※6500字くらいです。連休で時間があったので、以前書きかけだったものを完成させてみました。そういう経過があり、あまりノッて書いたものではないので、なんとなく新しさがない文章になってしまったかもしれません。

倫理とは自己の拡大への願望である

倫理とは自己の拡大への願望ではないか。というのがこの文章のお話。

例えば、僕たちは、自らの血がつながった子孫の繁栄や、自らの価値観(日本ならば民主主義や基本的人権の尊重、イスラム教社会ならイスラム教に基づく価値観)の拡大を望む。つまり、僕たちは、自己を拡大するようにして、子孫が幸せになれるような社会や、民主主義や基本的人権が確保された社会を望む。そのように考えるならば、このことが、倫理と結びついていることは明らかだろう。

もし、倫理が欠落したサイコパスならば、自らのサイコパス的価値観を決して広めることはせず、自分の中だけに留め、他者を出し抜こうとするだろう。倫理は拡大と結びつき、一方で、反倫理は、ある種の閉鎖性とが結びついている。

人称的(空間的)拡大

この拡大は、人称的(空間的)拡大と、時間的拡大という2つに分類できる。

まず、人称的(空間的)拡大とは、他者への自己の拡大である。民主主義や基本的人権を自分だけでなく社会全体に広めたいという願望がこれにあたる。僕は、倫理には押しつけがましいところがあると思っているけれど、倫理とは、自己の価値観の他者への押しつけである、という感覚は、その是非はともかく、まあ、比較的常識的なものではないだろうか。

当然、その押し付けたいものが、民主主義のような望ましいものであれば啓蒙となり、新興宗教の教義のようなものであれば洗脳と呼ばれる、というような違いはあるにせよ、いずれも他者への自己の拡大である。当然、啓蒙と洗脳とは違うと言いたくなるけれど、そこに違いがあるように感じるのは、僕たちがすでに押し付けられた倫理の内側にいるからだ。押し付けられ、内面化した倫理は道徳と呼ばれる。道徳を倫理として捉え、吟味するためには、一時の間だけであっても、あたかも道徳から離れ、外部から倫理を眺めているように振舞わなければならない。(もし、そうすることに拒否感があるならば、倫理とは何かを語る資格はない。)

人称と空間

だが、この文章では道徳批判をしたい訳ではないので話を戻そう。

僕は、このような他者への自己の拡大を「人称的(空間的)拡大」と名付け、つまり人称と空間を同一視した。

なぜ、人称と空間を等しいものとして捉えるのかというと、空間の中には、大きく分けると、人間である他者、人間ではない生物、非生物としてのモノという存在者がいるが、そのうち、自己を拡大できるのは人間である他者しかないからである。他者が問題となるから人称である。空間のなかの人間以外の生物や、非生物としてのモノは、自己の拡大の対象からは除外され、考慮外となる。よって、空間の中に残るのは他者だけであるため、空間と人称を同一視できることになる。

なお、だからと言って、自己の拡大、つまり倫理において、人間以外の生物や、非生物としてのモノが考慮されないという訳ではない。現代の常識的な倫理においても、動物の権利や、自然保護といった問題が倫理的問題として取り上げられている。だが、このときの動物や自然とは、あくまで、倫理を考慮する主体ではなく、その客体である。だから、動物や地球自体が持つ守られるべき権利があると主張されることはあっても、動物や地球にも義務がある、という主張がなされることはありえない。

ここでの自己の拡大とは、あくまで主体としての自己の拡大であり、他者が自ら主体となるとき、自分自身と同じように拡大してほしいという願望であり、その願望の実現に向けた試みである。

このことを、自己の投影である、と言ってもいいだろう。人称的(空間的)拡大とは、自分と似た存在、つまり他者に、自己を投影し、自分のように振舞わせることで、自己を拡大しようとする試みのことである。

時間的拡大

もうひとつの時間的拡大とは、どういうものか。

常識的に考えるならば、子孫の幸せを望むような場合である、と言いたいところだけど、僕の考えはそうではない。

時間というものを厳密に考えるならば、子孫の幸せというような描写の中には、少なくとも、人間の一世代分の時間推移、およそ25年くらいの時間推移が含まれてしまっている。

僕は、このような時間推移をそもそも可能とするものとして、まず、時間的拡大があると考えているのだ。だから、この時間的拡大とは、まさに、この瞬間が、この瞬間だけでなく、一連の時間推移のなかでの特定の瞬間のひとつとして位置づけられることを指している。

そのうえで僕は、この瞬間のみの状況から、推移する時間への移行を可能とするのが、自己の拡大の願望であり、倫理であると考えている。つまり、時間推移とは倫理の問題なのである。

どういうことか。

今この瞬間においては、僕の目の前にはパソコンのモニタ(モニタの中では、「パソコンのモニタ」という文字のところでカーソルが点滅している)や机の上の空のコップといった景色が広がっている。これは、現在の僕の景色である。

