※8000字以上あります。セックスについての話があるので、そういうのが嫌な人は避けてくださいね。

趣味リスト

この文章で僕は、「好きなこと」という意味での広義の趣味の話をしたい。

具体例があったほうが話しやすいので、これまでの僕の「好きなこと」(「好きだったこと」を含む)を列挙してみよう。

スノーボード、スキューバダイビング、海外旅行、音楽鑑賞(ライブ参戦)、ヨガ、哲学、セックス

(普通、哲学やセックスは趣味とは呼ばれないが、便宜上、ここでは趣味とする。)

こうして眺めてみると、僕の性格のせいか一人でできることが多く、偏りがある。唯一、セックスは例外だが、このままだとセックスの特別さが際立ってしまうので、リストに複数人で行うような趣味を加えたほうがよさそうだ。そこで(草)野球を加えることにする。(スキューバダイビングはバディ・システムがあるので通常は複数人でやるけれど、一人でできなくもない。)

また、インドアな趣味が少ないので、読書を加えておく。

(僕は哲学が好きだけど、読書はそれほど好きでなく、小説もほとんど読まない。)

さて、こうしてできた趣味リストは以下のようになる。

スノーボード、スキューバダイビング、海外旅行、音楽鑑賞(ライブ参戦)、ヨガ、哲学、セックス、野球、読書

趣味の終わり

趣味には、明確な終わりがあるものと、そうでないもの、という分類ができるのではないか。

当然、完全に二分できるわけではないが、例えばスノーボードやスキューバダイビングは明確な終わりがあるように思える。スノーボードなら上級者コースを滑れるようになる、スキューバダイビングならマンタと一緒に泳ぐなど、自分なりの目標を達成したら、「このくらいでいいか」と思えるかもしれない。そういった目的の達成が、趣味の終わりにつながりうる。

一方、音楽鑑賞や読書は、明確な終わりがない趣味とい

える。音楽や読書が好きな人は、たいていの場合、好みの作家やバンドを変えつつも音楽や本は好きであり続ける。

(それでも、体調や家庭の事情から音楽や本から離れ、それっきりになる場合はある。)

目的と手段

なぜ、スノーボードやスキューバダイビングには終わりがあり、音楽鑑賞や読書には終わりがないかというと、前者はそれ自体が「目的」であり、後者は「手段」だからだ。

目的

スノーボードやスキューバダイビングは、それ自体が目的である。

スノーボードは、ただ雪山を見たくて、ただスピード感を感じたくてやるものではない。僕にとってはスノーボード自体が目的だった。(もちろん、スノーボードには、美しい雪山やスピード感が含まれているけれど、よく似たスポーツであるスキーでは満足できなかったとおり、僕にとってはスノーボードはそれだけではない。)

スキューバダイビングも同じで、魚を見るだけなら、シュノーケリングやグラスボート水族館でも可能だ。だが僕にとっては、スキューバダイビング自体が目的だった。

哲学的に厳密に考えれば、それすらも手段だと言えるかもしれない。例えば、新雪を滑る浮遊感や、360度を魚の群れに囲まれる視界が完全にバーチャルで再現できるなら、それを代替手段とできるのかもしれない。その場合、目的は「浮遊感」や「360度の視界」であり、スノーボードやダイビングはその手段となる。しかし思考実験的に現実と見分けがつかない仮想現実を想定しない限り、スノーボードやスキューバダイビングは目的であり続けるだろう。

手段

一方で、音楽鑑賞や読書は手段である。

読書は、夏目漱石や村上春樹が紡いだ物語を味わうための手段であり、音楽鑑賞も、ピーズやサニーデイ・サービスが構築した音の構成を味わうための手段である。だから、映画化していれば映画で似たことは達成可能だし、オーディブルやユーチューブといった別の手段も存在する。(ピーズやサニーデイ・サービスは僕が好きなバンドなので、もし知らなければ別のバンドに置き換えてください。)

