※7000字ちょっとです。入口で政治的な話を扱っているけれど、書き終わってみたら、政治や倫理とはあんまり関係ない文章になりました。芸術論なのかな。(どうでもいいけど、アイキャッチ画像に、直近で旅行で行ったときのきれいな景色の画像を貼ってるんだけど、最近、行ってないなあ。)

ハイチ系移民はペットを食べる

James F. ガメ・オベールさんのツイートに次のようなものがあった。

「世界中の人達が、もう単に「正しい」だけの批評や批判にはうんざりして、聞き飽きて、そこからトランプ支持も生まれたわけだけど、すぐれた創作/表現によってしか社会を変えることは出来ないことにアメリカの人たちも気が付き始めているんだね。」

僕はこのツイートを哲学的に拡張させたいのだけど、その前に、本来の意味を、確認しておく。

まず、このツイートの前段として、トランプさんのハイチ系移民がペットを食べているという暴言がある。

このようなトランプさんの暴言に対しては、「トランプの主張は、事実無根でくだらない。」なんて新聞の社説や週刊誌で批判できるだろう。

だけど、若い世代の人たちは、そういう従来のやり方ではなく、ダンスで暴言を揶揄するようなショート動画で応じている。

そういう、表現の仕方の対比をふまえ、ガメ・オベールさんは、前者の従来型の「正しい」だけの批判ではなく、後者のショート動画のような新しい創作のほうがいいよね、とツイートしているのである。

単に「正しい」だけの批判は聞き飽きていて、その批判の力は失われている。それよりも、ショート動画で、ペットを食べる真似をしたダンスをするほうが、よほど、トランプの主張のくだらなさを表現できている。ガメ・オベールさんが言っているのは、そういう話だろう。

伝えたいことと伝える手段

僕は、この話を読んで、小学校での国語の授業を思い出した。最近のことは知らないけれど、僕が子供の頃は、国語の時間には、文章を読んで、作者の意図は何か、なんて答えさせられていた。例えば、火垂るの墓(僕がイメージしてるのは映画の方だけど)ならば、作者は戦争の悲惨さを訴えたかった、なんて答えれば、まあ、いい点をもらえるはずだ。または、この文章の主題は何か、なんていう問題の出し方もある。

そこにあるのは、伝えたいことと、伝える手段という関係性だ。火垂るの墓ならば、伝えたいことは「戦争は悲惨だ」ということなのだけど、それだけを書いても伝わらないから、長々とした物語を手段として書いている、という関係性がある。

なお、ガメ・オベールさんの例でいくと、伝えたいことは、「トランプの主張は、事実無根でくだらない。」というものになるだろう。そのうえで、手段として、新聞に長々と社説を書いたり、ショート動画を作ったりしている、ということになる。

だから、ガメ・オベールさんのツイートは、単に「正しい」だけの文章はキャッチーじゃないから、手段としての創作を工夫したほうがいい、という話だということになる。

目的と手段の転倒

だがきっと、この話は、それだけでは終わらないだろう。ガメ・オベールさんは、目的と手段の転倒も視野に入れているのではないだろうか。

真にすぐれた創作であるためには、それが単なる手段であってはまずい。あくまで、その創作自体を目的として追求しなければ、真にすぐれた創作となることはできない。まず、面白いショート動画を作りたいという意図、目的が先にあって、その手段として、トランプさんがネタとして選ばれたに過ぎない、という関係性があるべきだろう。

そのような意味で、すぐれた創作のためには、目的と手段の転倒が必要なのである。

そして、その目的と手段の転倒は、さらなる再転倒も含んでいるはずだ。トランプさんを批判したいという強い思いがあるからこそ、その創作はすぐれたものになるとも言える。ショート動画というすぐれた創作を更に超えるような強い意図があるからこそ、その創作は更にすぐれたものになることができるのである。このとき、目的と手段の再転倒が生じ、ショート動画というすぐれた創作は再び手段となり、トランプ批判が目的として位置づけられる。当然、この再転倒は、更なる再々転倒へとつながっていく。

手段と目的

きっと、手段と目的という固定的な関係性があるのではなく、手段が目的であり、目的が手段である、という転倒をどこまでも反復するような相互依存があるからこそ、その創作はすぐれたものになるのだろう。