そのうえで、現在見ている景色に加え、数分前の景色(ほぼ同様の景色だが、モニタの中では「もうひとつの時間的拡大とは、何だろうか。」(この節の最初の行の言葉)の文字のところでカーソルが点滅している)という景色が記憶の中にあるとする。

この二つの景色が、全く独立で無関係だったら、そこに時間推移は生じない。時間が推移するためには二つの景色が紐づいている必要があるのである。そして、二つの景色を紐づけるためには、そこに共通のモノがなければならない。

その共通のモノの第一候補は、この目の前のモニタやコップであろう。常識的にも、時間推移の中でそのようなモノたちが持続的に存在している、ということが時間推移の根本にあるように思える。

だが、哲学的な思考実験により、夢の懐疑や全能の悪霊の懐疑を行ってみるならば、そのようなモノたちの持続的存在というのはかなり怪しいものになる。ここからはデカルト的な話であるが、この現在の瞬間においても、過去のある瞬間においても、コギト、つまり、この私が存在することだけは疑うことができない。そのことだけが、現在と過去では共通している。だから、過去の景色と現在の景色を紐づけるのは、モニタやコップではなく、この私である。

以上の事態を、現在のこの瞬間の私から描写し直すならば、過去の特定の瞬間への私の拡大である。過去の特定の瞬間において眼前に景色が広がっているのは他者でもよかったはずなのに、それを私として時間的に拡大するのである。

なお、この「他者でもよかったはずなのに」という一言がわかりにくいかもしれない。これは、永井均が『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学研究3』において、超越論的構成として終章で論じた問題であり、説明にはかなりの文字数を要する。だから、ここで詳述することはできないが、一応、簡単に説明しておく。

過去の特定の時点での眼前にパソコンのモニタなどの景色が広がっている記憶において、それを見ている主体は私であるとは限らない。なぜなら、今僕が着ているパーカーと同じパーカーの袖が視野の端に見えることや、そのときに考えていたことの記憶と今の僕の思考とが整合していることなどは、いくらでも全能の悪霊により捏造可能だからである。この捏造の可能性をもって、僕は「他者でもよかったはずなのに」と言っている。

だが、この話は続きがある。過去というものを構成し、時間的連続体としての私というものを構成するためには、「他者でもよかったはずなのに」なんていうことはなく、それは僕ではない誰かではなく、僕自身でなければならない。このことは、剥き身の事実ではないけれど、超越論的にはそのように構成されるしかない事実である。そして、この超越論的構成のことを、僕は、時間的拡大と呼んでいる。

私という倫理的存在

時間的連続体としての私とは、このようにして、超越論的に構成されたものである。構成されるということは、構成されなくてもよかったのに、あえて構成されるということである。私とは、必ずしも時間的に連続していなくてもいいものだから、時間的連続体としての私なんて構成されなくてもいいのだけど、あえて構成されるのである。

なぜ、構成されるのかというと、倫理的に、それを欲しているからである。人間は、自分自身が時間的に連続していないということには、きっと耐えきれない。少なくとも僕は耐えられない。僕は自分自身が時間的に連続しており、時間的に有意の長さがある、ひとつながりの人生を生きていると考えたい。5分前世界創造仮説のような思考実験によって、この願望は容易に否定されてしまうのだけど、それでも僕はそう信じたい。そのような願望から、僕は超越論的に時間的連続体としての私を構成するのである。この思いは、きっと、多くの人が共有していると思う。

この、人生を有意義に生きたいという願望が、超越論的構成、つまり時間的拡大に倫理的な風味を加えている。現在の私は、他時点の私に自分自身を拡大し、自分の価値観を押しつけ、支配する。その代わりに、現在の私は、他時点の私が、この現在の私の価値観に基づき、より望ましい状況になるように努力する。未来の私に向けては、ダイエットをしたり禁煙したり貯金をしたりして、少しでも未来の私が健康で裕福になるように、現在の私を多少犠牲にしてでも努力する。過去の私に向けては、何も力が及ばないから、せめて、後悔をしたり、幸せな思い出に浸ったりして、過去の私と喜びや悲しみを分かち合う。

このような態度が、倫理というものが有効に成立するために必要な、私という時間的連続体を構成することに重要な役割を果たしているのである。

人称的拡大によって、自分と同等の他者が構成される。そして、時間的拡大によって、ひとつながりの人生を生きる私が構成される。そこから倫理は始まる。だから、倫理とは自己の拡大への願望なのである。

対話

ところで僕は、人称的(空間的)拡大も、時間的拡大も、いずれもが対話によって行われると考えている。(似たことは何度か述べている。)

さきほど僕は、人称的拡大とは、「他者が自ら主体となるとき、自分自身と同じように拡大してほしいという願望であり、その願望の実現に向けた試みである。」と述べた。

当たり前に考えるならば、私が主体であり、他者は客体である。だからこそ、私という自己が客体である他者に自己を拡大しようとすることができる。だが、この拡大の欲望は、他者が客体であるままでは満足できない。その客体である他者が、私と同じように主体にならなければならない。そうなってようやく、自己の拡大の試みは完遂するのである。

