※4000字弱あります。1日に2本書くと、粗製乱造という気がしなくもない。この文章はどちらかかというと生産というより排泄に近いような気がする。やむを得ず慌てて排出した感じ。
1 哲学ゲーム
僕は、自分自身がやっていることも含め、世の哲学は、本当の哲学ではなく、哲学ゲームだなあ、と思う時がある。なぜなら、いくつかのルールを設定し、そのルールの範囲内で哲学をプレイしているからだ。
そのルールとは、きちんと精査していないけれど、次の二つである。
1 言葉により、哲学的主張を成立させることができる。【主張ルール】
2 ある哲学的主張を真なるものとして受け入れるためには、真であるという実感を惹起する必要がある。【理解ルール】
1は、ある哲学者が哲学的主張を行う際に適用されるルールなので主張ルールと呼ぶ。
2は、関係者、つまりその哲学的主張の受け手がその主張を理解する際に適用されるルールなので理解ルールと呼ぶ。
僕は、世の哲学において、この二つのルールが無批判のまま暗黙に導入されているのは、極めて奇妙なことだと思う。哲学は、あれほど、様々なことを根源的に疑うにも関わらず、なぜこれらのルールを疑わないのだろう。
僕は、「ここにパソコンがある。」という哲学的主張を行う。言葉を発したり、キーボードを叩いたりしなくても「眼の前にパソコンがある。」と思考するだけでもいい。では、その思考が、「ここにパソコンがある。」と言葉で表現できるほど明確な輪郭を持った思考になることがどうして可能なのだろう。
こうして僕は文章を書き、なにか一連の思考をしているような気持ちになっているけれど、本当に、僕は思考を成立させることができているのだろうか。実は僕は、思考なんてできていないのではないだろうか。
とても拙いけれど、これが僕の【主張ルール】に対する問題意識である。
では、とりあえず、主張ルールについてはクリアしたとしよう。哲学者は、言葉により哲学的主張を成立させることができる。その哲学的主張が真なるものとなるためには、何が必要なのだろうか。
「ここにパソコンがある。」が真になるためには、実際にここにパソコンがなければならない。それを確かめるにはどうすればいいのか、パソコンという共通認識はどうやって形成されるのか、といった様々な議論がそこから生じるだろう。
だが、その前に、その哲学的主張が真であるとされるためには、真であるという実感が必要である。どんなに証拠が揃っていて、理屈がしっかりしていても、真だと思わなかったら、真にはならない。
どんなに証拠を見せて説得しても、それが真だと思わないような、ものわかりが悪い人がいるかもしれない。だが、その場合でも、それ以外の人は真だと思っていることと、それが真であることとは無関係ではないはずだ。または、大昔のすべての人が地球は平面だと思っていて、誰も地球は丸いなんて思っていなかったかもしれない。それでも、1000年前から地球は丸いという主張が真であったのは、、現代の僕たちが、地球は丸いという実感を有しているからだ。過去から未来までのすべての知的存在(その主張をした本人を含む)のうちの誰か一人でも、ある哲学的主張を真だと思わなければ、その哲学的主張は真とはなりえない。
これが【理解ルール】である。
このように並べて書くとわかるように、【主張ルール】はうまく伝えにくいけれど、【理解ルール】のほうは、【主張ルール】に比べれば普通の哲学的な議論という感じがする。僕は詳しくないけれど、どこかの哲学者が問題にしていそうだ。
僕の問題が、そのどこかの哲学者と違うのは、【主張ルール】と【理解ルール】は密接に絡み合っていると考えている点にある。
僕は、【理解ルール】については、僕自身が僕自身の哲学的主張を理解するという、特殊な状況を問題にしている。僕はどうして、僕自身の哲学的主張を真なるものとして理解することができるのだろうか。それが僕の問題である。
僕はこうして文章を書いている。例えば「ここにパソコンがある。」と書く。どうして、そんなことができるのだろう。これが【主張ルール】の問題である。そして、「ここにパソコンがある。」と僕が書くとき、僕は真なるものを描写しようとする、何らかの衝動に突き動かされている。どうやって、僕はこの書くという営みと、真なる描写を整合させているのだろうか。これが【理解ルール】の問題である。僕はここに「真なる実感」が介在しているのではないか、と考えている。
こうやって、僕は【主張ルール】と【理解ルール】を分けて描写したけれど、これらは一体のものであるはずだ。なぜなら、哲学的主張には発信者と受信者が必要だからである。なお、受信者は他者でなくてよい。自分自身という受信者がいなければ、哲学的主張を成立させることはできない、というのが僕の問題である。【主張ルール】とは自分自身という発信者のルールであり、【理解ルール】とは自分自身という受信者のルールである。自分自身が同時に2つの役割を担い、そして二つのルールが同時に適用されるから、この二つのルールは密接に関わっているのである。
