※5500字くらいあります。続きの文章です。
イクチオステガ
トビウオとカモメという文章を先日書いた。
そのなかで、カモメが水面に浮かぶ、と書いたけど、カモメってカモみたいに海に浮かぶのかな。無知を知るのが怖くて調べられない・・・
まあ、カモメかカモかは哲学的にはどっちでもいいので、うまく読み替えてください!
ということで、カモメが浮かぶかどうかではなく、この文章の別の個所に着目して、続きを書くことにする。それは先日の文章の最後の「ユーステノプテロンのような肺魚になって、更にイクチオステガのような両生類になって、肺呼吸ができるようになれたらいいなあ。」という個所である。
この文は鰓呼吸から肺呼吸への移行、という意味で書いた。当然、この比喩は、時空が広がり、僕と同じような他者が存在していて・・・、といった常識的な世界のあり方を前提にできることが肺呼吸であり、それができないことを鰓呼吸だとしたうえで、肺呼吸ができるようになりたい、つまり常識的な世界のあり方を無条件に受け入れられるようになりたい、という意味である。
だが、よく考えてみれば、イクチオステガが歩いている陸地(多分、水際の湿地)は、どこまでもたどれば、波打ち際を経て海の浅瀬へと続き、更には大陸棚、海溝まで続いているはずである。つまり、イクチオステガの足元の大地と、僕が探し求めてきた底なし沼の底としての海底とはつながっていて、そこに違いはない。もし、イクチオステガである僕がこの大地に立っていることを認めるならば、僕は、哲学の底なし沼において、確固たる足場に突き当たったということなのである。つまり、常識的な世界のあり方では納得できず、その先にある確固たるものを探し求めていったところ、その答えは、常識的な世界のあり方を揺るぎない前提とすることだった、ということになる。これはどういうことだろう。
ミルフィーユ
そこから思いついたアイディアは、この世界は、複数の層(レイヤー)で構成されているのではないか、というものだ。
ミルフィーユのように、この世界は何層にも分かれている。僕は、そのようなミルフィーユ世界の、ある特定の層の中にいる。そのうえで僕は、ある特定の層の中で、その層の底を探し求めている。
層の底とは、実は、別の層の天井でもある。空と海の比喩によるなら、空つまり大気層の最も下にある底とは水面であり、そこは海水層の最も上にある天井でもある。イクチオステガは肺呼吸を獲得し、自らの天井だと思っていた海の水面が、実は、大気層の底であることを発見したのである。
海の比喩を離れよう。
先日の僕の文章の話は、二つの層についての話であると言える。常識的なあり方が前提となった層(L層とする)と、その前提が適用される以前の層(M層とする)である。僕は、M層(常識以前層)の住人であり、僕以外の哲学に興味がない多くの人たちはL層(常識層)の住人である。
だがこの二つの層の上下にはミルフィーユのように数多くの(もしかしたら無限の)層が広がっている。L層(常識層)の上には、時空や因果律や他者といった常識を前提に、更に何かの前提が加えられた層(K層)がある。もしかしたら、それは宗教層とでも呼ぶべきものかもしれない。宗教を信じる人は、常識に加えて、宗教も信じていると言えるからだ。敬虔なイスラム教徒の中には、経典に書かれたことを疑いなく信じ切っている人もいるだろう。そのような人は、非信者から見れば経典とは特殊な前提であり、その前提を受け入れていない人がいることなど思いもよらないのかもしれない。そのような人を思い描くならば、L層(常識層)の上には、K層(イスラム教層)があり、K層の中にのみ住む人がいる、ということになる。
または、L層(常識層)の上位層にあたるK層とは、殺人は悪であるとか、約束を破ることは悪であるとか、といった価値観を無条件に受け入れる人が住むところなのかもしれない。殺人が悪である理由を、時空や因果律や他者といった前提を用いて導いたうえで殺人に反対するならば、それはL層(常識層)の範囲内である。だが、そのような理由付けなく、単に殺人は悪であると無根拠に決めつけるのであれば、そのような人はL層ではなく、その上位層にあたるK層(道徳層)の住人である、ということである。もしそうだとすると、少なくとも僕は、K層(常識層)に片足を突っ込んでいるように思える。