もちろん本を開き文字を追うという作業に特有の魅力があるし、ライブハウスに行かないと味わえないものもある。だが、そこには明らかに物語や音楽という「コンテンツ」と、本を読む/ライブハウスに行く、という「手段」との分離がある。だからこそ、夏目漱石やサニーデイ・サービスといったコンテンツを更新し、手段としての本を読む/ライブハウスに行くという趣味を続けることができる。

一方で、スノーボードやスキューバダイビングは、手段とコンテンツが不可分に癒着している。ボンベを身に着けて海に潜るという手段と、海中で浮遊感を味わいながら魚を見るというコンテンツが切り離せないのである。そのため、手段を維持したまま、コンテンツだけを更新することができない。だから、飽きる可能性も高くなる。

当然、この区分も程度の問題である。特定のバンドだけを聴く人にとっては、音楽鑑賞におけるコンテンツと手段は癒着している。また、スキューバダイビングでも手段とコンテンツを分離し、「マンタは飽きたからカエルアンコウに乗り換えよう」とコンテンツだけを更新することも可能である。(たいていのダイバーは両方好きだが。)

それらの例外も含めつつ、趣味に関しては「手段+コンテンツ=目的」という数式を導くことができる。そして、そこからコンテンツに関わらず手段のみが重要な役割を果たす手段タイプの趣味と、手段とコンテンツが癒着した目的タイプの趣味という区分ができることになる。

分類

では、この区分に基づき、先ほどの趣味リストを分類してみよう。

スノーボード、スキューバダイビング、海外旅行、音楽鑑賞(ライブ参戦)、ヨガ、哲学、セックス、野球、読書

という趣味リストである。

まず、海外旅行は手段タイプの趣味だと言えるだろう。古い町並みを見たり、美術館を巡ったり、リゾートで過ごしたりといったコンテンツがあり、その手段としての海外旅行があるからだ。もちろん、日本から脱出し、非日常を味わうこと自体が目的で、海外ならばどこでもいいと考えている人のように、手段とコンテンツが癒着した目的タイプの趣味となることもありうる。しかし、おおまかに言えば、海外旅行は手段タイプの趣味であると考えられる。

ヨガについては、目的タイプの趣味だと言えるだろう。確かに、ヨガには身体を呼吸とともに動かすといった手段とは別に、アシュタンガヨガやアイアンガーヨガといったコンテンツがあると捉えることもできる。それならばコンテンツだけを更新することも可能となる。しかし、様々なヨガの流派を含め、ヨガとはひとつの体系であり、そのヨガ体系というコンテンツと身体を呼吸とともに動かすという手段とは癒着していると捉えるほうが、ヨガの伝統には沿っているように思える。だから、ヨガは目的タイプの趣味である、と考えたほうが適切だろう。

なお、趣味に終わりがあるかどうかと、実際にどれだけ続くかは別問題である。ヨガは終りがありうる目的タイプの趣味だが、比較的長く続くことが多い趣味だと言える。

次に、(この文章の題名にもした)哲学とセックスについては後回しにし、野球について考えてみよう。野球は、目的タイプの趣味であると言える。なぜなら、野球を手段として、例えば「三角ベース」を別コンテンツとして行うことはできないからだ。

さて、セックスと哲学についてだが、セックスについては、僕は、目的タイプの趣味だと考えている。愛撫や挿入といった手段と、異性の肌の感触や快感といったコンテンツが不可分に癒着し、セックスという行為を成立させているからだ。

ただし、セックスを手段タイプの趣味だと捉える考え方もあるかもしれない。なぜなら、「Aさんとのセックス」と「Bさんとのセックス」とは異なるコンテンツであるとする見方も可能だからだ。この場合、コンテンツとしての相手をAさんからBさんへと移行しつつ、とにかく愛撫や挿入といった手段を楽しんでいることになる。