では、どうやって、客体であるはずの他者を主体の立場に据えるなどという離れ業ができるのだろうか。

それは語りかけることによってである。僕は他者に語りかけ、やがて語り終える。そうすると、不思議なことに、その他者は、その言葉を受け、自らが主体となり語り始めるのである。そのとき、僕はその他者にとっての客体となり、他者の言葉を聞く。

当たり前のように思えるけれど、「私(主体)=他者(客体) ⇒ 他者(主体)=私(客体)」という切り替えが為されるということは、かなり不思議なことである。そして、この不思議な営みが対話であり、この対話こそが、ここまで僕が論じてきた拡大を成功させる仕組みである。

なお、ここまでの例は、私と他者という人称的拡大の例であったが、時間的拡大の場合にも同様のことが行われている。それは、他時点の私との自問自答としての対話であり、より正確に述べるならば、記憶としての他時点の私との自問自答である。

僕は、10分前のベッドで寝転がっていた自分の記憶を想起しようとする。これが現在の私から、過去の私への語りかけである。その語りかけに応じて、僕の脳裏には、ベッドで寝ころんでいた情景が再生される。このとき、現在の私は情報の受け手であり、つまり、過去の私から語りかけられているということになる。

想起のなかには、想起しようとすること、つまり現在から過去への語りかけと、それに応じて、実際に想起されること、つまり過去から現在への語りかけの両方が含まれており、その二つがそろわなければ想起は成功しない。これは時間的拡大を成立させるために必要な、対話の最小単位である。

当然、対話というからには、他者との対話による人称的拡大であれ、自己との対話による時間的拡大であれ、一往復だけで終わることは稀である。たいていは、何度もこの対話の往復運動は継続され、その往復運動に応じて、より複雑なかたちで、他者や時間的連続体としての自己が構成される。

超倫理

僕は、この対話というアイディアを僕の哲学のかなり根源的なものとして考えているけれど、僕が好きな永井均や入不二基義にとってはそうではないだろう。仮に僕の対話というアイディアを彼らが受け入れたとしても、彼らの哲学の根幹には影響を与えない。

まず、永井の場合には、僕の対話というアイディアは、永井の議論のごく一部にしか影響を及ぼさないだろう。永井の独在論は、超越論的構成と超越的開闢の絡み合いだと言っていいけれど、僕の対話は、そのうちの超越論的構成のほうにしか届かないのだ。そして、永井はすでに、超越論的構成は言語的なものであると指摘している。対話という僕のアイディアも言葉通り、言語的なものである。僕のアイディアは永井の独在論のうち言語の取り扱いを補強するものにしかならない。

入不二の場合にも、僕の対話というアイディアは、入不二の議論のごく一部にしか影響を及ぼさないだろう。入不二の現実論においては、ものごとが顕在化して実在する、顕在(実在)の領域の奥底に、実在はしないが潜在的に存在する、潜在の領域があるということが重要である。そして、この顕在化(実在化)は反実仮想、排中律といった言語的なプロセスを経て行われる。僕の対話というアイディアは、先ほど述べたとおり言語的なものなので、入不二の現実論のうちの言語的な顕在(実在)の領域までしか届かず、潜在の領域には届かない。もし入不二が僕のアイディアを受け入れたとしても、対話を通じて、いかにして、ものごとが顕在化していくのか、というように、入不二の議論の一部を補強することにしかならない。

つまり、永井も入不二も、僕の対話というアイディアの先を考えているのである。僕は、対話によって人称的拡大や時間的拡大がなされ、そこから倫理が始まると考えているから、要は、永井も入不二も、倫理の先を考えている、ということになる。

だから、永井も入不二も非倫理的なのである。永井の倫理学は、独在的な私のみを尊重すべきという非倫理的ものだし、入不二が倫理の話をしているところを見たこともない。より正確には、彼らは倫理を超え、その先を考えているという意味で、超倫理であると言ったほうがいいだろう。

哲学的対話

だが、僕は考える。

永井の独在論も、入不二の現実論も「論」であり、つまり言語的な主張である。よって、僕が考える対話の仕組みから免れることはできない。哲学者がいかにして哲学的主張を行うのか、という問題が哲学上の問題であるならば、僕の対話というアイディアは、そこで重要な役割を果たすと考えている。

僕がやろうとしていることを一言だけ述べるならば、永井の独在論も入不二の現実論もひとつの哲学的主張として扱い、対話というアイディアを哲学的主張自体に適用するのである。だから、このアイディアを哲学的対話と呼びたいと考えている。

もし、それを成し遂げることができれば、永井や入不二の議論を組み入れたかたちで、新たな倫理を打ち立て、倫理は彼らの超倫理を超えることができるはずだ。僕はそれを目指している。

なお、なぜ、そんなに倫理にこだわるのかと言えば、ひとつは、僕はひとつながりの自分の人生を、当たり前の人生を取り戻したいからだ。

そして、もうひとつは、そんな倫理をもぶち壊して、更にその先の哲学的景色を見てみたいからだ。