ここまでは、より上層に進む方向で考えてきたけれど、同様に、下層に向かい、M層(常識以前層)の下には、N層があると考えることもできるだろう。ここには僕が好きな哲学者たちが位置づけられる。永井均ならば、常識以前に独在性があるとし、入不二基義ならば現実性があるとし、カントならば物自体があるとするだろう。独在性や現実性や物自体とは何か、といったことを考えるならば、それは、N層における議論である。そのような議論は形而上学と呼ばれ、N層とは形而上学層であるということになる。
ここまで、僕は、K層、L層、M層、N層という4つの層を描写した。正直、僕の技量(想像力?)では、N層より下層について具体例を描写することは難しいし、K層より上についても、あと、1、2層ならなんとか具体例をひねり出せるかもしれないが、それ以上は難しそうだ。だが、理屈上は、これら4層の上下にはミルフィーユのように多数の層が重なっていると考えることができるだろう。
天井かつ底
そのうえで、各層の重なりにおいては上位層の底がそのまま下位層の天井となっている。
例えば、K層(道徳層)とは、人を殺してはいけない、といった道徳が無前提に受容されている領域である。だが、道徳について考えるうちに、そのような道徳が成立するためには、包丁で刺すことと人が死ぬことは因果的に関係づけられるとか、他者とは自分と同種の人間であるとか、といった、道徳以前の常識が前提されていることに気づくかもしれない。この気づきはつまり、K層(道徳層)の底に行きついたということである。底を底として認識したと言ってもいいかもしれない。K層(道徳層)の下には、L層(常識層)が広がっていることに気づき、それまで底だと思っていたものは、より下位層における天井であったことを認識するのである。
更に、L層(常識層)についても同様のことが言える。この層は時空や因果律や他者の存在といった常識が無前提に受容されている領域である。だが、常識について考えるうちに、そのような常識が成立するためには、常識を成立させるための何らかの前提が必要であることに気づく。その前提とは、例えば、永井均であれば、超越的開闢と超越論的構成である。ここがつまりL層(常識層)の底であり、その下にはM層(常識以前層)が広がっている。この二層の関係は、M層(常識以前層)から眺めるならば、超越的開闢と超越論的構成を出発地点として、そこから(山括弧のない今の連続としての)時間や(山括弧のない私としての)他者を見出した地点がM層(常識以前層)の天井であるということになる。そして、そこが、常識的な世界が広がるL層(常識層)の底でもあるということになる。
形而上学
なお、この文章では、あくまでミルフィーユのように天井と底が重なるかたちで複数の層が積み重なっている、という描写をしたいだけなので、その層の具体的内容はどうでもいい、とは言える。
だが脱線とはなるが、K層(道徳層、イスラム教層)、L層(常識層)、M層(常識以前層)、N層(形而上学層)という名付け方について、より正確に述べておきたい。
まず僕は、L層とM層の対比は、自然学と形而上学の対比であると考えている。だからL層(常識層)とは自然学層であり、M層(常識以前層)とは形而上学層である。僕は、形而上学層という水中でもがく魚で、自然学という空中を疑いなく飛んでいる鳥たちをうらやましそうに眺めている、ということになる。
だが、形而上学層という水中において、上をうらやましがるだけでなく、下を見て、その底を探し求めることは可能である。そのなかで、例えば、永井均という魚は、独在性という底を見つけ出した、と描写することもできる。
しかし、独在性という底は、「さて、それでは、独在性とは何だろう。」という問いを生む。これが、M層の更に下にあるN層である。これこそが、形而上学の最先端にある問題であり、これこそが真の形而上学であると僕は考えている。だから、形而上学層という名前をN層に用いている。
以上のように理解したうえで、先ほどの名付け方を変更し、K層(道徳層)、L層(自然学層)、M層(形而上学層)、N層(形而上学層②)、と呼んでも全く問題はない。
その下には、きっと、O層(形而上学層③)、P層(形而上学層④)・・・と続いていくのだろう。だから、僕は底なし沼にはまっているのである。
