※8000字近くあります。そんなに哲学濃度は高くないと思います。3連休が終わってしまう~

この文章は、人間関係には、夫婦とか友達とか家族とか名前がついているけれど、そういう名前は控え目に使ったほうがいいんじゃないかな、という話です。

名前がある関係

僕たちの結婚式はプロテスタントの教会でやったから、僕たち夫婦は牧師さんの前で永遠の愛を誓った。緊張してたから詳細は忘れたけど、誓った気がする。

当時、結婚式をやらないという選択肢はなくて、せっかくだから本物の教会でやってみたいと考えてやっただけなので、この誓いは、まあ、本物の結婚式のおまけのようなものではある。だけど、僕は、この誓いのとおり、僕の奥さんと一緒に、生涯、生きていこうと思ったし、今でも思っている。

なぜなら、それが夫婦というものだからだ。だけど、それは当然のことなのだろうか。この文章はそんなことを書いてみたい。

と、書いてみたけれど、導入をちょっと間違えてしまった気もする。僕は別に結婚制度を疑っている訳ではなくて、もっと普遍的な人間関係のことを考えてみたいのだ。

だから慌てて、もうひとつの例を追加する。

小学校のとき、クラスメイトと「ずっと友達だよね。」なんて確認する。または、残念ながら僕にはそういう機会は訪れなかったけれど「俺ら親友だよな。」でもいい。

とにかく、夫婦でなくても、友達、親友などなんでもいいけれど、人間関係に名前を付けて、その名付けられた名前に従って生きていくというのは、はたして当然のことなのだろうか。これが、この文章を貫く問いである。

まあ、答えは当然ノーである。夫婦でも離婚することはあるし、友達や親友であればなおさら、クラス替えや進学などにより、疎遠になり、いつか、友達でも親友でもなくなってしまうというのは、よくある話だ。

だが、それでも、その離婚や疎遠のプロセスにおいてでさえ、その人間関係につけられた名前は僕たちを拘束する。結婚をやめることは、名前のない男女関係(そういうものがあったとして)を解消することよりも大変だろう。友達や親友と離れることは、ただのクラスメイトと離れるときには感じないような、うしろめたさのようなものを心に残す。

人間関係への名付けは、僕たちの心に深く影響を与える。

僕自身に対する思いに与える影響、相手に対する思いに与える影響

では、どのような影響があるのか。

こういう話は具体例に即したほうがいいと思うけれど、夫婦だと社会制度の話が入り込んできてややこしくなるので、ここでは友達を例としよう。

僕がAさんと友達だとする。すると、まず二通りの影響がありうるだろう。僕に対する影響と、友人Aに対する影響である。

更に、僕に対する影響には、僕から僕自身に対する思いに与える影響(①)と、僕から友人Aに対する思いに与える影響(②)の二つがあるだろう。更には僕から僕自身や友人A以外の人に向けた影響(③)もあるかもしれないが、それは捨象する。

同様に、友人Aに対しても、友人A自身に対する思いに与える影響(①´)と、僕に対する思いに与える影響(②´)の二つがあるはずだ。

その4つの影響は複雑に折り重なっている。

図にすると次のようになる。

僕は、Aとの人間関係を友人と名付けることで、例えば、

① 僕は僕自身に対して「僕は、『Aのことを大切にしよう』と思う傾向を持つ。」という影響を与える。

①´ 同様に、AはA自身に対して「A(私)は、『僕(いちろう)のことを大切にしよう』と思う傾向を持つ。」という影響を与える。

次の②が複雑なのだけど、僕は、友人Aに対して、友人として相応しい態度を求める。つまり、①´のような態度をAに求める。

② 僕はAに対して「「A(私)は、『僕(いちろう)のことを大切にしよう』と思う傾向を持つ。」よう求めるという影響を与える。

②´ 同様に、Aは僕に対して「「僕(いちろう)は、『A(私)のことを大切にしよう』と思う傾向を持つ。」よう求めるという影響を与える。

①から③の数字は、当然、一人称、二人称、三人称に対応しているから、ここでは、一人称的な態度が複雑に折りたたまれるようにして二人称的な態度が構成されていることを確認したことになる。(三人称については省略。)

越権・押し付け

まず、このうち①や①´のような自分自身に対する影響は問題がないだろう。

僕は、Aを友人と名付けることで、僕自身がAのことを大切に思うことができる。僕自身のAに対する漠然とした想いに、「友人」という名付けが輪郭を与え、その想いを明確なものとし、力強いものとしてくれる。

