※6700字くらいです。最近ネットに公開された入不二先生の文章の「予備校(文化)」ではなく「哲学」のほうに振った読解です。けど、文章のなかで最も哲学的な個所であろうリンゴの話はあえてしていません。(面白い話だったけど焦点がぼやけるので。)
はじめに
『予備校文化(人文系)を「哲学」する』(以下、『予備校』)という入不二の文章を読んだ。
(今のところウェブに無料で公開されているので未読の方は是非読んでください。)
僕は、正直、予備校にも予備校文化にも興味がないので、単に哲学的興味だけで読んだ。そういう意味では、僕はあまりいい読者ではないだろう。一方で、『予備校』がウェブで掲載されるまでには紆余曲折があり、『予備校』の哲学的位置づけも問題になったようなので、ただ哲学的に読む、という僕の読み方は何かの役に立ちそうな気もする。
この文章の位置づけの難しさ
入不二が述べている通り、『予備校』は、哲学が持つ、家族的類似性(p.3)という特徴を最大限に発揮して、「予備校的なもの」について哲学的に考察したものである。
だから、『予備校』では、入不二自身が予備校講師であったという実体験も使いながら、家族的類似性をたどるようにして、様々な角度で、「予備校的なもの」が論じられていくことになる。また、『予備校』の書かれ方として、読者自身が、家族的類似性をたどるような読解を自ら遂行することによって、哲学を体感し、「予備校的なもの」を体感していくことが意図されている。
『予備校』という文章はそういうものだから、読み終えても、「予備校的なもの」とは何かを明確に一言で捉えることはできない。それが家族的類似性なのだから、当然と言えば当然である。だから、この考察の先には、まだ何かがあるのではないか、というモヤモヤ感が残る。
更に、入不二自身が、元予備校人気講師であり多くの講師と親交があり、通常の人よりも予備校に関して多くを語ることができる特別な立場にある、ということも、この『予備校』という文章の位置づけをわかりにくくしている。
哲学には、万人に門戸を開き、誰もが等しく語る資格を有しているという特徴があるように思う。哲学がよく取り扱うような普遍的な概念、例えば、善や時間といったものについて、特定の誰かが他の誰かよりも語ることができる立場にある、ということはありえない。
だが、この『予備校』という文章は「予備校的なもの」という決して普遍的ではないように思えるものごとについて、より深い知識を持つ関係者(入不二)が、知識を持たない読者に知識を伝授する、という見かけをしている。(前置きしておくと、最後のほうで、実はそうではないという話をします。)
このあたりの事情が、この『予備校』という文章の哲学的価値をわかりにくくしているのではないだろうか。
だから、あえて、僕は、家族的類似性という特徴を無視して、僕なりに読み取った「予備校的なものとは何か。」という問題に対する答えを設定する。そのうえで、この『予備校』は「本流の」哲学である、ということを論じたい。
「最適の道筋ではない適度に過剰な力」
「予備校的なものとは何か。」という問いに対して、僕が『予備校』から読み取った答えは、「最適の道筋ではない適度に過剰な力」である。というものである。
一つずつ説明しよう。まず、「最適の道筋ではない」ということについて。
通常、僕たちは、何らか具体的な達成目標に対して、最適の道筋を選択する。喉がかわいたので水を飲むという目標があれば、コップを手にして蛇口をひねる。または冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出す。これが目標に対する最短ルートの選択である。
一方で、最適の道筋ではない選択とは、例えば、喉がかわいたので、水を飲むために名水百選の湧き水の水源地まで旅をするようなものである。確かに、いつかは確実に渇きをいやすことができるだろう。だが、明らかにこれは、最短ルートではない。