そもそも、手段と目的というように二分すること自体がつまらない考えであり、要は、学校で、火垂るの墓を読んで、この文章の作者の意図はなにか、なんて聞くこと自体が野暮な話なのだ。火垂るの墓で野坂昭如が描きたかったことは、戦争は悲惨だ、なんて要約することはできない。その文章が描きたかったことは、ただ、その文章として描かれた全てなのである。同様に、ショート動画も、単なるトランプ批判などではない。その全編として、ただ、ひたすらに創作そのものなのである。

だから、新聞の社説のような、「正しい」だけの文章はつまらない。社説のような文章は、小学校での国語の授業のように、伝えたいことの手段でしかない、というあり方をしている。そこには、手段が目的であり、目的が手段である、というような相互依存が生じる余地がない。新聞の社説がすぐれた創作となることはできないのである。

「正しい」だけの文章の価値

ここから、ガメ・オベールさんの話から離れ、哲学の領域に踏み込んでいく。

まず確認しておきたいことは、「正しい」だけの文章にも価値がある、ということである。その理由は、当然、「正しい」だけの文章には、正しさという価値が宿っているからである。

創作としての面白さはなくても、厳密に正しいことを伝達したい場面はある。そんなとき、「正しい」だけの文章が価値を持つ。

しばしば、「正しい」だけではない文章は、正しさを犠牲にする。創作的な文章は、すぐれた創作とすることを優先し、正しいことをおろそかにする。例えば俳句は、文章を切り詰め、説明を省略し、受け手の想像に委ねることで、表現としての広がりを持たせる代わりに、誤解の可能性を高めている。これは、文字数や季語という制限を設けることで、すぐれた創作としての価値を高める代わりに、正しさを犠牲にしているということである。

「正しい」だけの文章は、そのような誤解が生じないよう、述べるべきことは漏れなく述べる。例えば学術論文は、意識的にそのような書き方をするものだろう。学術論文は、創作としての面白さはない代わりに、厳密に正しく伝達すべきことを伝達することができる。

このような「正しい」だけの文章の価値は、特に、哲学において重要になるだろう。なぜなら、哲学とは、物理学などの自然科学とは違って、実験等に頼ることはできないからである。哲学とは、言葉を厳密に正しく用いて、厳密に正しく思考することでしか前に進むことができない営みである。

正しさと表現方法

だが、本当に、ショート動画のダンスや俳句よりも、社説や学術論文のほうが正しいのだろうか。はたして、ショート動画のダンスや俳句は、創作の価値を高めるために正しさを犠牲にしているのだろうか。言い換えるなら、ショート動画のダンスや俳句の作者は、社説や学術論文によって、より正しく自らの意図を伝えることができたはずなのに、その正しさと引き換えに、創作の価値を高めるために、あえてショート動画のダンスや俳句という表現を選択したのだろうか。

そうではないだろう。ショート動画のダンスや俳句の作者が言いたかったことは、ショート動画のダンスや俳句でしか表現できないものであるはずである。現実にはそううまくはいかないけれど、理想的なあり方としては、ショート動画のダンスや俳句で表現されたことと、その作者が言いたかったことは完全に一致しているはずであり、だからこそ、作者は、ショート動画のダンスや俳句という表現を選択したのである。理想的には、すぐれた創作とは、そのようなものであるべきなのである。

だからこそ、すぐれた創作においては、手段が目的であり、目的が手段であり・・・というかたちで、目的と手段の相互依存的な動的な関係が生じる。このような相互依存関係が生じるのは、トランプ批判とダンスのような、一見、全く異なるように見える、作者の意図と、その表現とが、すぐれた創作として奇跡的に重ね合わせられるからなのである。

学術論文とダンスの違い

では、社説や学術論文と、ショート動画のダンスや俳句との違いは何か。

それはきっと、社説や学術論文よりも、ショート動画のダンスや俳句のほうが、作者の意図と、その表現との距離が大きい、という違いだろう。

ショート動画のダンスのほうが、意図と表現の距離が離れている分、それらを重ね合わせることができる表現をうまく探し出せたとき、より、創作物としての輝きが増す。

一方の社説や学術論文は、その距離が少ないから、意図と表現の重ね合わせは容易にでき、そこに創造としての価値が宿りにくい。

なお、ここで社説を例に出すことはまずいかもしれない。当然、社説にも名文はあり、そこに創作としての価値が宿ることは、よくある。

ここで例に挙げるべきなのは、例えば、「雪は白い。」や「独身者は結婚していない。」のような文だろう。このような文では、作者(話し手)の意図とその表現(文)とは、ほぼ一致している。