一方で、②や②´のような、相手に対する影響については、僕は、他者であるAに、僕のことを大切にするよう求めるということであり、問題があるのではないか。Aに対して、友人として相応しい態度を求めることは越権であり、押し付けではないか。

もし、それが押しつけではなく正当性があると考えるためには、そこには、契約関係のようなものがある必要がある。「ずっと友達だよね。」という僕の言葉に対して、Aが「うん。」と言ったなら、二人の友人契約が成立する。契約に基づき、相互に相手のことを大切に思う義務が生じる。そんな流れである。

このように考えた場合、通常の商取引上の契約のように、友人契約上の義務を怠ったならば、その罰を与えることができる、ということになる。友人Aが僕に対する友人としての義務を怠り、僕のことを大事に扱わなかったとき、僕は友人Aに対して罰を与えてよい、ということになる。

確かに、この世の中では、そのようなことが、よく行われているように思う。絶交して口をきかない、周囲に、あいつは不誠実な奴だと悪口を言う、などなど。

だが、そのような罰を避けるために、友人としての義務を履行する、ということでは、それは、そもそも友人関係ではないだろう。

友人関係とは、義務や権利なんていうものと関係なく、ただ友人なのであり、ただ相手を大切にしようと思うものなのである。そして、友人に裏切られたと感じたとき、そこに権利侵害や義務の不履行があるかどうかなど関係なく、ただ怒り、ただ、絶交したり、悪口を言ったりするものなのである。そこには権利や義務などといったものを使って、何かを正当化するべき場面などない。

(ちょっと脱線:商取引)

この話は、友人関係に限らず、恋人などでも同じことが言えると思っているけれど、会社の雇用主と従業員のような関係については、権利・義務が重要になるのでは、という反論があるだろう。また、夫婦関係や家族関係のように、法律上、権利・義務が規定されているような人間関係についても同様の反論がありえるだろう。

ここで、契約に基づく関係や夫婦関係や家族関係でも、友人関係と同様のことが言える、ということを説明しておきたい。

ここで用いるのは、コンビニでコーヒーを買う、というような日常的な場面である。コンビニの店員と客という名前が付けられた関係性である。

この場面について、権利・義務を用いて説明するならば、僕は店員にお金を支払う義務があり、その代わりにコーヒーを受け取る権利がある、ということになるだろう。逆に、店員は、お金を受け取る権利がある代わりにコーヒーを渡す義務がある、ということになる。その義務が履行されなかったときには、万引きとして通報されて制裁を受けることになる。

以上の説明を、義務・制裁システム(より正確には義務・制裁システム)に基づく説明と呼ぶことにしよう。

一方で、同様の場面を、権利・義務を全く使わないで説明することもできる。

僕はお金を渡せばコーヒーを受け取れると店員を信頼してお金を渡す。店員もコーヒーを渡せばお金を受け取れると僕を信頼してコーヒーを渡す。そして信頼を裏切らずコーヒーまたはお金を受け取れたことに双方が感謝し、その信頼が強化される。感謝によって強化された信頼に基づき、またコンビニにおけるお金と商品の交換は円滑に行われていくことになる。

なお、信頼が裏切られ、コンビニで万引き犯が発生することもあるだろう。その場合には怒りが生じることになる。怒りの処理を警察が代行し、万引き犯を連行していくことになる。

以上の説明は、信頼・感謝システム(より正確には信頼・怒りシステム)と言っていいだろう。

まあ、義務・制裁システムによっても、信頼・怒りシステムによっても、コンビニの場面を説明はできるのだけど、それぞれ一長一短がある。

まず、信頼・怒りシステムには、刑法などの法治システムを怒りの代行である、と説明してしまうことの荒っぽさがあるのに比べ、義務・制裁システムのほうが、よりうまく社会の仕組みを説明できているだろう。

一方で、信頼・怒りシステムは、すべてを当事者の心の中のこととして一貫して説明することにより、義務・制裁システムにみられるような他者への押しつけが生じない、という利点がある。信頼も感謝も怒りも、すべて、客である僕、またはコンビニの店員の心の中にしか生じず、自己完結しているのである。(だから、万引き犯に対する怒りでさえ、そこには他者に怒りを持つことの正当性を押し付ける力はなく、ただ、感情に任せて万引き犯に怒り、万引き犯に対して通報という不利益を与えようとしているだけ、ということになる。)

僕は、商取引関係であれ、夫婦関係であれ、家族関係であれ、この二つのシステムが表裏のように機能していると思う。そう考えなければ、コンビニでコーヒーを買うとき、ただコーヒーを手に入れるだけでなく、心が少し癒される理由を説明できないと思う。

