※9000字くらいあります。風邪気味で書いたので風邪気味な文章になっちゃってるかも。

二つの欲求

僕は、高校生の頃から、いくつかの欲求を抱えて生きてきた。その中には、当然、ここには書けないような恥ずかしい欲求もあるけれど、書ける範囲で、僕の二つの欲求を挙げておく。

「絶対に揺らぐことのないような確かなことを知りたい。」

「僕のことをすべて理解してくれる彼女がほしい。」

これが僕の二大欲求である。

これらは、分類するならば、哲学と恋愛に関する欲求だと言えるだろう。

歳を重ね、このような欲求を満たすことの困難も知り、欲求は薄まり、変質しているけれど、僕の心の奥底には、背景放射のように、二つの欲求が依然としてうごめいている。

なぜ、このようなことを改めて書くのかというと、ふと、この二つの欲求はつながっているのではないか、ということを思いついたからだ。この哲学と恋愛に関する二つの欲求について、視点を少しずらすことで、二つの別個の欲求に見えたものがひとつに重なる、というのがこの文章で披露したい、最近僕が思いついたアイディアである。

確かなことを知りたい

まず、前者の「確かなことを知りたい」という哲学の欲求について。

この表現は、明らかに言葉足らずだ。補うならば、「私は、この世界における確かなことを知りたい。」とでもなるだろうか。

だが、ここで補われた「私」と「この世界」という言葉は、哲学的には非常に怪しい。もし「私」と「この世界」という言葉を哲学的になんの問題もなく使えるのだとしたら、哲学の問題のほとんど全てが解決されたことになってしまうだろう。少なくとも、僕の哲学の欲求は満たされたことになってしまうだろう。なぜなら、僕が求める確かなこととは、「私」と「この世界」というものが確実に存在することである、ということになってしまうからである。

だけど、そういうことばかり問題にしていると話が前に進まず、ここで書きたいことも書けなくなってしまうので、とりあえず、デカルトのコギトを受け入れ、私の存在までは確かなものだと認めることにしよう。(僕のデカルトのコギトに対する問題意識については別の機会に。なお、私の存在を前提として受け入れても、この文章で書きたいことについては、大きな影響は生じないように思う。)

一方の「この世界」のほうは、多分、哲学だけでなく、自然科学も含めた大問題だと思うので、採用しない。すると、僕の哲学の欲求は「私は確かなことを知りたい。」というものに書き換えることができる。

では、私は、確かなことをどうやって知るのだろうか。学校の授業なら先生が教えてくれる。または、教科書に答えが載っている。だけど、こういう誰も答えを知らない問題についての答えは、どうやって知るのだろうか。

そこで生じるのが、受動から能動への転回である。先生から受動的に教えてもらえる生徒・学生から、自分で答えを掴み取ろうとする研究者への転回である。

この受動から能動への転回は、哲学に固有のものではない。例えば、水が何度で沸騰するのか、どれだけ文献を探してもわからなかったとしたら、火にかけたヤカンに温度計を差して、沸騰するお湯の温度を測るだろう。先人たちに教えてもらうという受動的行為で答えが出なければ、測定という自らの能動的行為により知識を掴み取るのである。この能動への転回は、科学の最前線では、実験というかたちで頻繁に行われている。

同様に、哲学においても、「私は確かなことを知りたい。」という問題に答えを出すためには、「私が確かなことを知ることができた。」と僕自身が確信できるようなアイディアを、僕自身で思いつくしかない。僕は真実を受動的に受け取るのではない。僕は真実を自ら創造するのだ。

では、この転回をふまえ、僕の欲求をどのように書き換えればいいのだろうか。「私は確かなことを知りたい。」という受動的な表現を、能動的な表現に直すのは結構難しい。

まあ、先ほどの「真実を自ら創造する」という言葉を受け「私は確かなことを創造したい。」でもいいのだけど、それだと、ちょっと大げさすぎる。それに、創造しただけでは、本当に創造できたかどうかわからないから、創造を確かなものにするには「私が確かなことを創造したということを確かなこととして知りたい」というふうに、話が戻ってしまう。