確かにこのような捉え方もありうるが、その場合、セックスは読書と同じようなものになり、セックスならではの問題はなくなる。だからここでは僕の直感に従い、目的タイプの趣味に分類しておく。

哲学についても、僕は、目的タイプの趣味だと考えている。哲学においては、「書き」「考える」という手段と、「この世界の謎を解き明かす」というコンテンツが癒着しているからである。

よって哲学において、カントの哲学からニーチェの哲学へとコンテンツだけを更新するようなことはできない。僕はカントやニーチェの本も読むけれど、あくまで僕は、この世界の謎を解き明かすために読んでいるに過ぎない。そのような意味で、哲学において手段とコンテンツは癒着している。

複数人で行う趣味

なお、リストの中で野球とセックスには、他の趣味にはない「複数人で行う」という特徴がある。

(セックスの話ばかりでも何なので、野球に着目すると、)野球には団体スポーツならではの魅力があるのだ。野球には、その集団性を通じて人間関係を構築するという魅力がある。(草)野球を趣味とする人たちは、地元のリーグ戦の今季の勝敗を肴に飲み屋で仲間とワイワイ騒いだりする。野球をしてるのか、飲むために野球をしてるのか分からなくなりつつ、こうした仲間との関係は末永く続いていく。これは、球技が苦手な僕が手に入れたくても手に入れられなかった喜びだろう。

こうしたことは集団スポーツである野球に最も顕著に現れるが、スノーボードやスキューバダイビングでも同じようなことが起こりうる。趣味そのものよりも趣味を通じた人間関係に楽しみの主軸が移ることは、よくある話だ。

確かに、そうした側面も含め、スノーボードやダイビングは楽しいし、きっと野球もそうであるはずだ。僕は、趣味を通じて人間関係を広げられることも、その趣味の魅力のひとつだと思う。

しかし、この文章での分析においては、これは「趣味自体が変質している」と捉えるべきだろう。つまり趣味が「野球」から「飲み会」に置き換わったと捉えるべきなのである。このように趣味そのものの魅力と、趣味の周辺の魅力とは明確に区別するべきなのである。

なお、一応付け加えておくと、セックスという趣味についても、セックスそのものより、その周辺にあるものに重点が移り、趣味が変質することはありうる。例えば、セックスそのものよりも、セックスを介してのパートナーとのつながりが重要となるような場合である。この場合、趣味が「セックス」から「愛情」に置き換わったことになる。(趣味という言葉が相応しくない気もするけれど、哲学と同様に愛情も広義の趣味ということにしておく。)

手段によらないコンテンツの充足

セックスだけでなく、哲学についても一言加えたい。

自分自身で書いたり考えたりしなくても、この世界の謎を解き明かすことができたらどうなるか、という問題である。例えば、誰かが世界の謎の答えを教えてくれるような場合である。

もちろん、それは喜ばしいことだ。もしそんな奇跡が起こったなら、僕は哲学なんてしなくてよくなる。

このように考えた場合、哲学において、手段とコンテンツが分離していることになる。なぜなら、考えるという手段とは切り離されたかたちで、この世界の謎の答えを知るというコンテンツが充足されることになるからである。この場合、それはもはや哲学とは呼ばれないだろう(おそらく教育と呼ばれるだろう)が、哲学的領域内における、哲学的手段とは異なるかたちでの哲学的コンテンツの充足である、とは言えるだろう。

これは、スノーボードを仮想現実で滑るようなものかもしれない。仮想現実内では、実際にスノーボードで滑るという手段をとらなくても、スピード感や新雪の上を滑る浮遊感というコンテンツを味わうことができる。これもまた、スノーボード的領域内における、スノーボード的手段とは異なるかたちでのスノーボード的コンテンツの充足である、とは言えるだろう。