予備校において、予備校講師が受験生に対して提供しているものは、名水百選を目指す旅のようなものなのではないか。授業中に講師が一見受験とは関係ない雑談をするのは、大学合格のための知識伝授という目的にとっては最短ルートではないが、曲がりなりにもそれを目指す道ではある。雑談をするうちに大学受験に関連する知識が多少は伝わることもあるだろうし、受験生の気晴らしになって勉強意欲が回復することもあるだろうから。
この話は、『予備校』に即すなら、哲学書を書く場合の本流からの「逸脱」(p.4)であり、予備校講師の「かぶく」「あそぶ」(p.4)の話である。本流からの逸脱ではあっても、哲学史を真摯に記述するという目標からは逸脱していないから、やがて本流となることもある。また、予備校講師の「かぶく」「あそぶ」は、あくまで、予備校講師として受験生に関わるという目的の範囲での「かぶく」「あそぶ」である。最短ルートではないが目標を見失ってはいない。
では、なぜ、予備校において、最適な道筋からの逸脱が生じるのかと言えば、受験生は、予備校に対して、大学合格という最終目標への最短ルートではない別の何かを求めているからなのだろう。その何かにより、最適解からの逸れが生じているのである。
受験生が予備校に求める「何か」とはいくつかあるだろうが、その中で最も重要なものは、「過剰な力」であろう。受験生は、予備校講師から、過剰な力を受け取り、それを受験勉強に向けた力としてチャージしたいと願っているのである。
だが、「過剰」と言っても、その過剰さは、受験生が受け取ることができる程度に「適度」に抑制されたものである必要がある。過剰さの抑制が時間的に行われるならば、それは、「つなぎ去る」、つまり時間的制限というかたちをとるし、過剰さの抑制がその伝達の仕方において行われるのであれば、授業における「図示」も駆使しての、わかりやすいかたちでの「適度な距離」の飛躍感(p.11)となる。
以上のような理由で、僕は、『予備校』で入不二が論じている予備校的なものとは「最適の道筋ではない適度に過剰な力」であると捉えたのである。
外向きの力
なお、「最適の道筋ではない」予備校的なものには、逸脱の力とも言うべき、外向きの力が働いている。
受験生は予備校に対して日々の退屈な受験勉強からの「逸脱」を求めている。そこには、大学合格という、わかりきった目標に向かう内向きの力ではなく、目標から逸れようとする「外向きの力」が働いていると言えるからである。
この「外向きの力」に関わる話として、入不二が、三大予備校の比較などを通じて、受験生の側ではなく、予備校や予備校講師の側の事情も描写しているという個所は興味深い。
この個所は、予備校や予備校講師が、いかに受験生に与えられるほどの過剰な力を蓄えることができるか、についてのお話として読むことができるだろう。
予備校講師という人間が受験生という人間に対して過剰な力を与えるためには、それなりに不自然なかたちで力を蓄える必要がある。その不自然なかたちとは、アカデミズムや市場原理といった仕組みであり、その力の源泉はアカデミズムや市場原理における「外部化」(p.17)の力でなのである。
つまり、予備校という場は、予備校講師が「外部化」により蓄えた「外向きの力」を受験生に提供するというかたちで成立している。予備校とは、どこまでも外向きの力が巡る空間のことなのである。
予備校における「予備校的なもの」の普遍化
ということで、予備校についてあれこれ書いてしまったが、別に予備校になんの思い入れもない僕がなぜ、こんな文章を書いたかというと、この話は、予備校の受験勉強に限った話ではないと考えたからだ。
このことは、『予備校』において、入不二があえて「予備校的なもの」としていることからも明らかだと思うが、「予備校的なもの」とは明らかに、予備校の受験勉強にとどまらない、より普遍的なものを射程に入れている。
まず、予備校生が予備校空間で学ぶことは受験勉強だけに留まらない。当初の目的はそうだったとしても、受験生は、予備校に通ううちに、受験勉強とは大学入学後の勉強とも地続きの真の勉強であることや、受験勉強とは人生を生きるということの一部を構成する生の営みであることなどを学ぶ。(または、僕が全く思いつきもしないような何かを学ぶかもしれない。)受験生は、予備校において、「予備校的なもの」を通じて、真の勉強や、人生を生きることを学ぶのである。