打開策として僕が思いついたのは、「私は確かなことを知りたい。」という受動的な表現は、「私は確かなことを語りたい。」という能動的な表現に置き換えることができるのではないか、というものである。これが完璧な答えかどうかはわからないけれど、結構、良い線をいっていると思う。なぜなら、この問題は、哲学の欲求についての問題であり、つまり言葉を使った営みについての問題だからである。それならば、能動的に言葉を使うということは、つまり「語る」ことだということになるからである。

こうして、冒頭で予告したとおり、「確かなことを知りたい」という哲学の欲求について、多少、視点をずらして捉え直し、「私は確かなことを語りたい。」という表現に置き換えることができたことになる。

僕のことをすべて理解してくれる彼女がほしい

では、後者の「僕のことをすべて理解してくれるような彼女がほしい。」という恋愛の欲求の話に移る。

こちらについては、先ほどの哲学の欲求とは逆に、言葉が具体的で過剰すぎるのではないか、という問題がある。つまり「彼女」という言葉が必須なのか、という問題である。この「彼女」という表現には当然、僕が男で、僕が女性に性的なものを求めている、という話が含まれている。

それはそれで大問題なのだけど、この文章を、女性にも、性的な欲求がない人にも役立つような普遍的な話にするためには、「他者」と置き換えたほうがいいだろう。そうすると「私のことをすべて理解してくれる他者がほしい。」となる。つまり、ここで行ったことは、恋愛の欲求から性的な欲求を取り除き、他者全般に対する欲求へと置き換える作業であった、ということである。

だが「私のことをすべて理解してくれる他者がほしい。」でも問題は残る。、「理解してくれる他者」という表現が成立するということ、つまり他者が理解したということは、どうやってわかるのか、という問題である。当然、それは私が確認することによってである。つまり、「理解してくれる他者」という表現には、確認する私が関わってしまい、他者が他者自体として完結しなくなってしまうのである。

なぜ、そのようなことを問題にするかというと、これは恋愛の欲求だからである。この他者とは、僕が恋い焦がれる、僕の手が届かないところにいる他者である。それならば、僕による確認といったものが介在しては困る。恋愛における他者は、どこまでも他者でいてもらう必要がある。

では、「私のことをすべて理解してくれる他者がほしい。」という表現を、他者が他者自身として完結した表現にするにはどうすればいいだろう。

これも結構難しい問題だけど、僕は二つの打開策を思いついた。

まずひとつが、他者を他者自身として完結させるため、神様のような全能の他者を想定するというものである。つまり、「私のことをすべて理解できる全能の他者がほしい。」と置き換えることになる。

これは、いわば、僕のことだけはわかってくれて、僕だけには関心を持ってくれるオーダーメイドの神様がほしい、という欲求である。

これはこれで、高校生の頃の僕の甘酸っぱい想いをうまく表現できているような気はする。確かに僕は、女の子に対して、こういう妄想を抱いて、それが叶えられず、苦しんでいた。だけど、このような捉え方は、あまりにもナイーブすぎる。

きっと神様とは、都合のいい他者のことなのである。都合よく神様というものを作り上げることで、我々と、他者としての神様という二項対立を成立させるという素朴なアイディアが、宗教というものを生んだように思う。

だが、すべてを神様に押し付けてしまったら、それ以上、話を深めることができない。もし、僕が好きな人が神様でなかったら、僕は傷つき途方に暮れるか、または、別の神様を探すしかなくなってしまう。

きっと、神様とは思考停止のためのツールなのである。神様が登場した途端、思考は袋小路に陥る。高校生の頃の僕に言いたいけれど、そういうものにはあまり関わらないほうがいい。

(非難覚悟ではっきり言うと、宗教とは、思考の極北に進むことに耐えられない弱い人たちがすがる、哲学の代替物なのだと思う。)

私の話をすべて聞いてくれる他者がほしい

ということで、神様としての他者を想定するという一つ目の打開策は諦め、もう一つの打開策へと移りたい。それは、「私のことをすべて理解してくれる他者がほしい。」という表現から、という私の関与を必要とする「理解」という言葉を取り除き、そのかわりに、他者自身による行為に置き換えるというものである。

それは例えば、「私の話をすべて聞いてくれる他者がほしい。」という表現だろう。

「聞く」という他者自身の行為に置き換えることで、私の関与は薄まる。当然、本当に聞いているかどうかは、私が確認しなければいけないので、私からの最低限の関与は残る。だが、彼女がそばにいて、耳を傾けてくれていれば、およそ、聞いてくれているとは思うだろう。相槌を打ってくれればなおいい。そういう意味で、僕からの関与はかなり弱めることができた、と言えるだろう。

