※6700字くらいです。二つの文章の続編にあたるのかな。最近、永井先生と入不二先生についての考察ばかりしているのでシリーズ化してるかも。

超越論的

僕は、ようやくカントの『純粋理性批判』を(当然日本語で)読み始めていて、今更だけど、超越論とかアプリオリとか、といったことを考えている。そして、僕がやっている哲学は超越論的な形而上学なのかな、なんて考えている。そんなところから、この文章は始まる。

ここでの超越論的とは、伝統的な用法から離れているかもしれないけれど、永井均に即したもので、「理性が有効に機能し、理性的にものごとを把握できると言えるための条件を明らかにしようとする営み」といった意味だ。本当のところ、世界がどのようなあり方をしているかはよくわからないけれど、理性的に捉えるならば、世界は〇〇のようなありかたをしている「ことになる」というように言えるはずである。この「ことになる」条件を明らかにしようとするのが、超越論的な哲学である。

カントはそこから、時間と空間という形式に則っていることが超越論的な条件であると論じ、永井均は「ものごとの理解の基本形式」に則っていることが超越論的な条件であると論じている。ちなみに僕は、このブログのタイトルのとおり対話に着目して哲学をしているのだけれど、対話という形式に則っていることが言語が成立するための超越論的な条件だと考えている。(そう考えないと、文字のつながりを文として理解できることの説明がつかない。)

カントと永井均と僕のどちらが正しいかはともかくとして、明らかなのは、超越論的な哲学には、まだまだ議論されていないことがたくさんあるということだ。僕には、それをやっていきたいという思いがある。

必然的でアプリオリ

そのうえで、こうした超越論的な条件の範囲内で、自然科学を代表例とする自然学は行われる。

例えば、カントに則るならば、次のようになるだろう。「実は、自然学の対象である自然は、時間と空間という形式に則っているかどうかはわからない。だけど、とにかく、自然は時間と空間という形式に則っているという超越論的な条件に基づき、自然学は営まれることになる。」というように。

なお、だから、自然学の前提となる条件を設定する超越論的な哲学は形而上学であり、その前提に基づき行われる自然学は形而下学である、ということになる。

なぜ、僕が形而下学としての自然学ではなく、超越論的な形而上学のほうに惹かれるのかというと、超越論的な形而上学は必然的なことがらを論じているからだ。一方で、形而下学としての自然学は必然的ではないことがらを論じている。この自然がこのようなあり方をしているのは偶然であり、別のあり方をしていたことは可能性としては十分ありうる。水の沸点が50度だったり、エネルギー保存の法則が守られなかったりするような自然のあり方は、(思考実験としては)いくらでも想像できる。もし自然がそのようなものだったら、自然学は全く異なるものになっていたはずだ。

必然的でアプリオリな超越論的条件に基づき、偶然的でアポステリオリな自然学の探求が行われる。僕は、どんな偶然によっても揺らがない、必然的でアプリオリな条件のほうを知りたいのだ。

認識と言語の混入

だが、純粋に超越論的に思考を進めることは難しい。なぜなら超越論的であるということは、つまり、純粋に理性だけに頼るということであるはずだからだ。

この純粋な理性というものがやっかいで、まず第一に、その純粋な理性とはどういうものかよくわからないし、第二に、仮に純粋な理性というものを措定したとしても、どうしても理性以外のものが混入してしまい、純粋に理性だけに基づくことは難しい。

この二つの問題は、多分、表裏一体で、どうしても他のものが混入してしまうから、純粋な理性は捉えられないのだし、純粋な理性とは捉えがたいものだから、捉えようとすると、他のものが混入してしまうのだろう。

当然、僕は、純粋な理性を捉えることなどできないけれど、何が混入しがちかはわかっているつもりだ。その、混入しがちな理性ではないものとは、認識と言語である。いずれも理性に深くかかわっているから、理性と切り分けるのは難しい。だが、認識や言語が理性とは別のものであることは明らかである。

認識や言語が全くなくても、理性は成立できるはずだ。確かに、認識による具体例の供給が全くなされず、また、その理性を表現する言語が全くなければ、理性の輪郭を明確に表現することは不可能だ。だが、認識を通じた具体例や言語による表現がなくても、そんなことは全く関与しないかたちで、純粋な理性というものが確かに存在してもよいはずだ。全く具体性がなく、言語によっても表現されない純粋な理性が、どこかに潜んでいる。理性とはそういうものであるはずである。

哲学者は、その純粋な理性を、自らの哲学書の中で表現しようとするけれど、当然、その表現の過程では、認識を通じた具体化や、言語の使用を避けることはできない。

僕の考えでは、この認識と言語の混入を必要最低限のところで抑えた哲学書こそが、上質な形而上学の哲学書なのである。例えば、カントと永井均は、主に認識を混入させており、ヴィトゲンシュタインと入不二基義は、主に言語を混入させている。議論を成立させるために必要な、ぎりぎりの最小限の不純物を絶妙なかたちで混入させているから、彼らの超越論的な形而上学は素晴らしいものになっているのだろう。

