※ワークショップの感想的な文章で、主に飯盛先生の「破壊の形而上学」についての文章です。3500字くらいあります。ワークショップを視聴してないと意味がわからないかも。ずっと残るかはわからないけれど、現時点ではYouTubeで配信されたものが視聴できます。
入不二基義先生が参加するというので、「強い創発をつくる」というオンラインのワークショップを視聴した。4人の先生がそれぞれ発表を行ったけれど、最後の入不二先生と飯盛元章先生の絡みが山場だったと思う。そこで考えたことを中心に、書き残しておく。
時間経過温存の形而上学
飯盛先生の「破壊の形而上学」は、前々から面白そうとは思っていたけれど、正直、どうして、そこまで破壊にこだわるのかがわからなかった。けれど、このワークショップを視聴して、僕なりに腑に落ちた。その話から始めることにしたい。
このワークショップでの飯盛自身の説明の仕方ではないけれど、僕なりに勝手に「破壊の形而上学」が何を破壊するかではなく、何を破壊せず温存しているのかに着目することで、「破壊の形而上学」が何をしているのか理解できた気がする。
このワークショップでの僕の発見は、「破壊の形而上学」は、ラディカルにすべてを破壊しつくすけれど、線形の時間だけは破壊せずに温存する、ということだ。だから、ビフォーとアフターを比較し、それが破壊という出来事であると把握することができる。「破壊の形而上学」のエッセンスはそこにある。だから、僕の理解では、「破壊の形而上学」とは「時間経過温存の形而上学」でもある。
なぜ、そうなるかといえば、飯盛の破壊が不徹底だからではない。すべてを破壊してしまったら、何を論じることもできないからである。破壊が学問であるためには、時間経過にせよなんにせよ、そこに軸となるものがなければならない。だから、「破壊の形而上学」とは、何かを温存する形而上学でなければならない。
なお、「破壊の形而上学」が線形の時間を重視しているのは、単に便宜上のものではないだろう。きっと、飯盛にとって、時間経過とは特別なものなのである。勝手な想像だけど、タウマゼインとでも呼ぶべきものが、そこにあったのではないだろうか。
(飯盛が線形の時間を温存していることは破壊関数という概念にも現れている。破壊関数には一様な法則性はない、とされているが、des(x) = yという破壊関数としてのあり方だけは、常に同様なものとして成立する、という法則性がある。よって、破壊関数は、破壊関数だけは破壊できない、と僕は思う。)
存在論・認識論・意味論温存の形而上学
そこから、別のラディカルさを持っている入不二の現実論に目を転じることもできるだろう。入不二が何を破壊し、何を温存しているのかに目を向けることで、入不二の現実論を高い解像度で捉え直すことができるのではないか。
僕の理解では、入不二も、飯盛に負けず劣らず、ほとんど全てを破壊し尽くしている。入不二の現実論は、ビッグバンから始まる常識的な世界など前提としなくても十分に成立する。そういう意味で、常識的な世界など、とっくに破壊していると言ってもいい。
では、入不二の現実論が何を温存しているかと言えば、それは、存在論・認識論・意味論という議論の枠組みである。入不二の議論とは、存在論・認識論・意味論の力を解き放ち、最大限に活用して進めるものである、とさえ言える。
だから、入不二の現実論とは、「存在論・認識論・意味論温存の形而上学」であるとも言える。
つまり、飯盛の「線形的な時間の形而上学」に対する、入不二の「存在論・認識論・意味論の形而上学」という対比が成り立つのである。
形而上学の破壊
だから、このワークショップでの、飯盛の入不二に対する最も有効な反論とは、飯盛の「破壊の形而上学」は、「存在論・認識論・意味論」という枠組みすら破壊する、というものであったのではないだろうか。
飯盛の破壊により、これまでの「存在論・認識論・意味論」が通用しない世界が到来することは、確かにありうる。認識されていなくても存在しうる、という存在論的アイディア自体が成立せず、また、痛みを感じるから痛みを認識している、という認識論的直観が成立せず、同一律・排中律・矛盾律のような言語の根幹となる意味論的法則が成立しなくなる、という世界が到来することは十分想定することができる。飯盛は、そういう破壊を想定すべきだったのではないか。