だから、あえて創作の力により、意図と表現とを架橋する必要がない。これらは、いわば、創作的価値のない、「正しい」だけの文章である。

以上のように考えるならば、ショート動画であれ、名文の社説であれ、それがすぐれた創作であるためには、意図と表現との間の距離が必要である。トランプ批判というネタと、ダンスとの間に距離があるからこそ、その距離を乗り越えたショート動画は、すぐれた創作であることができるが、新聞の社説は、その距離があまりないから、すぐれた創作とすることが難しい。更に、「雪は白い。」のような文を、すぐれた創作物とすることは、ほぼ不可能となる。

一方で、創作という価値を離れ、正しさに着目するならば、社説や学術論文を正しい表現とすることが容易で、ショート動画のダンスや俳句の場合を正しい表現とすることが難しい、などということはない。

作者が言いたいことが、社説や学術論文で表現するほうが合っていれば、そのように表現すべきだし、ショート動画のダンスや俳句のほうが合っていれば、そのように表現すべきである、ということでしかない。正しさと表現方法は関係がない。

確かに、社説や学術論文に比べ、ショート動画のダンスや俳句のほうが、読者に、作者の意図をそのまま伝えることが苦手で、誤解を招きやすい、という面はある。

だがそれは、単に、ショート動画のダンスや俳句の作者が、言葉で伝えにくいことを伝えたくて、社説や学術論文の作者は、言葉で伝えやすいことを伝えたいという、意図の違いがあるに過ぎない。

作者は、ただ、伝えたいことに適した表現方法を選ぶしかないのである。表現方法としての正しさに優劣はない。

脱線:ショート動画のダンスの価値

そうだとすると、ガメ・オベールさんは、社説に書くのに適したようなことを考える人は、そもそも、聞き飽きるようなうんざりするようなことを考え、伝えようとしている、という問題を指摘している、ということになる。一方で、ショート動画のダンスで表現する人は、そもそも、考え、伝えようとしていることが新しく、価値がある、ということになる。そもそも、古い人間は、その考えていることからして鮮度が落ちているから、新しい人たちに道を譲るべきなのだ。

確かにそうは言えるだろう。きっと、ショート動画のダンスで表現していることの中には、トランプさんに対する憤りだけではなく、移民としての誇りやら、世代間のギャップやら、色々なものが含まれている。そこには、僕には言葉でうまく掬い取ることのできないような新しい何かが含まれている。なぜなら、明確に言葉にして列挙できないような様々なものが含まれているからこそ、彼らはショート動画のダンスで表現しているとも言えるはずだからだ。

そこには、社説のように、きれいに整理された文章では汲み取れない新しさがあり、確かに新しい価値がある。

だが、古い人たちからは、そのような価値とは、単なる目新しさとしての価値であり、社説のような文章には、誤解を招かない精緻さという価値がある、という反論があるだろう。

だから、社説対ダンスの新旧対決は、単なる新旧対決ではなく、新しさと精緻さの対決となる。

ブカブカな既製服

だが、僕が哲学的に考えたいのは、そっちの方向ではなく、社説や学術論文にも、意図と表現との間には、わずかではあっても距離があるではないか、という方向の話である。

ショート動画のダンスや俳句の場合、作者の意図と表現の間には大きな距離がある。笑顔で少女が踊っている姿という表現と、そこに込められた作者の怒りとの間にはギャップがあるし、「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の字義どおりの意味と、作者が詠んだ情景との間にはギャップがある。

すぐれた創作は、そのギャップを飛び越え、笑顔の裏に怒りを垣間見せ、鐘の音とともに、描かれていない秋風を伝える。

だが、社説や学術論文であっても、意図と表現のギャップを完全に取り除くことはできない。だからこそ、社説や学術論文が名文であることができる。

当然、社説や学術論文であっても、あえて、肩ひじ張らない文章とし、例えば、俳句のように言葉をあえて省略することにより、意図と表現との間のギャップを作り出すことはあるだろう。そういう遊びのある文章は、社説や学術論文の創作物としての価値を高める。