超越的(永井の場合)

ところで永井は、その不純物を(超越論的に対し)超越的と呼んでいる。

永井は、ただ奇跡的に、全く無根拠に、とにかく私があるという超越的事実をもとにして、〈私〉の独在論を構築している。これを、認識という不純物を用いて表現するならば、とにかく私という主体から認識が始まっているという超越的事実をもとにして、永井の独在論は駆動していると言うことができる。(主体という言葉が実は問題なのだけど、この文章は永井の独在論を正確に描写することを目的としたものではないので無視します。)

これで話が終わりなら、永井は、不純物に名前を付けただけの人、ということになってしまうのだけど、そうではないところが永井の素晴らしさだ。

永井は、私による認識という超越的事実をもとにした超越的形而上学に対比するようにして、「理性的に考えるならば、私による認識が誰にもあることになっている」という超越論的形而上学を位置づけたのである。

なぜ、「理性的に考えるならば、私による認識が誰にもあることになっている」ことが超越論的形而上学なのかというと、私による認識が誰にもある、ということは、私による認識が、数多くの事例のうちの一例である、ということになるからである。永井は、数多くの事例のうちの一例であるということを、「ものごとの理解の基本形式」であると考えており、つまり、超越論的な理性の根幹にあり、超越論的な条件であると考えている。

そこから「私による認識」が「ものごとの理解の基本形式」という超越論的な条件に則っているということは、つまり、私を超越論的な形而上学に位置づけることに成功したということになる、ということが導かれる。

この「理性的に考えるならば、私による認識が誰にもあることになっている」という超越論的形而上学と、さきほどの「ただ奇跡的に、全く無根拠に、とにかく私という認識がある」という超越的形而上学は、(少なくとも、ある一面では)完全に重なっている。つまり永井は、私による認識という不純物を、単なる不純物ではなく、超越論的形而上学と超越的形而上学を重ね合わせるために必須の特異点として位置づけることに成功したのである。

これを、あえて超越論的形而上学の手前に超越的形而上学を持ち出すことで、不純物の混入という超越論的形而上学の問題を解決したと言ってもいいだろう。

(以上のようなことをもう少し丁寧に、先日の文章『『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探求3』を読んで』 https://dialogue.135.jp/2024/04/08/nagainotankyu3/ の前半で書いています。)

超越的(入不二の場合)

なお、入不二の場合もこれと似たことをしている。このことは多分書いたことがないので、ちょっと丁寧に説明していく。

まず、入不二の現実論を、ここでの議論に必要な範囲で描写しておこう。

入不二は、「現に、ソクラテスは哲学者である。」という文の「現に」に着目する。そして、「現に」の現実性は、「ソクラテスは哲学者である。」というような、すべての「現に」が明記されていない文の中に遍在している、とする。現実性とは、どこにでも遍在しているから、可能性や偶然性のような様相システムの中に、そのひとつの構成要素として並列されるものではなく、根底で様相システム自体を(現に)成立させるものとして位置づけられるべきものなのである。

これはいわば、「ソクラテスは哲学者である。」という言語が、「ソクラテスは哲学者である。」という現に生じている事態(つまり現実)と完全に一致しているということを出発地点とした議論であると言ってもよい。言語と現実の完全な一致があるからこそ、言語のあるところにはどこでも、言語を先回りするようにして現実が遍在しているのである。

例えば、もし、「ソクラテスは哲学者である。」という文が偽であったとしても、「『ソクラテスは哲学者である。』は偽である。」という文として、言語は成立する。そして、その文には、「現に、『ソクラテスは哲学者である。』は偽である。」というかたちで、現実性が付与されている。このようにして、言語と現実は完全に一致し、現実性は遍在している。

入不二の議論を超越論的な形而上学として捉えるならば、このような言語こそが不純物である。現実性というものを純粋に理性的に捉えようとするならば、理性とは異なる言語というものを前提として混入させることは避けるべきであるはずだ。それなのに入不二は、現実と言語の一致という超越的事実を、無根拠に前提としている。

だが、この入不二の無根拠さは、永井の場合と似たようなかたちで、入不二哲学の素晴らしさにつながっている。

なぜなら、「ソクラテスは哲学者である。」という超越論的事実と、「現に、ソクラテスは哲学者である。」という超越的事実は(少なくとも、ある一面では)完全に重なっているからである。これは、「現実と言語は一致している「ことになる」」という超越論的事実と、「現実と言語は一致している」という超越的事実の重なりであると言ってもいい。

つまり、入不二は、現実と言語の一致という不純物を、単なる不純物ではなく、超越論的形而上学と超越的形而上学を重ね合わせるために必須のものとして位置づけることに成功したのである。

無を巻き込んだ力

なお、以上の話は、僕なりに入不二の議論を解釈したものであり、入不二自身は、現実性を言語的に限定しては捉えていない。入不二ならば、現実性は言語外にも遍在している、と主張するはずである。