そのことを認めるならば、夫婦関係や家族関係において、義務・制裁システムを強調しすぎることは問題があるはずだ。確かに、夫婦や家族の義務を果たさなければ社会的な制裁を受けることはある。だが、本質的には、夫婦や家族という人間関係を作り上げているのは、信頼や怒りといった私的な感情の積み重ねだろう。

越権・押し付け 再び

思ったよりも脱線が長くなってしまったけれど、僕は、商取引における契約関係についてでさえ懐疑的なのだから、当然、友人契約なんていうものを認めることはできない。「君は僕のことを友達だと言ったのだから、僕のことを大切に想うべきだ。」なんて強いることはできない。

つまり、さっきの図の話に戻るならば、僕は、①の自分自身に対する思いに与える影響は認めても、②の相手に対する思いに与える影響は越権であり押し付けだから認めない。

なお、ここで例としたのは友人というポジティブな関係だったけれど、「仇」のようなネガティブな関係でも変わらない。

僕は、Aを仇と名付けることで(正確にはAとの関係を仇関係と名付けることで)、僕は僕自身のAに対する思いを明確なものにすることができる。だがAに対して、僕がAのことを仇だと思っていることを、きちんと意識しろ、というのは越権だろう。「お前は仇なんだから、もっと仇らしくしろ。」と要求するのはおかしい。

どんな人間関係であれ、その人間関係に名前を与え、自分自身の思いに影響を与えることは問題ないとしても、その名付けにより、相手に対する思いに影響を与えることは避けるべきなのである。

未来の自分への越権・押し付け

だが実は、僕は、図の①や①´のように、名付けが自分自身に対して影響を与えることについても否定的である。

正確には、人間関係の名づけが、今の自分自身に対して影響を与えることは問題ないが、未来の自分に対して影響を与えることは問題があると考えている。

その理由は、一言で言えば、未来の自分とは厳密には自分自身ではなくて他者だから、というものなのだけど、説得力を増すためには多少の説明が必要だろう。

まず、「ずっと友達だよね。」という言葉には、前節で問題としたように「Aさんに対して、友達であることを要求する」という側面があるが、もうひとつ、「自分自身に対して、Aさんと友達であり続けることを明確にする」という側面がある。前者の側面を「要求」とするならば、「宣言」と言ってもいい。この宣言は、「友達であり続ける」というものであり、未来の自分自身に向けた宣言である。

この宣言は、未来の僕を拘束するだろう。あのとき、友達であり続けることを宣言したのだから、僕はAのことをなるべく大切に想うようにしなければならない、と。

または、「お前は仇だ!」と宣言したならば、時が経ち、怒りが薄らいでも、その言葉に縛られ、僕は仇討ちを目指さなけばならないと考え続けるだろう。

人間関係が名付けられ、人間関係を規定されることにより、未来の僕には、その人間関係に従う義務のようなものが生じるのである。

これは、未来の自分への越権・押し付けだろう。

人間関係への名付けは、未来の僕自身の中に秘められた変化や成長の可能性を奪い、前例を踏襲し、名付けの枠組みの中で生きることを強いるのである。

先ほどの図を微修正するならば次のようになる。

このように、今の僕と未来の僕との関係は、ほぼ、僕と他者との関係に等しい。違うところはと言えば、未来の僕が、(その時点からすると過去にあたる)「今の僕」に対して思いを届ける②´の矢印がないことくらいである。

他者と同様に未来の僕に対しても押し付けというものが生じうるのである。

(ちょっと脱線:人間関係以外の名付け、名付け以外の言語使用)

なお、脱線になるけれど、実は、名付けの問題は人間関係に限らない。

例えば、ある果物をリンゴと名付けることで、それが実は梨であるということを気付きにくくする。それだとわかりにくいかもしれないので別の例を出すと、ある拾ってきた動物をイヌと名付けることで、それが実はタヌキであることを気付きにくくする。それでもわかりにくいかもしれないので別の例を出すと、近所の子供を「世間知らずのお坊ちゃん」と名付けることで、その子供が成長して立派な人になったことを気づきにくくする。

更に、この問題は、名付けに限らず言語使用全般に拡張させることもできる。例えば、ガザ侵攻を「悲惨な出来事」と言語により描写することで、そんな状況でも実はささやかな喜び(例えば子供の出産のような)があったことを気付きにくくする。

