※3000字もない比較的短めな文章です。やついフェスで「革命」が流れたのをきっかけに書きました。
僕は、人生において、重要だと考えているものがひとつだけある。僕は、それを、新しさ、成長、変化といった言葉を使って指し示そうとしてきたけれど、どうもしっくりこない。
それを指し示す言葉として、「革命」という言葉を思いついたので書き残しておく。
きっかけは、andymoriというバンドの『革命』という曲だ。もう解散してしまったバンドによる10年以上前の古い曲だけど、2分に満たない潔い名曲なので、是非聴いてみてほしい。
短い曲だから、うっかりすると全文を引用してしまい著作権問題を起こしそうなので、最初と最後だけ引用する。
革命を起こすんだ 夢を見るんだと誰もが今夜祈るわけは
・・・
伝わらない 届かない想いは
100日 1000日 10000日たった後で
夜明けを待つ心に風を吹かせるんだ
この曲は、歌われている革命がどういうものなのか、具体的な内容がよくわからないところがいい。曲の始めでは、まだ革命は成し遂げられておらず、そこには、ただ革命の予感があるだけだ。だから革命の内容はよくわからない。一方で、曲の終わりでは、革命後のはるか先のことまで歌われているけれど、その革命は当面は失敗したと思われ、やはり内容はわからないままだ。
まずはっきりさせておきたいのは、僕が重要と考えている「革命」とは、この曲のような革命であって、共産主義革命や産業革命のような、中身のある革命ではないということだ。
共産主義革命の場合、共産主義という目的が明確である。革命とはその目的を達成するための手段に過ぎない。だから、革命なんてしなくても王様が「明日から共産主義にする!」っていう勅令を出したら、それでOKだ。(革命後に王様の命が保証されるかどうかはわからないけど。)
そこには、革命という言葉が持つ、新しさへの渇望のようなものは何もない。革命を始める前から、革命後には共産主義国家が生まれることを知っているし、(マルクスの本により)共産主義国家というものがおよそどんなものかも知っている。共産主義革命とは、既に知っているものを手に入れるだけのプロセスであり、テーブルの上にある醤油差しに手を伸ばすのと本質的には変わりがない。
(革命により手に入れた共産主義が想定外のものである可能性はあるにせよ。)
一方の、andymoriが歌う革命は、ただ夢見て祈るものであり、そこには具体的な内容がない。いわば、何もない虚空に手を伸ばすようなものだ。僕はこれを真の革命であるとしたい。
もうひとつの産業革命の場合には、産業革命の最中の人は、産業革命後にどうなるか全然知らないという点では真のandymori的革命に似た新しさがある。18世紀前半の産業革命前夜のイギリス人は、100年後の子孫たちがどんな生活をしているか想像もつかなかったに違いない。
だが、18世紀後半のイギリス人は、意図的に革命を起こそうとはしていない。大きな社会の流れに乗って、または飲み込まれて生きているうちに、革命が成し遂げられていたに過ぎない。多分、最後まで、自分が革命を起こしたことにさえ気づかなかったのではないだろうか。産業革命とは、その当事者にとっては全く革命ではなく、後世の人たちが後から付けた名前でしかない。当事者の意図がそこにないという点で、産業革命も、真の革命とは程遠い。
では、フランス革命はどうだろう。きっと、当時の民衆たちは、意図的に革命を起こそうとしていたはずだ。だから産業革命とは違って、よりandymori的革命に似ている。
更に、当時の民衆たちは、その革命の内実がよくわかっていなかったという点も、真の革命的である。当時、ブルボン王朝を打倒する、といったぼんやりとした目的は共有していたにせよ、その目指すところを明確に把握していた人はいなかったのではないだろうか。革命の内実としてのギロチンも革命暦も、すべてが意図せず勢いで進んでしまったのである。(歴史学的に僕の認識が正しいのかはよくわからないけれど)これはかなり、andymoriの革命のイメージに近い。
だけど、フランス革命は成功し、歴史上のイベントとして、その革命の内実がどのようなものだったのか、事後的には把握されてしまっている。一方のandymoriの革命は歌詞の最後を読む限り、きっと失敗している。「いつか誰かの心に風を吹かせるような影響力を持っている」という以上の革命の内実はわからずじまいである。だから、やはりフランス革命とandymoriの革命は異なる。
そのように書くと、andymoriの革命とフランス革命との大きな違いは、成功と失敗の違いのように思えてしまうかもしれない。だが僕はそうではないと思う。
andymoriの革命は、成功や失敗とは関係がないのだ。その証拠に、当初、僕はandymoriの歌詞について、この革命は失敗したと解釈したけれど、「革命は成功したけれど、それでも満たされない「伝わらない 届かない想い」があって、まだ革命を求めている。」という読み方だって成立する。
成功や失敗とは、過去に向けた評価の視点である。一方で、andymoriの革命は、そもそも過去を振り返っておらず、ただ未来だけを見ている。だから、革命は、過去向きの評価の視点から隔絶している。このような態度こそが真に革命的なものだと僕は思う。
フランス革命をandymori的革命に近づけるならば、全く、歴史として振り返られることがないフランス革命といったものを想像すればいいのかもしれない。振り返って革命と名付けられることもなく、ただ未来に向かって通り過ぎていくだけの、18世紀末のフランスにおける、名も無い出来事として受け止めるのである。
それならば、共産主義革命も、産業革命でも同じことだろう。いずれも、ただ未来に向かって通り過ぎていく、ある時代における、ある名も無い出来事であるに過ぎない。そのように考えるならば、フランス革命も、共産主義革命も、産業革命も、いずれも真の革命となることができる。
つまり、革命とは、その内容が特別なものだから革命となるのではなく、過去ではなく、ただ未来に向かう態度のことを革命と呼ぶのである。
だから、真の革命について名指しするためには、革命という言葉を用いることも不適当だということにすらなるだろう。革命という言葉には、内容の特別さがつきまとっており、そこには最小限の過去向きの評価の視点が混入されているからである。
そのように考えるならば、僕たちのこの人生は革命に満ちているとも言える。なぜならば僕たちは未来に向かって、革命と呼ばれることもない、名も無い出来事を積み重ねているからだ。
だから、革命的な人生への向き合い方について表現するならば、次のようなものになるだろう。「革命という言葉を持ち出さず、ただ革命的な態度をとるとき、僕たちの人生は真に革命的なものとなる。」そんなことを僕は思いついたのだ。
(だが、この文章も、過去という言葉を使い、過去に目を向けているから、残念ながら真の革命を捉えたものにはなっていないだろう。)