※6000字弱あります。

最近、似たようなことばかり考えていて、すでに似たようなことを書いたかもしれないけれど、書き残しておく。

1 哲学・思考・言葉の外

哲学が取り扱うことができるのは、哲学をすることについてだけなのではないだろうか。思考が取り扱うことができるのは、思考についてだけだと言ってもいい。または、言葉が取り扱うことができるのは、言葉についてだけだと言ってもいいかもしれない。

(後述するけれど、哲学と思考と言葉は同じものだが、言葉だけは、同じものを別の角度から同じものを捉えていると考えている。)

そのことを端的に表しているのは、「目の前にペットボトルがある。」という文字列は、目の前にペットボトルがある事態を全然描写していない、という事実である。

僕は、この文字列を液晶画面上で見ているから、これは単なるLEDの光に過ぎないし、もし、この文章が印刷されたら、これは単なるインクのしみに過ぎない。

ペットボトルという言葉がペットボトルというモノとどうやって紐づけられているのか、とか、ペガサスのような架空のモノを表す言葉と、ペットボトルのような現実に存在するモノを表す言葉は何が違うのか、なんていう問題はすべて、そこから派生する問題に過ぎない。答えは、そもそも、言葉とモノは全然紐づけられていない。

そこから、ペットボトルという言葉は、ペットボトルについての心の内部の観念と対応している、なんて考えたくなるけれど、そもそも、心の内部や観念というのも言葉であり、このような考えが、言葉の外にある、現実の心の内部や観念には届くことはない。

言葉を使って、思考して、哲学をする、ということは、すべて、言葉の内部における、思考の内部における、哲学の内部における営みである。それが、言葉の外、思考の外、哲学の外に届くことはない。

僕は、「目の前にペットボトルがある。」と、言葉を使って、思考し、哲学をする。これは、僕が今ここにおけるリアルな状況を描写する際のお気に入りの表現である。(僕は炭酸水を常温で飲むのが好きで、箱買いして手元に置いてあります。)

だけど、そんな言葉ですら、今ここにおけるリアルな状況には全然届いていない。僕の哲学は僕の哲学の中に閉じ込められ、僕の思考は僕の思考の中に閉じ込められ、僕の言葉は僕の言葉の中に閉じ込められている。

2 動的で未完了(山括弧の先行性)

だが、以上の描写は、哲学や思考や言葉を静的なものと捉えた場合の描写である。完了したものと捉えた場合の描写だと言ってもいい。僕たちが触れる言葉は、すでに発話が完了し、ハードディスクの磁気パターンや本のインクの染みとして静的に保存されているということが、この事実を象徴している。

僕は、哲学や思考や言葉は、動的で未完了であると考えている。

そのことをうまく表している例が、永井均の〈私〉である。永井の〈私〉は明らかに思考で捉えることができるにも関わらず、言葉ではうまく表現できない。

この〈私〉を捉えることができる思考とは、言葉で表現できない思考であり、いわば特別な思考である。この特別な思考を〈思考〉と表記してみよう。

この山括弧の表記は便利であり、例えば、次のようなかたちで、永井哲学のかなり深い部分を簡単に描写することができる。

  • 〈私〉は〈思考〉で捉えることができるが、思考で捉えることはできない。
  • 〈思考〉で捉えるならば、〈私〉を〈私〉として捉えることができるが、〈思考〉が思考となった途端、〈私〉は私になってしまう。

(ここでの山括弧なしの私は、《私》も含んでいます。)

僕は、このうち、「〈思考〉が思考となった途端、 〈私〉は私になってしまう」という事態を、思考や私に対する、〈思考〉や〈私〉の先行性として捉えたい。山括弧の先行性である。

この先行性こそが、哲学や思考や言葉は、動的で未完了である、ということなのではないか。

言葉で表現できない言葉で表現できない〈哲学〉や〈思考〉や〈言葉〉は、哲学や思考や言葉として、言葉で捉え、表現されることから、逃げ水のように、どこまでも逃れるという点で、極めて動的である。また、〈哲学〉や〈思考〉や〈言葉〉の把握が完了し、哲学や思考や言葉となることがない、という点で未完了であるとも言える。

つまり、動的で未完了である〈哲学〉や〈思考〉や〈言葉〉と、静的で完了した哲学や思考や言葉という対比ができるのである。

2-2 言葉の場合

なお、〈思考〉や、そのほぼ同義と言ってもいいだろう〈哲学〉については言葉で表現できないことが理解できても、言葉で表現できない〈言葉〉については補足説明が必要かもしれない。