そして、予備校講師も、どこまで意図しているかはともかく、受験勉強のノウハウを伝授するだけではなく、真の勉強や、よい人生といったものなど、当初期待されていた以上の何かを、ともに目指し、そこに向かって「最適の道筋ではない適度に過剰な力」を提供するのである。予備校講師は、受験勉強に留まらない何かを目指すからこそ、過剰な力を発揮することができるとも言える。
僕は、「予備校的なもの」について、水を飲むために、名水百選を目指す旅に出るようなもの、という比喩を使い「最適の道筋ではない」という点を強調したけれど、これは、単に、大学受験のために非効率的な回り道をするということを意味しない。予備校講師は、単に水を飲むことではなく、美味しい名水を飲むことを伝えるのであり、旅の醍醐味を伝えるのである。(これは真の勉強と人生の比喩である。)だから、回り道は回り道ではない。
同じことは、「外向きの力」という言葉を使って表現することもできる。僕は、予備校において働いているのは「外向きの力」である、とし、その外向きの力は結局は回収され、受験勉強に役立つと述べた。だが、実は回収のされ方はそれだけではない。受験勉強には役立たなかったけれど、その受験生が真の勉強をすることや、人生を生きることには役立つ、というかたちで回収されることもある。いや、予備校講師は、回収など想定できないからこそ、過剰な逸脱の力を発揮することができ、その過剰さが受験生によって想定外のかたちで回収されるからこそ、それが適度なものとなる、とも言える。このような想定外の綱渡りによって、「適度に過剰な逸脱の力」は成立しているのである。そして、その綱渡りの緊張感が、「予備校的なもの」のエネルギーの源泉となっている。
予備校には、受験勉強に留まらない、予備校らしからぬ「予備校的なもの」がある。これが、『予備校』の最後で入不二が述べている「受験勉強によって受験勉強を超える」が意味するところだろう。
予備校内にとどまらない普遍的な「予備校的なもの」
また、以上のことを、逆に捉えるならば、予備校内に限らずどこであっても、真の勉強をし、人生を生きる際には、「予備校的なもの」としての「最適の道筋ではない適度に過剰な力」が必要である、とも言える。
真の勉強や人生のような営みにおいて、到達すべきゴールは、まだ見ぬところにあり、想定内の範囲にはないはずだ。そのような想定外の地点に到達するためには、想定された最適の道筋から逸れなければならない。更には、想定外のところに突き進めるだけの過剰な力が必要である。だが、逸脱しっぱなし、でもまずくて、何らかのゴールに到達できるだけの適度さがなければならない。つまり、ここでも必要となるのは「最適の道筋ではない適度に過剰な力」なのである。
予備校で、たまたま真の勉強や人生を学べるのではなく、予備校だからこそ、「予備校的なもの」としての真の勉強や人生を学ぶことができるのである。
そして、僕は予備校に縁遠い人間なので強調しておきたいけれど、予備校でなくても、「予備校的なもの」としての真の勉強や人生を学ぶことはできるし、そして、真の勉強をして、人生を生きるためには、予備校であれ、どこであれ、「予備校的なもの」を手に入れなければならないのである。
「予備校的なもの」という普遍的概念
冒頭で僕は、この『予備校』という文章は、「予備校的なもの」という普遍的ではない事柄を取り扱っているから、哲学的価値がわかりにくい、といったことを述べた。だが、実は「予備校的なもの」とは、予備校に限らない、真の勉強や人生といった普遍的なものごとについての話であり、まさに哲学にふさわしい普遍的な概念であると僕は考える。
なお、『予備校』では、入不二は自らの「予備校」の経験を用いて「予備校的なもの」を描写している個所が多いのでわかりにくいけれど、入不二自身の記述を通じても、「予備校的なもの」が予備校に留まらないものであると読み取れる個所はある。