なお、この話は、他者というもののあり方に関わっているだろう。動物や物と、他者と呼ばれる人間との区別は言葉を交わすことができるかどうかである、とも言える。クジラと人間の違いを議論する際には、クジラとは言葉で意思疎通ができない、いや、クジラとでも通常の言葉とは違うかたちで意思疎通できる、といった主張が出てくるだろう。だが、どちらにせよ、通常の人間の言葉ではない、広義の言葉を用いて意思疎通できるかどうかが問題となっているという点では違いがない。そういう意味で、広義の言葉も含め、言葉というものが人間(他者)とそれ以外とを区別しているとは言えるだろう。

それならば、他者とは、言葉が通じる存在なのだから、他者であるからには、話を聞いてくれることは当たり前のことで、確認の必要もない、とも言えるだろう。他者というもののあり方からして、他者は疑問の余地なく、話を聞いてくれているのである。

だから問題は、彼女が僕の話に関心を持ち、話す僕のそばにいてくれるかどうかであろう。もし、そうしてくれているなら、確認するまでもなく、彼女は、私の話をすべて聞いてくれる他者である。僕は、僕のそばに寄り添い、僕の話に耳を傾けてくれる彼女が欲しいのである。

以上のような理由で、「聞く」という他者自身の行為を用いて、僕の恋愛の欲求を「私の話をすべて聞いてくれる他者がほしい。」と置き換えることは、良い線をいっていると思う。

とりあえず、ここまでの話をまとめよう。

僕の哲学の欲求は、「私は確かなことを語りたい。」という表現に置き換えることができる。そして、僕の恋愛の欲求は、「私の話をすべて聞いてくれる他者がほしい。」と表現し直すことができる。

対話

ここで注目したいのは、この二つの欲求が「語る」と「聞く」というように対比できることである。哲学の欲求は語ることにまつわる欲求であり、恋愛の欲求は聞くことにまつわる欲求である。

明らかに、語ることと聞くことはペアになっている。僕は、以前から対話というものに着目し、このブログのタイトルにもしているけれど、この二つの欲求は、対話の基本的な要素である、語られたことを聞く、というかたちで組み合わせることができる。

つまり、僕にとっての欲求とは、「僕が確かなことを語り、そしてそれを、彼女がすべて聞いてくれるような対話の場が成立してほしい」というただひとつの欲求なのである。

僕の二つの欲求は、別個のものに見えて、ひとつの欲求に統合できるものであった、ということになる。それも、まず哲学の欲求があり、そこに、派生的な従たる欲求として、恋愛の欲求が組み入れられるような仕方の統合をしている、ということになる。これは、恋愛に対する、哲学の優位性と言ってもいいだろう。

ここで話を終えたら、単なる哲学好きの独りよがりの恋愛観を披露しただけの話になってしまう。高校生の頃の僕が、女の子に神様のような役割を押し付けていたのと同じで、今の僕は、彼女に対して、僕の哲学を聞くことを押し付けているに過ぎない。

重要なのは、これが、一方的に話しかける場ではなく、双方向の対話の場である、というところにある。僕が彼女に語りかけるならば、彼女も僕に語りかけるのだ。

つまり、「僕が確かなことを語り、そしてそれを、彼女がすべて聞いてくれるような対話の場が成立してほしい」では片手落ちなのである。双方向性を重視するならば「僕が確かなことを語り、それを彼女がすべて聞いてくれるのと同時に、彼女が確かなことを語ってくれて、それを僕がすべて聞いてあげるような対話の場が成立してほしい」でなければならない。

確かなことに向かう力

ここで改めて「確かなこと」という言葉に着目したい。先ほど、この確かさは、僕自身が能動的に生み出すものであり、いわば、僕自身が確信する、というかたちで、自ら創造するものであるとした。

だが、このような対話の場においては、それだけでは足りないだろう。僕が確かそうな仮説を語るだけでなく、それに対して、彼女が賛同し、または、欠点についての批判を受け、それを修正する、というプロセスを経ることにより、その仮説は、より確かなものに近づくからである。