(思考と哲学を同列に扱うことについても、思考のうちのある特別な思考のみを哲学と位置づけようとする人から異論があるかもしれないが、僕は、思考イコール哲学と考えているので問題は生じません。そこに問題を感じるならば、この文章の前半では哲学は除いても大丈夫です。)

僕は、言葉についても、言葉で表現する手前の〈言葉〉があると考えている。イメージに頼るなら、発話しようとして、頭に言葉として思い浮かぶ直前の〈言葉〉と言ってもいい。より理念的に述べるなら、言葉にもやはり、言葉に先行し、言葉により把握され、静的な完了した描写となる手前の〈言葉〉がある。それは思考(や哲学)と同義であり、思考や哲学が、より山括弧寄りの記述であるのに比べ、言葉は山括弧なしに寄った記述である、という違いがあるに過ぎない。哲学・思考・言葉は、言葉で把握された静的で完了した哲学・思考・言葉と、言葉で把握される手前の動的で未完了の〈哲学〉・〈思考〉・〈言葉〉の間を揺らいでいる。

(なお、この揺らぎこそが、つまり、動的で未完了であるということであり、そして、この揺らぎが揺らぎとして捉えられるということが、静的で完了した描写となるということであるとも言える。)

2-3 ペットボトルやペガサスの場合

導入部で、永井の〈私〉を例にしたから、山括弧とは、私や、哲学・思考・言葉といった特別なものにしか付かないと思われるかもしれない。

だが、山括弧は例えばペットボトルのようなモノにも付く。ペットボトルには、言葉で把握される手前の〈ペットボトル〉があり、それはつまり、インクの染みになってしまう前の、現に存在するペットボトルを示している。

同じことは、現実には存在しないペガサスについても言うことができて、ペガサスには、言葉で把握される手前の〈ペガサス〉があり、それはつまり、インクの染みになってしまう前の、現に物語上で描写されるペガサスを示している。つまり、単なるインクの染みではない、現に物語の作者が描写し、現に読者が読む〈ペガサス〉がそこにはある。

このように、この世界は山括弧に満ちていると言ってもいい。(正確には、〈世界〉は山括弧に満ちている。)

2-4 認識の場合

特記しておきたいのは認識についてである。認識にも、言葉で把握される手前の〈認識〉がある。

と言っても、そんなことは当たり前だと感じる方が多いかもしれない。なぜなら、例えば、桜の花が見えるといった認識がまずあり、そこから、「桜の花が見える」という言葉が生まれる、という順序で捉えるのが普通だからだ。認識に限っては、〈認識〉がまずあり、そこから派生するようにして、言葉で把握された「認識」が言葉的に構築される、といった捉え方がなされるのである。

だが、僕が強調したいのは、一般に、言葉で把握される手前にあるとされている認識が、十分には〈認識〉となっていないという点である。

例えば、永井の〈私〉は、言葉に把握される前の〈思考〉によって捉えられるけれど、言葉ではなく何を用いているかと言えば、〈認識〉である。この私だけが、叩かれたら痛いと感じるというような〈認識〉を手がかりにして、永井は〈私〉を捉えている。

そのような〈認識〉こそが、言葉に把握される前の真の〈認識〉であって、「桜の花が見える」というように言葉で共有できてしまうような認識は、真に〈認識〉には至っていない。

(この私だけが叩かれたら痛いと感じるというような認識も、それが共有され、人間なら誰もが持っている実存、というように捉えられてしまったら、それは〈認識〉ではない。)

3 未来への一歩

以上のようなかたちで、山括弧の先行性を用いて、哲学や思考や言葉を動的で未完了であると捉えることで、冒頭で僕が述べたような閉塞から逃れることができる。

確かに僕が、言葉を用いて思考して哲学をする限り、僕は、静的で完了した哲学や思考や言葉の内部に閉じ込められている。僕がやっていることは、結局は、言葉の中での思考としての哲学でしかなく、僕の思考が言葉の外の現実に届くことはない。

だが、僕は、〈言葉〉を用いて〈思考〉して〈哲学〉をしている。確かに、この文章自体も、結局は、言葉を用いた思考活動の成果物だから、山括弧という特殊な記号を用いてしか、このことを描写することはできない。だが僕は、確かに言葉で捉えられる手前において、〈言葉〉を用いて〈思考〉して〈哲学〉をしている。このような表現も、直ちに言葉に追い付かれて捉えられてしまうとしても、一瞬であっても、僕は確かに山括弧的営みをしている。

これは、この現在の一瞬における、未来に踏み出そうとする一歩であるとも言える。僕には、この現在において、この一歩を踏み出そうとする動性があり、未完了であるからこそ、言葉から逃れることができている。これは、未来への一歩であり、閉塞した内部からの一歩であり、真に自由な一歩である。

