谷口一平氏がジェンダーに関する哲学の論文を投稿したら、査読者にきちんと読まれないままにリジェクトされたという話がTwitter上で話題になっている。
僕は論文の内容は読んでいないし、細かく情報収集もしていないけれど、それでも書けることを思いついたので書き残しておく。
結論から言うと、ジェンダー論の専門家であろう査読者も、哲学者である谷口氏にも問題はない。問題があるのは、谷口氏の論文をジェンダー論の専門家に査読させた人だ。
ジェンダー論と哲学は相性が悪い。なぜなら、ジェンダー論は「善悪」が問題であり、哲学は「真偽」が問題だからだ。そもそも学問としての土俵が違う。
だから、谷口氏がきっと書いただろう、「真だが悪い主張」は、ジェンダー論上は拒否すべきものになる。そのような齟齬が生じることに気付いていたか、気付いていなかったかはわからないけれど、そう仕向けた人が悪い。査読者に問題があるとすれば、査読を引き受けたことが問題であり、谷口氏に問題があるとすれば、そのような場に投稿したことが問題である。ディテールには派生的な問題があるのかもしれないけれど、本質的には、これ以上の問題はないと僕は思う。
なぜ、こんな時事ネタを取り上げるかというと、この問題は繰り返し言及している、哲学対話の問題でもあるからだ。哲学は、先ほど述べたとおり、「真偽」を問題とする。そして、対話は、ジェンダー論と同様に「善悪」を問題とする。この水と油のような哲学と対話を無理やり繋げ、哲学対話とするならば、谷口問題と同様の問題が生じざるを得ない。つまり、哲学対話において、「真だが悪い主張」がなされたらどうするか、という問題である。このような主張は哲学においては評価されるべき主張であるが、対話においては拒否すべき主張である。だから、僕がもし哲学カフェの進行役をしていて、参加者からこういう発言があったらドキッとしてしまう。
僕は、哲学対話という場の懐の深さにより、この問題は本質的には乗り越えられると考えているが、実際に現場でこの問題に対処するには、進行役の技量が必要だろう。少なくとも、進行役は、哲学と対話の両方を理解している必要がある。
それでも、この問題があまり表面化しないのは、「真だが悪い主張」を行う人はそれほどいないし、少数の「真だが悪い主張」を行いたい人も、経験上、世の中に受け入れてもらうことを諦めている、という偶然に拠っているにすぎない。
そのように考えるならば、この谷口問題はそう簡単に解決しない。きっと、今後も、形を変えて問題となり続けるだろう。だから、数年後、僕が予言したとおりじゃん、と自慢したいから、この文章をインターネットに上げておく。