だが、僕が言いたいのはそういうことではなく、「雪は白い。」や「独身者は結婚していない。」のような、一見、厳密に見える文でさえ、意図と表現との間のギャップから逃れることはできないのではないか、ということである。

例えば、「雪は白い。」という文だけでは、作者が、雪についての特徴を説明したいと考えているのか、それとも、雪自体に関心はなく、一般的に常識だと思っていることの一例を挙げているだけなのかがわからない。「独身者は結婚していない。」という文も、独身者という言葉を知らない人への説明なのか、単なるトートロジーの一例なのか、独身者だということばかり気にする人への皮肉なのかがわからない。

更に僕個人の哲学的問題を述べるならば、(その言葉を知らない人への説明であるといった)状況や文脈、そして、(皮肉であるといった)感情等を捨象したとしても、「雪は白い。」といった単純な文に様々なことを読み込むことができる。

まず、永井均ならば、「私において雪は白い。」と言うだろう。また、入不二基義ならば「現に、雪は白い。」と言うだろう。僕ならば、「雪は白い。が真であるという実感がある。」と言いたくなる。また、クワイン的なホーリズムならば、「雪は白い。は、石ではなく雪が白いのであり、また、雪が黒いのではなく、白いのであり、といったかたちで、石や黒といった言葉のネットワークの中に埋め込まれている。」と言うのかもしれない。

「雪は白い。」には、雪は白いだけではない、様々なことが含まれている。

ここで僕が述べたこと全てに同意しないとしても、言葉とは、それがどんなに単純な文であっても、解釈の幅が生じるものであることは確かだろう。作者の意図に、ちょうど適合した、オーダーメイドの服のような言葉を見つけることは難しい。

言葉とは、ブカブカな既製服のようなもので、作者の意図よりも、はるかに多くのことを伝えてしまう。そして、受け手は、そこから、作者が意図しない、別のことを勝手に受け取ってしまうこともある。これが誤解である。

すぐれた創作

きっと、すぐれた創作とは、言葉というブカブカな既製服をうまく使って、そのサイズの合わなささえも武器として、芸術的に表現を組み合わせ、あたかもオーダーメイドの服のように見せるテクニックである、という側面がある。

そして、そのようなテクニックは、言語を使って精緻に考えを組み立てざるを得ない哲学においてこそ、重要になるのではないだろうか。

確かに、たいていの哲学書は、学術論文のように厳密でつまらない文体で書かれるから、作者の意図と表現との間のギャップは少ない。だが、言葉を用いる限り、わずかではあっても、そこには絶対に取り除くことができないギャップがあり、精緻な思考を求められる哲学においては、そのギャップが思考に決定的な影響を及ぼす。

だから、哲学においては、そのギャップを、すぐれた創作によって乗り越えなければならない。

これは、トランプさんとダンスのような大きなギャップを鮮やかに乗り越えるようなタイプの創作とは真逆に見えるけれど、同じくらい、切実な問題である。大きいギャップを乗り越えるためには、ユーチューバーのようなテクニックが必要であり、小さいギャップを乗り越えるためには、哲学者のようなテクニックが必要である、という違いがあるに過ぎない。ダンスであれ、哲学であれ、作者の意図と表現との間のギャップを乗り越えるすぐれた創作は必須なのである。

以上で話は終わりだけど、最後に、哲学において、この意図と表現との間のギャップがどのような問題を招くのか、具体例がないとわかりにくいだろうから、ひとつ挙げておく。

僕が、ここまで書く中で常に念頭に置いていたのは、永井の〈私〉である。永井の〈私〉は、どうしても《私》と誤解されがちである。それはなぜかというと、作者(つまり永井)が伝えたい〈私〉と、表現としての〈私〉の間にはギャップがあるからである。表現としての〈私〉は、どうしても《私》になってしまい、作者が意図する〈私〉からずれてしまう。そのギャップを埋め、なんとかうまく伝えようとする永井の努力こそが、すぐれた創作をめざす苦闘である。

そんなことを思い浮かべながら、僕はこの文章を書いた。