確かにそのとおりなのだが、それは、入不二哲学における、根源的な肯定性という一側面から捉えた場合のことである。入不二哲学には、もうひとつ「無を巻き込んだ力」という側面がある。(そのことを『無を巻き込んだ力』として先日書いています。https://dialogue.135.jp/2024/07/21/makikomi/

この無とは、つまり、言語のことであり、言語が現実と一致しているということの無根拠さの表現であるとも言える。言語と現実が一致していることの無根拠さを自覚するならば、入不二が論ずる現実性は、言語的な構成物となってしまう危うさを持っているのである。

入不二の現実論には、現実と言語の一致を前提とした、根源的に肯定的な側面と、現実と言語の一致の無根拠さを自覚した「無を巻き込んだ」側面という二面性がある。それが、入不二哲学の、超越的形而上学としての側面と、超越論的形而上学としての側面に、それぞれ対応している。

哲学者の書く力

だが、入不二の凄さは、そこで終わらないところにある。入不二の無、つまり言語と現実の一致の無根拠さは、静的な事実ではない。入不二の無は「無を巻き込んだ力」という動的なあり方をしている。

この「無を巻き込んだ力」とはつまり、言語と現実の一致の無根拠さを自覚しつつも、それでも言語を用いて語ろうとする飽くなき姿勢を描写したものである。言語は現実と一致していないと知りつつも、それでも言語を語り、現実を掴み取ろうとする姿勢である。現実と一致しないという点で明らかに無である言語を用いて、それでも言語的に現実を描写しようとする飽くなき試みは、単なる無ではなく、無が無を巻き込み、無の積み重ねとしての量を生み出す。この量化した無こそが入不二の潜在性であると捉えることもできる。そして、この言語を用いて語ろうとする飽くなき姿勢こそが、入不二の現実論を駆動する現実性の力である、と解釈することもできる。

言うなれば、現実性の力とは、言語は無であると知りつつ、それでも無である言語を用いて語ろうとする哲学者の力なのである。書かれた哲学書こそが量化した無とするならば、哲学書を「書く力」こそが現実性の力であると言ってもいい。

なお、当然、入不二はそのようなことは言っていない。入不二にとって、現実性の力とは、言語などとは無関係に、どこまでも肯定的に遍在する、現実そのものが有する力である。つまり、超越的な力である。だが、別の側面から超越論的に捉えるならば、現実性の力とは、言語で語り、哲学書を書こうとする哲学者の力である、と捉えることは可能である。

そして、現実性の力とは現実そのものが有する力であるという超越的な描写と、現実性の力とは哲学者が書く力であるという超越論的な描写は、完全に重ね合わせることができる。

だから、入不二哲学に沿うならば、現実とは哲学者自身であるとも言える。現実であるということと、哲学者が書くという営みをしていることとは完全に一致する。現実があるということ。それは、書くという営みが持つ秘められた力の発露なのである。

交差

入不二哲学が、言語で書くという哲学者の視点に立ったものだとするならば、永井の哲学は、どこまでも非哲学者、つまり生活者の視点に立ったものであると言えるだろう。

なぜなら、永井は、超越的事実として、「私からの認識」という非言語的な事実を設定するが、これはつまり、哲学者ではなく、生活者の視点に立つということだからだ。

永井は、『転校生とブラックジャック』において、若い頃の永井自身と思われるE君の言葉として「哲学をすることそれ自体が好きなのではないような気がする」と言っている。永井は、哲学者である以前に生活者として、〈私〉という問題に遭遇し、その問題を生活者として解決したいと願っているのだろう。

哲学者と言語、生活者と認識がそれぞれ対応しているとするならば、だから永井は、言語ではなく認識を重視しているとも言えるだろう。

以上のように捉えるならば、永井は生活者として哲学をし、入不二は哲学者として哲学をしていると言うことができる。だが、当然、そのように一面的に固定的に捉えることはできない。

永井は単なる生活者ではない。「書くこと」以前にある私の超越性から出発した超越的形而上学から、言語的な超越論的形而上学に反転するとき、生活者永井は一流の哲学者となる。そして、生活者による超越的形而上学を完膚なきまでに無効化する。

一方の入不二も単なる哲学者ではない。入不二が「書くこと」に自覚的な超越論的形而上学(「無を巻き込んだ力」に着目した現実論)から、現実そのものの現実性としての超越的形而上学(根源的に肯定的な現実性としての現実論)に反転するとき、哲学者入不二は、一流の生活者に変貌する。

なお、この一流の生活者とは、もはや人間ではなく、現実そのものであるということであり、入不二ならば、神と呼ぶだろうもののことである。その神は、書く者としての哲学者入不二の営みなど完膚なきまでに圧倒し無効化するに違いない。

このようにして、永井と入不二は交差し、認識と言語は交差し、超越と超越論は交差し、哲学者と生活者は交差し、神と人間は交差している。

この交差のことを、永井は独在性と呼び、入不二は現実性と呼んでいるとも言える。そして、そのような交差を介してしか、純粋な理性というものを炙り出すことはできないようにも思う。