3-2 対話

蛇足で付け加えるならば、僕は、この一歩は、このブログのタイトルにしている「対話」として整理することができると考えている。対話とは、つまり、自分ばかりが話すのではなく、相手に発話の権利を譲り渡すことであると捉えることができる。つまり、対話とは、自分の内側から、自分の外部に思考を譲り渡すことだと捉えてみるのである。そのように考えるならば、ここまで僕が述べてきたことは、極めて対話的であると言えるだろう。

なお、対話というと複数の人間が話をしているという場面を思い浮かべるかもしれないが、僕が、より基本に置くべきと考えるのが、自問自答としての対話である。思考とは、自問自答の対話をするようにして行われるものなのではないか、というアイディアが僕にはある。そのように考えなければ、少なくとも哲学書一冊にも及ぶような膨大な量の思考をひとかたまりの思考として捉えることはできないように思うのだ。思考とは、(少なくとも一冊の哲学書よりも)細かなパーツが、自問自答により構造化されたものだというアイディアである。

4 入不二の現実論

僕の話はこれでおしまいだけど、ここまでの話は、入不二の現実論と深く関係している。もともと僕自身が考えていたことが入不二に触発されたのか、入不二のアイディアを僕なりに流用しているのかはわからない。だけど、入不二自身の考えとは違うにせよ、僕が述べてきたことが入不二のアイディアに深くかかわっているのは確かだろう。

まず、僕が山括弧の先行性として用いた山括弧とは、つまりは入不二の現実性のことである。入不二の現実性は遍在しており、永井の独在的な私のようなものだけでなく、ペットボトルやペガサスのようなモノにも及んでいる。なぜなら、「(現に)目の前にペットボトルがあり」、「(現に)作者が物語の中でペガサスという描写を行った」からである。だから、〈ペットボトル〉であり〈ペガサス〉なのである。

そして、現実性は遍在しているから、その遍在性を透明化し、全く無視したとしても、全く事態は変わらない。(現に)という言葉を取って「目の前にペットボトルがあり」、「作者が物語の中でペガサスという描写を行った」としても何も失われるものはない。それが、〈ペットボトル〉や〈ペガサス〉が言語で捉えられ、ペットボトルやペガサスになるということである。これらは、言葉・思考・哲学の内部のペットボトルやペガサスである。

そして、そこから脱する未来への第一歩とは、入不二哲学における「ケセラセラの未来」のことである。そこには入不二の『あるようにあり、なるようになる』で描写されている、運命からの自由としてのビッグウェーブに乗るような自由がある。

他にも色々なことが言えそうだけど、僕だけのオリジナルではないということは明らかにしておく必要がある。

4-2 無を巻き込んだ力

なお、ひとつだけ付け加えておくと、先日僕が書いたとおり、入不二の哲学には、無という魔界的な何かに向かう動性が含まれている。

(『無を巻き込んだ力』https://dialogue.135.jp/2024/07/21/makikomi/

この動性とは、つまり、言葉を使って思考し、哲学をしたいという哲学者の衝動のことであろう。言葉・思考・哲学には、先行する山括弧に追い付き、それを台無しにしてしまうという無に向かう力が潜んでいる。

もし人が言葉を使って思考し、哲学をしなければ、山括弧の現実はそのまま維持され、そこには何も問題は生じなかったはずである。あまり適当な比喩ではないけれど、人は、いわば動物のように生き、そこには何の哲学的問題は生じなかったはずである。

だが、僕は哲学者だから、言葉を使って思考し、哲学をせずにはいられない。その営み自体が、僕が求めるものを遠ざけ、台無しにしてしまうとしても、それを求めずにはいられない。そのような営みのことを、入不二は無を巻き込んだ力として捉えたのではないか。

そうだとするならば、入不二の哲学も、僕の哲学と同様に哲学ではあるから、このような台無しな側面があるはずだ。つまり、入不二の哲学は、現実性という、言葉・思考・哲学以前の先行する山括弧を鮮やかに捉え、その詳細を描写することに成功したとともに、言葉・思考・哲学により山括弧つまり現実性を完膚なきまでに台無しにしてしてしまうことに成功したとも言えるのである。これこそが「無を巻き込んだ力」の含意であると僕は考える。

そして、入不二の現実論がすばらしいのは、この成功と台無しがきれいに一致しているというところにあると僕は思う。入不二は、哲学を完璧に成功することにより、現実性を完璧に台無しにし、そして、現実性を完璧に台無しにすることにより、哲学に完璧に成功したとも言える、と僕は捉えている。