だが、このような破壊は、そんなふうに軽々しく想定できるものではないとも言える。なぜなら、ここでの存在論・認識論・意味論とは、言い換えるならば、形而上学を論じることそのものであるとも言えるからだ。つまり、この破壊とは、(少なくとも入不二や飯盛や僕にとっては)哲学そのものの破壊でもある。(そして、更に言うならば、書くという営みそのものの破壊でもあると思う。だから、僕は、入不二にとってのタウマゼインとは、哲学をすること、そして、書くことそのものだったのではないかと思う。)
だから、もし、飯盛が僕の提案を受け入れ、「破壊の形而上学」とは、形而上学をも破壊するものだとするならば、それは、破壊の形而上学ではなく、破壊そのものである。確かにそれは、最強度の破壊ではある。
そこまで強度を高めるならば、飯盛の「破壊の形而上学」は、確かに入不二の現実論と並ぶものとして位置づけられるように思う。哲学者として、哲学以外のすべての人間の営みを破壊する入不二と、その哲学をも破壊する飯盛という対比である。
そして、飯盛が、そのような高強度の破壊を成立させるためには、線形の時間のような、何らかの軸が必要となることは仕方ない。
哲学の大前提
上記の捉え方とは違う切り口だけど、線形の時間とは、形而上学が成立するための大前提である、という捉え方もできるかもしれない。入不二は、現実論を論ずるなかで、(その副産物として)「存在論・認識論・意味論」が成立することが、形而上学の大前提であることを明らかにした。それに加えて、飯盛は、「破壊の形而上学」を論ずるなかで、(その副産物として、)ビフォー・アフターという語り方を可能とするような線形の時間が形而上学の前提として必要であることを明らかにした、と解釈するのである。
確かに、ものごとを理解するためには、複数の時点を比較し、その違いを知る必要があるように思える。僕が好きな野矢茂樹のクリーニャー概念を用いるならば、あの時点ではネコがトイレに入っていたけれど、この時点ではネコが掃除機の上に乗っている、と複数の時点をつなげて理解するからこそ、掃除機の上のネコが、(掃除機とネコが一体化したクリーニャーではなく)掃除機とネコという別の個体であることを理解できるのである。
きっとこれは、永井均が「ものごとの理解の基本形式」として指摘していた問題であり、常識的なかたちでものごとを理解するためには、複数の時点の比較を可能とするような、線形の時間が必要なのである。
以上のように考えた場合、入不二と飯盛は、形而上学が成立するための条件について論じていたことになる。
全然、実際に二人が話したこととは違うけれど、そんなことも考えた。
サミュエル・アレクサンダー
そのように色々と考えてみると、このワークショップでの米田翼先生の発表で初めて知ったサミュエル・アレクサンダーという人が言っていることの意味も少しわかったような気もする。
形而上学にせよ線形の時間にせよ、議論の前提となるものに、過度に目を向けることは避けるべきなのかもしれない。そのためには、前提として温存するものに、神や自然という名をつけ、それ以上、思考をしないようにするのである。
なぜ避けるべきかというと、実感として、過度に議論の前提について思いを巡らしすぎると、その議論の持ち味のようなものが台無しになってしまう気がするからである。このケーキは美味しいね、という話をしたいときに、このケーキは本当に実在するのか、なんていう反応があったら、その美味しさが台無しになってしまう。哲学、特に形而上学には、そういう台無し感がつきもののようにも思う。(その台無し感を芸術的な域まで高めたのが、入不二基義である、とも思う。)
また、アレクサンダーやベルクソンが重視する未完了相というアスペクトも重要であるように思う。飯盛の線形の時間には、ビフォー・アフターというかたちで完了相が入っている。入不二の形而上学も、すでに語られている、という意味で完了相が入りこんでいる。
そのような完了相から解き放たれることが、真の破壊=創発のためには必要であるように思えるからだ。(未完了相がすでに語られてしまったら、それは完了相になってしまうのだけど。)だから、形而上学が形而上学として成立するためには、完了相は未完了相であるかのように読むこと、という前提があるように思う。
ということで、この文章ではとりあげなかったけれど、ジミー・エイムズ先生の発表も含め、とても面白いワークショップだった。