セックスと哲学についての違和感

ここまでの話を整理するならば、趣味を以下のように分類できる。

(目的タイプ)スノーボード、スキューバダイビング、ヨガ、哲学、野球、セックス

(手段タイプ)海外旅行、音楽鑑賞(ライブ参戦)、読書

概ねこの分類には満足しているが、セックスと哲学については違和感がある。

セックスからの卒業

セックスが目的タイプであるならば、スノーボードやスキューバダイビングと同様に、満足し、飽きてしまう可能性がある。しかし、果たしてセックスとはそういうものだろうか。

まず「セックスとは本能によるもので、そもそも趣味ではない」という指摘があるかもしれない。セックスと並べるべきは、スノーボードやスキューバダイビングのような趣味ではなく、食事や睡眠のような生理的欲求なのではないか。

確かに性欲は食欲や睡眠欲と同じく生理的欲求のひとつとされる。だが、食事はただ空腹を満たすための行為ではないし、同様に、睡眠についても、ベッドを厳選するなどして快適さを追求する余地がある。だから食事や睡眠にも、セックスと同じく趣味性を持つとも言える。

しかし、食事や睡眠とセックスとでは明確な違いがある。それは、「セックスには卒業があるが、食事や睡眠には卒業がない」という点だ。

なお、ここで言う「卒業」とは、年齢や病気によってセックスができなくなることではない。(それでは、病気で食事や睡眠に支障が生じることと同じになってしまう。)そうではなく、身体的には可能であっても、「十分に味わい尽くしたから、もういいかな」と思うことが、セックスからの卒業である。

だが、セックスを卒業したとして、その後はどうすればいいのだろうか。「そして二人はいつまでも幸せに過ごしました。」では、おとぎ話のエンディングの言葉になってしまい、具体性に欠ける。卒業後の具体的な状況が僕には思い浮かばない。

なぜ思い浮かばないかというと、僕はまだ卒業していないからなのだろう。僕がセックスを趣味としているのは、早く卒業し、その先の景色を見たいからなのかもしれない。

以上のような意味で、僕にとって、セックスと卒業は深く結びついている。

なお、セックス以外の趣味についても、趣味と卒業を結びつけることはできる。特にスノーボードのような目的タイプの趣味は(程度の差はあっても)卒業と結びつきやすいように思える。

僕の場合、プロスノーボーダーのように滑れるようになりたくてスノーボードをしていた。彼らはどんな景色を見て、何を体験しているのだろうか、そんなことを考え、それを知りたいと思っていた。

いつかそれを知ることができたら、僕は次の段階に進むことができる、それがスノーボードからの卒業であり、その先に進むということである。(残念ながら卒業できず、中退してしまったけれど。)

目的タイプの趣味にはゴールがあり、ゴールの先に進むためには、その趣味を卒業しなくてはならないという構図がある。

哲学からの卒業

このことは、同じく目的タイプの趣味である哲学にも当てはまる。

僕は早く世界の謎を解き明かし、哲学から卒業したい。僕が解き明かしたい世界の謎とは、多くの人にとっては知る必要もないものである。だから、僕はこの謎を解き明かすことで、ようやく人並みになることができる。つまり、僕はスタートラインに立つことができる。

この謎を正確に描写することは難しいけれど、おおまかには、この世界の確かさについての問題であるとも言える。1+1=2であり、太陽は東から昇る、といった根源的な常識の確かさをどのように確認するのか、といった問題である。

もし、この問題を解決し、スタートラインに立ったならば、どんな世界が広がっているのだろうか。それは、きっと、大抵の人がすでに見ている景色だろう。だけど僕は、その景色を知らない。

謎を解き明かし、スタートラインに立つことが、哲学からの卒業である。

※ だから僕には、哲学をしているという自負心はあるけれど、そこにつきまとっているのは優越感というより劣等感であるように思う。ただし僕は、哲学を考えるために文章を書くうちに鍛えられた、文章を書く能力のような、哲学の周辺のスキルについては多少は優越感を持っている。また、哲学を考えるうちに副産物として生み出したアイディア(例えば、この文章での「手段+コンテンツ=目的」という数式)についても優越感を持っている。