これらは、名付けや言語使用による弊害であると言っていいだろう。

だが、それでも、人間関係の名付けには、人間関係以外の名付けや、名付けに限らない言語使用全般よりも大きな問題があるように思う。

その理由は、第一に、人間関係は、双方向的な営みであることに由来する複雑さがあり、名付けによる単純化により失われるものが大きいからである。

そして第二に、固有名詞としての名付けは強力なものであり、それ以外の言語使用に比べて、単純化により失われるものが大きいからである。(例えば「悲惨な出来事」という言葉は、「悲惨だけどささやかな喜びも含まれている出来事」というように比較的容易に変化させられるけれど、イヌをタヌキと変化させるためには根源的な変化が必要である。)

だから僕は、人間関係の名付けを特に問題としているのである。

名付けの動機

では、これほど問題含みなのに、なぜあえて人間関係に名前を付けるのかといえば、無理をしてでも得られるものがあるからである。名付けにより、安定・安心が得られるのである。

科学技術を用いれば、惑星の運行や化学反応については予測できる。これだけ科学技術が発達した現在、地震や医療のような複雑なシステムを除けば、たいていのことは予測し、それに対処できるとさえ言えるだろう。だが、人間の心は、脳の働きだけをとっても予測が困難な複雑なシステムの一種だと言えるし、更に複数の人間が関わる人間関係は、更に複雑さが増す。予測困難だから、安定し、安心できる人間関係を構築することは、とても難しい。

当然、人はその現状をそのまま受け入れることはできず、なんとかして安定し、安心できるような人間関係を築こうとする。そのために、例えば、雇用契約を結ぶようなこともするし、また、人間関係に名前をつけるようなこともする。ある人間関係が、友達として分類されるような関係性であることを相互に確認すれば、通常、友達に対して求められる規範を逸脱することは生じにくくなる。騙されてお金を取られたり、いきなり抱きしめられてキスされるようなことは起きないと安心することができる。(それでも、往々にして、こういうことも起きるというのも込みで、友達という名付けだとも言えるけれど。)

多分、その最たるものが夫婦関係だろう。夫婦関係においては、名付けに加えて、法律や社会慣習や道徳といったものを総動員して安定と安心を確保しようとする。(それでも、浮気や離婚といったことは生じてしまうけれど。)男女間の一対一の人間関係においては、特に安定と安心が求められているということだろう。

オーダーメイドの人間関係

だが、安定と安心を得るために、自由や変化や成長が犠牲になっているということを忘れてはならない。特に、名付けにより、自分自身を枠にはめ、自らの変化と成長の機会を失っていることは、見過ごすことができない事態である。

人は人間関係への名付けを(少なくとも一定程度)手放さなければならない。少なくとも、この僕は、人間関係への名付けから距離を置きたい。

そして、その代わりに、今、目の前にある、名前のない活き活きとした生(なま)の人間関係に向き合いたい。そこにはレディーメイドの安定と安心はないけれど、これからいかようにもオーダーメイドできる自由がある。僕には、変化し、成長する自由がある。

これは、まるで名付けという安全な我が家から抜け出し、自由な荒野に足を踏み出すようなものだ。

だが、忘れてはならないのは、これが人間関係についての問題だということである。僕は独りで荒野に立っているのではない。横にはもう一人立っている。横にいるのは、ここまでの例ではAさんであり、または僕の妻(と名付けられてきた人)であり、または僕の友人(と名付けられてきた人)である。

僕は孤独ではない。僕たちは二人で、僕たちなりの新たな人間関係を創造していけるのである。人は、先例のない、新たな人間関係を創造していくのである。

だが実は、このようなことは、名付けがあろうと、なかろうと、当たり前にこれまでもしてきたことだとも言える。なぜなら、夫婦関係や友人関係と言っても全く同じ関係性などというものは二つとなく、そこには、必ず、その二人なりの個別具体性があるはずだからである。これまでも僕たちは具体性に満ちた荒野のなか、二人で、二人なりの関係性を築いてきたのである。

それならば、僕たちは、名付けを拒否することにより、そこに、心ゆくまで自由に荒野を駆ける喜びを付加しているだけなのだ、とも言える。

この文章のエンディング曲は、サニーデイ・サービスの「コンビニのコーヒー」です。

(と書きたくて、無理やり、コンビニでコーヒーを買う場面を例にしたけど、僕はカフェインを避けてるのでコーヒーは飲まない※し、コーヒーは機械から出るからコンビニの店員との受け渡しの例としてはあんまりよくないですね。) ※アイキャッチ画像はチャイです。お茶は昼まで限定で時々飲むけど、コーヒーのほうがカフェインのダメージが大きいんですよね・・・