平井靖史とコリングウッド
さて、各層の中身の話から、ミルフィーユという形状のほうに視点を戻そう。僕は、ミルフィーユのような層構造から連想するものが二つある。それは、平井靖史の「マルチタイムスケール(MTS)」と、コリングウッドの「形式の変移図」という二人の哲学者による二つのアイディアである。いずれも、複数のスケールや形式(概念)が層のように重なっており、ミルフィーユ的である。
(その内容については、平井靖史『世界は時間でできている』とロビン・ジョージ・コリングウッド『哲学の方法について』を読んでください。)
両者に共通するのは、複数の層の間の移行という動性が重要である、という点である。
僕の話においても、イクチオステガが水中から上陸し、鰓呼吸から肺呼吸に移行するという動きが重要である。そして、イクチオステガは、自分がかつて水中にいて、鰓呼吸をしていたことなど忘れてしまう。動性を忘れるから、イクチオステガは形而上学、つまり常識以前の問題に煩わせられることなく、穏やかに生きることができる。
哲学者には動性にこだわり、そして、イクチオステガは動性を忘れ去ることができる。
僕が住む層の下には、ぽっかりと深淵のように下位層が広がっており、僕はそこに移行することができる。僕は、つまり底なし沼に落ちていくという動性を有している。この動性を忘れることができないから、僕は不幸な哲学者であり、イクチオステガは幸せなのである。だから、先日の文章では僕はイクチオステガになりたいと書いた。
だが、平井やコリングウッドが見出したことを思い出すならば、ただ深淵を見下ろすのではなく、視点を90度変え、まるでミルフィーユの断面図を眺めるようにして、横からミルフィーユ構造を捉えることもできるはずだ。そうすれば、僕は深淵に落ち込んでいく心配はない。
確かに、動性は哲学者の固有能力だけど、その動性を使って、このような視点移動を成し遂げることもできる。実際にそのようなことをした平井靖史やコリングウッドは、哲学者としての先輩であると言えるだろう。
このとき哲学者は、ミルフィーユ世界の住人ではない。世界から離れ、いわば神の視点から、世界の断面を眺めている。これは、哲学におけるひとつの到達地点だろう。
安住の地と動き
僕がイクチオステガになりたかったのは、彼が、常識の世界または自然学の世界という安住の地を見つけたからである。だから、彼は、哲学の深淵におののくことはない。イクチオステガは常識を信じ、そして信じるという決断をしたことも忘れ、常識という前提があることも忘れ、ただ、彼の世界を生きていく。そのような状況を想像したとき、僕はとても心穏やかになる。僕はそのようになりたかった。
人が、イスラム教のような宗教を信じるのは、宗教が、彼らに安住の地を与えるからだろう。あえてイスラム教と名指しするのは、イスラム教が生活のルールを細かく決めてくれるという意味で倫理的な意味合いが強いからである。イスラム教は、イスラム教の教えに従っていればいいという安心感を与えてくれるし、どのように従えばいいかについても明確に教えてくれる。(イスラム教は詳しくないので、あくまでイメージです。すみません。)それは、先ほどの用語によるならばK層(道徳層)への定住である。
僕は、安住の地を見つけ、そこに定住したかったのである。
そして、ようやく、ミルフィーユの断面を横から眺めるような神の視座に立つことで、これ以上、視座を動かす必要がなくなるから、僕は心穏やかに過ごすことができる。この場所こそが哲学者にとっての安住の地なのかもしれない。
さて、この文章を書く前は、これがゴールだった。だが、いざ書いてみると、この神の視座自体を考察の対象として、更に哲学を推し進めることができるのではないか、ということに気づいてしまった。ここから見えるミルフィーユの断面のような景色は、本当にそのようなあり方をしているのだろうか、などと考えてしまうのである。
そこから、再び視座は動いていく。先ほどまでは縦移動だったけれど、今度は横移動である。向きが変わっただけで、思考は動いていく。残念ながら、僕は安住の地を捨てて、再び歩き始めることになる。この動性こそが哲学なのだとすれば、それは必然なのかもしれない。