この二つのルールは、存在論・意味論・認識論という区別に基づくならば、存在論に対する、意味論・認識論の逆襲の場面だと言っていいかもしれない。僕は、哲学を先鋭化するならば、形而上学、つまり存在論になっていくと思っているけれど、それでも、根底としての意味論つまり【主張ルール】と、根底としての認識論つまり【理解ルール】を離れることはできない。そういうことを僕は考えているのかもしれない。
2 哲学対話ゲーム
この2つのルールに基づく哲学ゲームのなかには、いくつかのサブ・ゲームがある。トランプを使うというグランドルールに基づき、トランプゲームがあり、そのなかに、ポーカーや7並べのようなサブ・ゲームがあるようなものである。
そのサブ・ゲームの一つが哲学対話ゲームである。哲学カフェとか、学校とかでやっているあれである。
哲学対話ゲームは次のルールに基づいている。
1 自分と似た知的存在が複数存在する。
2 ある知的存在は時間的に連続して存在し、整合的な主張を行うことができる。
3 ある知的存在の主張は、別の知的存在にある程度は伝達可能である。
4 哲学的主張は時間的に保存され、変化することがない。
(Aさんが「ここにパソコンがある。」と言った後、何の議論も経ず、1時間後に、その主 張が「ここにパソコンがない。」に変わることはない。)
なぜ、僕が哲学対話ゲームを取り上げ、このようなルールを書き連ねるかといえば、僕が哲学対話に関わっているからである。
哲学対話はかなり自由度が高く、うまくやればかなり深いところまで議論を進めることができる、極めて面白い営みだと思う。だが、哲学対話は、ここに挙げたようなルールに縛られている。つまり、これらのルールを疑うような議論を行うことはできない。哲学対話には、そのような限界がある。
(うまくやれば、複数人で行う哲学対話から、哲学対話を逸脱し、自問自答の哲学に切り替えることで、先に進むことはできるかもしれない。)
ここに挙げた4つのルールを見返すと、これらのルールは時間と人称に関わるものであることに気づく。哲学対話は、極めて常識的な、時間と人称を前提としている。つまり、哲学対話において、常識的な時間観と人称観から離れ、議論を深めることは、そのルール上、不可能なのである。
一方で、これらのルールが哲学対話を安全なものにしているとも言えるだろう。自分のような他者が複数存在するような世界が、時空的に安定的に存在すると捉える限り、そこから道徳的な帰結が導かれるだろうことは容易に予想できる。
僕は、僕が好きな永井均や入不二基義の主張は、極めて非道徳的(反道徳的ではなく)なものだと理解している。例えば、私の特権性や、今の特権性を強調する永井均の独在論からは、他者の尊重や、未来に対する責任ある態度は導かれない。
だが、哲学対話においては、すでにルールとして、私の特権性や今の特権性は否定されているから、永井のような主張が成立する余地はない。もし、哲学対話の場で、永井のような主張がなされれば、「では、なぜ、あなたは、哲学対話に参加し、あたかも、自分と同種の存在に対して語りかけるように話しているのか。」と問えばいい。
なお、僕は、哲学対話ゲームは、あたかも、哲学カフェのような特定の場で行われるもののように書いてきた。けれど、哲学対話ルールを眺めればわかるとおり、きっと、この哲学対話ゲームは、この日常の営みのなかに深く食い込んでいる。だから、この哲学対話ゲームこそが、道徳の起源であるとすら言えるだろう。
3 ゲームプレイ
このように考えると、僕はすでに、哲学ゲームや哲学対話ゲームの中に深く組み込まれてしまっていることに気づく。
特に、僕自身にとっては、「言葉により、哲学的主張を成立させることができる。」という【主張ルール】に組み込まれてしまっているということが重要な意味を持っている。
確か、僕はこの【主張ルール】の問題に、17歳の頃に気付いた。この文章のようには表現できなかったけれど、当時、僕はかなり深く絶望したことを覚えている。底なし沼にはまったような絶望である。
だけど、僕は、哲学ゲームや哲学対話ゲームをプレイしながら、なんとか自分を騙しつつ、ここまで生きてきた。それはひとつの虚偽であり、そしてひとつの成果だと思う。
きっと僕はこれからも、こうしてゲームプレイとしての人生を生きていくのだろうという諦めは多少あるけれど、同時に、哲学によって、この哲学ゲーム自体を解き明かし、このゲームプレイの人生から脱出したいという野望がある。