また、双方向の対話なのだから、僕からアイディアを提案するだけでなく、彼女も、自ら確かだと思うアイディアを持ち寄り、ともに検討することで、アイディアは統合され、より確かなものになっていく、という視点も重要である。

そのように考えるならば、対話が成立しているということは、そのプロセスの中に、確かなことに近づいていこうとする力が含まれている、ということになるだろう。

確かさは、僕自身が能動的に生み出す、という先ほどの描写は、対話のプロセスの一部を描写したものにすぎず、対話においては、相互のやりとりの様々な場面で、確かなことへと向かう力が働いている。

だから、先程の「僕が確かなことを語り、それを彼女がすべて聞いてくれるのと同時に、彼女が確かなことを語ってくれて、それを僕がすべて聞いてあげるような対話の場が成立すること」という僕の欲求についての表現には余計なものが含まれていることになる。

対話の力を前提とするなら、そこから「確かなこと」という表現を取り除き、「僕が語り、それを彼女がすべて聞いてくれるのと同時に、彼女が語ってくれて、それを僕がすべて聞いてあげるような対話の場が成立すること」としても、その意味は何ら変わらないのである。

対話の力は、特に「すべて聞いてくれる」という箇所に宿っているだろう。当然、一言一句すべてを漏らさないことは難しいけれど、聞き漏らしたら聞き直し、また、わからなかったら確認する、といった誠意に満ちた、相手を尊重した対応をすることで、対話のエンジンは駆動し、対話は真実へと向かっていくからである。誠意を持って、相手を尊重し、相手が話すことのすべてを聞こうと努めることで、対話は、より確かなものへと近づいていくのである。

だから、より適切な表現とするならば、「すべて聞いてくれる」という表現を尊重や誠実という言葉で言い換え、「僕が語り、それを彼女が尊重し、誠実に聞いてくれるのと同時に、彼女が語ってくれて、それを僕が尊重し、誠実に聞けるような対話の場が成立すること」こそが僕の欲求である、ということになる。

転回

ここで、哲学と恋愛の優位性は逆転する。

先ほど、僕は、「僕が確かなことを語り、そしてそれを、彼女がすべて聞いてくれるような対話の場が成立してほしい」という、哲学好きの独りよがりの恋愛観を披露した。

確かに、僕の中にそういう欲望があることは否定できない。だが、双方向の対話の場であることに目を向けるならば、僕の欲求とは、「僕が語り、それを彼女が尊重し、誠実に聞いてくれるのと同時に、彼女が語ってくれて、それを僕が尊重し、誠実に聞けるような対話の場が成立すること」でなければならない。

ここで重要なのは、相手を尊重し、誠実であることだ。これは、まさに恋愛の欲求だろう。僕の欲求とは、ともに尊重し、ともに誠実でいられるような彼女が欲しい、というものだとも言えるからである。(正確には、恋愛の欲求から、性的な欲求を除いた欲求、ではあるけれど。)

ここで僕の哲学の欲求と、恋愛の欲求の優位性は逆転する。なぜなら尊重と誠実という恋愛の欲求さえ満たされれば、自ずと、確かなことという哲学は満たされるとも言えるからである。ここには、哲学から恋愛へ、という重大な転回がある。

なお、この転回は、前半で、「確かなことを知りたい」という哲学の欲求について論ずる中で持ち出した、受動から能動への転回の話ともつながっているだろう。先生から受動的に教えてもらえる生徒・学生から、自分で答えを掴み取ろうとする研究者への転回の話である。

対話の一場面として、僕が彼女に語るとき、僕が先生の立場にあり、彼女は生徒の役割を担っていると言ってもいい。僕が能動であり、彼女が受動である。だが、対話の場では、役割は固定的ではなく、能動と受動が入れ替わり、彼女が先生のように能動的に語り、僕が生徒のように受動的に聞く場面もある。この能動と受動の入れ替わりこそが、対話を確かなものへと駆動しているのである。

僕は、能動的に確かなことを語るためには「私が確かなことを知ることができた。」と僕自身が確信できるようなアイディアを僕自身で思いつくしかなく、僕は真実を自ら創造するのだと述べた。だが、これは物事の半分しか捉えることができていない。思いつきだけで、一挙に、能動的に真実に到達することはできない。