例えば、『哲学史入門Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』という本が逸脱的で「予備校的なもの」であるとしている個所がそうである。
また、予備校講師である奥井という「予備校的なもの」である人物について描写している個所(p.5)もそうだろう。実は、奥井が予備校講師であったということ自体は、奥井が「予備校的なもの」であることとは関係がないはずだ。僕は奥井を知らないけれど、奥井のような「最適の道筋ではない適度に過剰な力」を体現している人は、予備校講師に限らずいるからだ。
(僕の理解では、奥井とは、過剰な存在感という力を持っていて、だが、それが、予備校講師という職業として成立する程度には適度に抑制されていて、また、その力が、予備校講師としての業績という目標に対しては最適ではないかたちで(無駄に)発揮されている人、のことである。そのような人は予備校講師に限らずいる。)
「予備校的なもの」と現実性の力
最後に、「予備校的なもの」について二通りのやり方で拡張することを試みてみたい。なぜ、そのようなことをするのかというと、『予備校』という文章の哲学的価値を確かめるためである。
まず、この「予備校的なもの」である「最適の道筋ではない適度に過剰な力」を、入不二哲学における、現実性の力と接続させてみる。「適度に」という部分は、うまくいかないので省くが、「最適の道筋ではない過剰な力」とは、まさに現実性の力のことなのではないだろうか。
まず、入不二哲学において、現実性の力は遍在しているから、最適の道筋であろうと、そうでなかろうと、そこには過剰とも言うべき現実性の力が満ちている、と言える。
そのうち、最適の道筋を目指して過剰な力が集まるのは、人間の営みとして当然だから、着目する必要もない。入不二哲学が強調するのは、最適の道筋ではないところにも過剰なほどに現実性の力が満ちているという点であるはずだ。最適の道筋を目指そうとする人間の小さな意図など吹き飛ばしてしまうかのように、無慈悲な現実性の力が遍在し漲っている。この点にこそ、入不二哲学の肝要があると僕は思う。
そのように読むならば、「予備校的なもの」である「最適の道筋ではない過剰な力」とは、まさに現実性の力のことである。
だから僕は、「予備校的なもの」を描写するこの『予備校』という文章は、入不二哲学として重要なものになっていると思う。
「予備校的なもの」と僕の哲学との接続
更に、入不二が示した「予備校的なもの」は、僕自身の哲学的思考も駆動してくれる。
このブログのタイトルにもあるとおり、僕は、対話ということに興味を持っているのだけど、「予備校的なもの」つまり「最適の道筋ではない適度に過剰な力」の話は、対話の場面に適用できるように思えるのだ。
対話には、「語り手」と「聞き手」という非対称の登場人物が二人いるという点が、僕は重要だと考えているのだけど、対話における「語り手」とは、「聞き手」にとって、まさに「最適の道筋ではない適度に過剰な力」を有している人のことなのではないだろうか。
どういうことか。
まず、語り手とは、聞き手にとっては他者だから、聞き手にちょうどいい、最短ルートでなど話してはくれない。だから「最適の道筋ではない」。
また、語り手は、語る義務などないのに、あえて語るのだから、語り手には「過剰な力」が漲っているとも言える。おせっかいの力である。
そして、語り手は、その過剰な力をそのまま聞き手にぶつけるのではなく、聞き手に伝わるように調節し、「適度」なものにしようとする。
そのように考えると、「予備校的なもの」とされる「最適の道筋ではない適度に過剰な力」は対話、つまりコミュニケーションの根幹にあるとすら言えるのではないだろうか。
おわりに
「予備校的なもの」を拡張しようとした最後の二つの試みについては成功したかどうかはわからない。けれど、「予備校的なもの」は哲学的に、色々と使えそうな概念であることは確かだろう。そして、そのような概念を描写したという一点だけをもってしても、入不二の『予備校』という文章は哲学的に重要なものになっていると僕は思う。