卒業の先

セックスにせよスノーボードにせよ哲学にせよ、目的を達成した暁には卒業がある。この趣味からの卒業である。

卒業していったい何がわかというのかは、卒業をしてみないとわからない。

僕が体験した数少ない卒業の一つはスキューバダイビングからの卒業であり、それは、スノーボードという別の趣味への移行だった。

それならば、セックスや哲学を卒業するとしたら、きっと、それは同等以上の何かへの移行なのだろう。僕はその何かを知りたいから、早く卒業したい、ということなのだろう。

真のコンテンツ

しかし現実問題として、セックスはともかく、哲学を卒業することは難しいだろう。人生の終わりまでに僕の謎を解き明かすことはできないだろう。また、謎の解明までいかなくとも、「一通り哲学をやりきった」と実感することすらも難しい。きっと僕は、哲学を卒業しないまま死ぬのだろう。

だが、このことはスノーボードやスキューバダイビングについても言えるだろう。このような終わりがある趣味についても、その魅力に取り憑かれ続け、卒業を迎えないまま亡くなる人もいるからだ。

だから、哲学が特別なのではなく、ある人にとってはスノーボードやスキューバダイビングがそうだったように、僕にとってはたまたま哲学がそうであるにすぎない。(それでも、そういうものが全くない人もいるだろうから、僕は、少しはラッキーだったのかもしれない。)

そう考えてみると、そもそも、「手段+コンテンツ=目的」という数式を用いて、趣味を手段タイプと目的タイプに分類したことへの疑問が生じる。

この数式によれば、目的タイプの趣味は、明確な手段と明確なコンテンツを足し合わせることで示される。だが、趣味を卒業するまでは、コンテンツを明確に捉えることができず、この式にコンテンツを代入することができないのではないか。

なぜなら、卒業までの間は、哲学やスノーボードやスキューバダイビングとは何か、といった問いへの答えが出ないからこそ、趣味を卒業せず、趣味を追い求めるのだろうからである。つまり、卒業までは、数式上はコンテンツとはXのままなのである。

僕は、プロスノーボーダーが見ている景色を知りたくてスノーボードをしてきたけれど、卒業できなかったということは、スノーボードの真のコンテンツを知らないということである。

言い換えるならば、まだ卒業していない人にとって、目的タイプの趣味とは、書き考え、スノーボードを履き、ボンベを背負う、といった手段でしか規定できないということである。それならば、明確なコンテンツが欠けているという意味で、趣味を卒業できない人にとっての目的タイプの趣味は、手段タイプの趣味と見分けがつかない。

卒業とは、その趣味のコンテンツを知ることである。そして、そこで手に入れたことを足がかりにして、次の趣味に進んでいくのである。

最後に、この文章のタイトルにもなっているセックスと哲学について簡単にまとめておく。

「僕はただ、愛撫し、挿入するという手段を趣味としている。その内容をどのようなものとすべきかはわからないまま、ただ試行錯誤で行っている最中だ。僕は、早いところ、その内容がどのようなものか知り、そのようなセックスから卒業し、その愛撫と挿入の先を知りたい。」

「僕はただ、書き、考えるという手段を趣味としている。その内容をどのようなものとすべきかはわからないまま、ただ試行錯誤で行っている最中だ。僕は、早いところ、その内容がどのようなものか知り、そのような哲学から卒業し、その書き、考えることの先を知りたい。けれど、それは叶わず、哲学が僕の生涯をかけた営みとなる覚悟もしている。」

セックスと哲学は似ていると思って、この文章を書き始めたけれど、やっぱり少し違うようだ。

・・・

この文章も僕が好きな音楽と結びついている。

尾崎豊の『卒業』でしょ、と思われそうだけど(あえて歌詞に寄せたけれど)、僕の中では銀杏BOYZというかGOING STEADYの峯田くんです。

ここらへん。