読んで感じたことを素直に書くのではなく、僕が感じ、そして考えたことのうち、あえて書き残す価値がありそうなことを抽出して書いてきた。

それ以外の僕が書かなかった大部分の感想は、「へえ~」「すごいなあ」「確かにそうだなあ」といった、ただただ感服の言葉ばかりである。そういうことを書いても仕方ないので、まあ、『問う』を是非読んでください。面白いので。

だけど、一応、単に感服したという感想を少しだけ書いておくと、例えば「「知と信」は二項対立的な背反関係にはない。」(p.146)というところには感服した。僕は、この文章では、「知と信」について「自然的態度」と「哲学的議論」の対立関係として扱ったが、確かに知と信は互いに支え合うような側面もある。そのあたりはまだ明瞭に捉えきれていない。そのうえ「「知でもなく信でもない」アプローチが~肝である。」(p.147)なんていう言葉まで出てくる。そう言われれば確かにそうなのだけど、僕が追いつけない速度で進みすぎて、くらくらしてくる。

また、第5章の最後の円環モデルも痺れた。死後の無と未生の無をつなげ、更にそれを無限大に拡大する。そうすると、「生」は、無限大の円環に描かれる幅のない一点に過ぎないものとなってしまう。これは、つまり、死を初期設定とした視点からするならば、「生」とは一点の特異点にすぎないという捉え方になるだろう。これは明らかに、『現実性の問題』第1章における円環モデルの話につながる。『現実性の問題』の円環モデルにおける始発点とは、「生」という特異点なのである。そして、それは入不二哲学の出発点でしかない。そう考えると目眩いがしそうだ。

『問う』を通じて、入不二は確かに哲学の名人芸をわかりやすく実演してくれた。その内容は哲学の入門書として相応しい。

だけど、すばらしい包丁さばきを解説付きで実演してくれた入不二が、哲学の実演を終え、後ろで見ていた僕たちのほうに振り返り、包丁を手渡し、「じゃあ、こんなふうに哲学をやってみて。」と言ったら、僕たちはどう思うだろうか。きっと、僕を含めた少なくない読者は、そう言われても困るなあ、と思うのではないだろうか。入門書ならではの丁寧な説明により、よく理解できた分、入不二との距離がより遠く感じてしまうのだ。

入不二の哲学は、なんというか、哲学的目眩いがつきもので、その目眩を遠くから鑑賞するような味わい方が適しているようにも思える。僕はプロレスのことは知らないけれど、同様に、アントニオ猪木にもプロレス的目眩いがあり、それを遠くから鑑賞するようなあり方が適していたところがあったのではないだろうか。

(備忘録としての細かな疑問)

入不二は、「クオリアにも残る「不純物」を削ぎ落として、より「魂」へと接近するのが、コギトである。」(p.192)とする。だが、普通に主体・客体で考えるならば、主体を純化して魂としたものがコギトで、客体を純化して魂としたものがクオリアではないだろうか。

(入不二はコギトを中心点「・」としている(p.192)が、それならば、クオリアは「→」ではないだろうか。)

更に、主体としての魂と客体としての魂が同じものである、という主張を加えるならばそのとおりだけど、そこには飛躍があるように思う。

なお、入不二は、他者の心の他性(穴性)について論じるなかで、「コギトと他性は、疑いの遂行において出会っている」「コギトと他性~は、一つの点へと潰れる」(p.141)とは述べている。だが、コギトと他性が完全に同じとは言っていないし、他性とはあくまで他者の心を指すから、リンゴの赤さのような「もの」のクオリアについては当てはまらないと思う。