真実に近づくためには、能動から受動に転回し、まるで生徒のように、先生役である彼女の話を聞く必要がある。そこで、賛同なり批判なり、彼女なりの別の視点からの意見を聞くことで、アイディアを練り直し、真実の確信へと近づいていく。

そして、また、受動から能動に転回し、自分なりの意見を披露していく。以下同様である。

対話とは、このような終わりなき受動と能動の転回であり、前半での描写とは、その一場面を切り取ったものであった、ということになる。

そして、哲学的な真実に向けた対話の場において、転回を駆動するのは、尊重と誠実という恋愛の力であり、いわば、恋愛が哲学を駆動している、とすら言うことができるだろう。

僕は、どうも哲学至上主義的なところがあるので、このことに気づけたことは収穫だったと思う。

さらなる転回

だけど、これで終わらせると、哲学が恋愛に負けたようになってしまうので、もう少し頑張ってみよう。

恋愛の問題は、誰に対しても、尊重し、誠実でいられる訳ではない、というところにある。当然、そこには、顔が可愛いとか、スタイルがいいとか、お金を稼ぐとか、面倒見がいいとか、色々な要素が関わってくる。だけど、そこから、性的な要素や、生活上の都合といったものを取り除くと、哲学ができる適性のようなものが残るのではないだろうか。

この人となら、ともに対話をして真実に向かうことができそうだ、という予感のようなものである。その一部は、大学の偏差値で測定できるような頭の良さかもしれないし、ちょっと変わったことが言える会話のセンスのようなものかもしれない。だけど、それにとどまらない、哲学に向かう真摯な姿勢のようなものが、そこにあるような気がするのである。

これが、哲学が恋愛に対して再逆転する道筋である。恋愛は、哲学に裏打ちされてこそ、真の恋愛になるのではないだろうか。

なお、ここまで話を広げるならば、哲学とは、学問としての哲学の範疇では収まらないだろう。ここでの哲学とは、ほぼ人生と同義である。恋愛は、真摯に人生を生きる姿勢に裏打ちされてこそ、真の恋愛になる。こう言い換えるならば、哲学(人生)が恋愛に対して再逆転できると主張しても、あまり反論は出ないような気がする。

自分自身との対話

だけど、こう書いてみるとなんだか淋しくなってしまう。僕は色々恋愛もしてきたし、奥さんとも仲良くしてきたけれど、ここで書いたようなものだったかというと疑問があるからである。確かに、そういう瞬間はあったような気もするけれど、当然、常にそういう訳でもない。僕にとっては、そして、きっと多くの人にとっても、悩みつつ人生を生きるという根源的な意味での哲学は孤独な作業である。

僕自身を含め、そういう人たちを慰めるために、更に付け加えるならば、ここでの恋愛にも、そして、ここでの対話にも、具体的な他者が登場することは必須ではない、と言えるだろう。なぜなら、本当に必要なのは、自分自身との対話であり、自分自身への恋愛だからである。

当然、哲学とは、常に誰かと二人(またはそれ以上の人数)でやるものではない。自分自身と対話し、自分自身の中で練り上げていくものである。いわば、時点が異なる自分自身と対話をしていると言ってもいい。そのような場面でも、ここまで僕が述べたような対話の話はそっくり当てはまる。自分自身に対して真摯に誠実に語りかけ、自分自身の言葉を真摯に誠実に受け止め直すことで、独りよがりではない、確かな真実に向かうことができる。

そのために重要なのは、自分自身への恋愛である。とは言っても、ここでの恋愛からは性的な要素が除かれているので、自分自身に対して、真摯に誠実であることである。内なる自分自身から目を背けず、正面から自分自身を受け止め、真摯に誠実に接すること。これが自分自身への恋愛ということである。

ここまで至るならば、哲学と恋愛との優位性の争いなどなくなる。僕自身の中で、哲学が恋愛を支え、そして、恋愛が哲学を支えるようにして、ともに共通の「生きる」という目標に向かって進む力となるのだろう。

(当然、僕はそこまで達観できないので、性的な欲求としての恋愛の欲求も抱えつつ、バランスが崩れた独りよがりな哲学をやっているのですが。)

この文章のタイトルは、サニーデイ・サービスの『コーヒーと恋愛』からとってます。